第一幕「歌が見えた」 第1話 歌が見えた
王都ヴァレリアでは、魔法は特別なものではない。
夜明け前、パン屋は火魔法で窯を起こす。井戸番は水魔法で水路を満たし、土魔法使いは夜の間に割れた石畳を直す。河岸では風魔法使いが商船の帆を膨らませ、病院の窓には光魔法の治療灯がともる。
北の国境では、同じ火が魔物の群れを追い払い、同じ風が警報を運び、同じ土が避難する人々を守る壁になる。
魔法は人を守るための力であり、働くための技術であり、暮らしを少し便利にする道具だった。
祭りの日には、娯楽にも使われる。
楽団の演奏に合わせて花火が上がり、王城の壁に巨大な幻影が映る。星冠祭の前夜には、雷魔法使いが夜空へ白い稲妻を走らせ、その軌跡を光魔法使いが王冠の形へ結ぶ。その巨大な王冠の全景を結ぶのは、王宮光術団が受け継ぐ正統派の光術だった。光だけで夜空へ完成された景色を作る技は素直に美しかったが、リラには自分の豆明かりとの差までよく見えた。
何千人もの観客が、同時に顔を上げる。
誰もが魔法を見て、歓声を上げる。
そんな王都で、光魔法の価値は、どれだけ広く、どれだけ明るく照らせるかで測られていた。
その物差しにかければ、リラ・オルフェンの光は、あまりにも小さかった。
「三番灯、光量が落ちてる。リラ、芯を合わせて」
「はいはーい。今日も小さい方が得する仕事ですね」
灯務局の灰色の制服を着たリラは、大通りの街灯に掛けた梯子の上で背伸びをした。
指先に生まれた光の核は、豆電球ほどだった。夜空を裂く光線にも、広場を昼のように照らす照明にもならない。
ただ、その縁をそっとほどくと、光は細かな光の粒子へ分かれた。
一つ、二つ、十、二十。
増やすほど一粒は淡くなる。総量は、どれほど分けても豆明かり一つ分のまま。十数歩も離せば輪郭を失い、昼間にはほとんど見えない。
それでも、街灯の灯具内部にある髪の毛より細い導線へ潜らせたり、複雑な光路を光粒子でなぞったりするには、大出力の光より都合がよかった。
「右の導線、二本ずれてます。光粒子を入れますね」
「もう少し右。行きすぎ。半分戻して」
「髪の毛一本分?」
「二本」
「注文が細かいなあ」
街灯の灯核は、決められた明るさを保つだけの小さな蓄魔部品で、術師の出力や技術を増やすものではない。リラは点検窓から三粒の光を灯具の中へ送り込んだ。半透明の灯核の周囲で、光粒子が小魚のように曲がる。ずれていた導線へ一粒ずつ光を置くと、街灯が安定して灯った。
「直りました。お代は笑顔で結構です」
「給金を受け取る人間が言う台詞じゃない。次、五番」
褒められはしなかった。壊れていたものが、壊れていない状態へ戻っただけだ。
梯子を下りる途中、通りの向こうで歓声が起きた。
祭典広場では、星冠祭に向けた大花火の試験が始まっていた。楽団の太鼓に合わせ、赤、青、金の火球が夜空へ弧を描く。最後に雷魔法使いが空を走らせた白い稲妻へ、巨大な光の王冠が重なった。大きな白い冠の下には、消えきらない青い火球が一つ残っている。あれを半拍早く落とせば、王冠がもっと明るく見えるのに――そう思ってから、豆明かりしか使えない自分が何を批評しているのかと、リラは小さく笑った。
夕暮れが、一瞬だけ真昼になる。
「すごいねえ」
梯子を支えていた先輩のマルタが、口を開けたまま言った。
「あれが光魔法ってものだよ。お前のは、まあ、故障を直すには便利だけど」
「街灯が全部王冠になったら、寝られませんからね」
「口だけは大出力だ」
マルタが笑う。リラも笑った。
胸の奥に残った小さな痛みは、笑ってしまえば見えなくなる。
仕事を終え、工具箱を抱えて南区へ戻る途中だった。
大通りから一本外れた路地で、歌が聞こえた。
伴奏はない。
音楽院で褒められるような整った歌でもなかった。低い音は少しかすれ、高い音へ上がる前には息を吸う音が聞こえる。拍子も、遠くの祭典広場から流れてくる行進曲とは合っていない。
それなのに、リラは足を止めた。
――誰かを待っている歌だ。
歌詞をすべて聞き取れたわけではない。
窓辺の灯。帰れない道。名前を呼ばなくなった人。それでも消せなかった、小さな明かり。
そんな断片が、胸の中に景色を作った。
閉ざされた窓が一つある。その向こうで、帰るはずのない誰かを待っている少女がいる。
リラには、その少女の顔まで見えそうだった。
思わず、指先に豆明かりを灯す。
歌が低く沈むと、光の縁がふるえた。
リラは核から一粒をほどき、石畳へ落とした。もう一粒を壁際へ。三つ目を、閉ざされた二階の窓へ向ける。
歌声が上がる。
光粒も上がる。
息が止まる。
光も宙で止まる。
「……あれ」
考えて動かしているのに、考えるより先に指が歌を追っていた。
豆明かりの核を歌い手の斜め前へ置き、伏せた顔が見える程度に淡く照らした。残りの粒は路地の壁へ奥行きを作り、窓の縁をなぞり、声の周りへ見えない景色を置いていく。
明るくしすぎれば、閉ざされた窓も、そこで待つ少女の気配も消えてしまう気がした。リラは歌い手の表情を見失わないぎりぎりの光だけを残した。
灰色の髪と、伏せた横顔が、夜の中へ一瞬だけ浮かぶ。
少女は歌い続けた。
光を嫌がるでもなく、驚くでもなく、ほんの少しだけ目で追った。
やがて、歌声の向こうで続いていた子どもの泣き声が止んだ。
路地の端で母親の袖を握っていた幼い男の子が、涙の残る目で、歌い手の周りを流れる光粒子を追っている。
最後の一粒が窓辺へ届くと、男の子は口を開けた。
「歌が見えた」
リラの指が止まる。
息をするのを忘れていた。
もう一度聞かなければならない気がした。聞き間違いでは困る。
「今、なんて?」
「お歌が、光になった」
光が落ちる。
歌も途中で途切れた。
路地の奥に人影が揺れ、すぐに消えた。
男の子は残念そうに口を尖らせる。
「もう一回、見たい」
遠くで、星冠祭の試験花火が上がった。
王都中を照らすほど大きな光だった。
けれど、リラが見つめていたのは、何もなくなった暗い路地だった。
魔法で人を驚かせることは、昔からできた。
歌を魔法で飾る演出も、祝祭では珍しくない。
けれど、あの子は花火を見て笑ったのではない。
光の中に、歌を見たのだ。
リラは自分の指先を見た。
豆明かりしか作れない、その指を。
胸の奥が落ち着かなかった。うれしいのとも、悔しいのとも違う。
ただ、このまま帰ってはいけない気がした。
「よし」
リラは工具箱を抱え直した。
「見つけよう。今の歌の人」
「どこにいるの?」
男の子が、暗くなった路地の奥をのぞき込む。
「それをこれから探すの」
「名前は?」
「それも分からない」
男の子は少し考えてから、青い帽子を押さえた。
「じゃあ、見つけて。また見せて」
「任せて。人探しは初めてだけど、たぶん光探しと似たようなものだから」
「似てる?」
「今から確かめる」
男の子は、もう一度あの歌が見られると信じるように、青い帽子を押さえて大きくうなずいた。




