①
悠平に名前を呼ばれたが、幸司は返事をできなかった。微かにする、複数の女性と赤ちゃんの笑い声はあの夜と同じだ。それにこの甘い香りは、あの事故現場で嗅いだもの。
「飲み過ぎて……悪い。帰る」
お釣りは惜しいが、一万円札しかないので机に置き、逃げるように個室を出た。今は悠平のお祝いの途中、結婚式の二次会だからなんて言っていられない。
『いいか。罪は消えない。必ずいつか、追いかけてくる。それは死後や来世かもしれないけれど』
和尚の優しい手の感触が蘇る。父も和尚も、友人のために肝試しに行ったことは褒めてくれたが、死者の安眠を邪魔したことは咎められた。
徹を止めた勇気は讃えられた。一方で、正しいことをしても、選んだ言動によっては間違いにされるという、この世の不条理も教わった。
まだ許されていない。ずっと許されていなかった。徹と再び接点が出来そうになったから、『やはり仲間だった』と誤解された。そうに違いない。
和尚が言っていた。悪縁は悪果に引っ張られやすい。徹と話なんてしたら、もっと恐ろしいことになる。あの夜みたいなことは、二度とごめんだ。
夜の街を進み、足に黒い影が絡みついた気がして小さな悲鳴をあげた。目を凝らしてみると、干からびてしまったミミズの集塊だった。
首筋と肩を、毛のようなものに撫でられた気がしてバッと見る。湿気の溜まる宙に、自分の息遣いだけが溶けていく。生ぬるい風が吹き抜けた。
恐怖で過敏になっている。もう声はしない。徹の存在と離れたからだろうか。
「ああ、俺の匂いか」
冷静になったからか、甘い香りは、彼女に借りた香水の匂いだと気づいた。初めて結婚式に出席するので、気取って香水をつけてみたくて、今朝、彼女につけてもらった。
起きられるか心配だから起こしてと彼女に泊まってもらい、今夜も宿泊してくれるから、また会えることを思い出す。幸司の家から近い場所に友人と遊びに行った彼女は、もう帰っているはず。
急に足が軽くなり、自然と小さく歌う。恐怖体験を思い出したせいで過敏になっただけ。幻聴はトラウマのせい。徹のことはこじつけだ。
ただ、徹とは絶対に話さない。会うなんてもっとしない。SNSで繋がることすらしない。名前を聞いただけであの夜のことを思い出して、今夜みたいにおかしくなってしまうのだから。
幸司は引き出物の入った紙袋の紐を握り直し、スマホをポケットから出した。彼女に電話をかけてみる。彼女はすぐに出た。
「みーちゃん? もう家にいる?」
彼女はすぐ電話に出たから、友人とまだ一緒にいたり、電車の中にいるわけではないだろう。二週間ぶりに会えて、明後日の祝日まで一緒に過ごせる。
結婚式中の悠平のデレデレ顔を思い出して、幸司も遠くない未来にプロポーズしようと決意する。結婚したら、いつ会えるとか、帰ってしまって寂しいなど、そんなことは気にしなくていい。
「幸君、酔ってるね。みーちゃんって呼ぶ時はいつもベロベロだもん。スポドリ買ってあるからね」
「ありがとう。アイスとかいる? 明日のドライブのお菓子とか、欲しいものはある?」
通話しながら歩いていたら、道の端に落とし物があった。これから投函するというような、真新しい封筒のようなので手に取る。
街灯から少し離れたところなので見えにくいが、やはり落とし物は手紙だった。今の明るさの中では、宛先も送り主も書いていないように見える。
「ひっ!」
封筒の間から、髪の毛の束が飛び出ていた。指が離れて、手紙がアスファルトの上にポトリと落ちる。
「幸君、どうしたの?」
「い、いや。あー、ネズミ」
つい、嘘をついてしまった。
「ネズミ? どこを歩いてたらネズミなんているの? 見たことないよ」
「普通の道だよ。俺も見たことないから驚いた」
「ひええ。そこらにネズミなんて怖いー。家に入る時に気をつけないと、侵入されちゃう」
不気味な封筒を拾って、ビビったなんて教えたくない。彼女はホラーが苦手だけど観たがりで、幸司はいつも平気なフリをして、甘えられることを楽しんでいる。それなのに、自分も怖がりだなんて知られたくない。
「ゴキブリもネズミも俺がどうにかするから大丈夫」
「えへへ。いつもありがとう。頼りになる」
可愛いさで癒された。通話を終了して、戻ってスーパーへ行くのは怠いので、コンビニを目指した。コンビニなら、帰路からそんなに逸れない。
パタパタパタ——
わざと音を鳴らしたような、足音が背中にぶつかったので足を止める。さっきよりも空気が冷えたような。
あの夜と似た雰囲気だ。嫌な予感がしたので後ろを見ることはしなかった。
錯覚かもしれないと歩き出す。すると、背後でパタパタパタと足音がした。音響の良い映画館にいるみたいに、パタパタと音が反響する。
一歩、足を動かすとパタパタパタ。また一歩進むと、パタパタパタパタパタと、少し離れたところから見張られているというように、足音が近づいては遠ざかる。
何かが後ろから近づいてくる気配がしたのに、パタパタという音は遠かった。明らかにおかしい。
『向こう側と繋がった者は、また繋がりやすいから日々、気をつけなさい。肝試しは二度としないように』
和尚の話が脳裏に過ぎる。
瞬間、幸司は走り出した。この足音は、何かに狙われた感覚は、きっとあの封筒に触れたせいだ。
道を曲がろうとしたら、知らない女性の声が耳元でして「右」と聴こえた。思わず左に曲がる。
背中でする足音はどんどん大きくなっていった。太鼓のような、大きな音がドンッドンッと鳴り響く。内側から叩かれているみたいだ。
「左」
また、耳元で囁かれた。それなら右だと走り続ける。息が上がる。足が重たい。社会人になってから、家で筋トレ以外の運動はほとんどしていない。
何度か道を曲がって走り続けた幸司は、辿り着いた場所を見て愕然とした。そこは、徹が轢かれたあの交差点だった。




