第一幕「歌が見えた」 第13話 炎は待てない
闇と光粒子と歌だけの試演は、三日で壁に当たった。
静かな部分はよくなった。むしろ、よくなりすぎた。
ノアの闇の中でセラが低く歌い、リラの光が一粒だけ動く。見ている三人だけなら、息をする音さえ邪魔に思えるほどだった。
けれど、歌が感情の頂点へ向かっても、景色は静かなままだった。
胸の内側では何かが膨らんでいるのに、最後まで外へ出てこない。
「最後に、何か足りない」
リラが言うと、壁際に座っていたノアが顔を上げた。
両手には甘い牛乳の瓶を抱えている。答える前に一口飲み、瓶の縁についた白い雫を袖で拭った。
「魔力」
「身も蓋もないなあ。もう少しこう、仲間を傷つけない言葉に包めなかった?」
「リラの光を増やしても、豆が豆の群れになるだけ」
「たくさん集まれば、豆畑みたいできれいかもしれないよ」
「歌の最後に、客が農業を思い出す」
ノアは真顔だった。
冗談なのか本気なのか判断できず、リラは瓶とノアの顔を交互に見る。
「今の、ノアなりの冗談?」
「分析」
「分析で人を傷つける方が深刻なんだけど」
歌詞の紙を読んでいたセラが、その端を指で押さえた。
窓から入った風で紙が浮きかける。セラは顔を上げないまま、短く言った。
「炎」
「セラもそう思う?」
「この歌には、消えない灯が出てくる。最後まで豆のままだと弱い」
「二人とも、私の魔法を豆って呼ぶの、もう正式名称みたいになってない?」
「事実は定着する」
セラは淡々と紙をめくった。
ノアも異論がないらしく、甘い牛乳をもう一口飲む。
「分かった。次の募集要項には書いておくよ。求む、火術師。待遇は未定。勤務地は古い倉庫。主な業務は、豆より大きな灯を出すこと」
「来ないと思う」
「ノア、募集を始める前から現実を見せないで」
王都で大出力の火魔法が集まるのは、王立魔導防衛隊と花火工房だった。工房の火術師も、大型魔物が現れれば防災協力術師として招集される。人を逃がす火と、人が足を止めて見上げる火の両方を扱えなければ、王都の空へ炎を上げる許可は下りない。
アルドへ相談すると、紹介状ではなく、住所だけが書かれた紙を渡された。
「紹介してくれないんですか」
「紹介されて来た人間は、紹介した人間の顔のために働く」
「住所だけ渡された人は?」
「断られた理由を、自分で聞ける」
アルドは書類から顔を上げず、羽根ペンの先で紙をリラの方へ押した。
乱暴に破られた紙片には、工房の名前と通りだけが書かれている。
「今の、ちょっと師匠っぽかったですね」
「弟子にした覚えはない」
「否定するまでに一呼吸あったから、可能性は残ってます」
「今すぐ消えた」
「住所はもらったので、今日はそれで十分です」
リラが紙を折り畳むと、アルドは面倒そうに手を振った。
けれど、追い出す前に一言だけ付け加えた。
「火を借りるなら、火を小さく扱うな」
「大きく使えってことですか?」
「自分で考えろ」
工房の裏庭では、若い火術師が一人で炎を投げていた。
短い耐火上着の下には、肩と腕の線がはっきり出る黒い作業着。銅色に近い赤髪は片側を短く刈り、残した髪を炎のように後ろへ立てている。日焼けした首には花火師用のゴーグルが掛かり、開いた襟の下から古い火傷跡がのぞいていた。両手には、使い込まれた厚い革手袋をはめている。
掌から放たれた炎は、空中で獅子の形になった。
赤い鬣を振り乱しながら三度宙を駆け、最後には金色の火花となって、見物していた子どもたちの頭上へ降り注ぐ。
熱を持たない火花へ、子どもたちが一斉に手を伸ばした。
術師は歓声を浴びながら、当然のように顎を上げている。
「防災協力術師の資格を持つ、ラウル・ガルドさん?」
リラが声をかけると、消えかけていた火の獅子が空中で首を巡らせ、彼女を見た。
ラウル自身は動かない。
「仕事なら親方へ。決闘なら夕方からだ」
「光粒子ライブへ誘いに来ました」
「光粒子ライブ?」
「歌と魔法を、最初から一つの演目として作るライブです。花火や幻影で歌を飾るんじゃなくて、歌姫の感情や、歌を聞いた人の中にあるものを、光の粒子で見えるようにする」
ラウルは、リラの頭から靴までを値踏みするように眺めた。
「音楽花火なら百年前からある」
「ありますね。歌が始まったら炎を上げて、盛り上がるところで大きな花火を出す。でも、それだと歌と魔法は、同じ場所にいるだけです」
「何が違う」
「歌姫の感情が変われば、魔法も変わる。歌が迷えば、光も一緒に迷うし、言葉が出てこなければ、何も出さずに待つこともある。魔法が一番きれいに見える瞬間じゃなくて、歌に必要な瞬間にだけ出すんです」
「それで、今は何がある」
「名前と歌姫と、闇を使える子と、小さい光まではあります」
「最後だけ急に頼りないな」
「だから火を誘いに来ました。全部完成してから呼んだら、仲間じゃなくて、決められた場所で火を出すだけの人になっちゃうでしょう」
ラウルは鼻を鳴らした。
指先を軽く振ると、小さな炎の蝶が一匹だけ生まれた。蝶はラウルの肩へ止まり、赤い羽をゆっくりと開く。
「火を呼びに来たくせに、火を自由に出すなと言うのか」
「出してほしいです。すごく出してほしい。今の獅子も、派手で、大きくて、子どもたちの顔まで明るくしてた。正直、かなり好きです」
ラウルの口元が、目に見えて持ち上がった。
肩に止まった炎の蝶も、誇らしげに羽を広げる。
「分かってるじゃないか」
「でも、歌に入れるなら三十秒早い」
炎の蝶の羽が止まった。
「何の三十秒だ」
「あなたが獅子を出した瞬間、ここにいた全員が獅子しか見なくなったでしょう。歌の最後に出すなら最高です。でも、最初に出したら、そのあとの歌が負ける」
「歌も聞いていないのに分かるのか」
「今の獅子が強すぎることなら分かります。私だって、見ている間、何を言いに来たのか少し忘れましたから」
得意げだったラウルの笑顔が、ゆっくりと消えた。
肩の炎も形を崩し、熱だけを残して消えていく。
「帰れ」
「まだ条件も報酬も話してませんよ」
「俺の炎を見た直後に、早いと言う奴へ貸す火はない」
「炎が悪いんじゃありません。出す場所がもったいないんです。最高の火を、まだ客の中に受け止める場所がないときに使うなんて」
「素人が」
ラウルの指が鋭く動いた。
その前に、彼は踵で石畳へ赤い火線を一本引いた。見物していた子どもたちは慣れた様子で線の外へ下がり、親方が最後尾を確かめる。
炎の鳥が三羽、誰もいない演技区画へ飛び出した。一羽目はリラの頭上より高く舞い、二羽目は安全線の内側を横切る。
三羽目は胸元へ迫るように見えたが、線の手前で熱を失い、細かな火花へ砕けた。
予告なしの迫力に、リラは一歩下がって紙を落とした。けれど頬へ届いたのは、温かな風だけだった。
工房の子どもたちは歓声を上げた。
ラウルは真っ先に安全線と子どもたちの位置を見回し、誰も内側へ入っていないことを確かめてから、両腕を広げた。
安全を確かめ終えると、ラウルはようやく歓声へ顎を上げた。
「今、全員が俺を見た」
炎の残光が、赤い上着の周囲で揺れている。
「これが演出だ」
「違う」
落とした紙を拾わず、リラは答えた。
声に迷いはなかった。
「驚かせた。それだけです」
「十分だろう」
「今のことを聞かれたら、みんな火の鳥が飛んだって答える。でも、三分後には鳥の形しか残らない」
「なら、お前の光よりは長く残る」
「そうかもしれない」
リラは足元の紙を拾い上げた。
紙についた灰を払いながらも、ラウルの炎から目を逸らさない。
「でも、私が作りたいのは、火の鳥を見たって話をする夜じゃない。あの歌を聞いたとき、自分の中に何があったか、誰かに話したくなる夜です」
子どもたちの声が、少しずつ静かになっていく。
ラウルはリラを見下ろし、鼻で笑った。
「魔物へ向ける火なら、呼ばれれば出す。だが、毎日まで何かを追い払うために燃やしたくはない。人が逃げる火より、足を止めて見上げる火を作る。俺が工房を選んだ理由はそれだけだ」
「いいですね」
「何がだ」
「だったら、一度だけ燃えてください。私の決めた瞬間に」
リラは拾い上げた紙を胸元でそろえた。
「出したくなっても我慢して、客がもう待てないってところまで待ってから、今の獅子を出してください。それで誰の記憶にも残らなかったら、私の負けです」
「俺に火を我慢しろと言うのか」
「一番大きく燃えるために、です」
ラウルの指先で、火花が一度だけ弾けた。
すぐに言い返すと思ったのに、彼は口を閉ざしたままリラを睨んでいる。
その沈黙に耐えきれなくなったように、工房の奥から低い笑い声が漏れた。
様子を見ていた親方が、腹を押さえながらこちらへ出てくる。
「聞いたか、ラウル。お前に必要なのは、もっと大きな火を出す修業じゃなくて、火を出さずに待つ修業だそうだ」
「笑うな、親方」
「間違っているか?」
ラウルは答えなかった。
見物していた子どもたちまで、何事かと彼の顔を見上げている。
革手袋の中で指が動き、また小さな火花が漏れた。けれど今度は、何の形にもならないうちに握り潰される。
ラウルの耳が、金髪の隙間まで赤くなった。
「……こいつを追い出せ!」
「今、自分で追い出そうとしてましたよね?」
「二度と来るな!」
「明日、旧兵站庫で待ってます!」
「誰が行くか!」
◇
翌日、ラウルは旧兵站庫へ来た。
扉を開けたまま中へ入り、誰とも目を合わせず、壁際へ腕を組んで立つ。
「見学だ」
「参加ありがとうございます。ノア、新しい仲間が一人増えたよ」
「してない」
床へ座って記録帳を開いていたノアが、羽根ペンを走らせる。
「ラウル・ガルド。火」
「記録した」
「勝手に名簿へ入れるな!」
怒鳴り声が倉庫へ響いた。
セラは歌詞の紙から目を上げ、ラウルの頭から靴までを一度だけ見る。
「うるさい」
「火に音はない」
「見た目がうるさい」
「お前が歌手か。ずいぶん地味だな」
「炎を着れば?」
「着られる」
ラウルの上着の肩から、熱を抜いた小さな炎が噴き上がった。
セラは一歩だけ距離を取り、眉を寄せる。
「冗談を真に受けないで」
「できないことを言うな」
「できる人がいると思わなかった」
「俺ならできる」
「聞いてない」
ラウルの炎が一段大きくなる。
リラは二人の間へ入り、両手を広げた。
「はい、そこまで。始める前から歌姫より前へ出たら、今日の試演は火術師一人の独演会になります」
「俺一人でも客は呼べる」
「それは知ってるから、今ここにいるんでしょう?」
ラウルは返事をしなかった。
炎だけが、少し得意そうに揺れた。
相性は最悪だった。
そして、最初の試演は、それ以上にひどかった。
セラが最初の一節を歌い終える前に、ラウルは舞台の両脇へ炎の柱を上げた。
古い倉庫の壁が赤く染まり、梁の影が大きく揺れる。
観客役のノアは、歌ではなく炎を見た。
合図を出すはずだったリラまで、ほんの一瞬だけ目を奪われた。
「止めて!」
「なぜだ。盛り上がっただろう」
「まだ何も始まってない!」
「歌は始まっていた」
「音が鳴っただけ。物語はまだ始まってないの!」
リラが腕を振っても、ラウルは炎を消さなかった。
むしろ炎の柱を背に、巨大な翼を広げる。火の羽根が倉庫の天井近くまで伸び、ノアの顔を赤く照らした。
セラの声が途切れた。
歌詞の紙を折り、舞台から下りようとする。
「帰る」
「待って、セラ。今止めるから」
「この人、自分の公演をしたいだけ」
「俺の炎を見に来る客はいる」
ラウルは翼を消さないまま、セラへ顎を向けた。
「お前の歌だけで、何人集まる?」
倉庫の空気が冷えた。
セラの顔から、わずかに残っていた歌の熱が消える。
リラは笑みを残したまま、ラウルとセラの間へ立った。
けれど、その声は軽くなかった。
「今のはだめ」
「事実だ」
「事実かどうかの話はしてない。言っていい場所と、言い方があるって話」
「演出家が感情論か」
「感情を扱う仕事にしたいからね」
リラはラウルへ近づいた。
まだ残っている炎の翼を、真正面から見上げる。
「きれい。大きい。すごい。さっきから悔しいくらい、ずっと目に入る」
「なら問題ない」
「あるよ。私は今、セラの顔を見たかった。歌がどこで変わったのか、何を飲み込んだのか、見逃したくなかった」
リラは炎の向こうにいるセラを一度見た。
それから、ラウルへ視線を戻す。
「あなたの炎が、邪魔だった」
ラウルの眉が動く。
炎の翼も、怒りに合わせるように大きく揺れた。
「俺の火を小さくしろと?」
「逆。最後には、もっと大きくしてほしい」
「これ以上を?」
「今出せる最大じゃなくて、あと十日練習した最大を。歌の最後の一言が終わるまで、全部我慢して」
「なぜ俺が我慢する」
「待った分だけ、客の中に空いている場所が大きくなるから。そこへ、あなたの炎を全部入れる」
ラウルは理解していない顔をした。
けれど、最大の炎を求められたことと、十日で今を超えろと挑発されたことだけは、はっきり理解したらしい。
炎の翼を消し、リラの目の前まで歩いてくる。
「十日後、お前の豆が合図するまで火は出さない」
「本当に?」
「その代わり、合図が遅れたら、その場で全部止める。遅れた理由を説明するまで、次の火は出さない」
「安全審査の書類に、そのまま書ける条件だね」
「嫌ならやめろ」
ラウルは革手袋の指を鳴らした。
指先で、小さな火花が弾ける。
リラはその火花を見てから、笑った。
「いいね。やろう」
「笑うところじゃない」
「最大の炎を見せてくれる約束でしょう。楽しみなものは楽しみです」
ラウルは何か言い返しかけ、結局、鼻を鳴らして顔を背けた。
十日も待たず、三日目から毎日来るようになった。
本人は倉庫へ入るたびに、
「火気設備の確認だ」
と言い張った。
ノアはそのたび記録帳を開き、参加日数の欄へ一本ずつ線を増やした。
ラウルが正式に加わった日を尋ねられたとき、ノアは迷わず、最初に倉庫へ来た日を指した。




