第一幕「歌が見えた」 第5話 空腹の低音
実験は、いつの間にか日課になった。
約束をした覚えはない。
リラは灯務局の仕事が終わると、白墨と演出表を鞄へ入れ、指先に残っている魔力を確かめてから、酒場裏の路地へ向かった。
最初のころは、着くたびにセラを探した。
樽を洗っている日もあれば、裏口の脇で空き瓶を仕分けている日もある。店主に呼び戻され、床を磨いている背中だけが見えることもあった。
四日目からは、探す必要がなくなった。
酒場裏へ回ると、リラが座るための古い布が、いつも同じ樽の上へ畳んで置かれていたからだ。
「これ、誰が置いてるんだろうね」
リラが毎回尋ねても、セラは答えなかった。
「店の邪魔だっただけ」
「昨日も一昨日も、私が座る場所だけ都合よく邪魔じゃなくなってるんだけど」
「偶然」
「この路地、ずいぶん気の利く偶然が住んでるなあ」
「座らないなら片づける」
「座ります。大事に座ります」
リラが布を広げるころには、セラも仕事用の前掛けを外していた。
二人は歌い、光を動かし、失敗した。
そして、失敗するたびに言い合った。
「今のところ、もう少しだけゆっくりできない?」
リラは膝の上の紙へ短い線を引いた。
「歌詞が聞こえたと思ったら、もう次の言葉へ行ってる。セラには扉が見えてても、初めて聞く人は、扉を探してる間に置いていかれるよ」
「嫌」
「即答する前に、せめて私がお願いした長さくらいは考えて。ほんの半拍。息を吸って、壁に光が届いて、それから次へ行く。それだけで、未来の三千人が助かります」
「今いるのは、フィンだけ」
少し離れた樽の上で、フィンが青い帽子を押さえながら二人を見ていた。
今日は母親が酒場へ用事に入っており、それを待つ間だけという約束で座っている。
「今は一人でも、いつか三千人になるかもしれないでしょう」
リラは紙を持ったまま、フィンへ視線を向けた。
「未来の三千人を大事にするのと、今いる一人を置いていかないのは、たぶん同じことだよ」
「勝手に増やさないで」
「じゃあ、二千九百九十九人」
「一人しか減ってない」
「大幅な譲歩です。これ以上は交渉担当を通してください」
「誰」
「私」
「本人と交渉してる」
「では、交渉は決裂ということで」
リラは紙に何かを書き込んだ。
セラが横から見る。
「何」
「本日の決定事項。歌い手は半拍待つことを拒否。演出家は三千人を二千九百九十九人まで減らしたものの、合意に至らず」
「書かなくていい」
「最後に、『ただしフィンは最後まで聞いていた』も入れておく」
名前を呼ばれたフィンが、よく分からないまま背筋を伸ばした。
「聞いてた」
「えらい」
リラが親指を立てると、フィンも真似をした。
セラは二人を見比べ、諦めたように息を吐いた。
それでも次に同じ歌詞へ来たとき、ほんの少しだけ間を置いた。
リラは何も言わなかった。
代わりに、壁へ置いた光を一粒だけゆっくり明るくした。
セラも、リラが気づいたことを指摘しなかった。
そうやって二人は、相手の言うことを半分だけ無視し、残りの半分を次の日まで覚えていた。
リラの演出表には、セラが変えた箇所が増えていった。
歌詞変更。
呼吸変更。
旋律変更。
指示無視。
その下へ、小さく書き加える。
――次回もたぶん無視。
セラに見つかると、無言で線を引かれた。
リラは、その横へさらに小さく書いた。
――本人に否定されたが、おそらく無視。
「紙がもったいない」
「必要な記録だよ。今日のセラが、昨日のセラとどこが違ったか忘れないための」
「忘れていい」
「私は嫌だな」
軽く言ったつもりだった。
けれどセラは、その返事にだけ何も返さなかった。
うまく重なる日は少なかった。
それでも、一度だけ、二人とも声を失うほどきれいに合う瞬間がある。
セラが言葉を伸ばす。
リラの光が、声に引かれたように壁を離れる。
歌が先だったのか、光が行き先を作ったのか、終わってしまえば二人にも分からない。
分からないことが、悔しかった。
同時に、少しうれしかった。
翌日も同じことが起きるかもしれないと思うと、灯務局の仕事を終える足が自然と速くなった。
セラの方も、リラが遅い日は酒場裏へ何度か目を向けるようになった。
もっとも、本人は認めなかった。
「待ってた?」
「仕事が終わっただけ」
「今日は私が来る前から布が敷いてある」
「風で落ちた」
「きれいに広がった状態で?」
「この路地の風は器用なの」
「偶然の次は、働き者の風か。ここは人材が豊富だね」
セラは答えず、リラの指先を見た。
「今日は何粒」
「最初は三十。昨日より少なめ。増やすと一粒ずつ薄くなるから、歌の顔が見えなくならない数から始める」
「まだ出してないのに分かる?」
「指先にいる感じで。強すぎる心配はないけど、薄くしすぎると本人たちが迷子になるからね」
リラがそう言うと、セラは一度だけ、その指先を見た。
同情するような目ではなかった。
ただ、使えるかどうかを確かめる目だった。
その視線を、リラは嫌いではなかった。
ある夜、セラの腹が、歌よりもよく通る音を立てた。
声が途切れ、路地へ沈黙が落ちる。
リラの光粒子も、一斉に動きを止めた。
セラは何もなかったように続きを歌おうとした。
「待って」
「何」
「今の低音、思ったより響いた。壁の反射もきれいだったし、路地の奥まで届いてた」
「忘れて」
「雷術師を呼ばなくても、迫力のある低音が作れるかもしれない」
「使ったら二度と歌わない」
「惜しいなあ。毎回同じタイミングで出せるなら、演出表に――」
「出せない」
「では偶発的効果として」
「残さないで」
リラは演出表を閉じた。
「分かった。記録には残しません」
「記憶からも消して」
「その術式はまだ習ってない」
「今すぐ覚えて」
「新魔法を発明するより、夕食の方が早そうだね」
「いらない」
セラは即答した。
その直後、腹がもう一度、小さく鳴った。
リラは何も言わずに立ち上がった。
「帰るよ」
「私は酒場の二階」
「知ってる。でも今日は、そっちじゃない方」
「行かない」
「無理に歌わせるのは駄目だと学んだけど、空腹の人を夕食へ連れていくのは、まだ禁止されてない」
「されてる」
「誰に?」
「私に」
「本人の判断能力が空腹で低下している可能性があります。第三者の確認が必要です」
「誰」
「うちの兄」
「帰る」
セラが酒場の裏口へ向かおうとする。
リラは服をつかまなかった。
ただ、先に路地の出口へ歩きながら言った。
「今日のスープ、一人では食べきれないんだよね。兄も帰りが遅いし、明日に残すと野菜が沈んで悲しそうになるし」
「野菜は悲しまない」
「セラの歌には扉も灯も気持ちがあるのに、私の野菜にはないの?」
「ない」
「ひどい差別だ」
しばらくして、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、セラが少し離れてついてきていた。
「野菜のためじゃないから」
「分かってる。私の料理が心配なんでしょう」
「もっと違う」




