第一幕「歌が見えた」 第11話 闇から始める舞台を編集
旧兵站庫は、舞台と呼ぶには広すぎ、倉庫と呼ぶには壊れすぎていた。
天井は、見上げると首が痛くなるほど高い。
錆びた鉄の梁が何本も渡され、割れた窓から昼の光が斜めに差し込んでいる。かつて防衛隊の救援物資が積まれていた床には、荷車の車輪が削った深い溝が残っていた。
壁際には木箱が積まれている。誰が、いつ置いたのかも分からない。半分ほどは蓋が外れ、中には古い藁と錆びた留め具しか残っていなかった。
リラは入口から三歩進んだところで足を止め、倉庫全体を見回した。
「無料で貸してくれる理由が、入った瞬間に分かるね」
靴先で床を軽く叩く。
乾いた音が倉庫の奥へ走り、高い天井と壁の間を巡った。しばらくしてから、遠くで誰かが叩き返したような音が戻ってくる。
セラが錆びた梁を見上げた。
「壊れない?」
「アルドさんの書類には、舞台として使用可能って書いてあったよ。梁の下で大人数が跳びはねなければ、たぶん」
「たぶん?」
「役所の書類に『絶対』はなかった」
セラが入口へ半歩戻る。
「待って。悪いところだけじゃないよ。広いし、明るいし、屋根もある。路地よりずっと立派。少なくとも、歌の途中で煮込みの匂いはしない」
「今、褒めてる?」
「褒めるところを探してる。もう少し時間をくれたら、あと二つくらい見つけられるかもしれない」
「帰る」
「まだ一音も歌ってないでしょう」
セラは帰らなかった。
倉庫の中央まで歩き、足元の溝を避けて立つ。短く息を吸い、空間の大きさを測るように、一音だけ声を出した。
伴奏のない声が、高い天井へ昇っていく。
梁と壁へぶつかりながら遠ざかり、三秒ほどしてから、形を崩して戻ってきた。
セラの眉が寄る。
今度は短い旋律を歌った。
二つ目の音へ移ったところで、最初の音が遅れて重なる。歌っている本人とは別の場所から、少し音程の外れたセラの声が追いかけてくる。
セラは途中で口を閉じた。
「歌えない」
「三秒前のセラと合唱できるね。人を集めなくても、歌手が二人分」
「嫌」
遅れて戻った最後の音が、二人の間へ落ちる。
リラも顔をしかめた。
「私も今ので少し嫌になった。三秒前の自分って、思ったより協調性がないんだね」
「あなたは歌ってない」
「聞いてるだけでも、自分の失敗を後ろから読み上げられてる気分になるよ。反響はあとで何とかするとして――」
リラは鞄を床へ置き、指先へ豆明かりを一つ灯した。
その縁をほぐすように、光粒子をほどいていく。
だが、割れた窓から入る昼の光は強かった。
浮かんだ光粒子は、白く照らされた埃の中へすぐに紛れた。消えてはいないはずなのに、目を凝らさなければ場所も分からない。
セラが、粒の一つがあるはずの場所へ顔を寄せる。
「消えた?」
「いるよ。本人たちはかなり頑張ってる。ただ、太陽が相手だと、豆明かりには少し荷が重い」
リラは指を振り、光を増やした。
十粒。
二十粒。
光粒の数が増えるほど、一つ一つの光は薄くなる。
セラの周囲へ置いても、肩の輪郭がかすかに白くなるだけだった。歌の中の景色を作るどころか、どこに光粒があるのか探す方が先になる。
リラは両手を腰へ当て、割れた窓を見上げた。
「最初に必要なのは、闇だね」
「光の人が、最初に探す仲間が闇なんだ」
「私の光を大きくするより、周りを暗くする方が早いから。正面から勝てない相手なら、勝負する場所を変える」
「ずるい」
「演出です」
セラは消えかけた光粒子へ指を近づけた。
「言い換えただけ」
「演出家って、都合のいい言い換えを立派な技術として扱う職業なのかもしれない」
「まだ演出家じゃない」
「今からなる予定です」
リラは光を消し、鞄から祭典庁の名簿を取り出した。
紙の端には細い紙片が何枚も挟まれている。候補者の名前の横には、丸、三角、星、波線と、本人にしか意味の分からない印が書き込まれていた。
セラが横から名簿をのぞき込む。
「それ、何の印?」
「丸は話を聞いてくれそうな人。三角は予定が難しい人。星は絶対に会いたい人。波線は、料金を見て心が揺れた人」
「全部あなたの感情なんだ」
「人選は感情から始まります」
リラは闇術師の項目を指でたどった。
「候補は三人。一人は王城の夜間警備で、星冠祭まで休みなし。もう一人は王立劇場の暗転主任。昨日手紙を出したら、返事の代わりに料金表だけ届いた」
「いくら?」
リラは名簿を閉じかけた。
「見積書を開いた時点で、私たちの企画が一度終わった」
「終わったの」
「すぐ生き返ったよ。高い人を雇えないなら、別の人を探せばいいから」
「残りは?」
リラは名簿の一番下を開き直した。
一つの名前に、大きな星が描かれている。
「ノア・ベル。十二歳。劇場暗転工房の見習い。三級遮光士」
「十二歳?」
セラはリラから名簿を取り、もう一度年齢を確認した。
「子どもじゃない」
「年齢だけなら、フィンより少し大きいくらいだね。でも、狭い範囲の闇を何層にも分けて制御できるんだって。劇場では、舞台を暗くしたまま、演者の足元と避難口だけを見えるようにできる」
「子どもを働かせるの」
セラの声が低くなる。
リラは慌てず、名簿の後ろへ挟んでいた書類を取り出した。
「そこは私も確認したよ」
工房の印章が押された紙を広げる。
「工房の親方か成人職人の立ち会いが必要。日没前まで。連続作業は一刻以内。高所作業なし。危険属性との同時稽古は禁止。報酬は本人と工房へ分けて支払う」
セラは書類を受け取った。
印章だけでなく、隅に書かれた細かな条件まで、上から下へ時間をかけて読む。
リラはその間、急かさずに待った。
「ちゃんと聞いたんだ」
「前だったら、アルドさんの名前だけ出して、本人へ直接会いに行ってたかもしれない」
「今は?」
「一度それをやろうとして、工房の受付で止められた。そのあと、ちゃんと申請しました」
セラが書類から顔を上げる。
「ほとんど変わってない」
「最後の結果は大きく違うよ。今回は正式な許可があります。つまり、犯罪ではありません」
「今回は、って言わないで」
「安心させようと思ったのに」
「余計に不安になった」
セラは書類を返した。
それでも、ノアに会うこと自体へは反対しなかった。




