②
鈴虫がリンリンと騒がしい。汗でシャツが体に張りついている。気持ちの悪い夜だ。
なんで徹なんかと。幸司はため息混じりで、彼岸寺と彫られた石像の前に立ち、片足をぷらぷらさせた。
クラスメートの徹は体が大きく、空手も習っているからかすぐに手を出す。最近はやたらと誠也に絡み、偉そうにあれをしろ、これをしろとうるさかった。
徹はお笑い芸人の真似をしては、ツッコミの代わりに自慢の回し蹴りをする。気弱な誠也が嫌だと言えずに泣き笑いしていたから、幸司は代わりにやめろと注意した。
『じゃあ幸司、お前が肝試しに付き合え』
なんの話をしていたのか知らずに誠也を庇ったら、そんな風に言われた。幽霊なんて怖いから行きたくないし、夜に家を抜け出すことも嫌だった。でも、友達を見捨てるのはクズのすることだ。
「おう、幸司。ビビって来ないかと思った」
待ち合わせ時間よりも十分少々遅れて来た徹は、隣に立つなり足を蹴っ飛ばしてきた。
「痛いからやめろ。人を蹴るな」
「こんなのも痛いなんて、幸司は弱えんだな」
幸司は徹が嫌いだから、笑い顔さえムカつく。
「肝試しって何をするんだ? こんなの楽しいか?」
「夜って暇だろう。知ってるか? ここの寺って訳ありらしい。本当に出るんだって」
バーカ、出る訳がない。その言葉は飲み込む。徹を安心させる必要なんてない。怖がればいい。
ホラーが苦手な幸司に、じいちゃんが昔、寺は死者を供養してくれるところだから、悪さをしなければ何も起こらないと言ってくれた。
先祖代々のお墓があるこの彼岸寺は、身寄りのない訳ありが多いから、礼儀作法が悪いと『他の寺よりももらう』らしい。父が、友達の兄たちがここでかくれんぼをしたら、翌週に次々と高熱を出したと昔話をしたことがある。
「行こうぜ」と、徹が寺へ続く道を歩き始めたので後ろに続く。寺までの道には彼岸花がまばらに咲いている。夜で灯りもないから赤いと分からないのに、形のせいか不気味だ。昼間、家族でお墓参りに来た時は何とも思わないのに。
「俺は約束通り来たんだから、お前も約束を守れよ。誠也のことを、いや、誰のことも蹴らないって」
「あはは! 見ろよこの地蔵、すげぇブサイク」
徹は地蔵の一つを指差した。顔を歪ませて笑っている。
「あのなぁ。そういうのもやめろ。悪口は誰だって傷つくんだから」
「地蔵が傷つくわけないだろう。石なんだから、言葉なんて通じない」
地蔵は子供を守ってくれる。そう言おうとしたら、誠也の回し蹴りをくらった。
「なにすんだよ!」
怒鳴ったら、怒鳴り返された。
「俺は学級委員様だってか? 本当にお前ってウザいよな」
「学級委員はなりたくてなったんじゃない。みんなが言うから。お前がなにもしなきゃ、注意しねぇよ」
「あれもダメ、これもダメ、やめろやめろやめろってそればっか。チビでブサイクのくせにピーチクパーチクお前は鳥か! チビデブだからスズメだな!」
幸司は背はクラスの真ん中で、体重だって普通だ。徹はすぐ事実ではないことを言って、他人をバカにする。
信じられないことに、徹は地蔵を蹴飛ばした。足と台座の間あたりが割れて、欠けた石が転がっていく。
「おい、可哀想なことをするな!」
「なんで石が可哀想なんだよ! あー、うるせえ!」
徹が寺に向かって進んでいく。幸司は地蔵の欠けた足を探した。「これだ」と掴んだ石は、ボロボロと崩れて細かくなってしまった。これではもう、地蔵の足は失われたままだ。
「幸司、ビビって帰るのか? ママー! おっぱいちゅっちゅって。ぱいぱいが恋しいでちゅ〜」
徹は、自分は巨乳で、それを揺らすというような仕草をしながらケタケタ笑った。幸司に背を向けて階段を上っていく。
「お前が誰も蹴らないって約束したら帰る! こうやってちゃんと付き合ったんだから、誠也のことを、他のやつも蹴らないって約束しろ!」
追いかけたら、徹は敷地内にある鳥居をくぐっていた。灯りに照らされた朱色の小さな鳥居は三つ。あそこは稲荷神社で、お狐様が祀られているから近寄ってはいけない。
百日間、毎日同じ時間にお願いに行けるなら良いらしい。ばぁちゃんが、途中で参拝をやめるとバチが当たる、願いもないのに鳥居をくぐると、冷やかしだと誤解されてお狐様に怒られると言っていた。
それが本当なら、徹のことは止めなくていい。そう思ったけど、意地悪は嫌でやめた。俺は徹なんかと同じになりたくない。
「おい徹! そこは稲荷神社だから参拝しないで戻って……」
驚いたことに、徹は賽銭箱に触れた。箱を鷲掴みにして、蓋を開けるような仕草をしている。
「なにしてるんだ、やめろ!」
「前に見たんだ。ここにお札を入れてるやつがいるって。こんなに小さな箱なのに、すげぇ。一万円札まで入ってる!」
暗くて見えないが、徹は紙らしきものをズボンのポケットに突っ込んだ。
「泥棒だぞ! 明日、親とここの和尚さんに言うからな!」
幸司はここの和尚が好きだ。お墓参りの時に会うと、「ちゃんと来て偉いな」と目を糸のように細くして優しく頭を撫でてお菓子をくれる。日によっては、みんなにお茶を配っている。
「学級委員様なのに、夜に家を抜け出したって暴露すんのか? へぇ。良い子ぶってるお前に、そんなことできるのか?」
徹の狙いはこれだったのかと、自分の頭の悪さに腹が立った。理由をつけて幸司を夜に家出させて、それで大人に怒られればいいという作戦だったなんて。
「それは叱られるけど……でも、全部言う! 泥棒なんてやめろ!」
叱られたって構わない。泥棒の仲間になんてなるものか。
叫んだその時に、グンっと何かに引っ張られた。後ろに倒れそうになり、腕でバランスを取ろうとしたら今度は何かに押された。
徹は前にいて、ここには他に誰もいないのに。
風がサワサワ、ザワワッと木々の木の葉を揺らし、耳元でふっと息のような音がした。怖くなって見たけど、何もいない。甘い香りが、線香の煙のように漂ってきた。
「うわっ! なんだこれ!」
徹に視線を向けると、何もいないのにシャツが掴まれたように伸びて引きずられていた。
鳥居を抜けた徹が、背中から押されたように倒れる。そして、徹は釣られるように持ち上がった。
ブブブブブと耳元でハエの羽音が響く。手で払ったけど虫の感触はしない。うっとおしい羽の音の中に、拍手が混じった。
パチパチパチパチ、パチパチパチパチと、誰もいない夜の空のあちこちで拍手が鳴り響く。これはなんだ。
——あんよ
小さな女の人の声。誰もいないのに。グンっと体が揺れた。
——あんよ
——あんよ
拍手は消えたが声は大きくなった。足が声に合わせて勝手に動く。何かに引っ張られている感覚が恐ろしくて、体が震えだした。暑かったのに、体が冷えていく。
——上手ねあんよ
——あんよあんよ
声が号令というように足が動き、ぴちゃぴちゃと水音が混じった。
幸司が叫ぶ前に、徹が絶叫した。徹は泳ぐように腕を動かしながら、こっちへ近寄ってきた。
徹の足が地面につくたびに、水溜りがあるようにビチャビチャと水を弾く音がする。暗くて見えにくいが、無かったはずの水がある……
「鎮まれ未練霊たち! 俺の話を聞け!」
法事する建物から、人が飛び出て来た。和尚の声だ。その人は、幸司たちに駆け寄って来た。何が何だか分からないが、これできっと助かった。
未練霊という言葉が怖くて、近寄ってきた和尚に手を伸ばした。服に指が触れ、さらに掴めるような距離になったのでしがみつく。もう、何も聴こえない。体も自由に動く。
「お前たちは何をした!」
和尚は幸司たちを怒鳴りつけた。何をしたと言われると、徹の悪事しか出て来ない。
「そいつは泥棒なんだ!」
徹は言いながら、幸司のポケットに手を突っ込んだ。何をされたのか、ハッと気づく。
「俺はやめろって言っただろう! お前が盗んだお金を押し付けるな!」
ポケットに入れられたものを確かめると、予想通り紙だったので、多分お札だろうと和尚に差し出す。和尚は紙を受け取ると空を見上げた。
「銭泥棒とはこれのことだな! 泥棒は捕まえたから騒ぐな!」
静かなのに騒ぐなとはおかしい。
「和尚さんに触るな罪人」
女の人なんていないのに、低くて怒りのこもった女性の声が耳元でした。首に冷たいものが這う。
「ひっ!」
「君たち、俺にしっかり触ってろ」
和尚は背後にいる幸司と徹を、ますます守るというように腕を動かした。
「鎮まれ未練霊たち! 俺の話を聞け!」
和尚はまた叫んだ。空を見上げている。そこには何もいない。
拍手がまた聴こえてきて、そこのハエが飛ぶ音もして、鉄のような臭いが漂ってきた。
絶対に幽霊だ。霊を怒らせた。怖さが増し、歯がガチガチと鳴る。これは一体、なんなんだ。
——あんよあんよ
後ろに引っ張られて、和尚から離れてしまった。嫌だと叫んだはずなのに声は出ない。
——ほら見てあんよ
——上手ねあんよ
嫌だ、帰りたいと幸司は泣き喚いた。今度は声が出た。
不気味な声が、拍手に合わせて歌う。血だらけの足が勝手に動いて止まらない。びちゃびちゃと血の水溜りの中を歩かされている。
「なんだよこれ。助けろよ!」
幸司の隣で似たように歩かされている徹も大泣きして叫んだ。助けに来てくれたと思った和尚は「話を聞け!」と空に向かって大声を出すだけで何もしてくれない。
——あんよ
——あんよ
——上手ねあんよ
——ほら見て
キャッキャッ
恐ろしい女の合唱や拍手に赤ちゃんの笑い声が混じってさらに怖い。
——大好きな彼岸花がまた咲く
——ややが喜ぶわ
歩くたびに地面に花のように水滴が散らばる。痛くないのに、痛い気がしてくる。
「助けて!」
墓に石を投げたのは徹で、自分は止めたのになんでこんなことに。
「早く助けろクソジジイ!」
徹は相変わらず言葉遣いが悪い。誠也を蹴るなと言ったら肝試しに付き合えとか、いつも偉そうで、こんな時にも横柄とは頭がおかしい。
助けて欲しいと頼む相手に「クソジジイ」だなんて、助けてもらえなくなる。
「落ち着いて俺の話を聞け!」
和尚がまた叫んだけど幸司の足は止まらない。女たちの歌も赤ちゃんの声も消えないし、それどころか耳の内側からするようになった。
足がじくじくと痛み始めて、どんどん力が抜けていく。それなのに体は全く止まらない。
その時だった。シャンシャンと、心地良い鈴の音がした。
「こっちの方が楽しいぞ! ややは絶対にこっちの方が好きだ!」
和尚とは別の男の人がいる。何も持っていない両手は何かを掴んでいるような形で、上下に腕を揺らしている。何もないのに、シャンシャンシャンと鈴の音が聞こえる。
突如として水を浴びた。幸司の腹がぐにぐにと動き、耐えられなくて吐いた。口から出てきたのは血と肉と骨と内臓でおえおえとえずく。夜なのになぜ“血”だと分かる。どうして赤黒く見えるのだろう。幸司は、自分はもう死んでいるのではないかと震えた。
澄んだ鈴の音の中に、女性の「良かったわね」という声が混じって消えて、甘い香りがして、ブツリと意識が途絶えた。




