相対性理論(5)
小百合と律の二人が西橘に諭された通りに教務室に戻ると、金曜の高校生クラス担当のチューターは全員、授業開始前の生徒対応のために各担当教室へと既に出払っていた。高卒生クラス担当の職員が次々に退勤していくこともあり、チューターのいないがらんとした教務室がなんだか寂しい。
時刻は、ちょうど授業開始10分前。先ほどの騒動で多くの時間を費やしたように感じていたけれど、体感していたよりはずっと時間が経過していないことに、二人して驚く。時間はいつどこで誰にでも平等に刻まれているとか言ったのは、昔々の誰だっただろう。
各々物思いにふける二人に、夏観がなんてことないように話しかけた。
「おー。そこのお二人さん。お疲れさま。お願いしていた情報入力のバイトは、歩夢一人でも充分な戦力だから、今日はもう先に上がっていいよ。」
そう言う割には、データ入力に勤しんでいるはずの歩夢の姿が、教務室をさっと見渡しても見つからない。
「歩夢はね、今、自分のチューター業務の参考にしたいからって、佳哉のクラス運営を見に行っている。」
先に勝手に帰宅したら歩夢に後で文句を言われそうだな、と律が困ったような顔をしたのを見てか、夏観が続ける。
「先に上がらせて温めてさせて欲しいって、佳哉先輩とケイト先輩からのお願いが僕にあってね。歩夢もその場で先輩方のお願いを聞いていたから、問題ないでしょう。後のことは気にせず、今日は先に上がりなさい。」
「はい。」
校舎の隅っこで起こってしまった全てを自身で見聞きすることはできなくても、佳哉やケイトは何かを察したのだろう。律は、まだどこかに意識を飛ばしてボーッとしている小百合をチラッと見ると、夏観の言葉に素直に頷いた。
「じゃぁ、今日はお言葉に甘えてここで上がります。りっちゃん、ロッカーの荷物とって帰りの準備しよう。で、早く西橘先生に声をかけにいこうよ。」
「あ。。。うん。。。」
聞いているのかいないのか、小百合の返事がどこか上の空だ。
「りっちゃん!!せっかく、ただの卒業生な格好して校舎にいる貴重な機会なんです。普段、チューターとして講師室でも節度を保ってるりっちゃんもいいですけど。今日は、ただの卒業生のノリを楽しんじゃいましょう?ね?りっちゃん。」
「うん、、、そうね。」
小百合は律の言葉に背中を押されて渋々とチューター用のロッカーへ向かい、荷物を入れたカバンを取り出して退勤の準備を始めた。いつもの大きなカバンと異なる、手のひらの上におさまってしまう、コロンとした小さな相棒。今日はジジから珍しく流行りのハイブラのカバンを持たされていたのだ。改めてまじまじと見つめると、なんとも言えない複雑な笑いがこみ上げてくる。たとえ問題冊子を持ち帰るためのサブバックを持っていたとは言え、こんな小さなカバンで入校テストを受験するとか、正気の沙汰ではないような気はしてきた。よく山葉塾の試験申し込みで門前払いを食らわなかったなと、正直自分でも思う。
「よし。ひとまずは、ゼロ次会に行こう。」
気持ちを整えて講師室へ向かおうとすると、そっと背後に現れた熊守がボソっと小百合にだけ聞こえるように囁いた。熊守さん、あなたは背後霊かなんかかですかね、と、その登場の仕方に思ってしまうのは仕方ない。場所が場所なら、結構ホラーだ。
「場所は『エース』。クルマはもう、来てる。後発組にも送迎がつく。」
涼しい顔をして必要最小限を伝えてくれた熊守だが、裏ではきっと本部との悲惨な連携プレーがあったはず。突然の予定変更で苛立ったであろうシロの相手は小百合でも手を焼くのに、面倒さを微塵にも感じさせないのは、さすが。踏んだ場数が違うのもあるだろうが、小百合が彼を「たっちゃん」として尊敬する理由の1つが、こう言った自身の感情のコントロールを完璧にこなせてどんな感情も職務では外に出さない点にある。
「お姫様は、余計な気を回さなくていい。俺も後で行く。」
誰の目にも触れない資料棚の死角で、ポンポンっと小百合の頭を撫でる。たっちゃんは、こう言う反則も上手い。小百合は緩みそうになる涙腺にグッと力を入れると、すでに帰宅準備を終えて教務室側の講師室の入り口で待つ律のところへ、駆け足で向かった。
「西橘先生、お待たせしました。」
律が控えめに西橘に声をかける。この時間の講師室には、これから高校生クラスの授業に挑む講師で混み合っている。自分たちが勤務時間外のプライベートな状況でも、勤務中にある講師たちの極力邪魔にならないような配慮を忘れないのは、チューター業務で培った意地だ。
「はい、お疲れさん。」
西橘が読んでいた新聞から顔を上げる。新聞は、講師室の備品だろう。連絡先を決して開示しないために、講師室では頑なにスマホを触らない西橘らしい時間の潰し方だ。
「先生ぇ、じゃぁ、行っきましょ―!」
どこか空元気、と言うわけではない。服装に行動が引き摺られるとは、このことを言うのか。チューター業務で心がけていた講師とチュータの一線はどこへやら。思った以上にすんなりと卒業生のノリで、小百合が西橘に声を掛ける。
「ハイハイ、行きましょう。小百合ちゃんはやっぱり、そうやって笑顔の方がいいね。」
座っていた椅子を机に押し込んで歩き出しながら、西橘がサラッとチャラい。
「はーい。どうもありがとうございますぅ。」
「りっちゃん、さすがにそれ、棒読みすぎないですか?」
褒められたにもかかわらず、これっぽっちも心のこもっていない小百合のお礼。
「だって、この人、西橘先生よ。」
「あーあ。せっかく『かわいいね』って褒めてんのに、ひどいよねー。って、ほら、放課後に行くんだろ。さっさと裏から出るよ。」
そんな会話は決して大きな声でもなく、派手な行動でもなかった。きちんと講師室の雰囲気に配慮し、かなり控えめなトーンで、密やかではあったのだが。元正統派アイドルに、K-POPデビュー組を彷彿とさせる装いの大学生の二人。揃ったビジュアルは時に空間支配の強度を押し上げることに、この3人は無頓着すぎていた。
「ふうん。。。」
ケイトの嫌な予感は、見事に的中。
この後に嵐を呼ぶ呟きが講師室でなされたことを、この3人は全く気づかずにいた。




