③
夜の彼岸寺は立ち入り禁止だが、困り人のために門は開かれている。
夜の寺に用があるなら、まず和尚を訪ねること。その話を覚えていたので、寺の敷地内にある和尚の家へ行き、玄関のインターホンを鳴らした。
夜なのに応対してくれた和尚に、幸司はつい、捲し立てるように何があったか話した。
境内に案内されて、盃で一杯、お酒を飲まされた。それから、平たい棒で両肩を叩かれた。足首から、冷たさが消えていく。
「多分これで大丈夫だけど、確認は父の方が得意だから少し待っててくれ」
和尚はそう言うと、幸司を残して去り、少しして先代和尚と共に戻ってきた。
三年前から姿を見せなくなった先代和尚は、かなり腰が曲がっていた。毛も薄くなり、たった三年でこんなに老けるとは……と驚く。笑顔も目に滲む優しさは以前と変わらない。
「ああ、秀治のところの幸司君か。結婚式の帰りなのに、怖かったな」
先代和尚の手がそっと肩に触れた。涙で視界が少しぼやける。
「問題無さそうだ。もう大丈夫だけど、怖いだろうから道信、送ってあげなさい」
「ええ。帰りに謎の封筒も探して、清めて燃やします」
こうして、幸司は和尚——道信に送迎されることになった。稲荷神社へ連れて行かれて、お礼をするように促される。
「ホトリ様が君を少しばかり助けたそうだ。お前は良い子だからと」
「ホトリ様は、この稲荷神社の神様ですか?」
「そうだ。俺は視えないけど、父によれば美しい艶めく美女らしい。視える力があればいいのに」
和尚は紐を揺らして鈴を鳴らし、賽銭は要らないから手を合わせるようにと告げた。
「あの、『神の手を借りるには徳が足りぬ』と言われました」
「悪霊に取り憑かれたから一時的に聞こえただけで、もう聞こえないみたいだな。ホトリ様は、神が助言する程度の徳はあり、殊勝だと褒めている。お礼を言いなさい」
幸司も鈴を鳴らして手を合わせた。あの甘い香りがして、霧散していった。
ホトリ様は、この彼岸寺の稲荷神社に住まう神様で、よく夜の散歩をしているらしい。
「助けてあげるかと声をかけたのに、疑われて違う道を行くから腹を立てて、少し意地悪をしたそうだ。そうなのかい?」
「怖くて声とは逆の方向に走ったら、昔、クラスメートが轢かれた交差点にいました」
「君のクラスメート……あの時のことか。あそこは定期的に清めないといけない、不浄が溜まりやすいところだ。そこからこの寺まで、事態は悪くなったか?」
「はい」
「ホトリ様は『バチだ』と、とても楽しそうに笑っている。どんな表情をしていらっしゃるんだか」
和尚は幸司に帰宅を促して、歩き始めた。門を出るのが怖かったが、和尚にホトリ様がついてきてくれるから大丈夫らしい。そのホトリ様が、信用しきれない。
「わらわになんたる無礼と、ホトリ様がお怒りだ。何かを疑ったのならやめなさい」
「……えっ⁈ 神様ってなんでもお見通しですか⁈」
「確認しようと思った時だけらしい」
こんなに不思議なことが世界にあるとは。先代和尚や和尚はどんな世界を生きているのだろう。
階段を降りると、和尚が倒れている地蔵墓を起こそうとした。
「あの、俺を襲った霊はこの地蔵が倒れて下敷きになったようでした」
「ここであやされている霊やその親が、お地蔵様を倒して助けてくれたそうだ」
「えっ? そうなんですか?」
「ホトリ様がそう言っている。未練霊たちが、夜に寺へ入ろうとした侵入者を助けるなんて初めてだ」
なぜ。その問いかけに、和尚は首を横に振った。ホトリ様は赤子の霊を褒めるのに忙しいからと、質問に答えてくれないそうだ。幸司は和尚が地蔵墓を起こそうとするのを止めて、自分の手で助け起こし、そっと撫でた。
スマホに着信があり、彼女だった。応答しないで、何かと確認のメッセージを送る。
悠平たちとのグループトークに通知が大量にあり、チラリと確認したら、幸司の体調を気遣うもの、誠也もあの後少しして帰ったこと、徹がさっきの飲み会に来たという報告だった。
「ホトリ様が、父が昔教えたように、悪縁は切りなさいと。心当たりはあるかい?」
「えっ? あっ。はい」
幸司は悩みながら、二次会のグループトークから抜けた。元々、悠平の結婚式がなければ、今日のメンバー全員とは集まっていない。誠也みたいに親しい幼馴染とは、個別に連絡を取っていたのでそれに戻るだけ。誠也と同じくらい親しい悠平には、明日以降、徹と関わりたくないと説明しておこう。
和尚に付き添われて帰宅した幸司は、彼女に迎えられた。和尚に彼女が来ていること、ホラーが苦手な彼女に今夜の話はしないと言っていたので、和尚も嘘に乗っかってくれた。
引き出物の紙袋の紐が千切れたところを和尚が目撃して、親切にも運んでくれたと話す。
「ご親切にありがとうございます。暑かったでしょうから、涼んでいって下さい。お茶を用意します」
「ありがたいけど、子供にアイスを頼まれてて。失礼します」
帰宅する和尚に向かって、幸司は深々と頭を下げた。
その後、和尚に言われた通り、塩とお酒を入れたお風呂に入った。
その日、彼女の匂いに包まれながら眠ると夢を見た。顔のぼやけた男の人が、可愛らしい女の子から貝殻を受け取る。
「ありがとう、みさきちゃん」
霧のように、サァっと景色が変わった。
「お地蔵様の足代わりに置いていっていいか?」
さっきの男性と同じ声。どこかで聞いたような。
「もちろんである。さぞ喜ぶだろう」
子供の声。男性の手で貝殻が置かれた場所は、あの地蔵のところだった。地蔵の足は欠けている。
霧が覆い、世界が白んで蝉の声が泣き喚く。目の前に地蔵があり、視点が揺れて、貝殻に注目した。
「宝物を譲ります」
その声は、幸司の声だった。子供の手で貝殻の隣に蝉の抜け殻が置かれる。これは自分の視界だ。あの夜の翌朝、幸司はこうした。
「どうした。行くぞ、幸司」
懐かしい、父の声が今よりも少し若い。
「お地蔵様に宝物をお供えした。さっきのお地蔵様の足を、徹が蹴って壊したんだ」
ああ、と幸司は泣きながら目を覚ました。
「そうだ。あれから何年かは……お供えをしていた」
参拝道にある彼岸寺のお地蔵様は、他の寺とは異なり、孤児や悲しい死を迎えた子の墓代わりでもあると和尚に聞いたから。
意地悪な徹が蹴ったのは、子供を守ってくれるお地蔵様で、なおかつ、死者の国へ行くのはまだ怖いとあそこで暮らしている赤ちゃんたちだと教わったから。
お供えをした時に、先代和尚に会うと、あの子たちに優しくしてくれてありがとうと褒められた。きっと、喜んでいると。
「俺のことを覚えていたから、助けてくれたんだ……」
頬が冷たい。カーテンの向こう、窓の外側から熱気と蝉の声が押し寄せてくる。
油蝉が歌っている。いつもとは異なり、なぜか優しく感じた。
「ん……。幸君、おはよう」
眠たそうに目を擦りながら、彼女が微笑む。幸司は彼女の髪にそっと触れた。
「おはよう、美沙希ちゃん」
あっ、同じ名前。
「ふふっ。みーちゃんじゃなくなってる。二日酔いは無い?」
「うん。大丈夫。ありがとう美沙希ちゃん」
もう一度名前を呼んでみて、夢の中の女の子と同じ名前だったことが、なんだか嬉しくなった。
自分たちには縁がある。そうだといいという願望が、夢に現れただけだろう。でも、この世に恐ろしい不思議があるなら、良い不思議も存在すると信じたい。
幸司が笑うと、微かに拍手が聴こえて遠ざかっていった。ほんのわずかに、甘い香りを残して。
パチパチパチ、パチパチパチパチパチ——




