第一幕「歌が見えた」 第12話 銀貨二枚の闇
ノアは、王立劇場の客席後方の壁際にいた。
正確には、左側の避難口脇にしゃがみ込み、表示板の留め具を締め直していた。
大きすぎる黒い作業ローブの裾が床へ広がり、その隣には工具と留め具が大きさ順に並べられている。
黒藍色の短いボブが工具袋へ垂れ、留め具へ工具を当てるたび、揺れた毛先の内側に淡い紫がのぞいた。
リラは工具を踏まないよう、少し離れた場所でしゃがんだ。
「ノア・ベルさん?」
「勧誘なら断る」
作業中のノアから、眠そうな声が返ってくる。
リラはセラと顔を見合わせた。
「まだ何も言ってないよ」
「祭典庁の鍵を首から下げた知らない女が、劇場裏で十二歳の闇術師を探してる」
金属同士が触れ合う音がした。
「勧誘か犯罪」
「推理力まで高い」
「褒めても安くならない」
「犯罪ではないよ。工房の親方からも許可をもらってる。ほら、書類も――」
リラは許可書をノアの工具箱の上へ置こうとした。
「油がつく」
手が止まる。
「じゃあ、少しだけ手を止めてくれる?」
「あと七本」
「何が?」
「配線」
返事と同時に、工具を回す音がした。
リラは許可書を引き戻し、近くの木箱へ腰を下ろす。
セラはその隣に立ったまま、壁際へ広がるローブの裾を見た。
「待つの」
「仕事中の人を無理に引きずり出したら、最初から嫌われるから」
「もう断られてる」
「嫌われ方にも段階があるんだよ。初対面で一番下まで行かない方が、あとで戻りやすい」
「あなた、そういうこと考えるんだ」
「最近かなり学びました」
ノアが答える。
「全部聞こえてる」
「では改めまして、学習中の演出家です。よろしくお願いします」
小さく、何かが弾ける音がした。
「二本増えた」
リラが木箱から身を乗り出す。
「どうして?」
「話しかけられて接続を間違えた」
「ごめんなさい。今度こそ静かにします」
リラは口を閉じた。
最初の数十秒は、本当に静かだった。
やがて膝が落ち着かなくなり、靴先で床に刻まれた溝をなぞり始める。
一定の間隔で靴が床へ触れた。
セラが無言のまま、その靴の甲を踏む。
リラは動きを止め、セラを見上げた。
セラは、作業中のノアへ顎を向けた。
リラは口元を押さえ、今度こそじっと待った。
しばらくして、ノアが工具を置き、立ち上がる。
十二歳という年齢より、さらに小さく見えた。
金灰色の眠そうな目。頬には黒い油が一筋ついている。作業ローブの袖は長く、指先が半分ほど隠れていた。
ノアは二人をすぐには見なかった。
使った工具を一つずつ布で拭き、元の位置へ戻す。交換した古い留め具も、種類ごとに小箱へ分ける。
すべてを片づけ終えてから、ようやく顔を上げた。
「許可書」
「はい」
リラは両手で差し出した。
ノアは書類を受け取り、工房の印章を舞台照明へ透かす。
親方の署名。
勤務可能な時間。
報酬条件。
注意事項。
一つずつ、指で確かめていく。
「本物」
「信用してもらえた?」
「紙は」
ノアが書類を返す。
リラは自分を指した。
「私は?」
「まだ」
「正直で助かります」
ノアは工具袋の口を閉じながら言った。
「一回、銀貨二枚」
「まだ仕事内容を説明してないよ」
「工房の外へ出る仕事は二枚から。慈善なら断る」
「闇を使って、歌を見せたいんです」
工具袋を結ぶ手が止まった。
「闇で見せる」
ノアはセラへ一度だけ目を向ける。
「言葉遊びは追加料金」
「今のは私じゃない」
セラが答えた。
「そっちの人が言いそうな言葉だと思った」
「正しい」
リラは二人を交互に見る。
「初対面なのに、もう私を挟んで意見が一致してる」
「まだ組んでない」
「組んだらもっと厳しくなる?」
「たぶん」
ノアは工具袋を肩へかけようとした。
「話は終わり?」
「一度、見てほしい」
リラは木箱から下り、ノアの前へしゃがんだ。
子どもへ話しかけるためではなく、立ったまま見下ろさないためだった。
「私の光は小さい。昼間だとほとんど見えないし、広い場所では後ろまで届かない。でも、完全に暗い場所なら、一粒でも見える」
ノアの金灰色の目が、リラの指先へ向く。
「あなたの闇で、何を隠して、どこだけ見せるか。一緒に考えてほしい」
「見学だけなら銀貨一枚」
「参加するなら?」
「残り一枚」
リラは少し考えた。
「良心的なのか、最初から帰す気がないのか、判断が難しいなあ」
「見れば分かる」
セラが横からリラの袖を引いた。
ノアに聞こえないようにするつもりなのか、少しだけ顔を寄せる。
「全財産、いくら?」
「銀貨十四枚と、銅貨が少し」
「一人で二枚」
「必要だよ」
「私の靴より高い」
「靴は暗転できない」
「でも、歩ける」
ノアが工具袋を持ち直した。
「歩くのも仕事なら、追加料金」
リラがノアを見る。
「そこまで取るの?」
「荷物が多いなら」
冗談を言っている顔ではなかった。
リラが財布を取り出そうとすると、セラが先に自分の財布を開いた。
銀貨を一枚取り出し、ノアの手のひらへ置く。
硬貨が触れる小さな音がした。
「出すんだ」
リラが目を丸くする。
「ここまで来て、昼間に見えない豆明かりを見せる方が嫌」
「今の、私の光を守ってくれた?」
「時間を守っただけ」
セラはリラを見なかった。
リラも、それ以上は追及しなかった。
「そういうことにしておきます」
ノアは銀貨を指先で弾いた。
音を確かめてから、小さな財布へしまう。
「明日、見学」
「今日じゃないの?」
リラが立ち上がる。
「今日は工房の仕事がある」
ノアは返された許可書を指した。
「勤務時間も書いてあったでしょう」
「読んだよ。でも、来てくれると思ったら、少し急ぎたくなって」
「子どもは規則を守って、大人は守らない」
「反省します」
ノアが工具袋を背負う。
「たぶん、してない」
「今してる途中です。明日までには、もう少し反省しておきます」
「反省に予定をつけないで」
ノアは舞台の奥へ歩いていった。
セラが、その小さな背中を見送る。
「来ると思う?」
「銀貨を受け取ったから来るよ」
「お金だけ?」
リラは、ノアが一瞬だけ豆明かりへ視線を向けたことを思い出した。
「それ以外も、少しくらいあるといいね」
◇
翌日、ノアは約束の時刻ぴったりに旧兵站庫へ来た。
背中には工具袋。
片手には工房の親方から預かった勤務記録板。
もう片方には、小さな瓶を持っている。
入口で待っていたリラが、瓶をのぞき込んだ。
「それ、何?」
「牛乳」
「甘い?」
「普通」
「甘い方が好き?」
ノアは瓶をローブの袖で隠した。
「仕事と関係ない」
「あるよ。休憩中の飲み物は労働環境に入ります」
「子ども扱いしないで」
「専門家にも休憩は必要でしょう。甘い牛乳を飲んだからって、技術が子どもになるわけじゃないし」
ノアは返事をしなかった。
ただ、瓶が倒れない場所を探し、木箱の陰へ慎重に置いた。
それから倉庫の中央へ歩く。
床の溝。
割れた窓。
梁の高さ。
二つある出入口。
壁際の木箱。
一つずつ、視線を止めて確認した。
「演者は一人?」
「今はセラ一人」
リラが答えると、セラが少し離れた場所から手を上げた。
ノアは一度だけうなずく。
「客席は」
「まだ決めてない」
「避難口は二つ。片方が木箱で塞がってる」
ノアは右手の扉を指した。
「先にどける」
「闇を見せる前に?」
「暗くしてから片づけるの?」
リラは塞がれた扉とノアを見比べた。
「非常に説得力があります」
三人で木箱を動かすことになった。
ノアは一番小さい。
けれど、どこを持ち上げるべきか判断するのは一番早かった。
「リラはそっちの下。上を持つと底が抜ける」
「詳しいね」
「倉庫の箱は、だいたい底が先に死ぬ」
「十二歳が知ってる言葉じゃないなあ」
「働いてるから」
セラが箱の反対側へ回り、下へ手を差し込んだ。
ノアがその腕を見る。
「重くない?」
「大丈夫」
「無理なら言って。途中で落とされる方が困る」
「あなたも」
「これは軽い」
三人で持ち上げる。
箱の底が軋んだため、ノアの指示どおり持つ位置を変え、避難口から離れた壁際まで運んだ。
置き終えたあと、ノアは長い袖の中で指を何度か開いた。
小さく震えている。
セラはそこへ視線を落としたが、何も言わなかった。
次の箱では、ノアの近くにあった小さい方を先に持ち上げ、自分の側へ引き寄せる。
「そっちは私が運ぶ」
「持てる」
「私も持てる」
セラは短く言い、そのまま一人で運んだ。
ノアは止めなかった。
代わりに、セラが箱を置くまで底の状態を見ていた。
避難口の前が片づくと、ノアは勤務記録板へ時刻を書き込んだ。
「始める」
倉庫の中央へ立つ。
「歌って」
セラが息を吸うより先に、闇が落ちた。
昼間だったにもかかわらず、手のひらさえ見えない。
黒い霧が漂っているのではなかった。
空間から、光という性質だけが静かに抜き取られたようだった。
足元も、壁も、隣にいるはずの人間も消える。
リラは反射的に息を止めた。
「セラ?」
「いる」
少し離れた左側から声が返る。
「ノア?」
「いる」
今度は正面。
リラは誰にも求められていないのに続けた。
「私もいる」
「聞いてない」
「三人そろってるかの確認です」
「声で分かる」
闇の中で、セラが低く歌い始めた。
何も見えない空間に、声だけが道を作っていく。
リラは自分の足元へ意識を集中し、豆明かりを一つ灯した。
暗闇の底へ、光が生まれる。
いつもの路地なら石壁や街灯へ埋もれる小さな光が、完全な闇の中では、夜空に最初に現れた星のように浮かんだ。
「見える」
思わず声が出た。
足元の光を十粒へ分ける。
一つ一つの輪郭が、驚くほど鮮明だった。
さらに十粒。
セラの声の位置を頼りに、背後へ奥行きを作る。足元から壁へ向けて、光の道を伸ばしていく。
「多い」
ノアの声が飛んだ。
「まだ二十だよ。路地では三十出しても足りなかった」
「暗さを無料だと思ってる」
「無料じゃないよ。銀貨一枚払ってる」
少し間があった。
「そういう意味じゃない」
ノアの声が、先ほどより近くなる。
靴が床を踏む小さな音がした。暗闇の中を、光粒子の位置を確かめながら歩いているらしい。
「明るい場所では、光を増やしても周りの明るさに負ける。でも、闇の中では、一粒増えることが、明るい場所で十粒増えるのと同じになる」
ノアがどこかで手を動かす。
リラには見えない。
それでも、闇の一部がわずかに深くなったのを感じた。
「全部出したら、どれを見ればいいか分からなくなる」
「減らした方がいい?」
「半分」
リラは二十粒のうち、十粒を消した。
光が減る。
それでも、まだ空間は明るく見えた。
「まだ多い」
「もう半分消したよ」
「光の数じゃなくて、見せたいものの数」
ノアの声と同時に、セラの近くへ置いた光が一粒だけ闇へ沈んだ。
代わりに、倉庫の奥へ置いた一粒が残る。
光粒の総数は減った。
それなのに、セラと遠くの光の間へ長い距離が生まれた。
リラは、闇の中で目を見開く。
「近くに並べると、ただの飾り」
ノアが言う。
「手前と奥へ離すと、距離になる」
「粒を並べるんじゃなくて、遠さを作る」
「それが舞台」
十二歳の口から出た言葉に、リラはしばらく返事ができなかった。
「……それ、名言の欄に書いていい?」
「料金が増える」
「では、心の演出表へ記録します」
セラの歌は続いている。
リラは光の数を増やさず、一粒ずつの位置を確かめながら動かした。
歌の中で、セラが閉じた扉へ近づく。
その動きへ光を合わせるため、リラは声の位置を探った。
「セラ、半歩だけ右へ」
歌が止まる。
「見えない」
「私の声の方。今しゃべってる方ね」
「歌ってる私に『声の方』って言わないで」
「確かに紛らわしいね。じゃあ、一度手を叩くから、音のした方へ半歩」
リラが両手を合わせた。
乾いた音が、暗い倉庫へ広がる。
セラが音の方向を確かめるように、靴先をゆっくり動かした。
石の床を擦る音がする。
「あ、待って。そこ、たぶん――」
止めるより早く、靴先が何かへ触れた。
続いて、膝が木へぶつかる鈍い音が響く。
「痛い」
「セラ?」
「木箱」
リラは反射的に豆明かりを強くしようとした。
けれど、勝手に光を増やせばノアの闇を乱すかもしれない。指先を上げたまま、動きを止める。
「ごめん。動かないで。今そっちへ行く」
「あなたも見えてないでしょう」
リラは踏み出しかけた足を戻した。
「そうだった。助けに行って、二人目が木箱へぶつかるところだった」
「演出で殺される」
「殺しません。たぶん。でも膝は、本気で痛そう」
「そういう問題じゃない」
闇の中で、ノアが指を鳴らした。
空間が一段だけ明るくなる。
完全に照らされたわけではない。
床の輪郭と、木箱の角だけが薄く見える。セラの足元は確認できるが、客席として想定した場所は暗いままだった。
リラはセラの近くへ歩き、木箱の角を確かめる。
「腫れてない?」
「触らないで」
「あとで冷やそう」
「先に稽古を直して」
ノアが木箱とセラの足元を交互に見た。
「完全な闇は、客にも演者にも闇」
床を指す。
「演者を動かすなら、先に床を残す。客を隠したいなら、客席だけ濃くする」
「同じ闇なのに、場所ごとに分けられるの?」
リラが尋ねる。
ノアは倉庫の中央へ戻った。
「闇は一枚じゃない」
ノアが片手を床へ向ける。
床には、歩くための薄い明るさ。
セラが立つ場所には、輪郭が見える程度の闇。
客席を想定した区域には、顔の表情まで沈む濃い闇。
さらにその間へ、異なる濃さの層が重なっていく。
セラには、自分の足元と近くの木箱が見える。
客席側から見れば、歌姫の輪郭だけが闇の中へ浮かぶ。
リラが光を動かすと、その軌跡を闇の層が受け止め、何もない空間へ道のような奥行きを作った。
「これなら歩ける?」
リラがセラの隣へ戻る。
「さっきよりは」
セラは木箱から少し離れた場所へ立ち直した。
「膝は?」
「痛い」
「終わったら冷やそう」
「忘れそう」
「覚えてるよ」
リラはセラの膝ではなく、顔を見た。
「今日帰るまで、何度でも言っていい。忘れてたら怒って」
セラは一瞬だけリラを見る。
それ以上は何も言わず、再び歌い始めた。
一節が終わる直前、ノアが片手を上げる。
舞台側を覆っていた闇が、ほんの少しだけ開いた。
割れた窓から差していた夕方の光が、細い線となって倉庫へ入り込む。
その一本だけが、セラの横顔へ届いた。
魔法で作った光ではない。
最初からそこにあった光だった。
ノアが周囲を隠したことで、何でもなかった夕日の一筋が、舞台の上で意味を持った。
リラは息をのむ。
「すごい」
「光は出してない」
「だからすごいんだよ」
リラはセラの横顔を照らす光と、少し離れて立つノアを交互に見た。
「光って、出すだけじゃないんだ。周りを消せば、最初からそこにあったものまで見えるようになる」
「今さら?」
「私は光の人だから、出すことばかり考えてた」
「光の人ほど、暗い場所を知らない」
ノアは無表情だった。
けれど、長い袖から出た指が、工具袋の紐を何度も触っている。
褒められて困っているのだろう。
リラは気づいたが、口には出さなかった。
指摘すれば、今見せてくれた闇まで引っ込められそうな気がした。
「祭りで闇を使ったら、嫌がられる?」
セラが尋ねた。
ノアはすぐには答えず、客席として想定した場所を見る。
「不吉だと言う人はいる。開演前に急に暗くすると、事故か術式不良だと思われる」
次に床と出入口を確認する。
「子どもが泣くかもしれない。足元が見えなければ転ぶ人もいる。暗転したまま何も始まらなければ、客は不安になる」
「じゃあ、完全な闇は使えない?」
「使わない方がいい」
リラは、セラの横顔へ差している細い光を見た。
光が意味を持つ前に、世界からほかのものが消えた。
「でも、一瞬だけなら」
ノアがリラを見る。
「長さによる」
「世界が消えたと思うくらいの一瞬。そのあと、最初にセラの声が聞こえる」
リラは暗い客席へ向き直った。
まだ誰もいない場所に、三千人がいると想像する。
「次に、豆明かりが一つだけ灯る。そこから少しずつ、歌の中の景色を戻していく。闇から始めるんじゃなくて、何もないところから世界を作り直すみたいに」
ノアの指が、工具袋の紐の上で止まる。
「怖い?」
「危険」
「嫌い?」
ノアは答えなかった。
床。
避難口。
割れた窓。
セラ。
リラ。
順番に視線を動かす。
「完全暗転は三秒以内」
ノアは指を一本立てる。
「床の誘導光は残す。避難口は別系統。歌が始まらなかった場合は、一秒以内に通常照明へ戻す」
言葉が増えるほど、リラの顔が明るくなる。
「それって、やってくれるってこと?」
「二枚半」
「値上がりした!」
「危険手当」
「さっきまで二枚だったでしょう」
「さっきまでは見学だった」
ノアは暗くした倉庫を見渡した。
「今は設計を始めた」
「もう参加する気じゃない」
「仕事なら」
ノアはそう言いながら、木箱の陰へ置いた牛乳へ一度だけ目を向けた。
リラも、その視線を追う。
「報酬は銀貨二枚。それと、練習日は飲み物を用意する」
「二枚半」
「残り半枚は飲み物と休憩環境で」
「子ども扱いしないで」
「専門家の休憩用です。牛乳じゃなくてもいいよ。お茶、水、果汁――」
「牛乳」
リラが笑いそうになるのをこらえる。
「甘いのは?」
「必要」
セラが横から口を挟んだ。
「甘い方が高い」
「私の銀貨から出す」
リラはセラへ振り向く。
「セラが?」
「昼間に見えない豆明かりを二十個出すより安い」
「今日はずいぶん私の光を守ってくれるね」
「公演を守ってる」
セラはまっすぐノアを見ている。
リラも追及せず、うなずいた。
「はい。そういうことにしておきます」
条件は、その場で一つずつ決められた。
報酬は銀貨二枚。
工房への正式な依頼料。
稽古日には甘い牛乳を用意する。
勤務は夕刻まで。
危険属性との同時稽古には、工房の親方か成人の安全責任者が立ち会う。
そして最後に、ノア自身が条件を加えた。
「僕が危険だと言ったら、止める」
ノアはリラとセラの間へ立った。
眠そうな目が、今はまっすぐリラへ向いている。
「セラが歌ってても?」
「止める」
「私が、あと少しで完成すると言っても?」
「止める」
「観客が続きを見たがっても?」
「客は事故の責任を取らない」
ノアは工具袋を抱え直した。
「止めないなら、参加しない」
リラはすぐには答えなかった。
アルドから言われたことを思い出す。
演出より先に、安全のために止める人間を置け。
昨日の路上公演では、客が喜んだことで光を止められなかった。
今度は、面白くなった瞬間ほど止まれなくなるかもしれない。
「分かった」
リラは冗談を挟まずに答えた。
「ノアが危険だと言ったら止める」
「口約束は嫌」
「じゃあ、書こう」
リラは鞄から演出表を取り出した。
新しい頁を開き、一番上へ大きな文字を書く。
――ノア・ベルには、危険を感じた時点で稽古と本番を止める権限がある。
紙をノアへ向ける。
「これでいい?」
ノアは一行を最後まで読んだ。
「演出家も従う、を足して」
「私を信用してないなあ」
「まだ」
「では追加します」
リラは、その下へ書き足した。
――演出家、歌手、その他の演者は、その判断に従う。
セラがリラの手から筆を取り、自分の名前を書く。
リラも隣へ署名した。
ノアは二人の名前と文章をもう一度確認してから、その下へ小さく自分の名前を記した。
三つの名前が、一枚の演出表へ初めて並んだ。
リラは立ち上がり、ノアへ手を差し出す。
「改めまして、よろしくお願いします。最初の仲間で、闇の専門家で、安全のために私たちを止めてくれる人」
「紹介が長い」
「大事な役割が多いから」
ノアは差し出された手を見た。
握ろうとはしなかった。
代わりに、袖の中から片手を出し、リラの指先へ小さな闇を乗せる。
豆明かりの周囲だけが、細い指輪のように暗くなった。
いつもと同じ小さな光。
それなのに、闇の中心では輪郭がくっきりと浮かんでいる。
「眩しい」
リラは瞬きをした。
「これで?」
「暗いところではね」
ノアは、それ以上何も説明しなかった。
工具袋を肩へかけ、勤務記録板へ終了時刻を書き込む。
けれど、倉庫を出る前に木箱の陰へ置いた牛乳を取り上げ、一口飲んだ。
すぐに瓶を見下ろす。
「甘くない」
「今日は普通の牛乳しかないって言ったでしょう」
「次は忘れないで」
リラは思わず笑った。
「参加する気、かなりあるね」
「契約したから」
「甘い牛乳のため?」
「仕事のため」
ノアは数歩進んだあと、立ち止まった。
振り返らないまま、小さく付け足す。
「牛乳も」
そのまま、先に倉庫を出ていった。
セラが、闇の消えた旧兵站庫を見回す。
窓からは、いつもの夕方の光が差し込んでいる。
「最初の仲間が、私たちよりしっかりしてる」
「いいことだよ。二人とも先に走るから、止めてくれる人が必要だった」
「私は走らない」
リラはセラを見る。
「歌ってるときは、誰も追いつけないよ」
セラは否定しなかった。
代わりに、ぶつけた膝を軽くさする。
リラはすぐに鞄を開いた。
「冷やすもの、探さないと」
「覚えてたんだ」
「当然でしょう。私は失敗を記録する人だから」
「記録するだけじゃなくて、直して」
「はい。次から演者を暗闇で木箱へぶつけません」
「次があったら困る」
リラは自分の指先へ目を落とした。
ノアが乗せた闇は、もう消えている。
豆明かりも、いつもの小ささへ戻っていた。
それでも、初めて誰かに「眩しい」と言われた感覚だけが残っている。
大きくならなくてもいい。
見える場所を作ればいい。
そして、その場所は一人では作れない。
旧兵站庫にはまだ、割れた窓と錆びた梁と、片づけきれない木箱しかなかった。
けれどその日、最初の演出表に、三人分の名前が並んだ。




