第一幕「歌が見えた」 第9話 一曲だけの条件
翌日、セラは約束の時刻より少し早く、待ち合わせ場所へ来ていた。
リラが辻を曲がったときには、古い時計塔の下で一人、壁へ背を預けている。
薄い灰色の外套。
いつもの作業着とは違い、袖口にも襟にも汚れがない。灰色の髪は普段より高い位置でまとめられ、結び目も崩れていなかった。
リラは少し離れたところで足を止めた。
昨日渡した紐ではない。
もっと細く、色の濃い紐だった。
わざわざ選んできたのだろう。
「行かないんじゃなかった?」
声をかけると、セラは時計塔から視線を外した。
「あなた一人で行かせるよりまし」
「それは信用されてるのか、されてないのか、判断が難しいなあ」
「されてない」
「判断できました。ありがとうございます」
リラが隣へ並ぶ。
セラは歩き出そうとしたが、リラがまだ髪を見ていることに気づき、眉を寄せた。
「何」
「今日は結び目がきれいだね」
「そこを見るの」
「緊張してる顔を見たら怒るでしょう。だから、怒られにくそうなところを選んで褒めました」
「緊張してない」
「うん。だから髪も丁寧に結んできたんだね」
「帰る」
「待って。今のは褒め方を間違えた。髪がきれいです。似合っています。以上。もう緊張については触れません」
セラは歩き出した。
帰る方角ではなかったので、リラもその隣へ並ぶ。
「歌詞、持った?」
「持った」
「昨日預かった紙じゃなくて、今日の?」
「両方」
「私の記録表は?」
「いらない」
「念のため持ってきました」
「どうして聞いたの」
「会話をしたかったから」
セラは呆れたように息を吐いた。
それでも、リラの鞄を取り上げて捨てようとはしなかった。
◇
王城へ近づくにつれ、道の幅が広くなった。
南区では家と家の間を縫うように歩かなければならないが、この辺りでは馬車が二台並んでも余裕がある。道の中央には白い石が敷かれ、朝の光を返していた。
坂の上には、星冠祭を管轄する祭典庁の建物がある。
王城ほど巨大ではない。
けれど、白い石壁には染み一つなく、入口の上には火、水、風、土、雷、光を示す六つの紋章が等間隔に並んでいた。
リラは歩きながら上を見た。
「闇と幻影がない」
「祭典庁が暗闇を紋章にしたくなかったんでしょう」
「でも暗転がないと、光も花火もきれいに見えないのにね」
「役所は、見せたくないものを紋章にしない」
「詳しい」
「音楽院の行事で来たことがある」
セラの声が少しだけ硬くなった。
リラは、その先を尋ねなかった。
代わりに入口の大扉を見上げる。
「この扉、うちの部屋より広いなあ。開けるだけで一日分の魔力を使いそう」
「術式で動く」
「知ってる。でも、今は緊張してない人のために、どうでもいい話をしてます」
「自分が緊張してるんでしょう」
「少し。昨日までは、怒られる相手がセラ一人で済んでたから」
「今日も私には怒られるよ」
「慣れた相手が一人いると安心するね」
「安心しないで」
扉が音もなく開いた。
中へ入ると、外のざわめきが急に遠ざかった。
床は磨かれた白い石。
廊下の天井には、光球が一定の間隔で並んでいる。どの光も同じ明るさで、一つの揺れもない。
リラは思わず足を緩めた。
「きれい」
「灯務局の人が見ても?」
「だからこそ。たぶん、毎朝全部の光量を測ってる。色も高さも同じ。交換時期までそろえてるんじゃないかな」
「あなたの光を一つ混ぜたら、すぐ分かりそう」
「私の豆明かりだけ、一生懸命ついていこうとして震えるね」
「消される」
「そこは、かわいそうだから残してって言ってほしかった」
「役所はかわいさで灯を残さない」
「厳しい世界だ」
案内役の職員が何度か振り返った。
リラは声を少しだけ落とした。
セラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それを見て、リラの胸もわずかに軽くなった。
◇
通された部屋の壁には、楽譜と公演画が並んでいた。
過去の星冠祭で行われた演目らしい。
王城を囲む炎の鳥。
水幕へ映された歴代国王。
雷が夜空へ描いた巨大な王冠。
どの絵にも、何千人もの観客が同じ方向を見上げている。
アルドは机の向こうで書類を読んでいた。
二人が入っても、すぐには顔を上げない。
「そこへ座れ」
椅子は二脚あった。
リラが片方を引くと、脚が床をこすり、大きな音が響いた。
アルドの眉がわずかに動く。
「すみません。役所の床は、静かな椅子しか想定してないんですね」
「お前が静かに動くことを想定している」
「それは設計上の不備かもしれません」
「リラ」
隣から低い声が飛んだ。
「はい。座ります」
二人が腰を下ろす。
アルドは書類へ目を落としたまま尋ねた。
「昨夜、何を失敗した」
「客を見すぎました」
リラが答える。
「客を見なさすぎました」
ほぼ同時に、セラが言った。
アルドがようやく顔を上げた。
二人を順番に見る。
「それだけなら、半分ずつ足せば成功するな」
「そんな簡単ではありません」
セラの声には、昨日の苛立ちがまだ残っていた。
「分かっているなら、答えを短くするな」
アルドは書類を閉じた。
「詳しく話せ。先に歌手」
セラの指が外套の裾へ触れる。
「歌を聞かない客がいました」
「何人」
「分かりません」
「数えていないのか」
「歌っていたから」
「では、何を見ていた」
「フィンを」
「一人だけか」
セラは少し黙った。
「最初は」
「途中からは?」
「誰も」
リラが隣を見る。
セラはアルドから目を逸らさなかった。
「客が笑っても、光を見ても、どうでもいいと思うことにしました。自分の歌だけを守ればいいと思った。だから、リラが何をしているかも見なかった」
「歌を止めたのは」
「私の歌がなくても、光だけで喜ばれていたからです」
最後の一言だけ、少し低かった。
アルドは否定も慰めもしなかった。
次にリラを見る。
「お前は」
「歌へ戻したかったんです。話している人の近くへ光を置けば、セラへ気づくと思いました。でも、光を出すほど、客は光だけを見た」
「そこでやめなかった」
「はい」
「なぜだ」
リラは膝の上で手を組んだ。
「私の光を、あんなにたくさんの人が見たことがなかったからです」
セラが、ほんの少しだけこちらを見る。
「もっと出せと言われて、嬉しくなりました。歌を見せるための光だったのに、自分が見られていることを成功だと思った。セラが止まったあとも、最初は息を取っただけだと思いました」
「客を見すぎたのではないな」
アルドが言った。
リラは顔を上げる。
「自分を見ている客を、見すぎた」
返す言葉はなかった。
「歌手は客を捨てた。演出家は歌手を捨てた。どちらも、自分の作品を守ったつもりでな」
アルドは椅子の背へ身体を預けた。
「悪くない失敗だ」
「昨日も言いましたね」
リラが小さく返す。
「何が悪くないんですか。セラは途中で歌えなくなったし、私は光だけ褒められました」
「最初の失敗で、二人の一番悪いところが出た」
「慰めになってません」
「慰めていない」
アルドは机の端へ指を置いた。
「歌手は、自分の心が本物なら、客へ届かなくても仕方がないと思う。演出家は、客が反応すれば、何を届かせたのかを見失う。これを隠したまま大きな舞台へ立てば、もっと多くの人間を巻き込んで壊れる」
セラがわずかに眉を寄せた。
「壊れる前にやめろ、と言うために呼んだんですか」
「逆だ」
アルドは別の書類を取り出した。
そのとき、リラは壁の公演画の一枚に気づいた。
他の額とは違い、絵が裏返されている。
額の端から、赤い衣装の裾と、細い手だけが見えていた。
若い女性歌手らしい。
セラも同じものを見ている。
アルドは二人の視線に気づき、机の上の書類を立てかけるようにして、額の端を隠した。
「見せない演出ですか」
リラが言った。
「触れるな」
声が低かった。
昨日までの面倒そうな老人の声とは違う。
リラは続きを聞かなかった。
けれど、忘れないことにした。
セラも額から視線を外す。
アルドは書類を二人の前へ滑らせた。
「星冠祭で、一曲分の空きが出た」
セラの肩がわずかに動いた。
「南門合唱団の指揮者が倒れた。代替演目は用意できる。去年の構成を少し変えれば、それで済む」
「じゃあ、どうして私たちを」
「それでは、今年も去年の続きになる」
アルドは窓の外へ目を向けた。
遠くに祭典広場が見える。
巨大な舞台の骨組みが組まれ、地面には大きな魔法陣が描かれていた。
「今の星冠祭は美しい。炎は去年より高く、水幕は去年より広い。雷は一拍も遅れず、光は王冠の形を崩さない」
「十分すごいと思います」
リラが言う。
「十分すごいから困る」
アルドは目を細めた。
「完成したと思われた祭りは、次の年から少しずつ死ぬ。大きく、明るく、正確にするだけなら、いずれ誰も今年である必要を感じなくなる」
リラは壁の公演画を見る。
絵はどれも美しかった。
けれど並べて見ると、同じ夜が少しずつ大きくなっているようにも見えた。
「だから、私たちを入れるんですか」
「まだ入れるとは言っていない」
アルドは指で書類を叩いた。
「試す機会を与える」
条件は一つずつ説明された。
三十日後の星冠祭。
王都祭典広場。
観客はおよそ三千人。
一曲のみ。
十二分以内。
使用できるのは、安全審査を通過した術式だけ。
火、水、雷など、観客へ危険が及ぶ属性は、術者とは別に安全確認担当を置く。
稽古場所として与えられるのは、旧兵站庫。
舞台設備は最低限。
必要な演者、術者、技術者は自分たちで集める。
その報酬も、自分たちで決めなければならない。
「自分たちで調達って、祭典庁からは何も出ないんですか」
「試験枠だ。基本予算は出ない」
「三千人へ見せるものを、無償で作れと?」
「嫌なら断れ」
「嫌とは言ってません。確認です。確認したうえで、あとで何度も文句を言います」
「好きにしろ」
アルドはさらに一枚、書類を出した。
今度はセラの前へ置く。
「歌手には別の条件がある」
セラは紙を見下ろした。
「音楽院と祭典歌唱会が、無所属歌手の特例出演を認める。ただし、今回限りだ」
紙には、複数の印章が押されていた。
セラの名前も、すでに記されている。
「成功すれば、無所属歌手として公演許可を申請できる。音楽院や公認楽団へ所属せずとも、正式な舞台への道ができる」
「失敗したら」
「五年間、王都の公的舞台への推薦は受けられない」
部屋が静かになった。
窓の外で、建設中の舞台から金属音が響いた。
「五年」
セラの声は平らだった。
右手だけが、外套の裾を強くつかんでいる。
「五年後に、もう一度受ければいいんですか」
「制度上はな」
「実際は?」
「今回失敗した無所属歌手を、五年後に誰が推薦する」
アルドは答えを濁さなかった。
「実質、二度目はない」
リラはセラを見る。
その顔には、怒りも恐怖も見えなかった。
だからこそ、裾を握る指の白さだけが目についた。
「断ってもいい」
リラが言った。
セラは振り向かなかった。
「今、私に?」
「うん。昨日みたいに、決めたあとで聞くんじゃなくて、今聞く」
「あなたは、やりたいんでしょう」
「やりたい。ものすごく」
「正直」
「ここで『セラが嫌なら私も嫌』って言ったら、たぶん嘘になるから」
リラは紙を見た。
「でも、私がやりたいことと、セラが受けることは別。三十日後の舞台が最後になるかもしれないのは、私じゃない」
セラはしばらく黙っていた。
アルドは急かさない。
机の上で指を組み、待っている。
「これは慈善ではない」
やがて、アルドが言った。
「私も賭ける」
別の申請書が机へ置かれる。
総監督権限による実験枠の使用許可。
失敗時には、今後五年間、同様の枠を設けないという条件。
「お前たちが事故を起こすか、観客へ何も届かない演目を出せば、実験枠そのものが閉じる。私は裁量を失い、予算も削られる。役職も無事では済まん」
「どうして、そこまで」
セラが尋ねた。
アルドは、すぐには答えなかった。
一瞬だけ、書類で隠した額の方を見る。
「祭りが完成したと思われることが嫌いだ、と言っただろう」
「それだけで、役職まで賭けるんですか」
「それだけで賭けられない人間は、演出家を名乗るべきではない」
リラは老人を見た。
助けてくれる人ではない。
自分の正解を持ちながら、それが古くなっていることも知っている。
そして、それを壊すために、二人の未完成へ賭けようとしている。
「失敗したら、セラだけじゃなくて、次の無所属歌手も」
「しばらくは門が閉じる」
リラの胸が重くなった。
「私たちだけの失敗じゃないんですね」
「公の舞台へ立つとは、そういうことだ」
セラが立ち上がった。
椅子の脚が、床を短くこする。
「やります」
「セラ」
「一度しかないなら、迷っている間に終わる」
声はまっすぐだった。
けれど、裾を握っていた手はまだ開いていない。
リラはその手を見た。
「怖くないの?」
「怖い」
セラは、今度は否定しなかった。
「でも、路地で十分だって言い続けて、五年後にまだ同じことを言っていたら、その方が嫌」
リラは何も言えなかった。
セラが、自分から舞台を選んだ。
歌ってほしいと言われたからではない。
リラが先へ引っ張ったからでもない。
怖いまま、自分で選んだ。
そのことが、うれしかった。
けれど、うれしいと言えば、セラの決断を自分のものにしてしまう気がした。
だから、リラは一度だけうなずいた。
「分かった。一緒にやろう」
セラは笑わなかった。
それでも、拒むように固くなっていた肩から、わずかに力が抜けた。
「勝手に先へ行かないで」
「今回は隣で走るよ。セラが止まったら私も止まるし、曲がったら同じ方へ曲がる。勢いで半歩くらい前に出ることはあるかもしれないけど、そのときは袖を引いて」
「走るのはやめて」
「そこは努力目標にさせてください」
セラは何か言い返しかけて、やめた。
その様子を黙って見ていたアルドが、二人分の息を吐くように、長くため息をついた。
「話がまとまったなら、確認するぞ。曲は」
「自分の歌です」
「完成しているか」
「してません」
アルドの眉間に、一本深く皺が刻まれた。
セラは気にする様子もなく、先ほど結び直した髪へ指先で触れている。
「題は」
「まだない」
「演者も曲も未完成か」
「光も小さいです」
リラが横から付け足した。
アルドの視線が、ゆっくりとリラへ移る。
「お前はなぜ、そこで胸を張る」
「隠しても大きくならないので。せめて正直さだけは大きく見せようかと」
「見せなくていい」
アルドは額へ手を当てた。
隣では、セラの口元がほんの少し動いている。リラは気づいたが、今は指摘しなかった。
「二人とも、未完成を武器のように言うな。足りないものを並べれば、覚悟があるように聞こえるとでも思ったか」
「思ってません」
セラがすぐに答えた。
「でも、完成しているふりをするよりはいいでしょう。できないことを隠したまま始めたら、失敗したときに何が悪かったのか分からなくなる」
「失敗する前提か」
「成功するふりもできません」
アルドはセラを見た。
次に、その隣へ立つリラを見る。
セラは未完成な歌を隠さず、リラは小さな光を隠さない。頼りない二人だったが、少なくとも互いの足りなさを知らないまま手を組んだわけではない。
「未完成であることは、免罪符にはならん」
「はい」
今度は、二人の声が重なった。
顔を見合わせたあと、セラがわずかに眉を寄せる。
「合わせないで」
「今のは偶然。たぶん、初めて息が合った記念すべき瞬間です」
「数えなくていい」
「私は大事なことを覚えておく係だから」
「余計なことまで覚えないで」
アルドはもう一度ため息をついた。
先ほどよりも、ほんの少しだけ短かった。
そのままセラを見て、わずかに目を細める。
「強いな、お前は」
セラは結び直された髪から指を離した。
「褒めてます?」
「半分は呆れている」
「残り半分は」
「三十日後に決める」
セラはそれ以上追及せず、小さく顎を引いた。
褒め言葉として受け取ったのか、判断を保留したのかは分からない。ただ、先ほどまでよりも、リラの隣へ立つ足が少しだけ自然になっていた。
アルドの視線が、その隣へ移る。
「お前は、何を作る」
リラはすぐには答えなかった。
窓の向こうには、祭典の日に三千人で埋まる広場が見える。夜空まで届く巨大な魔法陣も、建物より高く噴き上がる炎も、あの広さなら小さく見えるだろう。
自分の豆明かりでは、舞台の端から端さえ照らせない。
それでも、あの路地でフィンは言った。
歌が見えた、と。
「歌を、見えるようにします」
「花火も幻影も、すでにある」
「飾るんじゃありません」
説明の代わりを探すように、リラは人差し指を立てた。
指先に豆明かりが一つ灯る。昼の白い部屋では、少し目を離せば見失いそうな光だった。
「歌詞に窓が出たから、窓の幻影を置く。悲しい歌だから、青い光を出す。そういうふうに、私が先に答えを決めて見せたいんじゃないんです」
豆明かりをゆっくりと動かす。
光はリラの指先から離れ、セラとの間に浮かんだ。
「セラが閉じきらない窓を歌ったとき、私には、外へ出ようとする光と、内側に残る光が見えました。でも、フィンが見た灯は、たぶん私が見たものとは違う。あそこにいた人たちも、それぞれ別のものを見ていたと思う」
セラが、二人の間に浮かぶ光を目で追った。
リラはそれを確かめてから続ける。
「だから、私の答えを見せるんじゃなくて、その人の記憶が入り込める隙間を作りたい。帰れなかった場所とか、離せなかったものとか、自分でも忘れていたものを、歌の中で見つけられるような」
「歌を見物させるのではなく、歌の中へ客を入れるのか」
「たぶん、そうです」
「たぶん?」
「今、アルドさんに聞かれて、ようやくそこまで言葉になりました」
アルドの眉間に皺が寄る。
けれど、リラはごまかさずに豆明かりを見つめた。
「どうやって作る」
「まだ、全部は分かりません」
「肝心なところだぞ」
「はい。でも、昨日よりは分かっています。私一人で答えを作らない。セラが何を歌っているのか聞いて、観客が何を見ているのかも確かめる。でも、一番大きな歓声だけを正解にはしない。まずは、そこから試します」
光が、二人の間で小さく揺れた。
セラは何も言わなかったが、否定もしなかった。
アルドは椅子の背へ体を預け、腕を組んだ。
「それでも足りん。三千人は、路地の三十人を百倍にしただけではない」
「分かっています」
「声も光も、後ろまで同じようには届かない。前の一人が動けば、後ろの百人がつられて動く。三十人なら迷いで済んだことが、三千人では事故になる」
リラは口を閉じた。
「今の説明を聞く前から、本当に分かっていたか」
「そこまで具体的には、今分かりました」
「正直だな」
「隠しても分かったことにはならないので」
アルドは、机の上を指先で一度叩いた。
呆れているようにも見えたが、追い返す様子はなかった。
「厄介な二人だ」
「二人まとめて数えてもらえるようになりました」
「喜ぶところではない」
「さっきまでは、演者と曲と光が別々に未完成だったので。今は一組です」
セラが横からリラを見る。
「勝手に一組にしないで」
「一緒にやるって、さっき決めたでしょう」
「未完成をまとめないで」
「完成してから言うと、結果の報告になっちゃうから」
セラは反論を探すように眉を寄せた。
その間に、アルドが机の引き出しを開ける。木と金具が擦れる低い音がして、中から古い鉄の鍵が取り出された。
祭典庁の白い部屋には似合わない、細かな傷だらけの鍵だった。
「旧兵站庫を貸す。期限は三十日だ」
リラの目が鍵へ吸い寄せられる。
反射的に伸びかけた手を、どうにか机の手前で止めた。
「本当に?」
「まだ受け取るな。条件がある」
アルドは鍵の上へ指を置いた。
「途中で五十人の試演を一度。その後、百人を一度行え。何人が足を止めたか、どこで目を逸らしたか、終わったあとに何を話したか。可能な限り記録しろ」
「数字も?」
「数字もだ。ただし、多かった反応をそのまま正解にするな」
リラの手が、膝の上でわずかに縮こまった。
昨日、足を止めた人数ばかり数えていたことを、見透かされたようだった。
「安全責任者を置け。さらに、参加する術者全員に中止権限を持たせろ。誰か一人でも危険だと判断したら、演出の途中であっても止める」
セラがアルドへ顔を向けた。
「歌の途中でも?」
「当然だ」
「私が続けると言っても?」
「歌手の意思より、観客の命が優先だ。お前自身が危険なら、お前の意思よりお前の命を優先する」
セラはしばらくアルドを見ていた。
やがて、迷いなく一度うなずく。
「分かりました」
リラも続いてうなずいた。
先ほどまで二人の間に浮かんでいた豆明かりが、静かに消える。
それを確認してから、アルドはようやく鍵から指を離した。
「事故を一つでも起こせば、そこで終わりだ」
リラは両手で鍵を受け取った。
古い鉄の冷たさが、手のひらへ沈む。想像していたよりも、ずっと重かった。
「ありがとうございます」
「礼は成功してから言え」
「成功したら、もう一度言います。でも、今の分は場所を貸してもらったことへの礼です。結果がどうなっても、今日ここで機会をもらったことは変わらないので」
「そういう礼は、失敗したときに返しにくい」
「返してもらうつもりはありません」
「だから厄介だと言っている」
アルドは鍵のなくなった手を振り、机の書類へ戻した。
紙をめくる音が、話の終わりを告げる。
リラとセラは顔を見合わせ、椅子から立ち上がった。
扉へ向かいかけたところで、背後から声が飛ぶ。
「一つだけ」
二人が同時に振り返る。
今度はセラも、声が重なったことへ文句を言わなかった。
「昨夜と同じ失敗を、三千人の前でするな」
リラは手の中の鍵を握った。
隣にいるセラを一度見てから、アルドへ向き直る。
「同じ失敗はしません。今度は、先にセラへ聞きます」
「それだけではない」
「はい。たぶん、別の失敗はします」
「胸を張るな」
「失敗しないと言えるほど、まだ何も作れていないので。でも、起きたことを見ないふりはしません」
アルドは書類から顔を上げなかった。
「それでいい」
紙を押さえる指だけが、一度止まる。
「ただし、生きて次へ持ち帰れる失敗にしろ」




