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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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第一幕「歌が見えた」 第10話 帰る場所

 部屋を出ると、長い廊下の向こうから歌声が聞こえた。


 揺れのない、よく磨かれた声だった。


 窓辺に、灰色の学院服を着た少女が立っている。


 手には譜面。


 足先で一定の拍を刻み、一音もぶらさず指定曲を歌っていた。


 セラの足が、ほんの少しだけ遅くなる。


 リラは気づいたが、何も言わなかった。


 少女は一節を最後まで歌い、譜面を閉じた。


「セラ・アルメリア」


 名前を呼ばれ、セラが足を止める。


「知ってるの」


「入学試験を見ていました」


 少女は窓辺から離れ、二人へ向き直った。


「マリエ・セルヴァです」


「私はリラ・オルフェン」


「知っています。昨日、酒場の壁へ妙な告知を貼った人でしょう」


「祭典庁まで届いてるんだ」


「音楽院では、変わった失敗の話はすぐ広がります」


「成功より早い?」


「ずっと早いです」


「厳しい世界だなあ」


 マリエはリラの軽口へは反応せず、セラを見る。


「あなたが試験で拍を変えたところ、私は好きでした」


 セラの目が細くなる。


「落とされたところ?」


「私は審査員ではありません」


「同じ学院服」


「八年着ています」


 マリエの指が、譜面の端へ食い込む。


「八年、伴奏者を置いていかない歌い方を学びました。歌手が迷ったときに支える和音も、呼吸が崩れたときに戻せる拍も。毎日、同じ小節を何十回も繰り返しました」


 声は穏やかだった。


 けれど、握られた譜面だけが、穏やかではなかった。


「あなたは一度の試験で、全部を外した」


「悪かったね」


「悪いとは言っていません」


 マリエは少しだけ息を吸った。


「それでも、私が八年かけても見つけられなかった景色を見せた。だから好きでした。悔しいくらい」


 セラはすぐに返さなかった。


 褒められることより、その悔しさの方を受け取ったようだった。


「歌詞の女が、あの速さで別れを受け入れると思えなかった」


「私も思いません」


 マリエは譜面を開いた。


 指定曲の小節が、細かな書き込みで埋まっている。


 歌詞の横には呼吸、和音、拍の変化が記されていた。


「でも、歌を変えるなら、一緒に演奏する人へ知らせてください」


「歌手が伴奏へ合わせろってこと?」


「違います」


 即答だった。


 マリエは何も書かれていない小節を指で示した。


「行き先を決めるのは歌手です。けれど、急に曲がるなら、曲がり角があると伝えてほしい」


「伝えたら、自由じゃなくなる」


「全部を決めろとは言っていません」


 マリエの指が、譜面の最初へ戻る。


「最初の和音。必ず戻ってくる四行。終わる前の呼吸。それだけでもいい」


「帰る場所だけ?」


「そうです」


 マリエはセラの目を見る。


「行き先を決めろとは言っていません。どこへ行っても、奏者があなたを見失わないように、帰ってこられる場所を渡してほしい」


 セラは譜面へ目を落とした。


 リラも隣から見る。


「それがあれば、途中で歌詞が変わってもついていける?」


「全員が上手ければ」


「難しい条件がついた」


「簡単だとは言っていません」


 マリエはリラへ視線を向けた。


「光も同じでは?」


「今のところ、かなり置いていかれてます」


「なら、歌手だけの問題ではありませんね」


「そう言ってもらえると助かります。私だけ毎日怒られてるので」


「当然の箇所も多いと思います」


「初対面なのに厳しい」


「昨日の公演を見ました」


 リラの笑顔が一瞬止まる。


「いたの?」


「後ろに」


「気づかなかった」


「客を見すぎたのに?」


 マリエの言葉は静かだった。


 リラは返せなかった。


「すみません」


 マリエは少しだけ視線を下げた。


「責めたいわけではありません。ただ、歌を聞いている人もいました。光が増えても、セラを見ていた人が」


 セラが顔を上げる。


「誰」


「私です」


 マリエは譜面を胸へ戻した。


「だから、途中で止まったことが悔しかった」


「私が?」


「私がです。あなたが最後まで歌わなかったことへ腹が立った。でも、歌を置いていった演出にも腹が立った。客席で、何もできなかった自分にも」


 リラは、マリエを見る目を変えた。


 ただ批評しているのではない。


 この少女も、あの場へ参加したかったのだ。


 けれど、自分からはまだ言わない。


「あなたの歌は?」


 セラが尋ねた。


 マリエの指が譜面の端を押さえる。


「まだ、ありません」


「八年も歌ってるのに?」


「八年、誰かの歌を正しく歌う方法を学びました」


 声が少しだけ低くなった。


「自分の歌を作る方法は、習っていません」


 セラは何も言わなかった。


 マリエはその沈黙を拒絶とは取らず、続ける。


「星冠祭、客席から聞きます」


「出ないの」


「学院の合唱枠には出ます」


「じゃあ客席にはいない」


「自分の出番が終わったら行きます」


 マリエは少しだけ顎を上げた。


「私がまだ持っていない歌を、今度こそ最後まで聞きます」


「客として?」


「今は」


 その二文字に、リラは何か引っかかった。


 尋ねようとしたが、マリエは再び窓辺へ戻った。


 譜面を開き、一定の拍を刻み始める。


 先ほどと同じ指定曲。


 けれど今度は、別れを歌う最後の一節だけが、ほんのわずかに遅くなった。


 セラが足を止める。


 マリエは譜面から顔を上げない。


 それでも、その変化は明らかだった。


「今、変えた」


 セラが言う。


 歌が終わってから、マリエは答えた。


「気のせいです」


「遅くした」


「一拍の中です」


「変えたでしょう」


「あなたほどではありません」


 マリエは譜面を閉じた。


 口元に、ごく小さな笑みがある。


「でも、最後の女は、少しだけ別れたくなかったのかもしれません」


 セラの目がわずかに見開かれる。


 マリエは今度こそ踵を返し、廊下の向こうへ歩いていった。


     ◇


 祭典庁の長い廊下を進みながら、セラは何度か後ろを振り返った。


「気になる?」


「別に」


「今の『別に』は、気になる方だね」


「勝手に分類しないで」


「三日分の観察結果です」


「昨日、見すぎたって怒られたでしょう」


「だから、決めつけずに質問しました」


「進歩が小さい」


「豆明かりと同じで、少しずつです」


 二人は窓際で立ち止まった。


 眼下に祭典広場が広がっている。


 三千人を収容する広場。


 舞台はまだ骨組みだけだが、それでも路地とは比べものにならないほど大きい。


 作業員が地面を歩いている。


 あまりに遠く、指先ほどの大きさに見えた。


「三千人」


 セラが呟く。


「うん」


「さっきから、三千人がずっと増えてる気がする」


「数は同じだよ」


「広場を見る前と、意味が違う」


 セラの呼吸が少しだけ浅くなっている。


 リラはそれを見た。


 けれど、怖いのかとは聞かなかった。


 代わりに、窓の下へ視線を落とす。


「私の光、舞台の端まで届かないなあ」


「今さら?」


「分かってはいたけど、実物を見ると想像より広い。豆明かりを三十個に分けたら、前列の子ども一人を照らして終わるかもしれない」


「三千人に見せるって言ったのはあなた」


「うん。昨日の私は、この窓から見たことがなかったからね」


「やめる?」


 リラはすぐには答えなかった。


 広場を見つめる。


 火も使えない。


 水も出せない。


 幻影も作れない。


 雷のように一瞬で全員を振り向かせることもできない。


「一人では、何もできない」


 口にすると、不思議と落ち着いた。


「だから、仲間を集めよう」


 セラが横を見る。


「何人」


「分からない。歌の中に必要なだけ」


「一番危険な答え」


「最初に人数を決めたら、その人数でできることしか考えなくなるでしょう。セラの歌に火が必要なら火の人。消さなきゃ見えないものがあるなら闇の人。形を残したいなら水か幻影。時間をそろえたいなら雷」


「音楽は?」


 リラは、マリエが消えた廊下を見る。


「必要だと思う」


「伴奏をつけたら、私の歌じゃなくなる」


「さっきの話だと、帰る場所だけなら作れるかもしれない」


「あなた、もう誘う気でしょう」


「まだ決めてないよ」


「顔が決めてる」


「私、顔に出る方だったんだ」


「全部出てる」


「セラに言われると説得力があるなあ」


 セラは窓の外へ視線を戻した。


「勝手に誘わないで」


「うん」


「私にも先に聞いて」


「うん」


「すぐ走らないで」


「そこだけは、できる限り努力します」


「できないんだ」


「足は遅いけど、気持ちが先に走るからね」


 セラは呆れたように息を吐いた。


 けれど、少しだけ笑っていた。


 リラも広場を見た。


 小さな光では、広すぎる。


 二人だけでは、足りない。


 それは絶望というより、これから会える人間の数を示しているように思えた。


「始まりっぽいね」


「何が」


「足りないものが多すぎるところ」


「あなたは、それを喜ぶんだ」


「全部そろってたら、私たちが来る必要なかったでしょう」


 リラは旧兵站庫の鍵を掌で握った。


 重く、冷たい。


 けれど昨日まで、二人には路地しかなかった。


「まず、場所を見に行こう。誘う相手を決めるのは、そのあと。セラにも全部聞く」


「本当に?」


「昨日と今日で、かなり学びました」


「二日で忘れそう」


「そのときは袖を引いて」


「引かない」


「では、口で止めてください」


「最初から止まりなさい」


 セラは先に歩き出した。


 リラはその背中を追いかけ、二歩進んだところで、走らずに歩幅を緩めた。


 セラも振り返らないまま、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。


 二人は並んで、長い廊下を進んだ。

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