第18話 英雄の隣にいる資格
●ブレンダ視点
朝食を終えた私は、ノーランと一緒に屋敷の廊下を歩いていた。磨き上げられた床には窓から差し込む朝日が反射し、壁には見事な風景画がいくつも飾られている。私たちが暮らすことになった屋敷は、以前泊まっていた安宿とは比べものにならないほど広かった。部屋の数も多く、初めて訪れたときには、ノーランと2人で廊下を歩いているだけなのに迷いそうになったほどだ。
「まだ慣れませんね。こんな広い家に住むなんて」
ノーランが苦笑した。
「私もだ。騎士団の宿舎とは、何もかも違うからな」
「僕なんて、昨日は自分の部屋に戻る途中で迷いかけました」
「ふふっ。ノーランでも、そんなことがあるのだな」
「笑わないでくださいよ……」
彼が恥ずかしそうに頬をかく。その姿がおかしくて、私は彼の腕にそっと寄り添った。
こうして一緒に暮らせることが、私は嬉しかった。
少し前まで、私には帰る場所がなかった。騎士団を追われ、誰からも必要とされていないと思い込んでいた私を、ノーランが受け入れてくれた。そして今、彼と一緒に暮らす家まである。
それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
けれど、私たちの生活は以前と大きく変わっていた。
ノーランは国王陛下から男爵の爵位を授かった。男爵は、貴族の位を高い順に並べたとき、侯爵、伯爵、子爵に続く最も低い位にあたる。それでも、正式に国から認められた貴族であることに変わりはない。平民として生きてきたノーランにとって、これまで縁のなかった世界に足を踏み入れたということだった。
しかも、彼はただの男爵ではない。
Sランク冒険者として認められ、街を襲った魔物から大勢の人々を救った英雄だ。その功績を知らない者はおらず、これから先、彼のもとには貴族たちからの招待や、さまざまな申し出が届くことになるだろう。
私はそれを誇らしく思っていた。
ノーランが認められたことが嬉しい。彼が多くの人々から必要とされるようになったことも嬉しい。
ただ、私自身がその変化についていけるのか。それだけは、少し不安だった。
昼前、屋敷の応接室に来客があると聞いた。
私はノーランと一緒に挨拶をするつもりだったが、彼は身支度を整えるために自室へ戻り、私は先に応接室へ向かうことになった。
廊下を進んでいると、開いた扉の向こうから男性たちの声が聞こえてきた。どうやら、予定より早く貴族の客が到着したらしい。
私は足を止めた。
「いやはや、ノーラン男爵のご活躍には驚かされましたな。あれほどの魔物を退け、街の人々を救われたのですから」
「まったくです。しかも、まだお若い。今後のご活躍が楽しみですな」
ノーランを称賛する声が聞こえる。
私は嬉しくなって、扉の向こうに耳を傾けた。
本当に自分のことのように誇らしかった。私の人生を変えてくれた人が、今では多くの人々から認められている。彼が積み重ねてきたものが、ようやく報われたのだと思った。
「ところで、ノーラン男爵はご結婚されているのですかな?」
不意に聞こえた言葉に、私は息を止めた。
「いや、まだ独身だと聞いておりますが」
「それなら、ぜひ我が娘を紹介したいものですな。あの若さでSランク冒険者となり、男爵位まで授かったのです。将来はさらに高い地位に進まれる可能性もあるでしょう」
「なるほど。それはよいお考えですな。私の知人にも、年頃の令嬢がおりましてね。礼儀作法にも優れ、王宮での社交にも慣れている。ノーラン男爵の伴侶としても申し分ないでしょう」
男たちの声には、特別な含みなどなかった。
有望な貴族に、自分の娘や知人の令嬢を紹介する。それは貴族社会では珍しくもない話なのだろう。
それなのに、私の胸はひどく苦しくなった。
ノーランに、縁談。
彼の隣に立つ女性を、貴族たちが探している。その事実が、頭から離れなかった。もちろん、ノーランが私を好きだと言ってくれたことも、一緒に暮らしたいと言ってくれたことも、嘘ではないはずだ。
それでも、彼がこれから歩む人生を考えれば、相手は貴族の令嬢が最適なのだろう。
私とは違い、幼いころから礼儀作法を学び、社交の場での振る舞いを身につけてきた女性。男爵であるノーランを支え、上位貴族との付き合いでも彼の助けになれる女性。
そんな人が隣にいたら、ノーランはもっと楽に生きられるのではないだろうか。
私は騎士として生きてきた。剣を振るうことだけを考えてきた。貴族の令嬢たちが身につけている知識も、社交の作法も、私には足りないものばかりだ。
それに、私は騎士団を追われた人間だ。仲間を見捨てたと責められ、居場所を失った女。そんな私が、英雄となったノーランの隣に立ち続けていいのだろうか。
「ノーラン男爵ほどのお方なら、いずれ侯爵家や伯爵家との縁談も夢ではないかもしれませんな」
侯爵は伯爵より上位にあたり、王家に近い有力な貴族も多い。伯爵もまた、領地や人脈を持ち、政治や社交の場で大きな影響力を持つことがある。そんな家の令嬢がノーランの伴侶になれば、彼の立場は今以上に強固なものになるのだろう。
私には、それを否定する理由がなかった。
ノーランの幸せを願うなら、彼にとって最良の相手と結ばれてほしいと思うべきなのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
嫌だった。彼が私以外の女性と結ばれる姿など、想像したくもなかった。ノーランが誰かに微笑みかけるところも、その女性の手を取るところも、私ではない誰かを抱きしめるところも。
考えただけで、息が苦しくなる。
私は唇をかみしめた。
何を考えているのだろう、私は。
彼は私の所有物ではない。彼には彼の人生があり、彼自身が幸せになる権利がある。私が彼を好きだからといって、私が彼の未来を縛っていいはずがない。
それでも、ノーランを失いたくなかった。
私の手を握ってくれるノーランが好きだ。名前を呼ぶと嬉しそうに振り返ってくれるノーランが好きだ。私が不安になれば、優しく抱きしめてくれるノーランが好きだ。
ノーランの隣にいられることが、私にとって何よりも大切だった。
だからこそ、怖かった。今の幸せが、いつか終わってしまうことが。
「……ブレンダ?」
背後から声をかけられ、私は飛び上がりそうになった。振り返ると、身支度を終えたノーランが立っていた。
「どうしたんですか? こんなところで」
「い、いや……何でもない」
「顔色が悪いですよ。具合でも悪いんですか?」
彼は心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
私は彼に抱きつきたかった。好きだと言ってほしかった。これからもずっと一緒だと、もう1度約束してほしかった。
けれど、そんなことを求めてしまえば、彼を困らせてしまうかもしれない。
「本当に大丈夫だ。少し考え事をしていただけだから」
「そうですか……。無理はしないでくださいね」
ノーランはそう言って、私の手を取った。
いつもの温かい手だった。私はその手を握り返した。彼は何も知らない。私が扉の向こうで聞いてしまった話も、その言葉でどれほど不安になったのかも。
知らなくていい。こんなことで彼を困らせたくない。
私は笑顔を作り、彼と一緒に応接室へ向かった。
彼の隣を歩きながら、何度も自分に言い聞かせる。
大丈夫だ。ノーランは私を好きだと言ってくれた。私と一緒にいたいと言ってくれた。だから、今は何も心配する必要などない。
それなのに、頭の中では、先ほどの言葉が何度も繰り返されていた。
ノーラン男爵にふさわしい令嬢。
侯爵家や伯爵家との縁談。
彼の将来にとって、よりよい相手。
私はノーランの手を、少しだけ強く握った。
どうか、離さないでほしい。
どうか、私を選んでほしい。
そんな願いを口にする勇気は、私にはなかった。




