第一幕「歌が見えた」 第6話 味の見えないスープ
その日の夕食は、リラが作った薄い野菜スープだった。
扉を開けると、ユアンは食卓の椅子に座り、修理途中の革手袋を見ていた。
見知らぬ少女を連れてきた妹へ、一度だけ視線を向ける。
驚きはしなかった。
リラが以前から、歌の人、歌の人と何度も話していたからかもしれない。
「この人が、三日かけて探した歌の人。歌うたびに歌詞を変えて、私の指示を聞かなくて、空腹なのに夕食はいらないと言い張って、結局ここまでついてきた人」
「人には名前がある」
「紹介の後半で言う予定だったのに」
「セラ・アルメリアです」
セラが先に名乗った。
「ユアン。妹が迷惑をかけてる」
「かなり」
「セラ、初対面の兄の前なんだから、少しくらい遠慮してくれてもいいんだよ」
「何を」
「『そんなことありません』とか。『私の方こそお世話になってます』とか」
「思ってない」
「そこは一瞬だけ考えるふりをしてから言ってほしかった」
ユアンが、椅子を一つ引いた。
「座れ」
「兄さん、私には?」
「自分で座れるだろ」
「お客様との差が明確だなあ」
セラは少し迷ったあと、引かれた椅子へ座った。
ユアンは再び革手袋へ目を戻した。
必要以上に話しかけない。
質問もしない。
どこから来たのか、なぜ妹と一緒にいるのかも聞かなかった。
セラは、そういう距離の取られ方に慣れていなかったのか、何度かユアンの横顔を見た。
リラは三人分の椀へスープを注いだ。
底に沈んでいた野菜を公平に分けようとした結果、最後の椀だけ具が多くなった。
「これはお客様用」
セラの前へ置く。
「いらない」
「大丈夫。兄さんの分から取ったんじゃなくて、鍋が勝手に最後へ集めたの」
「混ぜてなかっただけだ」
ユアンが言った。
「鍋の善意だった可能性もあるよ」
「ない」
兄妹の声が重なる。
セラは二人を見比べてから、椀へ口をつけた。
一口飲み、何も言わずに止まる。
そのまま、しばらく椀の中を見つめた。
リラは不安になった。
「どう?」
「味が見えない」
「歌みたいに言わないで。見えないだけで、どこかにはいるはずだから」
「塩は?」
「入れたよ。ひとつまみ」
「どこに?」
「鍋に」
「この鍋?」
「他の鍋に入れる意味はないでしょう」
「なら、迷子になった」
セラの声は真面目だった。
リラは、からかわれているのか判断できず、ユアンを見た。
ユアンは黙ってスープを飲んでいた。
「兄さん、味する?」
「温かい」
「味を聞いてるんだけど」
「野菜が入ってる」
「それは見れば分かるよ」
セラが小さく椀を置いた。
立ち上がり、棚を一度見回す。
「塩、どこ」
「右の上。香草はその隣。使うの?」
「このままだと、野菜がかわいそう」
「さっき気持ちはないって言ったのに」
「味の話」
セラは塩と乾燥香草を取り出し、鍋へ加えた。
昨日の固いパンも見つけ、細かくちぎって落としていく。
「それ、昨日のだから固いよ」
「だから入れるの」
「固いものは煮込む。なるほど」
「あなたは座ってて」
「勉強したい」
「近い」
リラが鍋をのぞき込むと、セラは肘で少しだけ押し戻した。
火を弱め、木べらで底からゆっくり混ぜる。
しばらくすると、先ほどまで湯に近かったスープから、香草と野菜の匂いが立ち上った。
パンが汁を吸い、表面へとろみが出る。
ユアンが鍋の方を一度見た。
「料理できるんだ」
リラが感心して言う。
「酒場で働いてるから」
「店主に床を磨けって言われてるところしか見たことなかった」
「厨房にも入る」
「歌より役に立つ」
セラは、何でもないことのように続けた。
リラが口を開きかける。
それより先に、ユアンが言った。
「役に立つかは、食べる側が決める」
セラが振り向いた。
「歌も?」
「さあ。俺は詳しくない」
「じゃあ、言わないで」
「そうだな」
ユアンはあっさり引いた。
言い返されると思っていたのか、セラはわずかに目を見開いた。
ユアンは何事もなかったように、椀を差し出す。
「もう一杯」
「兄さん、それ私には一度も言わなかったよね」
「言う必要がなかった」
「味がなかったから?」
「量はあった」
「兄妹への評価が厳しい」
セラが鍋からスープをよそう。
ユアンの椀へ、先ほどより少しだけ多く具を入れた。
リラはそれを見たが、何も言わなかった。
三人で食卓を囲む。
セラの手が入ったスープは、きちんと夕食の味がした。
「おいしい」
リラが言う。
「さっきまでのも同じ材料だけど」
「材料が同じでも、順番と量が違うと別のものになるんだね」
「料理では普通」
「歌と光にも使えそうな話だなあ」
「何でも実験にしないで」
「でも今の、かなり大事な気がする。何を入れるかだけじゃなくて、いつ入れるか――」
「食べて」
「はい、先生」
ユアンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
リラはその変化に気づいた。
セラも気づいたらしい。
二人の視線が一瞬だけ重なる。
けれど、どちらもユアンへは何も言わなかった。
指摘したら消えてしまうものがあることを、二人とも知っていた。
食後、リラは兄へ実験を見せようとした。
「せっかくだから、一曲だけどう? 食卓は壊さないし、火も水も使わない。豆明かりだけ。前よりずっと良くなってるんだよ」
「今日は歌わない」
セラが即座に拒否した。
「どうして?」
「食べたから」
「一杯しか食べてないよ。しかも半分以上、あなたが救助したスープでしょう」
「歌うと揺れる」
「何が?」
「全部」
「お腹の中身が?」
「聞かないで」
「歌手には食後何分の休憩が必要か、演出表に――」
「書かないで」
「分かった。私の記憶だけに残します」
「それも消して」
「さっきも言ったけど、その術式はまだ――」
「もう話しかけないで」
「五分だけ静かにする」
「短い」
リラは本当に黙った。
一分ほどで、指先だけが落ち着かなくなった。
二分目には、机の上に残ったパン屑を並べ始める。
三分目、ユアンに見られ、無言で片づけた。
セラは窓辺へ座り、歌詞を書いた紙を膝へ置いていた。
紙は何度も折り畳まれ、角が柔らかくなっている。
書かれた文字の上には何度も線が引かれ、余白へ別の言葉が小さく足されていた。
リラは声を出さず、少しずつ椅子を近づけた。
セラが紙を裏返す。
リラは指を五本立てた。
「五分はまだ」
セラに言われ、三本へ減らす。
少し考え、さらに一本へ減らした。
「交渉しないで」
「今のは声を出してない」
「顔がうるさい」
リラはようやく口を開いた。
「全部じゃなくていい。一行だけ見せて。一行が駄目なら一文字。最初の一文字から残りを想像するから」
「もっと嫌」
「じゃあ題名」
「ない」
「名もない歌?」
「勝手に名づけないで」
「でも記録するとき困るんだよ。『セラが今日歌った、昨日とは違うけど一昨日とは少し似ていて、途中でフィンが帽子を落とした歌』だと長すぎる」
「記録しなければいい」
「それは嫌」
セラが紙を胸元へ引き寄せる。
リラは手を伸ばさなかった。
「忘れたくないから」
さきほどよりも、静かな声になった。
「今日うまくいった光も、昨日と違った言葉も、セラが嫌だと言ったところも。私は忘れると、また同じことをするから」
セラは何も言わなかった。
紙を隠したまま、指先で折り目をなぞっていた。
しばらくして、ユアンが立ち上がる。
「先に寝る」
「おやすみ、兄さん」
「戸締まりしろ」
「分かってる」
ユアンはセラへ一度だけ目を向けた。
「また来ればいい」
セラは返事をしなかった。
ユアンも待たずに寝室へ入り、扉を閉める。
台所は急に静かになった。
窓の外から、馬車の車輪が石畳を通る音が聞こえる。少し離れた家で、雨戸を閉める乾いた音がした。
セラは、閉じた寝室の扉を見た。
「いつも、あんな感じなの」
「今はね」
「前は?」
「もっとしゃべったよ。私が何か失敗すると、呆れるだけじゃなくて、ちゃんと笑った」
リラは空になった椀を重ねた。
「最近は、笑いそうになっても途中でやめる。今夜は少しだけ笑ったけど」
「気づいてたんだ」
「うん」
「言わなかった」
「言ったら消えそうだったから」
セラは膝の上の紙を見た。
「あなたも、そういうこと考えるんだ」
「失礼だなあ。私はいつも考えてるよ。考えた結果を、全部口から出してるだけで」
「全部じゃないでしょう」
リラの手が止まった。
セラはそれ以上続けなかった。
二人は声を落として話した。
最初は、窓の外の馬車について。
次に、酒場の店主が今日も同じ皿を割ったこと。
そこから、どういう流れだったのか、音楽院の話になった。
「一度だけ、入学試験を受けた」
セラが言った。
「王都音楽院?」
「そう」
「歌手になりたかったんだ」
「受けただけ」
「受ける人は、少なくとも受かっても困らない人でしょう」
「困らないとは言ってない」
「じゃあ、受かりたかった?」
セラは答えなかった。
紙の角を親指で何度も撫でている。
リラは追い立てず、空いた椀を拭いた。
「指定曲があった」
しばらくして、セラが続ける。
「昔の歌。別れた相手を笑って送り出す女の歌」
「明るい曲?」
「そういうことになってる」
「セラは、そう思わなかったんだ」
「最初は笑って送り出そうとしてる。でも途中で、できないと分かる」
セラの指が、膝の上で小さく拍を取った。
「楽譜では、最後まで同じ速さだった。あの速さだと、最初から全部受け入れてるみたいに聞こえる」
「だから変えたの?」
「途中から遅くした。別れを受け入れたふりをしてる速さから、本当にいなくなると分かる速さに」
リラは、並んだ審査員の前で、指定された拍から外れていくセラを想像した。
一人だけ違う時間の中に立っていたのだろう。
「止められた?」
「途中で」
「止まった?」
「歌い終わってから」
リラは思わず笑いかけた。
けれど、セラの顔を見て、その笑いを飲み込んだ。
「試験で、理由も言ったの?」
「聞かれたから」
「どう言った?」
「この女は、そんなに早く別れを受け入れられないと思います、って」
「それは強いなあ」
リラは少し考えた。
「私なら、『曲の新しい可能性を試しました』とか、『伝統的な解釈を尊重しつつ、現代的な感情を加えました』とか、審査員が怒りにくい言い方を探すかも」
「思ってないことを言うの」
「必要ならね。でも、言ったあとで自分が少し嫌になる」
「なら言わなければいい」
「セラは、言わない方を選んだんだ」
「落ちた」
短い言葉だった。
それまでとは違い、笑って受け流す余地のない声だった。
リラは布巾を置いた。
「悔しかった?」
「別に」
セラは紙を握った。
角の柔らかくなった紙が、指の間で小さく歪む。
「二度と受けない。公の舞台にも興味はない。酒場で働けるし、歌うなら路地で十分」
「そっか」
リラはすぐには否定しなかった。
セラが意外そうに目を上げる。
「何」
「今、何も言ってないよ」
「言いたそう」
「少しだけ」
「言わないで」
「うん」
リラは頷いた。
それから、少し間を置く。
「ただ、右手が歌詞の紙を破りそうだから。紙だけは助けてあげて」
セラは自分の手を見た。
力を緩めると、紙の角へ指の跡が残っていた。
「人を見るの、やめて」
「努力はしてる」
「してない」
「見るのをやめるんじゃなくて、見つけても勝手に決めない努力」
「同じ」
「私にはかなり違うんだよ」
リラはセラの手元ではなく、窓の外を見た。
「私が『本当は悔しいんでしょう』って決めるのは違う。でも、紙を握ってることに気づいたら、破らない方がいいって言うことはできる」
「嫌われるよ」
「もう嫌ってる?」
「かなり」
「よかった」
セラが眉を寄せる。
「何が」
「まだここにいるから」
リラはいつもの笑い方をしたが、声は少しだけ静かだった。
「本当に嫌なら、スープを直したあとすぐ帰ってたでしょう。歌詞の紙を出す必要もなかったし、音楽院の話もしなくてよかった」
「食べた直後だったから」
「食休みが長い歌姫だなあ」
「そういうところが嫌」
「一つ増えたね」
セラは呆れたように息を吐いた。
けれど、帰ろうとはしなかった。
夜がさらに深くなったころ、セラはようやく立ち上がった。
紙を折り畳み、胸元へしまいかける。
その手が途中で止まった。
折り目を一度開き、もう一度閉じる。
リラは見ていたが、急かさなかった。
やがてセラは、紙を一枚だけ差し出した。
「明日まで」
リラは、それが何なのか分かっているのに、すぐには受け取れなかった。
「これ、今日の歌詞?」
「光を考えるのに必要なんでしょう」
「見せてくれるの?」
「明日まで」
「うん」
リラは両手で受け取った。
冗談を言えば、セラが取り返すような気がした。
だから、最初の言葉は短くなった。
「ありがとう」
セラが少しだけ目を逸らした。
リラは紙を開きかけて、やめた。
「今、読んでもいい?」
「帰ってから」
「分かった」
「人に見せないで」
「見せない」
「汚さないで」
「汚さない」
「スープの近くに置かないで」
「それは絶対に守る。今日のスープは一度、味を失ってるから信用できない」
セラの肩がほんの少しだけ下がった。
リラは紙を鞄の奥へしまおうとした。
「待って」
セラが手を伸ばす。
紙を取り返されるのかと思い、リラは動きを止めた。
セラは紙の端だけを引き戻し、一節を指でなぞった。
「この行」
「うん」
「光を上へ逃がさないで」
「また、上で引っかかる音?」
「今度は違う」
セラの指が、書かれた文字の上をゆっくり進む。
「窓の外へ行きたい。でも、手だけが内側へ残ってる」
リラは、すぐに答えなかった。
意味を当てるよりも、セラが何を見ているのか考える。
「外へ行きたい気持ちと、ここに残りたい気持ちが一緒にある?」
「残りたいんじゃない」
セラは首を振った。
「離せないだけ」
「似てるけど、違うんだね」
「違う」
「分かった」
リラは指先へ豆明かりを灯した。
「光は、窓の外まで飛ばさない。縁までは行くけど、一粒だけ内側へ残す。誰かの指に引っかかって、先へ行けないみたいに」
セラがわずかにうなずいた。
「セラの説明、音楽を知らない私にも分かる。音楽院の先生が聞いたら、音に手はありませんって怒りそうだけど」
「あなたが分かればいい」
「うん」
リラは笑わずに答えた。
「私は分かる」
豆明かりから一粒をほどき、セラの指先へ寄せる。
光に触れることはできない。
それでもセラが指を動かすと、光はほんの少し遅れて、そのあとを追った。
セラは空中へ、窓を描くように指を動かす。
上へ。
横へ。
下へ。
最後の辺を閉じる直前で、指を止めた。
光も、閉じきらない角へ留まる。
「ここから、外が見える」
リラは、不完全な四角を見つめた。
「閉じてないのに、窓なの?」
「歌だから」
「そっか」
リラは残りの光粒子を、その四角の周囲へ静かに置いた。
輪郭が見える程度に壁を照らす。
一粒だけは、セラの指の内側へ残した。
外へ出ようとしながら、離せないものに引かれている光。
リラが勝手に景色を決めるのではない。
セラがどこを見ているのか。
何を外へ出したくて、何を手放せずにいるのか。
それを聞き、違えば直してもらいながら、二人で光の置き場所を探す。
リラはその夜初めて、自分が見せたい景色ではなく、セラが見ている景色の中へ入れてもらった。
光を消すと、台所は元の暗さへ戻った。
セラは紙から手を離し、戸口へ向かう。
「明日までだから」
「分かってる。破らないし、濡らさないし、折り目も増やさない。寝床の横に置いて――」
「怖い」
「大事にするって意味だよ」
「汚したら殺す」
「命より大事にする」
「それも嫌」
「じゃあ、命と同じくらい」
「重い」
「適切な重さが難しいなあ。もう少し軽く扱うべき?」
「普通にして」
「一番難しい注文だ」
セラは扉を開けた。
外へ出る直前、振り返る。
「スープ」
「何?」
「明日は、最初から塩を入れて」
「入れたんだけどなあ」
「もう少し」
「分かった。先生の指導に従います」
「あと、パンは先にちぎっておいて」
「明日も来るの?」
リラが聞くと、セラは一瞬黙った。
「歌詞を返してもらうから」
「なるほど。それなら仕方ないね」
リラは、それ以上笑わなかった。
「おやすみ、セラ」
「……おやすみ」
扉が閉まる。
足音が遠ざかってから、リラは食卓へ戻った。
鞄から紙を取り出し、両手で丁寧に開く。
書き直された言葉の間に、迷った跡がいくつも残っていた。
消された文字。
書き足された言葉。
何度も強くなぞられ、紙が少しへこんでいる行。
きれいな完成品ではなかった。
セラが迷い、選び直し、それでも捨てられなかったものが、そのまま残っている紙だった。
歌詞のいちばん下には、小さな字が一行だけ増えていた。
――灯を持つ人がいないなら、私が灯になればいい。
リラは、しばらくその行を見つめた。
それから指先へ豆明かりを灯す。
一粒だけほどき、文字の上へそっと置いた。
紙の上の光は、相変わらず小さい。
部屋全体を照らすこともできない。
夜を追い払うほど明るくもない。
けれど、セラが初めて預けてくれた言葉の上では、その小ささが悪いものには思えなかった。
窓を閉じる前に、リラは台所を振り返った。
空になった椀が三つ。
セラが使った木べら。
半分だけ残った固いパン。
明日も来るとは言わなかった少女のために、次は最初から塩を入れておかなければならない。
リラは少しだけ笑った。
豆明かりを消し、歌詞の紙を丁寧に折る。
その夜、光はいつもより大きくならなかった。
それでもリラには、今までより少しだけ、遠くへ届いたように見えた。




