第一幕「歌が見えた」 第2話 豆明かりの行方
歌声の主は、その夜には見つからなかった。
路地の奥には共同洗濯場と、古い集合住宅と、半年前に閉店した仕立屋があるだけだった。窓から顔を出した老人には「若い娘の声なら毎晩どこかで聞こえる」と言われ、洗濯場の女には「歌を探す暇があるなら、干すのを手伝え」と濡れた布を押しつけられた。
リラは布を三枚干し、歌い手の特徴を七人に聞き、違う酒場へ二度案内された。
家へ帰ったのは、夜の鐘が十一回鳴ったあとだった。
「遅かったな」
台所では、兄のユアンが一人で夕食を食べていた。
豆の煮込みは冷め、パンの端が乾いている。リラの分は鍋に残されていた。
「ちょっと、探し物をしてまして」
「また役所の部品を落としたのか」
「失礼な。私だって毎日毎日、役所の備品を道端に撒いて歩いてるわけじゃないよ。今日は人」
「役所へ届けろ」
「人は届けないよ。たぶん。本人が希望したら、窓口くらいは調べるけど」
「何の窓口だ」
「迷い人係?」
「そんな係はない」
「じゃあ明日作ろう」
ユアンは返事の代わりに、左脚を伸ばした。
膝から下に巻いた革帯が、歩くたびに古傷を支えている。かつて王立魔導防衛隊の北辺部隊にいた兄は、二年前、魔物災害の救助任務で負った傷を抱えて帰ってきた。歩けないわけではない。今は倉庫庁の記録係として働いている。
ただ、以前のようには笑わなくなった。
昔の兄なら「人を落としたのか」と、もう二つくらいくだらない冗談を重ねただろう。
「今日ね、ちょっとすごいものを見たの」
リラは向かいの椅子へ座り、指先に豆明かりを一つ灯した。
「お前がそう言うと、だいたい役所の仕事が増える」
「今回は増えません。たぶん。今のところは」
「すでに怪しい」
「まだ報告書を書く段階じゃないから大丈夫」
「書く段階が来るのか」
「そこは今後の調査次第です」
リラが光の縁をほどくと、二十ほどの光粒が食卓へこぼれた。
光粒はスープの湯気を縁取り、乾いたパンの上を小さな行列になって進み、最後に兄のコップの周囲へ輪を作った。
ユアンがパンをちぎる手を止める。
「歌に合わせて、こうやって動かしたの。正確には、考えて動かしたというより、勝手に指がついていった感じなんだけど」
「勝手に動く指は医務院へ持っていけ」
「健康です。たぶん歌にだけ反応します」
「余計に診てもらえ」
「それでね、路地にいた子どもが泣くのをやめたの。光を見て、それから歌ってる人を見て――『歌が見えた』って」
「灯務局の魔力を私用に使うなよ」
「自分の魔力です。灯務局の灯核も術式も使ってません。路上で光魔法を使った記録も記入済み。あなたの妹は、思いつきで妙なことを始めても、書類だけは残す女です」
「聞いてないのに言い訳が長い」
「役所勤めの家系だからね」
「俺を巻き込むな」
リラは光粒の一つを兄のコップの横へ移した。
残りは、歌の代わりにリラが鼻歌を口ずさむたび、湯気の周囲でゆっくり明滅させる。
低い音では、光粒を食卓近くへ沈めた。
音を少し上げると、一粒ずつ持ち上げる。
あの路地には閉ざされた窓があった。ここにはない。代わりに、棚の上の空き瓶を淡く縁取った。
ユアンは目で追った。
ほんの一瞬だけだったが、リラは見逃さなかった。
「きれいじゃない?」
「煮込みが冷める」
「もう十分冷めてるよ。私が帰るまで待ってた人が、今さら料理の温度を心配しても遅いでしょう」
「待ってない。お前が遅かっただけだ」
「私の分を鍋に残して、自分も温め直さずに食べてたのに?」
「偶然だ」
「へえ。偶然、二人分を作って、偶然、私の分を残して、偶然、自分まで冷たい夕食を食べてたんだ。今夜はずいぶん偶然が働き者だね」
「早く温めろ」
「火は使えない」
「竈を使え」
「光なら出せます。部屋の雰囲気は暖かくできます。実温度については保証対象外です」
ユアンの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったとは言えない程度の変化だった。
指摘すれば消えそうで、リラは何も言わなかった。
さっきまで続いていた言葉も、そこで途切れた。
ただ、その一瞬を、もう少し長くしたいと思った。
兄を治したいわけではない。
笑えと要求するのは、兄を責めることに似ている。
それでも、何にも興味がない顔をしていた人が、光を目で追った。
歌と光には、何かがある。
翌朝から、リラは仕事の前後に南区を歩いた。
灯務局で街灯を調整しながら、耳は人の声を探した。パン屋の鼻歌、酒場の酔客、洗濯女たちの掛け声。似た声が聞こえるたびに振り向き、違うと分かって肩を落とす。
三日目、共同洗濯場の女が根負けした。
「セラのことじゃないかね」
「セラ?」
「セラ・アルメリア。酒場で樽を洗ってる子。仕事中に歌うと手が止まるから困るんだよ」
「本人の手が?」
「聞いてるこっちの手が」
褒めているのか叱っているのか分からない口調だった。
教えられた酒場へ行くと、裏口で樽を洗う少女がいた。
濃い灰色の髪を乱雑に一つへ結び、袖を肘までまくっている。華やかな歌手の衣装とはほど遠い。指には洗剤で荒れた跡があり、片方の靴紐は途中で切れ、別の紐を継ぎ足してあった。
リラが声をかける前に、少女は顔も上げずに言った。
「借金取りなら店主へ。私は一銅貨も持ってない」
「違うよ。歌を探してるの。三日前、この辺りで歌ってた人。窓辺の灯とか、帰れない道とか歌って、途中で急にいなくなった、ものすごく探しにくい人」
少女がようやく顔を上げた。
薄い琥珀色の目だった。眠そうに見えるのに、こちらを値踏みする視線だけは鋭い。
「もっと面倒なのが来た」
「セラ・アルメリア?」
「人違い」
「今、自分で返事したよね」
「返事じゃない。嫌な予感がしただけ」
「当たり。たぶん人生で上位に入る面倒を持ってきた。まだ中身を聞いてないから、順位はこれから上がるかもしれないけど」
セラは樽を洗う手を止めた。
「帰って」
「まだ用件を言ってない」
「言わなくても面倒なのは分かる」
「すごい。まだ何も話してないのに、私が面倒だってところだけ正解した」
「褒めてない」
「知ってる。話を聞いてもらうために、褒められたことにしただけ」
「何の話?」
リラは路地で聞いた歌詞を、覚えている限り口にした。
窓辺の灯。帰れない道。名前を呼ばなくなった人。
セラの顔から、わずかに表情が消えた。
「どこで聞いたの」
「三日前。あなたが歌ってたでしょう」
「聞かせるつもりじゃなかった」
「でも聞こえた」
「忘れて」
セラは樽へ向き直った。
リラは指先へ小さな光を灯す。
「あなたの歌に合わせて、これを動かしたの」
豆明かりの縁をほどくと、二十を超える光粒子が夕方の空気へ浮かんだ。
そのうちの数粒をセラの斜め前へ置く。顔の輪郭と、伏せた目元がかすかに見える程度の光だった。
残りは樽の周囲と、背後の壁へ散らした。光粒はまだ動かず、淡い星のように浮いている。
「私の光、一つ一つは蛍より暗いし、広場を照らすなんて絶対に無理。でも、全部を明るくする必要はないでしょう。歌ってるあなたの顔が少し見えるくらいに光を置いて、残った分で壁とか窓とか、歌の周りを動かすの」
リラは一粒をセラの肩の近くへ寄せ、別の粒で背後の壁に四角い窓の輪郭を作った。
「あなたが歌って、私がその周りへ少しだけ景色を足す。大きな舞台にはならないけど、路地一つくらいなら、歌の中に変えられると思う」
「光る埃」
「言い方。せめて星屑」
「埃の方が近い」
「じゃあ、世界一きれいな埃にする。歌ってる人の顔も見えて、後ろの埃まできれいなら、だいぶお得でしょう」
「何がお得なの」
「見た人の気持ちが」
「子どもは光れば何でも喜ぶ」
「違うよ」
リラの声から、少しだけ軽さが消えた。
「その子は、光がきれいだって言ったんじゃない。『歌が見えた』って言ったの」
樽を洗う手が止まった。
水が桶の縁からこぼれ、靴の先を濡らした。
「その子、何歳くらい?」
「五つか六つ。青い帽子で、お母さんと一緒」
「……フィンかも」
「知ってるの?」
「近所の子。酒場の前をよく通るから、顔と名前を知ってるだけ」
「じゃあ、フィンはあなたのことを?」
「たぶん知らない。暗かったし、歌ってたのが私だとも気づいてないと思う」
「なるほど。だから何も教えてくれなかったのか」
セラはそれ以上話さず、樽を力任せにこすった。
リラは少し待った。
待つことは苦手だったので、三呼吸で諦めた。
「もう一度、歌って」
「嫌」
「どうして?」
「歌ったところで何になるの」
「まだ分からない」
セラが振り向いた。
「分からないのに、頼んでるの?」
「分からないから、一緒に試したいんだよ。歌が見えたのが偶然なのか、もう一度できるのか、あなたの歌じゃないと駄目なのか。分かってたら、三日も歩き回って、初対面の人に嫌な顔をされながら頼んでない」
「演出家?」
「灯務局の見習い」
「音楽家?」
「音符は、上がるか下がるかくらいなら分かる。たまに横へ行くように見えるけど、たぶん気のせい」
「大きさの話なら、あまり期待しないでね。細かさの話なら、少しくらい期待していいけど」
リラは指先の光を一回りだけ大きくした。
豆粒が、小さな林檎になった程度だった。
セラは光とリラの顔を見比べた。口元が、ほんの少しだけ動く。
「今、笑った?」
「その大きさで舞台を作るって言うから、呆れただけ」
「じゃあ、半分は成功だね」
「何が?」
「小さな光でも、あなたの顔を少し動かせた。次は歌と一緒に、もう少しちゃんと笑わせる」
「勝手に目標にしないで」
計画など何もなかった。
会場も、観客も、許可もない。リラが持っているのは、小さな光と、三日前に見た子どもの笑顔だけだった。
「あなたの歌を、見えるようにしたい」
セラはしばらく黙った。
水の音だけが続いた。
「一回だけ」
「え?」
「仕事が終わったあと。一回だけ歌う。それで満足して」
「うん。一回だけ。そこで全部分かったら、きれいに帰る。分からなかったら二回目をお願いするし、面白かったら、あなたの方から三回目を言ってくれてもいいよ」
「今のうちに全部断る」
「じゃあ一回目で、二回目を断れなくなるくらい面白くしないとね」
セラは心底面倒そうな顔をした。
その顔が、リラには少しだけ楽しそうに見えた。




