第一幕「歌が見えた」 第3話 昨日と違う歌
最初の実験場所は、酒場裏の細い路地になった。
セラが仕事を終えるころには日が傾いており、そこから別の場所へ移動する気はない、と言ったからだ。
「広場までなら十五分だよ。急げば十二分。途中に焼き菓子の店もある」
「行かない」
「歌う場所を決める会話に、焼き菓子を混ぜても駄目か」
「あなたが食べたいだけでしょう」
「半分は。でも残りの半分は、歌い手の機嫌をよくするための必要経費です」
「いらない」
「そう言うと思って、まだ買ってない。私は無駄遣いをしない女なので」
結局、酒場から十歩も離れていない路地が、その日の舞台になった。
左右を古い石壁に挟まれ、片側には空の酒樽が三つ積まれている。日が落ちれば街灯の光もほとんど届かない。酒場の裏口が開くたび、皿の音と一緒に煮込みの匂いが流れてきた。
リラは路地の中央で一度回り、両手を腰に当てた。
「舞台としては最悪だね。狭い、暗い、樽が邪魔。おまけに歌の途中で煮込みの匂いが来る。お腹が鳴ったら、一番大事な場面を全部持っていかれる」
「帰る?」
「まさか。最高だよ」
セラが怪訝そうに見る。
「最悪ってことは、直せるところがいっぱいあるってことでしょう。最初から立派な劇場を渡されたら、私のすることがなくなる」
「座って見ていればいい」
「それは観客の仕事。私はもう少し、落ち着きのない仕事がしたい」
リラは壁と壁の距離を歩幅で測り、石畳へ白墨で印をつけた。
路地の入口から入ってきた人間は、どこでセラに気づくのか。立ち止まるなら、酒樽の前か、裏口の脇か。日が落ちたあと、遠くの街灯がセラの顔へ余計な影を落とさないか。
歩いては戻り、しゃがんでは立つ。
石畳の傾きを確かめるために手をついたところで、酒場の裏口が開いた。流れてきた湯気がリラの顔を包む。
「これは強敵だなあ」
「煮込みが?」
「すごくいい匂い。歌の内容によっては、故郷の夕食に全部持っていかれる」
「お腹が空いてるだけでしょう」
「それも演出上の重大な問題です。空腹の演出家は、何を見ても食べ物に見える」
樽に腰かけていたセラが、わずかに場所をずらした。
「そこ、濡れてる」
「え?」
リラが見下ろすと、しゃがもうとしていた石畳に細い水の筋があった。裏口から流された洗い水らしい。
「危なかった。初日に尻もちをつくところだった」
「先に見れば分かる」
「セラが見ててくれたから大丈夫だった。役割分担が早くも成立してるね」
「してない」
そう言いながらも、セラは空いた樽の上へ置いていた布を取り、リラが座れそうな場所へ放った。
リラは布とセラを交互に見た。
「これは?」
「石畳に座るんでしょう」
「私のために?」
「汚れた服で近くに立たれると困るから」
「なるほど。あくまで自分のためだね」
「そう」
「では、お言葉に甘えて」
リラは布を踏まないよう丁寧に広げ、その上にはまだ座らず、もう一度路地を往復した。
セラがしばらく黙って見ていたが、やがて口を開く。
「あなた、いつもそんなに動くの」
「止まると考えすぎるから。じっとしてると、できない理由が十個くらい見つかるでしょう。だから一個目を見つける前に動いて、出てきた順に踏みつぶすの」
「考えてから動けば」
「それだと一日が短すぎるよ。それに、考えて正解が出るなら、三日もセラを探してない」
「探し方が悪い」
「七人に聞いたし、途中で洗濯物も三枚干した」
「一枚も人探しに役立ってない」
「洗濯場の人には役立ったよ。人助けと人探しを同時に進めたんだから、むしろ効率的です」
「それで見つけるのが遅れたんでしょう」
「結果としては、三枚の洗濯物がきれいになって、私はセラを見つけた。誰も損してない」
「あなたが三日損してる」
「でも見つけたから、最後に全部取り返した」
言ってから、リラは豆明かりを一つ灯した。
指先に生まれた小さな光の縁をそっと崩す。三十ほどの光粒子がほどけ、薄暗い路地へ浮かんだ。
半分をセラの周囲へ置き、残りを壁と石畳へ散らす。
すべてを思いどおりに動かせるのは十二歩ほどの範囲しかない。数を増やすほど、一粒ずつの光も淡くなる。
それでも暗い路地なら、歌い手の顔を照らしながら、その周囲へ小さな景色を作ることはできた。
セラが、浮かんだ光粒の一つへ指を近づける。
触れる寸前、光は逃げるように横へ滑った。
「逃げた」
「触ると散るからね。臆病なんです、うちの光」
「あなたに似てない」
「ひどい。私は傷つきやすいだけで、逃げ足はそんなに速くないよ」
「傷ついた顔に見えない」
「そういうところも似た者同士かもしれない」
セラは答えず、光から手を離した。
逃げた光粒が、しばらく迷うように揺れたあと、再びセラの指先へ戻ってくる。
その動きを見て、セラの目がほんの少し細くなった。
「今の、わざと?」
「半分は。残り半分は、私も戻ってくると思ってなかった」
「自分の魔法でしょう」
「だからって、全部言うことを聞くわけじゃないよ。私だって自分のことを全部分かってないし」
リラは先ほどの布へ腰を下ろした。
「じゃあ、歌って」
「命令しないで」
「歌ってください、セラ様。こちら、光る埃一式をご用意してお待ちしております」
「もっと嫌」
「埃が駄目だった? では星屑に変更します」
「名前の問題じゃない」
「難しいなあ。普通に頼んでも駄目、丁寧に頼んでも駄目、商品名をつけても駄目」
リラは膝を抱え、壁へ背を預けた。
「じゃあ、私はここで待ってる。歌いたくなったら、好きなところからどうぞ。最初の一音を当てる遊びだと思って」
「遊んでない」
「私はだいたい、遊びながら本気だよ」
セラは長いため息をついた。
そのまま歌わないのかと思ったが、リラは急かさなかった。
酒場の裏口が一度開き、空の皿を重ねる音がした。誰かが店内からセラを呼んだが、セラは短く「あとで」と返す。
静かになってからも、すぐには声が出なかった。
リラは浮かべていた光を一つずつ地面へ下ろした。セラの顔を照らす一粒だけを残し、残りは眠るように暗くする。
やがて、伴奏のない低い声が路地へ落ちた。
あの夜と同じ歌――ではなかった。
窓辺の灯は出てきた。
けれど、帰れない道は歌われなかった。
代わりに現れたのは、雨に濡れた靴と、何度叩いても誰にも開けてもらえない扉だった。
リラは戸惑いながら光を動かす。
扉に見立てた壁へ一粒。
濡れた靴の代わりに、セラの足元へ二粒。
頬の斜め前へ置いた光は動かさない。表情まで光に埋もれさせないように、少しだけ距離を取った。
声が高くなる直前、セラの肩がわずかに持ち上がる。
リラは、その一拍前に光を上げた。
「早い」
歌が止まった。
「え。でも、あの夜はここで上がったでしょう。窓辺の灯が出て、そのあと声が高くなって、光も一緒に――」
「昨日は昨日」
「三日前だけど」
「どっちでもいい」
「私にはよくないよ。歌詞も違うし、音の長さも違うし、知らない扉までく増えてる。聞いてない変更が多すぎる」
「今日は、帰り道のことを考えてないから」
リラは膝の上の紙へ目を落とした。
「歌って、その日の気分で中身が変わるの?」
「人の気持ちは、昨日の楽譜どおりじゃない」
リラの手が止まる。
それから、紙へ急いで文字を書きつけた。
「今の、いい」
「歌詞にしないで」
「大丈夫。名言の欄だから」
「そんな欄を作らないで」
「じゃあ注意事項にする。『セラの気持ちは昨日の楽譜どおりではありません。光担当者は、勝手に先回りしないこと』」
「破って」
「まだ一行しか書いてないのに」
「破って」
セラが手を伸ばす。
リラは紙を胸へ抱え、石畳の上を尻で少し後退した。
「待って。今後の安全な公演に必要な記録です」
「公演なんてしない」
「今してるでしょう」
「これは実験」
「では、安全な実験に必要な記録です」
「貸して」
「嫌です」
セラがもう一歩近づく。
リラは立ち上がろうとして、借りた布へ足を取られた。転びかけたところを、セラが腕をつかむ。
二人とも動きを止めた。
リラは自分の腕を支えている手を見る。
「今の、記録していい?」
「何を」
「歌い手が演出家の転倒を防いだ。共同制作の最初の成果」
セラはすぐに手を離した。
「消して」
「まだ書いてないよ」
リラが笑うと、セラは呆れた顔で元の位置へ戻った。
けれど紙を奪おうとはしなくなった。
再び歌が始まる。
リラは合わせようとして、何度も遅れた。
伸ばすと思った声が途中で切れ、低く落ちると思った場所で、逆に高く跳ねる。
「上げないで」
「今の、高い音だったよね。高くなったから光も上げたんだけど」
「高いけど、上へ行く音じゃない」
「高いのに、上へ行かない?」
「戻りたいのに戻れなくて、上で引っかかってる」
リラは光を止めた。
「……音に、方向があるの?」
「私にはある」
「もっと早く言ってよ。私は高さしか見てなかった。上がったら上、下がったら下って、ずっと素直に働いてたのに」
「聞かなかった」
「初対面の人に『あなたの歌には方向がありますか』なんて聞かないよ。少なくとも私は、今日まで歌に道があることも知らなかったんだから」
リラは紙の端へ新しい項目を書き足した。
「次から質問表に入れる」
「次がある前提なの」
「一回で終わるなら、質問表はいらないでしょう」
セラは何か言い返そうとして、やめた。
その沈黙を拒絶とは受け取らず、リラは光を動かした。
粒を上へ持ち上げず、セラの肩の高さで小さく震わせる。
次の音で、一粒だけを後ろへ戻した。
進もうとして、それでも戻ってしまったような動きだった。
セラの視線が光を追う。
「今のは近い」
初めて、セラの方からそう言った。
リラは思わず顔を上げた。
「悲しい?」
「違う」
「怒ってる?」
「それも少し違う」
「じゃあ、悔しい?」
セラはしばらく考えた。
「悔しい。でも、怒鳴るほど元気じゃない」
「悔しいのに怒る力もなくて、それでも何か言いたくて歌ってる感じ?」
「言葉にすると長い」
「だから歌ってる?」
「そう」
リラは少し笑った。
「なるほど。歌の方が短いんだ」
紙へ書こうとして、セラの視線に気づく。
リラは何も書いていない紙面を手で隠した。
「書いてないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔で言った」
「顔には出ないんでしょう」
「少しずつ分かるようになってきた」
「気持ち悪い」
「三日前よりは褒め言葉に聞こえるなあ」
それでも時々、二人の感覚がぴたりと重なる瞬間があった。
セラが扉の向こうの灯を歌ったとき、リラは壁際へ置いた光を、消えそうなほど小さく震わせた。
セラの目が一瞬だけそこへ動く。
光を見たあとの声は、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「今、見たね」
「何を」
「私の光」
「壁を見ただけ」
「最初に壁を見て、次に光がまだあるか確かめた。右目が二回動いた」
「見すぎ」
「歌ってる人を見ないと、また先回りして怒られるから」
「限度がある」
「じゃあ、ばれないように見る練習も必要だね」
「そういう問題じゃない」
その日は、それ以上うまく合わなかった。
それでも、別れるときにセラは「明日は来ないで」と言わなかった。
リラも「明日も来る」とは言わなかった。




