FOGS(3)
「はーぃ、皆さん、授業1時間目、お疲れ様でしたぁ!!!」
教室の扉を開け、授業を終えた先生に感謝の意を込めて頭を下げた後。今日の授業の感触をアイコンタクトで交わし、いつも通りの授業終了の挨拶をした小百合の前に広がる高3H英語の教室の景色。小百合は真っ直ぐに生徒に視線を移して、今日の生徒たちの様子を伺う。授業も板書も先生方の聖域だと考える小百合は、先生方が残す黒板を見ることはほとんどない。
昨日、金曜日チューターたちが当然のように語っていた彼ら金曜日の生徒対応の基本姿勢を思い出し、つい渇いた笑いがこみ上げそうになる。先生方のその日の思いが残る黒板をパッと見てどんな話題かを瞬時に読み解き、その場で生徒との対話に活かすなんてことは、小百合からしたらむしろ驚異の生徒対応だ。大学でも真面目に勉強を重ね、予備校での授業と大学の学業を橋渡しするため易しく語る言葉を当たり前のように持つことにどれ程の価値があるのか、彼らはあまりにその重みに無自覚すぎる。
今日は教室の扉を開ける前にいつも行う直前のルーティーンをこなさなかったせいだろうか。小百合はうっかりこのまま思案しそうになる自分を押し留め、羨ましさを含む呆れた自身の思いを慌てて振り切り、目の前の生徒に向けて声を張り上げた。生徒の人数が100人を超えると流石に吸収される声の割合が増えるため、これまでよりかなりの声量が要るのだ。けれど、マイクはなんとしても使いたくなかった。
「今日はね、授業開始前に頭出しした通り、冬期講習のお話をします。初めの3分、、うーん、4分かな?いつも通りくださいね!あ、もちろんトイレとかは全然、自由に行き来して。体の方が大事だから。質問や相談は、トークタイムを喋り終わったらいつでも受け付けます。授業前にも紹介したけど、今日からそこの律も皆のチューターだしさ、遠慮なく律にもどんどん質問してね!あ、講習のパンフは出さなくていいよ。細かい説明しないから必要ないので。じゃぁ、行くよー!」
その律はといえば、教室に足を踏み入れてからずっと喋り続けている小百合の邪魔にならないよう注意を払いつつ、チューター業務用のタブレットを片手に出席状況を確認していた。確かにこの人数だと、補助チューターがいると助かるなとしみじみ小百合は思う。折を見て幾度となく、教務に律のありがたさについて説かねば。苦情は即時で対応されるが、感謝の気持ちは大げさすぎるほど伝えないと、悲しいかな、チューターへの風当たりが強い今はなかなか次に意見を生かしてもらえない。学生のアルバイトが全てバイトテロに繋がるわけではないのに煙たがられ、メディア組のような派手さのイメージが先立ってしまった今、それがこの仕事の悲しいところか。全てのチューターが、SNS等を通じて顔出しして承認欲求を満たしたいわけではないと言うのに。
「さて、今日のテーマはまさに、12月から始まる『冬期講習』。校内生である皆は一般の方々に先立って申し込みは2週間後から開始。で、今は?そう、9月。え???冬???冬期って何???直前??もはや入試日いくつか終わってない??え、、、、それを2週間後に12月・1月しかも2月の計画を決め打ちするとか意味わからん、と言う気持ちは、チューターになった今でも正直、そう思います、はい。」
不安に揺れつつも真剣な生徒たちの目が、教壇を前にする小百合を射抜く。
「りっちゃんは夏期講習の時と同じように、冬期講習にどの授業を取れとか、幾つ取れとか、平均的にはいくつ講習取っているとか、言いません。参考プラン的なものは確かに後で私の分もエントランスに張り出されるけど、あれは決められた枠の中で出した大人の事情なので、勘違いしないように。皆の代わりに計画を立てたものでもないし、皆が同じように講習とっておけばオッケーなものでもないからね。だって、そうでしょう?皆、志望の大学も学部も違う。たとえ同じでも、選択科目が違う。奇跡的に科目までも一緒でも、全部の受験校までは同じじゃない。スケジュールは全く違う。誰一人、全く同じ受験にならないんだから、同じ講習なら安心なんてものはない。唯一、みんなが同じなのは、受験日の試験は、朝から始まってお昼を挟んで、午後に終わると言う時間的なスケジュールだけです。」
うん、と頷いてくれる生徒たちに安堵しつつ、話を続ける。
「じゃぁ、この冬期講習どうするか。りっちゃんからは3つ、アドバイスです。まずは1つ目、来週1週間で、なんとなく今、受けようとしている大学の過去問をさらっと解いてください。もったいなくないし、別にわざわざ後に取っておく必要ないから。全然まだ、解けなくていい。めちゃくちゃ苦悶して終わるので、全然いい。このままじゃ落ちるーって恐怖が這い上がってくるくらいでちょうどいい。そして必ず、設問の傾向の解説を読んでください。時間なかったら、最悪、それだけ読むのでもいい。要は、自分が受験生として『何と戦う必要があるのか』を今この段階で知ってください。わかりやすく言えば、、、試験問題にエジプト時代が滅多に出ない第一志望の大学の試験問題に挑むのに、エジプト時代中心の講習を取ってエジプトマニアになっても意味ないでしょってこと。それでも今年度の本番に十数年ぶりとかでエジプト時代の問題が出たら、ただの逆方向の奇跡だし、乱暴な言い方したらどうせ皆対策してないでしょ。」
突然の過去問を解けと言う発言でピリッとした空気も、最後は少しだけ和らぐ。常に空気が張り詰めていたら、誰も話は頭に入らない。
「で、2つ目。そうやって自分が何と戦う必要があるのかなんとなく把握したら、今の9月の自分ではなく、12月から先の自分が『何が必要そうか』を考える。つまり、12月までには『何が仕上がっている状態にするか』と言う目標を今、決める。12月までに自分でどこまで何をするのか、12月からは何をするのか。これが一番難しいけれど、これをしないとなんとなくこのままダラダラ示されるままに勉強して、なんとなく高校生のまま受験生になることなく12月になっちゃうから。一気に12月まで考えるのは悪手。実行不可能な妄想が出来上がるだけだから。10月にどうする、11月にどうする、と細かく分けて考えて。考える内容は、、例えば、、、過去問はどのくらい、いつから解こうか?とか、そう言うことね。12月から過去問への挑戦開始なのか、11月に1周目を始めて12月からは2周目の挑戦に入るのか、とか。過去問への向き合い方は後日のテーマだから、今はこの辺で終わり。まぁ、そうやって自分でどんな風に勉強していて、どのくらいの時間を自分でする時間に費やしてそうかなんとなくイメージしたら、やっと講習にどのくらい時間をさけそうかわかるって算段。いーい?過去問を1回解いたら今後全部解けるようになるわけでもないし、講習受けたらやっぱり全部何でも解けるようになるわけでもないからね?過去問には模試の復習法で話したのと同じ様な『やり直し』が要るし、講習には予習・授業・復習の基本のステップが要る。全部、それぞれに時間がかかることを忘れないで!そのための事前の計画です。で、次、3つ目。」
小百合はふっと声を和らげた。
「ここでやっと『これだけ勉強したからもう大丈夫』と言うお守りのラインが自分でわかるから、そんな講座を見つけて受講する。苦手なこれだけは最後に克服、得意なところで絶対満点取りに行く、この大学は絶対に受かりたいから過去問だけじゃなくて講習でさらに対策を上乗せする、そのお守りラインは別に何でもいい。なんなら、先生に会う、とかでもいい。ちなみに私は、水島先生にお会いすることで甘えそうな自分を叱咤するという理由で、水島先生の講習取ったし。実際、背筋が伸びたわ。」
そんな理由でいいの?と面白がる希望が、生徒たちの瞳に見えた。
「入試問題に挑むにあたって、当日の試験会場で自分を支えるものは自分しかないの。その自分を支えるものを作るための積み上げ全てが、受験勉強だからね。そんな理由も立派な受講理由だと私は思ってる。ただ、、、水島先生のような人気の先生の講習は早めに定員に達して受付の締め切りが出ちゃう人気講座だから、受講しようと思ったら早めに申し込まないとダメよ。ある意味、情報戦とか事前計画戦として、受験の勝負の1つだと思いなさい。どれが締め切りが出がちな講座かは、遠慮なくチューターに聞いてね。」
生徒たちに混じり、律が真剣な眼差しで生徒の時と同じ様に聞いているのが視界に入った。何を聞かれる可能性が高いのか、しっかりと確認している。正直に、小百合は律のこの姿勢を好ましいと思う。
「あと、、、、これは講習トレトレの営業活動ではないのだけど。講習会ゼロは正直、お勧めしないの。講習会もお金がかかることだから、言い方の匙加減が難しいんだけど。」
え?と意外そうな顔が、教室にいくつか浮かぶ。このままなら、「まぁ別に、冬期講習は別に取らなくていいんじゃない?」と小百合に言われる流れだと思ったのだろう。
「毎年、生徒には言っていて、、、講習ゼロでずっと一人で頑張りますってのが可能なメンタル強い人は別にそれでいいと思うの。けどさ、一人で勉強って実際は誘惑がいっぱいあって、、、ちょっとだけいいかな、、、って少しの甘えが重なって結局ちゃんと勉強できずに終わるパターンの方が多かったり。たとえ人の目があれば大丈夫だろうとどんなに自習室に来ていても、、、やっぱり『自分に解ける問題が無事に解けたことで生まれた安心』から、慢心しちゃうパターンもあって。反面、講習のテキストには当然、生徒の隙を突く極上の工夫がなされているでしょう?受験直前に、自分の苦手な問題や入試が近づいたこの段階でも回答に躓いてしまう試験問題に、強制的に向き合わざるを得ない状況になるのよね。そんな中、同じ授業を受ける周りがなんか普通に余裕で問題を解けていそうな空気感に焦るような、追い立てられるような気持ちも、時には追い討ちかけて奮起する材料として要るのよ。他には、、、たった一人で頑張っちゃったが故に、出来ない解けないヤバイが重なって不安になって負のスパイラルで心が折れちゃって、、と言うパターンもあって。そんな負のスパイラルに陥らないように、講習の中で問題を完璧に解けないなりにも精一杯頑張ってる同士の姿を、同じ教材だからこそフェアに外から見つめて自分自身をアゲていくことができたりするし、ね。講習いっぱい取れ、とは口が裂けても私は言わないのだけど。1つ2つは講習を取って、自分に足りないものを講師の先生方によるプロの手で補いながら、挑んでいく方がいいのかなと、毎年いろんな生徒を見て思うのね。」
教室を見渡して生徒たちの視線と意識をもう一度一身に集め、小百合は静かに告げた。
「私の中の冬期・直前講習の位置づけは、入試前の『最後の晩餐』じゃなくて、、、鋭利な最終兵器と名打った最新の『サプリの摂取』なの。特にテキストを作って下さる先生方を中心に、授業内容は毎年研鑽し続けて貰っているわけだから。」
小百合がちょっと恥ずかしそうな声で付け加えた。
「どの最終兵器が皆に合うのかは、一緒に考えたいから、ぜひ声をかけて。というのも、、、、実は先日、、、周りで、、、物理の問題回答に微積分計算を使うか否か論ってのを間近で聞く機会があってね、解き方1つでこんなに変わるんだって意識がなかったことへの私自身への反省と、これまでにない衝撃があったの。物理に限らず、同じ講習内容でもおそらく先生によって教え方とかって大きく変わる場合があるんだなって、皆に強く伝えるべきだったなって。冬期・直前講習はまさに受験直前のタイミングだからこそ、皆の頭の中を混乱させないためにも、より受講を有意義にするためにも、どんな授業の方針なのかの事前確認が重要だなって。この講習を取ろうかなって思ったら各校舎の出講スケジュール表で授業の担当の先生の名前を必ず確認してほしい。もしこれまでに授業を受けたことのない先生がご担当の場合は、チューターにどんな授業傾向か必ず聞きなさい。これはもう、命令だと思ってくれてもいい。この場合、高卒クラス経験のチューターの方が情報には強いかも。あ、もちろん、りっちゃんも高卒クラス経験者なのでバッチリ聞いて。って、あ、今の段階では高卒クラスとか絶対に考えちゃダメだからね!数ミリでも考えた時点で受験で負けるからね!とにかくさ、、、、サプリになるはずのものが毒薬に変わったら、本当に洒落にならないから。ね?」
少しの笑いを含み、ごっくんと生徒たちが空気を飲み込む様な音が聞こえた気がした。
これまでの真剣なトーンから、ふふっと笑って小百合が話を終える。
「さぁ、今日のトークタイムはここまで!後は自由に過ごしてください。質問・相談は早速受け付けます。ただし!授業が始まる5分前は神聖な時間、これだけはしっかり覚えていてね!」




