第2話 銀髪の騎士
外は雨だった。
濡れた服に冷たい雨が染み込んでくる。僕は街路の端に立ち、行き交う人々をぼんやり眺めた。みんな傘を差したり、連れと話したりしながら、目的地へ向かって歩いている。
僕だけが、どこへ行けばいいのか分からなかった。
今朝まで使っていた宿に戻るわけにはいかない。宿代を払うお金も、明日の食事を買うお金もない。冒険者としての仕事も失った。レックスの言う通り、僕を雇ってくれる人がいるとも思えなかった。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
僕は濡れた荷物を抱え、街の外れにある安宿へ向かった。主人に事情を話し、ポケットに残っていたわずかな小銭を差し出すと、幸いにも1泊だけ部屋を貸してもらえた。
通された部屋は狭く、古いベッドと小さなテーブルがあるだけだった。窓の隙間から風が入り、壁紙は剥がれかけている。それでも、雨をしのげる場所があるだけで十分だった。
僕は濡れた服を脱ぎ、手持ちの着替えに袖を通した。頬の腫れはひどく、口の端も切れている。水で顔を洗うと傷がしみた。
鏡に映った自分の顔を見て、思わず目をそらした。
情けない。
何もできないくせに、誰かの役に立ちたいなんて思っていた。
僕がもっと強ければ、レックスに殴られることもなかった。お金を奪われることもなかった。仲間たちに笑われることもなかった。
全部、僕が弱いせいだ。
「……明日から、どうしよう」
ベッドに腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめる。せめて明日、日雇いの仕事でも見つけられればいいけど。冒険者でなくても構わない。掃除でも荷運びでも、何でもするつもりだった。
そのとき、廊下から荒い足音が聞こえた。
続いて、何かが壁にぶつかる音がした。
「……っ、放せ!」
女の人の声だった。
僕は顔を上げた。隣の部屋の方から聞こえてくる。さっき宿の主人が教えてくれた話では、隣室にも客が泊まっているらしい。声の主はその人かもしれない。
また物音がした。
「あんたは騎士失格だ! 尊敬してたのによ!」
「私は……、ああするしかなかった……!」
言葉の途中で、鈍い音が響いた。
体がこわばった。
関わらない方がいい。そう思った。僕は弱い。相手が何人いるのかも分からない。今の僕に誰かを助ける力なんてない。
それでも、扉の向こうから聞こえた苦しそうな息遣いが、どうしても耳から離れなかった。
僕は震える手で扉を開けた。
廊下の奥に、3人の男がいた。安宿に似つかわしくない高価な鎧を着た男たちで、その足元には銀髪の女性が倒れていた。長身で、鍛えられた体つき。黒い服の胸元は乱れ、腰の剣は床に転がっている。鋭い赤い瞳は怒りに燃えていたが、体を起こそうとしても腕に力が入らないようだった。
ブレンダ・グランツ。
その名を、僕は知らなかった。けれど、彼女の顔には見覚えがあった。昼間、冒険者ギルドの掲示板の近くで見かけたことがある。騎士団の紋章を身につけた彼女を、誰かが「元副団長」と呼んでいた。
「おい、まだ立ち上がるつもりか?」
男の1人が、彼女の腹を蹴った。ブレンダは声を押し殺して体を丸めた。
「やめてください!」
僕は思わず叫んでいた。男たちが一斉に振り返った。
「ああ? 何だ、お前」
「そ、その人を……。もうやめてあげてください……!」
「は?」
「もう動けないみたいだし、これ以上やったら……」
「お前、こいつが誰か知ってんのか?」
男が僕の胸ぐらをつかんだ。酒場で殴られた頬が、再び痛み出す。
「元騎士団副団長様。仲間を見殺しにした腰抜けだ。こいつのせいで死んだ奴らが何人いると思ってる?」
「……っ」
「それとも何か? お前が代わりに責任を取ってくれるのか?」
僕は震えた。
男の手を振りほどくこともできない。相手の腰には剣がある。ここで逆らえば、今度こそ本当に殺されるかもしれない。
それでも、床に倒れている女性を見た。
彼女は歯を食いしばり、必死に立ち上がろうとしていた。男たちを睨みつける赤い瞳からは、一粒の涙がこぼれている。悔しさなのか、痛みなのか、僕には分からなかった。
「撤退しなければ、部隊は全滅していた。あの判断は……間違っていなかったはずだ」
彼女がかすれた声で言った。
男が彼女の髪をつかんだ。彼女の顔が苦痛にゆがむ。
「死んだ連中の家族がどんな思いをしてるか、考えたこともないんだろうな!」
「……やめてくれ」
僕の口から、かすれた声が漏れた。
男が振り返る。
「まだいたのか、てめえ」
拳が飛んできた。
僕は避けられなかった。頬を殴られ、壁に背中をぶつける。息が詰まり、視界がにじんだ。膝が崩れそうになったけれど、何とか壁に手をついて踏みとどまった。
「引っ込んでろ。次は歯を折るぞ」
怖かった。
今すぐ部屋に戻って、扉に鍵をかけたかった。見なかったことにして、朝になったら宿を出ればいい。僕は誰かを助けられるような人間じゃない。自分のことすら守れないのだから。
でも僕は男の腕をつかんだ。
「もう、彼女に暴力するのはやめてあげてください」
「てめえ……!」
殴られると思った。
実際、男の拳が僕の顔に向かって動いた。僕は目を閉じた。けれど、痛みは来なかった。彼女が男の足首にしがみついていた。
「その人に……、手を出すな」
彼女の声は弱々しかった。立ち上がる力も残っていないはずなのに、彼女は僕をかばおうとしていた。
「まだ他人を守る余裕があるのかよ!」
男が足を振り払う。彼女は頭を壁にぶつけた。
「行くぞ。こんな奴らに構ってるだけ時間の無駄だ」
男たちは最後まで嘲笑をやめなかった。廊下に響く足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。彼らにとって、彼女を痛めつけることも、僕を殴ることも、ただの憂さ晴らしに過ぎなかったのだろう。
僕はしばらく壁に手をついたまま動けなかった。頬がずきずきと痛み、殴られた衝撃で頭もぼんやりしている。それでも、彼女の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか?」
「……なぜ」
彼女が目を開けた。
「なぜ、出てきた」
「え……?」
「私に関われば、お前まで恨まれるぞ。見ていただろう。私は……、あいつらの言う通りの人間なのかもしれない」
彼女は自分の手を見た。
「守れなかった。仲間を見捨てた。そんな私を助けて、お前に何の得がある?」
僕は答えられなかった。得なんて、考えていなかった。
ただ、目の前で誰かが傷つけられているのを見て、止めたかった。それだけだった。でも、それを口にしたところで、彼女が納得してくれるとは思えなかった。
「……僕にも、分かりません」
正直に答えた。
「僕は弱いし、あの人たちに勝てるとも思ってなかったです。すごく怖かったですし。まだ足が震えてます」
僕は自分の膝を見た。言葉通り、足はまだ震えていた。
「でも、あなたが苦しそうだったから……。誰も助けてくれなかったら、もっとつらいと思ったので」
「……私を哀れんでいるのか?」
「いえ、そうじゃなくて」
すぐに否定した。
「僕は、あなたのことを何も知らない。何があったのかも分からない。だから、あなたが悪いとも、悪くないとも言えません」
彼女は黙って僕を見つめていた。
「でも、今ここで出て行かなかったら、僕は本当に自分を許せなくなると思っただけです」
ブレンダの唇がかすかに震えた。
「……お前は、馬鹿なのか」
「そうかもしれませんね」
彼女は小さく笑った。
「私はブレンダ・グランツ。お前は……」
彼女はそう言って、目を閉じた。その顔から、張り詰めていた力が抜けていく。
「ブレンダさん!」




