③
幸司は顔を覆っていた手を下にずらした。小学生の時の記憶なのに、ずっと忘れていたのに、思い出してしまうとこんなにも生々しい。
夜の闇の中、なぜあれが血や内臓だと分かったのか、未だに分からない。
目を覚ましたら父がいて、鬼のような顔で「夜に家を出て何をした」と唸るような声で怒られた。
父は和尚が止めても説教を続け、帰ってからも。友達を蹴るなと注意できて偉いが、交換条件に乗らずに大人を頼れと咎められた。
今に思い出しても、あれはあまりに理不尽だった。
幸司は悪いことをしていないのに、徹と共にいたから同類だと誤解された。
和尚曰く、人と霊の世界は隔たりがあるから、力が無ければ互いの声や姿を見ることができない。だから、誤解を招く行動をしないように、慎重であるべきで、そのために日々の作法がある、教えているなんていうが、本当に幽霊に襲われるなんて誰だって想像できない。
あの夜の翌日、幸司は父親に連れられて朝早く彼岸寺へ行き、和尚に改めて謝りに行った。その帰り道、徹が車に轢かれていた。
止まる気配のないエンジン音。熱気に混じった生臭さ。青い顔で座り込んで「早く来てくれ」と涙声を出すサラリーマン。近づいてくる救急車のサイレンの音。
「見るな」と幸司を抱きしめてくれた父の温もり。その全てが鮮明だ。
思い出しきったからか、落ち着いてきたので個室から出た。ついでに用を足し、手を洗って席へ戻る。
吐いたと思われたくないので、飲み過ぎて便座でうたた寝したと嘘をついた。
「俺が徹の話なんてしたからだよな? ごめん」
誠也の困り顔に向かって首を振る。
「いや、飲み過ぎただけ」
「そうだよな。幸司は徹の事故現場に居合わせたんだもんな……」
悠平の発言で、結婚式の二次会なのに、通夜みたいな空気が流れてしまった。
「もう俺を蹴るなって幸司が肝試しに付き合って、あいつ、賽銭を盗もうとしたんだろう? あの頃、親父に『お前はそんなバチ当たりなことはするなよ』って言われた」
誠也に続くように、みんな「家も」と告げる。
「その徹が車椅子バスケで全国大会ねぇ。インテレしか繋がってないけど、すっかり好青年っぽいよな」
「らしいな。兄貴からたまに聞く。俺の兄貴、徹の兄貴と高校まで一緒だったからまだ仲が良いんだ」
いい奴になっているなら、メッセくらいしてみるかと誠也が言い出した。
「あいつ、結婚するって投稿に、お祝いコメントをくれたんだ。それで少しやり取りした」
悠平が朗らかに笑う。
「あの暴虐ぶりを反省していたら、結婚祝いをくれるかも。なんて」
誠也が送ったインテレのメッセに、すぐに返事がきた。誠也はすぐに電話に切り替えた。
電話はスピーカーモードにされ、徹の声が聞こえた。すっかり声変わりして誰だか分からない徹が丁寧にお祝いの言葉を述べる。まるで別人だなと、幸司は唐揚げを箸でつまんだ。
徹は事故で片足を失って、そのまま転校した。
あの恐ろしい怪奇現象話をして、いつも綺麗な彼岸寺や親切な和尚が嫌がらせされたら最悪だ。父にそう言われて、幸司も納得したからあの事件のことは心に秘めている。
徹は賽銭泥棒をしようとして和尚に見つかり、翌朝、事故に遭った。その話はしたから、学校であれはきっと罰なのだろうと噂になり、それはそのまま、こうして大人になってからもたまに話題になる。
ふうっ。耳元で甘ったるい息遣いがしたので見やる。誰もいない出入り口側なのになぜ。
嗅いだことのある、甘い香りが鼻先をくすぐる。これはあの時の——
指先が微かに震えた。
クスクスという女性の嘲り笑いがして目を見開く。複数人いる。あの夜の声とよく似ている。
おまけに、きゃっきゃと赤ちゃんの笑い声まで。幸司の手にある箸からからあげが滑り、皿の上にトンッと落ちた。
誰も触れていないのに、ビールジョッキが倒れた。
コトガタンッと。




