第一幕「歌が見えた」 第4話 布と半分の焼き菓子
翌日、リラが酒場裏へ行くと、前日に借りた布が同じ樽の上へ畳んで置かれていた。
その隣には、座る場所を塞いでいた小さな木箱が移動されている。
「これ、セラが片づけた?」
「店の邪魔だったから」
「私が座る場所だけ、きれいに邪魔じゃなくなってる」
「気のせい」
「そっか。では気のせいに座らせてもらいます」
リラは何も追及せず、布を広げた。
その翌日には、リラの方が小さな包みを持ってきた。
「何」
「焼き菓子。初日に食べ損ねたから」
「いらない」
「一個しかないよ」
「なら、自分で食べれば」
「半分に割れば二人分になる。魔法を使わなくても物は増やせるという実演です」
「量は減ってる」
「見方の問題だよ」
結局、セラは小さい方を取った。
リラは大きい方を渡そうとしたが、セラは受け取らなかった。
そうして二人は、翌日も、その翌日も路地へ集まった。
セラは一回だけという約束を忘れたふりをし、リラは忘れていることを指摘しなかった。
言えば、本当に終わりそうだった。
歌には、必ず戻ってくる短い旋律があった。
けれど、そこへ至るまでの言葉と道筋は毎日変わった。
昨日まで待っていた人が、今日はもう帰ってこなくていいと思われている。昨日は大切に守られていた灯が、今日は腹立たしげに吹き消される。
リラが「同じところをもう一度」と頼むたび、セラは「同じ気持ちには戻れない」と答えた。
闇術師も、火術師も、幻影術師もいない。
それでも、セラの顔を淡い光が照らし、その周囲を光粒子が巡る。壁へ見えない窓を描き、石畳へ歌の行き先を作るだけで、狭い路地は二人の舞台になった。
派手ではない。
十人も集まれば、後ろからは光粒子が見えなくなる。遠くへ飛ばせば、光はすぐに薄れる。
それでも二人だけで、歌い手を照らし、その周囲へ歌から生まれた景色を添えることはできた。
リラは歌を固定しようとする代わりに、セラを見るようになった。
息を吸う直前、左の肩が少し上がる。
怒っている歌では、指が服の裾をつかむ。
悲しい言葉ほど、声はかえってまっすぐになる。
セラも、リラの光を見るようになった。
光が早すぎれば、歌いながらわずかに眉を寄せる。
近ければ、ほんの少しだけそこへ声を預ける。
合わない日は、最後まで一度も褒めない。
それでも翌日になると、樽の上にはリラのための布が置いてあった。
三日目、最初の観客が現れた。
「歌が見えた」と言った男の子、フィンだった。
青い帽子をかぶり、母親の手を引きながら路地の入口へやって来る。リラを見つけると、母親の手を離して駆け寄った。
「また見せて」
セラは露骨に嫌そうな顔をしたが、帰れとは言わなかった。
「見るんじゃなくて、聞くの」
「光も見る」
「欲張り」
「いいと思う。耳と目を両方使ってくれるなら、こっちも準備した甲斐があるってもんですなあ」
「あなたには聞いてない」
「私は光の人なので、光への要望だけ受け付けます。色、動き、増量についてはお気軽にご相談ください」
「増やせるの?」
フィンが期待に目を輝かせる。
「少しなら。ただし増やすと一個ずつ薄くなる。パンをみんなで分けるのと同じ」
「パンじゃなくて星がいい」
「では本日から星ということにします」
セラが小さく息を吐いた。
「昨日まで埃だったのに」
「お客様の声を反映しました」
フィンは母親の隣へ座った。
セラは歌い始める前、青い帽子の位置を一度だけ見た。
その日の歌は、途中で旋律が変わった。
リラが合図を見失い、光が遅れる。
セラは歌を止めず、直前の一節をもう一度繰り返した。
リラは咄嗟に、遠ざける予定だった光を一つずつ手前へ戻した。
離れていった灯が、迷いながら帰ってくる。
そんな動きに見えた。
フィンが息をのむ。
通りかかった洗濯場の女たちも、濡れた籠を抱えたまま足を止める。
酒場の裏口が一度開いたが、皿を持った男は音を立てずに扉を閉じた。
歌が終わったとき、路地には十人ほどの人間がいた。
拍手はまばらだった。
それでも、誰もすぐには動かなかった。
静かな余韻の中で、フィンが立ち上がる。
「最後、戻ってきたね」
「何が?」
セラが尋ねる。
「おうちの灯」
セラは答えなかった。
けれど、走ってきたせいで青い帽子がずれているのに気づくと、しゃがんで位置を直してやった。
フィンは帽子を押さえながら、嬉しそうにセラを見上げる。
「明日も歌う?」
「分からない」
「じゃあ、明日も来る」
「人の話を聞いて」
「聞きながら見る」
セラは困ったように眉を寄せた。
その顔を見て、リラは笑いそうになったが、声には出さなかった。
母親が何度も頭を下げ、観客たちは少しずつ散っていく。
「今の、もう一回やろう」
全員が立ち去るより早く、リラは紙を開いた。
「最後のところ。セラが同じ一節を繰り返して、私が遠ざけた光を戻す。今度は最初から少し間隔を空ければ、もっと帰ってくる感じが出せる。歌も、最後の言葉をほんの少し長くして――」
「できない」
「光は合わせられるよ。歌をさっきと同じようにしてくれれば、今度は外さない」
「同じようには歌えないって言った」
「でも、すごくよかった。フィンだけじゃなくて、みんな足を止めた。歌が終わっても、すぐには帰らなかった」
「よかったからって、同じ気持ちには戻れない」
リラは口を開いたまま、言葉に詰まった。
セラは壁へ背を向け、ほどけかけた髪を結び直そうとした。
けれど、指に力が入りすぎているのか、紐がうまく輪にならない。髪をまとめたところで石畳へ落ち、拾い上げた直後には、押さえていた髪が肩へこぼれた。
リラは足元へ転がった紐を拾う。
「貸して。今のセラに任せてたら、髪を結ぶより先に紐の方が逃げ出しそう」
「自分でできる」
「普段ならね。でも今日は二回落として、三回目を落とさないことに集中してる間に、髪の方を全部逃がしてる。本人の名誉を守るためにも、ここからは別の人間に任せた方がいいと思います」
「何の名誉」
「一人で髪も結べない人だと、私に誤解されないための名誉」
「もう誤解してる」
「だから今から訂正するの。セラは髪を結べる。ただ今日は、ちょっと手が言うことを聞かないだけ」
セラは紐を取り返そうと手を伸ばした。
リラは逃げずに、その手のひらへ紐を戻しかける。
「本当に自分でやるなら返す。でも、私が触るのが嫌じゃないなら、今は任せて」
セラは差し出された紐を見た。
少し迷ってから、伸ばしていた手を下ろす。
「……早くして」
「承りました」
リラはセラの後ろへ立ち、肩へこぼれた灰色の髪を両手で集めた。
見た目より柔らかい。
近づくと、酒場の洗剤とは違う、淡い石鹸の匂いがした。細い髪が指へ絡むたび、引っ張らないよう慎重にほどく。
セラは、触られることに慣れていないのか、最初のうちは肩へ力を入れていた。
リラが何も言わずにいると、少しずつその力が抜けていく。
「私の歌、完成してないの」
セラが前を向いたまま言った。
互いの顔が見えない方が、話しやすいこともあるのだろう。
リラは手を止めなかった。
「歌詞も、言葉を置く場所も、歌うたびに変わる。戻ってくる旋律はあるけど、そこまでの道は毎回違う。今日うまくいったところを、明日も同じようには歌えない」
「うん」
リラは髪を束ねながら、少し考えた。
「三日しか聞いてない私にも、それは分かった。昨日は帰りたい歌だったのに、今日は帰ってきてほしくない歌だった。高い音だから光を上げたら、そこじゃないって顔もされたし」
「顔では言ってない」
「セラは顔に出ない分、歌に全部出るから」
紐を一度回し、髪が引かれていないか確かめる。
「同じ言葉でも、毎日違うんだね。毎回、同じ場所から出発するのに、違うところを通って帰ってくる」
「だから、人に聞かせるための曲じゃない」
「私は、そうは思わなかった」
セラの肩がわずかに固くなる。
リラはすぐに続きを言わず、髪を引かないよう指を緩めた。
「昨日と同じ歌にならないなら、私も昨日と同じ光を出さなければいい。覚えた形をそのまま重ねるから外すんだよ。もっと息とか、指とか、今どこを見てるかを見れば、その日の歌に合わせられるかもしれない」
「次もやるつもりなの」
「私は、やりたい」
今度は、先ほどのように勢いだけで続けなかった。
「今日だって、最初はフィンしかいなかったのに、最後には通りかかった人まで止まってたでしょう。光が珍しかっただけの人もいると思う。でも、歌が終わったあとも動かずに、何か考えてる人がいた。あれを、もう少しちゃんと作れたらって思う」
言葉にするほど、直したい場所が浮かんでくる。
「路地だと後ろの人には光が見えにくいし、裏口が開くたびに音が途切れる。セラがどこで歌を変えるかも、私はまだ全然分からない。でも、そこを一つずつ確かめていけば、今よりもっと――」
「私は?」
短い声に、リラの指が止まった。
「え?」
「あなたがやりたいことは分かった。通りかかった人に見せたいことも」
セラは振り返らない。
「私がどうしたいかは、聞かないの」
リラは、指の間にある灰色の髪を見つめた。
歌を見えるようにしたい。
もっと多くの人に聞かせたい。
自分の小さな光で、どこまでできるのか確かめたい。
自分の中には、言いたいことがいくらでもあった。
けれど、そのどれにも、セラ自身の望みは入っていなかった。
「……聞いてなかった」
「そう」
「歌を作って、人のいないところで歌ってるんだから、本当は誰かに聞いてほしいんだろうって思ってた」
言いながら、それがどれほど都合のいい考えだったかに気づく。
「違うね。セラがそう思ってるんじゃなくて、私がそうであってほしかっただけだ」
リラは結びかけた髪を落とさないよう、ゆっくり紐を締めた。
「ごめん。聞かないまま、セラの行き先まで私が決めようとしてた」
髪を結び終えても、すぐには手を離さなかった。
結び目がきつすぎないことを確かめてから、一歩下がる。
「セラは、あの歌をどうしたい?」
しばらく返事はなかった。
セラは結ばれた髪へ触れ、形を確かめる。
「分からない」
「そっか」
「聞いてほしいのかもしれない。でも、聞かれたくないのかもしれない。歌ってるときは、そんなこと考えてない」
「うん」
「ただ、勝手に大勢の前へ連れていかれるのは嫌」
「分かった」
リラは一度うなずいた。
「私が聞かせたいと思ってることと、セラが聞かせたいと思ってることは、別にする。混ぜないようにする」
「できるの」
「自信はない。私はすぐ先に走るから」
少し考え、リラは自分の袖をつまんだ。
「だから、また勝手に走ったら、ここを引っ張って。言葉で止まらなかったときだけ」
「引っ張らない」
「そこは止めてくれる流れじゃない?」
「自分で止まって」
「努力します」
セラが呆れたように息を吐く。
リラはその横顔を見てから、今度は冗談へ逃げずに続けた。
「それでも、私の希望を言っていいなら、私は聞かせたい」
セラがわずかに振り向く。
「どうして」
「あなたが歌うと、今まで見えなかったものが見えるから」
リラは、先ほどまでフィンが座っていた場所を見る。
「フィンは、歌の中に灯を見た。今日ここにいた人たちも、通り過ぎないで最後まで残った。それに、うちの兄も、ほんの少しだけ光を見た」
「あなたのお兄さん?」
「北辺の防衛任務から帰ってきてから、何を見てもあまり反応しないの。食事もするし、仕事にも行くし、話せば返事もする。でも、前みたいには笑わない」
以前なら、焦げたパンを出しただけでも笑われた。
リラが言い訳を重ねれば、余計に笑った。
今は、焦げた部分を黙って削り、何も言わずに食べる。
「治したいとか、元に戻したいとかじゃないよ。そういう言い方をすると、今の兄が駄目みたいに聞こえるから」
リラは自分の指先を見た。
「ただ、私の光を目で追ったの。ほんの一瞬だけ、何かを見ようとした。それが嬉しかった」
声に出したことで、思っていたよりも嬉しかったのだと、自分でも初めて分かった。
「歌と光には、そういうことができるのかもしれないって思った。だから、私はもう一度やってみたい。でも、そのためにセラを勝手に連れていきたいわけじゃない」
セラは黙っていた。
風にあおられ、結ばれた髪の先が二人の間で揺れる。
「あなたは?」
「私?」
「誰かに見てほしいもの、ないの」
リラは一度だけ瞬いた。
その問いを考えるより早く、いつもの笑顔が出た。
「私は裏方。見てもらうのはセラで、私はちゃんと働いて、終わったあとに誰にも気づかれず帰る係」
答えは滑らかだった。
何度も自分へ言い聞かせてきた言葉のように。
セラはしばらくリラを見ていた。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
ただ、リラが結んだ髪へもう一度触れる。
「悪くない」
リラは少しだけ肩の力を抜いた。
「髪結いに転職できるかな。灯務局より給料が高いなら、かなり真剣に考える」
「魔法より向いてる」
「そこは否定してよ。せめて同じくらいって言って」
「髪の方が上」
「私の豆明かり、今日かなり頑張ったんだけどなあ。十人も足を止めたし、迷子の灯を家に帰したし、歌姫にも少しくらい褒められる予定だった」
「予定は変わるんでしょう」
リラは目を丸くした。
少し前に自分が言ったことを、セラが覚えていた。
「それ、私の言葉を使った?」
「違う」
「使ったよね」
「使ってない」
「じゃあ、偶然同じことを思いついたんだ。私たち、思ってたより相性がいいのかもしれない」
「よくない」
「返事が早いなあ」
セラの口元が、かすかに上がった。
リラは、それを見つけた。
いつもなら、何秒続いたのか、どの言葉で笑ったのか、次も同じ反応を引き出せるのかを考えていたかもしれない。
けれど今は、何も言わなかった。
見つけたことさえ気づかれないように、足元の紙を拾い上げる。
「帰ろうか」
「あなたの家は反対」
「途中まで一緒でいいでしょう。今日は髪結い代ももらってないし」
「払わない」
「では、煮込みの匂いだけ持ち帰ります」
セラは先に歩き出した。
リラが紙と白墨を鞄へ押し込み、慌ててあとを追う。
路地を出たところで、セラはほんの少しだけ歩みを緩めた。
リラが隣へ並ぶのを待ったのだとは、最後まで言わなかった。




