第一幕「歌が見えた」 第8話 信用の代価
セラは、酒場の裏口にはいなかった。
いつもの樽にも、路地の向こうにもいない。
リラは酒場の中へ入ろうとして、店主に止められた。
「二階だ」
「入っていい?」
「客室じゃない」
「じゃあ、どこですか」
店主は顎で裏手を示した。
「荷車置き場。歌いたくない日は、あそこへ行く」
歌いたくない日。
その言葉が、胸へ重く落ちた。
荷車置き場の奥で、セラは空の木箱へ腰を下ろしていた。
ほどけた髪を片手で押さえている。
リラの足音に気づいても、顔を上げなかった。
「何」
声は冷たかった。
けれど、帰れとは言わなかった。
リラは少し離れた場所で止まる。
「ごめん」
「速い」
「うん」
「何が悪かったか、もう決めたの」
「……決めたつもりにならないように、今から言う」
セラが、わずかに目を上げた。
リラは言葉を探した。
いつもなら、考えながらでも口が動く。
今は、一つ間違えれば、また自分に都合のいい謝罪になる気がした。
「人を呼んだこと。セラが断るかもしれないって分かってたのに、実際に人が来たら歌ってくれると思ったこと」
セラは黙って聞いている。
「歌の途中で、男の人たちが笑ったでしょう。セラの声が細くなったのも気づいてた。でも、光で客を戻せば大丈夫だと思った」
「戻らなかった」
「うん。客は光を見た」
「嬉しかった?」
質問は、責める声ではなかった。
だからこそ、嘘がつけなかった。
「一瞬、嬉しかった」
セラの指が、髪を強く握る。
「私の小さい光を、みんなが見たから。すごいって言われて、もっと出せって言われて……歌を見せるために始めたのに、私が見てもらえたことを、成功だと思った」
声に出すと、ひどく醜く聞こえた。
「その瞬間、セラを見てなかった」
「ずっと見てたじゃない」
「顔は見てた。でも、何を感じてるかじゃなくて、次の合図がどこに出るかを見てた。セラが歌えなくなってるのに、演出を続けることしか考えなかった」
リラは深く息を吸った。
「ごめん」
今度の言葉は、先ほどより小さかった。
「光を消してほしかった」
セラが言った。
「男たちが笑ったとき?」
「違う」
「じゃあ、いつ?」
「みんなが光を見て、あなたが嬉しそうな顔をしたとき」
リラは何も言えなかった。
「私が止めても、あなたはしばらく気づかなかった」
「うん」
「あの歌がなくても、あなたの光だけで喜ばれてた」
「違う」
反射的に否定しかけて、リラは止まった。
セラがそう感じたことまで、否定してはいけない。
「……私には、違ってほしい。でも、あの場ではそう見えたと思う」
セラが初めて、まっすぐリラを見た。
「少しは学んだ?」
「今日だけで、かなり痛い授業料を払ったから」
「無料公演でしょう」
「信用を払った」
冗談にしようとして、うまく笑えなかった。
セラも笑わなかった。
少しの沈黙のあと、リラは続ける。
「それから、話さなきゃいけないことがある」
「まだあるの」
「星冠祭の総演出監督が見てた」
セラの顔から、怒りが一瞬だけ消えた。
「誰?」
「アルド・ヴェイン」
立ち上がりかけたセラの膝が木箱へぶつかった。
「痛っ」
「大丈夫?」
「なんで先に言わないの!」
「謝る方が先だと思ったから」
「そういうところだけ正しいの、腹が立つ」
セラは膝を押さえながら、リラをにらんだ。
先ほどまでの冷たい距離が、ほんの少しだけ崩れる。
「何て言われたの」
「明日の夕刻、祭典庁へ来いって。セラも一緒に」
「行かない」
返事は早かった。
「うん」
「止めないの」
「行きたくない理由を、先に聞く」
セラは口を閉じた。
リラは待った。
「音楽院の試験で、祭典庁の人間には十分見られた」
「アルドは、成功した歌を審査しに来たんじゃないよ」
「失敗した歌を聞かれる方が嫌」
「それは分かる」
「分かるなら、行かない」
「うん。だから私一人で行く」
セラの眉が動く。
「何を話すの」
「今日の失敗。光で客を戻そうとして、歌を消したこと」
「私の歌は?」
「説明できるところまで説明する」
「あなたに?」
「今の反応を見ると、かなり危険そうだね」
「私の歌を、祭典庁の言葉へ勝手に直す気?」
「そんなに信用ない?」
「今日なくしたでしょう」
「そうだった」
リラは素直にうなずいた。
セラは言い返す言葉を失ったように、口元を引き結んだ。
「じゃあ、一緒に来て。私が変な説明を始めたら、その場で止めて」
「行かない」
「袖を引っ張るだけでいい。前に決めたでしょう」
「決めてない」
「私が勝手に提案しただけだったね」
リラは少し笑った。
「でも、セラが来ないなら、私は私が見た歌しか話せない。それがセラの歌と違っても、直してくれる人がいない」
セラは空の樽を足先で軽く蹴った。
乾いた音が鳴る。
一度。
二度。
「一回だけ」
「それ、前にも聞いた」
「今度こそ一回」
「分かった」
リラは、すぐに次の予定を口にしなかった。
「一回分だけ、一緒に行こう」
セラは答えなかった。
けれど木箱から立ち上がり、ほどけた髪をまとめようとする。
紐は、歌っていた路地へ置いてきたらしい。
リラは自分の鞄を探り、予備の細い紐を一本差し出した。
「これ使う?」
「どうして持ってるの」
「前にセラが二回落としたから。次は必要になるかもしれないと思って」
「勝手に準備しないで」
「返す?」
セラは紐を見た。
少し迷ったあと、リラの手から受け取る。
「今日は自分で結ぶ」
「うん」
リラは手を出さなかった。
セラが髪を結び終えるまで、ただ隣で待った。




