第一幕「歌が見えた」 第7話 三十三人の失敗
最初の路上公演は、リラが勝手に決めた。
本人だけは、そうではないと思っていた。
「決めてないよ。可能性を街の人へ知らせただけ」
酒場の壁には、白い紙が一枚貼られていた。
昨日までなかった紙だ。
文字は大きく、灯務局の作業報告よりも丁寧に書かれている。
――本日夕刻、歌が見えるかもしれません。
その下には、小さく場所と時刻まで添えられていた。
セラは紙を見上げたまま、しばらく動かなかった。
「昨日、勝手に大勢の前へ連れていかないって言ったよね」
「連れていってない。いつもの路地で歌うだけだし、来るかどうかは向こうが決めることだから」
「それを、呼んだって言うの」
「呼んではいないよ。歌が見えるかもしれないって、可能性を共有しただけ」
「場所と時間まで書いてある」
「可能性にも場所と時間は必要でしょう」
「予定を書いただけって言った」
「予定でもあり、可能性でもあり、少しだけお知らせでもある」
「告知」
「そこまで強い言葉ではないかなあ」
セラは無言で紙の端をつかんだ。
剥がそうとしたところで、酒場の店主が裏口から顔を出す。
「そのままにしとけ」
「剥がします」
「客が増えるなら、壁くらい貸す。樽洗いの娘が歌うって知ったら、冷やかしも来るだろ」
「冷やかしは客じゃない」
「酒を頼えば客だ」
「歌を聞かない人を集めても意味がない」
「お前に意味がなくても、店にはある」
店主はそれだけ言い、裏口を閉めた。
扉の向こうから、皿の触れ合う音がする。
セラは紙の端をつかんだままだった。
リラは、最初に壁へ貼ったときほど、その文字がよくできているとは思えなくなっていた。
「嫌なら、剥がしていいよ」
「もう見た人がいる」
「それは……そうだけど」
「剥がしたら、逃げたって思われる」
「逃げてもいいって、この前は言ったでしょう」
「あなたに逃げさせられるのは嫌」
セラは紙から手を離した。
そのまま酒場へ戻ろうとする。
リラは背中へ声をかけた。
「ごめん」
セラの足が止まった。
「まだ何も始まってない」
「始める前に聞くべきだった。昨日、分けるって言ったのに。私が聞かせたいことと、セラが聞かせたいこと」
「分かってたなら、どうして貼ったの」
「昨日の歌が、すごくよかったから」
言葉にすると、子どものような理由だった。
「フィンだけじゃなくて、通りかかった人まで残ったでしょう。あれなら、もう少し人が来てもできるって思った。セラも、最後まで歌ったし」
「最後まで歌ったら、大勢の前でも歌いたいことになるの?」
「……ならない」
「私が断ったら、剥がした?」
リラは答えられなかった。
紙を書くとき、セラが断る可能性を考えなかったわけではない。
考えたうえで、実際に人が来れば、きっと歌うだろうと思った。
歌えば伝わる。
伝わればセラも嬉しいはずだ。
また、自分にとって都合のいい順番で、セラの気持ちを作っていた。
「たぶん、すぐには剥がさなかった」
「正直ね」
「今、褒められてないのは分かる」
「分かるようになったんだ」
セラは酒場の中へ戻った。
公演をするとも、しないとも言わなかった。
リラは壁の紙を見上げた。
剥がそうと思えば、まだ剥がせた。
それでも、手は動かなかった。
自分が見たい。
あの歌と光が、人の中で何になるのか確かめたい。
その気持ちを、リラは完全には手放せなかった。
◇
夕刻になると、路地には三十人以上が集まった。
酒場の常連客。
洗濯場の女たち。
近所の子ども。
仕事帰りの職人。
半分は歌を聞きに来たのではなく、酒場の裏で何が始まるのかを見に来ただけだった。
「本当に人が来たね」
リラは自分で呼んだくせに、少し驚いていた。
フィンは路地の入口で母親の手を引き、得意げに周囲へ話している。
「歌が見えるんだよ」
「本当に?」
「前は見えた」
「今日は?」
「見えると思う」
自分の告知とよく似た言い方に、リラは少しだけ胸が痛くなった。
それでも、集まった人間をそのままにはしておけない。
「はい、そこの樽には寄りかからないでください。中身は空だけど、倒れたら普通に痛いです。背の高いお兄さんは二歩後ろへ。前に立つと、子どもたちには歌姫の頭しか見えません」
「お前、いつから仕切る側になった」
酒場の常連らしい男が笑う。
「今からです。初仕事なので、多少の不手際は温かい目で見てください。ただし、危ないところへ立った場合は冷たい声で動かします」
「金は取らないのか」
「今日は無料です」
「次は?」
「評判がよければ考えます」
そこまで口にして、リラは振り返った。
路地の奥で、セラがこちらを見ていた。
いつもの作業着。
いつもの一つ結び。
歌詞を書いた紙も持っていない。
それでも、いつもと同じには見えなかった。
顔色が少し悪い。
指先は服の裾をつかみ、離してはまたつかんでいる。
リラは観客の間を抜けて、セラの隣へ戻った。
「三十二人。フィンのお母さんを入れると三十三人」
「数えなくていい」
「私は数えると落ち着くんだよ」
「私は増えるたびに帰りたくなる」
「帰っていいよ」
セラが横目でリラを見た。
「止めないの」
「止めて歌えるなら、止める。でも、止められたから残ったって思いながら歌うのは嫌でしょう」
「人を呼んだのはあなた」
「うん」
「なのに、帰っていいって言うの」
「それも勝手だよね」
リラは自分を笑うように口元をゆるめ、短く息を吐いた。
「本当は歌ってほしい。私は見たいし、あの人たちにも見せたい。でも、それは私の希望。セラが今、歌えるかどうかとは別」
観客のざわめきが、狭い壁の間で膨らんでいた。
誰かが酒の値段を尋ねている。
子どもが走り、母親に腕を引かれる。
歌を待っている顔よりも、何か面白いことが起きるのを待っている顔の方が多い。
セラの指が、また裾をつかむ。
「人、多い」
「三十三人を一度に見なくていいよ」
「じゃあ、どうするの」
リラは観客の中にいるフィンを指した。
青い帽子の少年が、前列へ座っている。
「最初はフィンだけに歌えばいい。余裕が出たら、その隣。その次は、もう一人。最後までフィン一人でもいい」
「三十三人じゃなくて、一人を三十三回?」
「前に言ったときは意味が分からないって言われたけど、今なら少し使えそうじゃない?」
「今も分からない」
「私も完全には分かってない。でも、フィンはちゃんと聞いてくれる」
セラはフィンを見る。
フィンはセラの視線に気づき、青い帽子を押さえながら大きくうなずいた。
セラの手から、裾が離れる。
「歌う」
「本当に?」
「聞き返さないで。変わるから」
「了解」
リラは笑いそうになる口元を引き締めた。
「それと、嫌になったら途中で止めていい。私の方も、光が邪魔なら止めてって言って」
「歌ってる途中に?」
「顔で言って。三日分は見てきたから、たぶん分かる」
「見すぎ」
「今日は役に立つ予定です」
セラは呆れたように息を吐いた。
ほんの少しだけ、いつもの顔へ戻った。
◇
リラが最初の豆明かりを灯した。
薄暗い路地の奥に、小さな光が一つだけ浮かぶ。
伴奏はない。
酒場のざわめき。
靴が石畳を踏む音。
誰かが喉を鳴らす音。
そのすべてが静まるのを待たずに、セラは歌い始めた。
低い声が、壁の間をまっすぐ進む。
最初の一節で、フィンが身体を前へ傾けた。
母親も、隣で息を潜める。
リラはセラの頬へ一粒だけ光を置き、残りを壁際へ流した。
窓辺の灯。
閉じた扉。
雨に濡れた道。
三日かけて二人で見つけた景色を、少しずつ路地へ置いていく。
セラの声は、最初こそ硬かった。
それでもフィンを見るうちに、いつもの呼吸へ戻っていく。
指が服の裾から離れる。
リラは、いけると思った。
その瞬間、酒場の裏口が開いた。
酔った男が二人、肩を並べて出てくる。
「何だ、始まってるのか」
「樽洗いの娘だろ」
二人は周囲を気にせず話し、片方が大きく笑った。
笑い声が、セラの歌へ重なる。
セラの声が、ほんのわずかに細くなる。
リラは男たちを見た。
黙ってほしかった。
けれど、歌の途中で声をかければ、余計に空気が切れる。
代わりに、光粒子を男たちの近くへ動かした。
こちらに気づけば、静かになると思った。
「お、光だ」
男が手を伸ばす。
「触れそうだぞ」
もう一人が笑う。
近くにいた観客まで、歌ではなく光を見る。
リラは焦った。
セラへ視線を戻したかった。
もっときれいに動かせば、光からセラへつなげられる。
そう考え、光粒子の数を増やした。
路地の壁を駆け上がらせる。
セラの頭上で輪を作る。
光を強くすればするほど、観客の顔が上を向いた。
歓声が上がる。
「すごい」
「もっと出せるのか?」
リラの胸が熱くなった。
見ている。
反応している。
自分の小さな光を、三十人以上が追っている。
灯務局では、光量不足と言われた魔法。
星冠祭の夜空には届かない光。
それが今、全員の視線を動かしている。
成功だと思った。
歌が途切れた。
最初、リラはセラが息を取ったのだと思った。
光を次の位置へ運びながら、続きを待つ。
けれど声は戻らなかった。
セラは、頭上の光ではなくリラを見ていた。
歌っているときよりも、ずっと何も隠していない目だった。
「どうしたの?」
リラは、まだ光を消せずにいた。
「終わり」
「まだ半分だよ」
「あなたの光は、十分見てもらったでしょう」
セラは観客の間を抜けた。
「セラ、待って」
呼びかけても振り返らない。
リラが追おうとしたとき、観客の一人が声を上げた。
「もう終わりか?」
「歌はよく聞こえなかったな」
「でも、光は面白かった」
「次はもっと派手にやってくれよ」
褒められていた。
昨日までなら、欲しかったはずの言葉だった。
けれど、胸の中へ一つも入ってこなかった。
リラは浮かんだ光を見上げた。
きれいだった。
狙ったとおり、全員が見ていた。
その中心に、セラはいなかった。
足元へ光を一つずつ下ろす。
消すたび、路地の暗さが戻ってくる。
最後の豆明かりだけが、指先に残った。
「悪くない失敗だ」
観客の後ろから、低い声がした。
黒い外套を着た老人が立っていた。
白い髪を後ろへ撫でつけ、銀の杖へ両手を重ねている。
最初からいたのか、途中から来たのか、リラには分からなかった。
「悪くない、って何ですか」
普段なら先に名前を尋ねたかもしれない。
今は、言葉の方が先に出た。
「歌っていた人は帰りました」
「見れば分かる」
「客も、歌より光が面白かったって」
「聞こえていた」
「だったら、どこが悪くないんですか」
老人は答えず、セラが立っていた場所まで歩いた。
壁際に残った光が、その靴の近くで消える。
「お前は、話している客を歌へ戻そうとした」
「はい」
「戻らなかった」
「光が足りなかったからです」
「違う」
短く遮られた。
「光は足りていた。むしろ多すぎた」
老人は観客が去っていく路地を見た。
「歌手を見ていない客へ、さらに見るものを与えた。客の目を集めることには成功した。どこへ集めたかを間違えただけだ」
リラは指先の豆明かりを握り込んだ。
「歌手も同じだ。自分を見ていない客を切り捨てた。お前を信じて歌い続けることも、客へ声を届け直すこともせず、自分の歌を守って消えた」
「セラが悪いみたいに言わないでください」
「悪いと言ったか?」
老人の目が、リラへ向く。
「どちらも正しい。お前は客を戻す責任を果たそうとした。歌手は、自分の歌が見世物に変わる前に止めた」
「だったら」
「二人とも、自分が正しいと思った瞬間に、相手を見なくなった」
リラは言葉を失った。
男たちが笑ったとき、セラの声が細くなったことには気づいた。
それでも、光を強くした。
セラを見ていたつもりだった。
実際には、観客が自分の光を見る顔しか見ていなかった。
「何をすればよかったんですか」
「それを私へ聞くのか」
「分からないから聞いてます」
「答えを教えれば、お前は次回、そのとおりに光を動かすだろう」
「駄目ですか」
「歌手が今日と同じ歌を歌うならな」
リラは黙った。
老人の口元が、ごくわずかに動く。
「変わる歌に、決まった正解はない。次に見るべきものだけは、もう分かっているはずだ」
「セラ」
「歌手と、客と、自分だ。どれか一つだけ見れば、また同じことになる」
アルドは、リラの握り込まれた手へ目を落とした。
指の隙間から、最後の豆明かりがかすかに漏れている。
「それで、お前は何を作るつもりだ」
「歌を見えるようにするライブです」
「光を使ったライブなら、すでにある。歌に合わせて光を動かす程度なら、祝祭でも酒場でもやっている」
「そうじゃありません」
リラは手を開いた。
閉じ込められていた豆明かりが、指先の上へ浮かぶ。
小さな光は一つの球にはならず、細かな粒子へほどけながら、夜気の中をゆっくり漂った。
「見せたいのは、光じゃないんです」
「では、何だ」
リラはすぐには答えなかった。
散った光粒子の一つがアルドの袖をかすめ、何もない空間で止まる。誰かの声を待っているように見えた。
「歌を聞いた人が、自分の中に何かを見つけられるようにしたい。私の光は、そのための道だけ作る」
「ずいぶん曖昧だな」
「まだ始めてもいませんから」
「その曖昧なものへ、歌手を誘うのか」
「だから、短い名前が要るんです。説明が長いと、セラは途中で帰りそうなので」
「名前から決めるのか?」
「入口くらいは短くないと」
リラは宙を漂う光の粒を見上げた。
「豆明かりを使うから、豆明かりライブ」
口にしてから、眉を寄せる。
「……弱そうですね」
「事実ではある」
「誘われたくなる名前に変えます」
指を動かすと、散っていた光粒が一度だけ光粒子を纏い同じ方角を向いた。
「豆明かりじゃなくて、光の粒子。歌と一緒に動く光の粒子を使うから――光粒子ライブ」
「ずいぶん立派になったな」
「名前に負けないものを、これから作ります」
「順番が逆だ」
「最初の一歩くらい、名前からでもいいでしょう」
光粒子の一つが、セラの消えた路地の出口へ流れていく。
リラはそれを目で追いながら、声を落とした。
「私の光だけを見せるものにはしません。今日みたいに、セラがいなくなっても続けられるものなら、作る意味がないから」
アルドはしばらく、宙に残った粒子を見ていた。
「あなたは誰ですか」
「ようやく聞いたか」
「失敗した人へ説教して、作るものにまで名前をつけさせたんです。そろそろ名乗る義務があります」
「名前をつけたのはお前だ」
「立ち会った責任です」
老人は銀の杖を石畳へ軽くついた。
「アルド・ヴェイン」
リラの指先から、光粒子が一斉に落ちた。
地面へ着く前に消えていく。
王都最大の祝祭、星冠祭。
音楽連動花火。
王城を覆う巨大幻影。
雷と光で夜空へ描かれる王冠。
そのすべてを統括する、祭典庁の総演出監督。
「本物?」
「偽物に見えるか」
「本物ほど、自分を本物だとは言わない気がして」
「面倒な娘だな」
「よく言われます」
「だろうな」
アルドは、セラが消えた路地の出口を見る。
「明日の夕刻、祭典庁へ来い。歌手も連れて」
「何のために?」
「その光粒子ライブとやらに、今の失敗より先があるか確かめる」
「名前、覚えてくれたんですね」
「一度しか言わん。歌手を連れてこい」
「セラは来ないと思います」
「では、お前は?」
「報酬額によります」
「正直だな」
「灯務局の給料だけで、三十日分の稽古と夕食を両立するのは大変なので」
「観客を無料で三十三人集めた顔をしている」
「三十三人いたこと、数えてたんですか」
「三十二人だと思っていた」
「フィンのお母さんを忘れてます」
アルドは、初めて少しだけ笑った。
「そういうところだ」
「どういうところですか」
「数えるものを間違えるな、ということだ」
アルドはそれ以上説明しなかった。
「明日、夕刻だ」
黒い外套が路地の角を曲がり、見えなくなる。
リラは追わなかった。
今、追う相手は別にいる。




