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高3H英語  作者: 鞠矢百合


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緑黄色野菜(5)

 玲奈の張り裂けるような悲痛な嗚咽が、救護室を氷漬けにしていく。救護室とは言っても、教務室の奥にある小さな場所の、横になれるだけの簡易ベッドと救急セットやタオルなどを収納する細長いロッカーがあるくらいの簡素な部屋だ。母親は救護室入り口付近で玲奈を見つめて戸惑ったまま、微動だにしない。校舎の他の整えられた場所と違って古びた蛍光灯の明かりが、この場にいる人間の心を表すように揺れている。

 そんな中、小百合はただひたすらに困惑していた。これは、自分がいるせいで、母親が自分に遠慮してしまって子供を抱きしめることができない感じだろうか。それとも、自分がいるお陰で、母親がこの状況を子供に感情的に咎めることを防げている状態だろうか。救急車が来るまで、ずっとこのまま全員で止まるのは全くもって建設的ではない。ただ、何が正解なのか、この母娘の様子からは全くもって解りかねていた。

 小百合が口を開いても、情報共有に親が感謝するどころか「そんなの親の自分にわかっている」とばかりに拒絶される可能性がありうる。結局は親になんでも暴露してしまうのだと、子供がさらに心を閉ざしてしまう可能性もありえる。小百合は、震える玲奈の肩をこのまま手放してしまっていいものか考えあぐね、天井からぶら下がる古めかしい蛍光灯を「これ、取り換えるべきでしょう」と睨んだ。会話になるような適切な突破口が、何かないものだろか。生憎、見つかる気がしなかった。

 コン、コ、ココン。

 先ほど聞いたあの独特なノックの音が、天の助けのように、重苦しい空気を切り裂くように届いた。

扉が、この酸素不足のような雰囲気をもなんてことないように、さくっと開く。

「あぁら、あらあら。お嬢さんが、そんな真っ青な顔しちゃって。もうすぐ救急車がきますからね。もう、大丈夫ですよ。」

ナイスタイミング、、、さすがですよ!年の功!

「あら、ちょっと。小百合ちゃん?何か今、失礼なことを考えたでしょう?いつも救護室に担ぎ込まれた小百合ちゃんをお世話していた私に、なんたることを。」

恰幅の良い、小百合の信頼するお掃除チームのお姉さん(昔、オバチャンと呼んで烈火の如く怒った彼女に呼び方を矯正された)が、それこそ本当になんでもないことのように笑顔で入り口に立っていた。小百合が生徒時代に体調を崩すたびに、何かと世話を焼いてくれた恩人だ。

 突然の外部者の登場とその勢いにびっくりしすぎたようで、玲奈の嗚咽が途切れる。小百合も玲奈も、お姉さん(彼女)の手にかかれば孫くらいの感覚なんだろう。突っ立ったままの母親を遠慮なく退かして、なんの躊躇いもなくズカズカと部屋の奥へ足を進めてくる。相変わらず、チャン付で呼ばれた小百合に苦笑いが浮かぶ。もしかしたら、こんな時に必要なのは、配慮ある距離感よりも気遣いを携えた図々しさなのかもしれない。と、小百合はなんとなく思った。

「さ、お嬢さんはこっちのタオルをちょっと体に巻いておきましょうかね。できるわね?」

素直にコクンと頷く玲奈。

「お名前は?」

「瀬野原(せのばら) 玲奈。」

「そう。玲奈ちゃんって言うのね。今日持ってきたお荷物は全部、あるわね?」

小百合のジャケットの上からお腹を抑えたまま、それでも先ほどより更にしっかりとした様子で玲奈が頷く。

「うん、うん。いい子だ。お腹が痛いのね?大丈夫、そう言うこともあるわよ。しょうがないの。受験って、思う以上に気疲れするものみたいだしね。で、小百合ちゃんは?玲奈ちゃんの担任さんなのかしら?あ、このジャケット、小百合ちゃん、アナタのでしょう?」

小百合は首を横に振って、担任であることを否定した。ある程度汚れているジャケットは、衛生面を考慮しておそらく処分だろう。ただ、今ここで処分する旨を伝えることで、玲奈が気に病んでしまう状況は避けたかった。もう一度、察してくれとばかりに小百合は首を横に振る。

何事もなかったように目線を受け止めた彼女は小百合の意図を汲んで、そのまま玲奈の体を覆うジャケットとタオルを入れ替えようとした。ところが、肝心の玲奈が想定外にジャケットをギュッと握って離さない。

「ジャケット(それ)、あったほうが、いいの?」

小百合が、まさかとばかりに玲奈に聞いてみれば、やはりコクンと頷くではないか。どうしようかと思案するまでもなく、小百合は応えた。

「直接、私物をあげたり貸したりすることは職務規定で出来ないけれど。私が不必要だと手放したものをその後どうしようと、それは玲奈の自由にはなるんじゃないかと思う。」

色んな職場の規定を瞬時に思い出して回りくどい言い方になってしまうのが、もどかしい。

「こんな時くらいは、小百合ちゃんも素直に『安心するなら、持っていて良いよ』と言っちゃって良いと思いますけどね。本当にもう、無駄なところほど余計に育っちゃうんだから。」

小百合は再び、苦笑いだけを返すしかない。生徒だった頃、情けない姿を彼女にお世話になりすぎていた。

 そうやってなんやかんやと身支度を整えるうちに、裏口付近が騒がしくなる。救急車のサイレンは依頼通り校舎近くで消してくれていたようで助かった。話題に飢えている受験生の恰好のネタにさせないような生徒への配慮は、チューターとして、なんとしてでも死守したかった。

「ほら、言っているうちに、救急車の到着よ。校舎の皆には見えないようにしてあるから、安心しなさいな。」

だいぶ落ち着きを取り戻した玲奈が、真っ青な顔のまま、それでもしっかりハイと返事する。

手慣れた様子で救護室に入ってきた救急隊員が、手早くストレッチャーに玲奈を寝かせた。

 小百合は手短に、玲奈から見聞きした状況をできるだけ憶測が混じらないように救急隊員へ伝える。

「妊娠の可能性は、ないと思いますが。念のため。」

付け加えた小百合の一言に、玲奈の顔にあからさまに喜色が浮かんだ。いや、そんな医療関係者でもない、ちょっと話を聞いただけのチューターの無責任な発言に希望的観測を持たれても!と小百合は一瞬焦ったが、玲奈はたった一言。

「りっちゃん。信じてくれて、ありがとう。」

 そこまでずっとボーッと突っ立ったままだった母親に、救護員が声がけをする。「お付き添いですか?」と。小百合は最早この母親の存在を、うっかり忘れかけていた。

深刻そうに戸惑うばかりの母親に代わって、お掃除お姉さんがサラッと告げた。

「ええ。そこの女性が保護者ですから、付き添います。って、お母さん、アナタもね、突然でびっくりしたでしょうけど。お嬢さん、女の子なんですから、色々あるでしょうよ。それにね、今と昔は違うんだから、全部親が自分でどうにかしなくちゃなんて気張りすぎずに、頼るところを頼って、たまには委ねなさいな。何より、今日はしっかり、この子を抱きしめる。お嬢さんの命より大事な受験なんて、ないのよ。他は全部お休み。いいわね?」

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