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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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第三幕「星冠祭」 第59話 同じ夜の契約

 星冠祭から一週間後。


 商人組合との二度目の交渉は、祭典庁ではなく、南区の酒場で行われた。


 朝の営業前。


 いつもは客が酒を飲む長机へ、契約書、収支表、大劇場の図面が並べられている。


 会議室を嫌がったのはセラ。


 食事のある場所を選んだのはリラ。


 アルドは、役人と興行主が酒場の丸椅子へ座るところを見たいという理由で許可した。


「仕事の場所として適切でしょうか」


 セインが尋ねる。


「飲酒は禁止にしています」


 レティアが答えた。


「机の高さが均一ではありません」


「そこまで求めるなら、祭典庁へ戻って」


 セラが言う。


「ここで問題ありません」


 セインは即座に椅子へ座った。


 声が完全に戻ったセラの前には、温かい水が置かれている。


 ノアの前には蜂蜜牛乳。


 ラウルは朝食用の肉料理を注文し、レティアに交渉中は食べるなと止められていた。


 エヴレンだけは、酒場の窓から入る光が自分の席へ美しく当たるよう、椅子の位置を少し動かしている。


 商人組合から交渉を任された興行主、エドガー・ハインは、全員が座るのを待ってから契約案を開いた。


「改めて、王都大劇場での十公演をご提案します」


 紙の最初には、大きく演目名が書かれている。


 ――『歌が見えた』星冠祭再演。


「星冠祭と同じ演目を、同じ出演者で上演していただきたい」


「同じは無理」


 セラが言った。


「完全に同一である必要はありません」


「なら、同じって書かないで」


「観客が求めているのは、星冠祭で見た公演です」


 エドガーはセラから目を逸らさない。


「歌詞の一部や、細かな魔法の順序が変わることは理解しています。それでも、客席の灯、闇、炎の翼、水と雷の空は、主要な見どころとして保証していただきたい」


「嫌」


「どの部分が?」


「全部」


 セラの声は短かった。


 エドガーの眉が、わずかに動く。


「それでは、契約する対象がありません」


 リラは契約書へ手を伸ばした。


 閉じようとして、途中で止める。


「同じ夜は作れません」


「同じに見える夜なら、作れるのでは?」


「できるかもしれません」


 リラの返事に、セラがこちらを見る。


「光と幻影を同じ位置へ置く。炎の形を固定する。セラに同じ歌詞を、同じ時刻で歌ってもらう」


「なら――」


「でも、それをしたら、星冠祭と似た形の、別の失敗になります」


 リラは契約書から手を離した。


「風も、客席も、歌う日のセラも違う。同じ感情が生まれるように順番を固定したら、歌より前に演出が進みます」


「商業公演では、一定の内容を保証する必要があります」


「分かっています」


「分かっているようには見えません」


 エドガーは収支表をリラの前へ置いた。


「大劇場を十日間確保する。技術者を雇う。衣装を維持し、告知を出し、切符を販売する」


 紙には、会場費、人件費、設備費、宣伝費が並んでいる。


「当日、歌手の気分によって炎も雷も出ませんでは、客へ説明できない。中止でなくても、告知した内容が提供されなければ、料金を返す必要があります」


 エドガーの指が、返金準備金の欄を叩いた。


「私は奇跡を信じて劇場を借りるのではありません。皆さんの仕事を信じるために、何を再現できるのか知りたいのです」


 酒場の厨房で、鍋の蓋が鳴った。


 リラは収支表を見る。


 提示された最低保証は、星冠祭で全員へ支払った報酬の何倍もあった。


 受ければ、仕事として続けられる。


 次の衣装。


 稽古場。


 奏者の給金。


 ノアの報酬。


 技術者の追加作業費。


 すべてを、協賛先へ頭を下げずに用意できる。


 この機会を逃せば、次はないかもしれない。


 胸が前へ押される。


「リラ」


 セラが呼んだ。


「何?」


「今、金額だけ見てる」


「大事でしょう」


「大事」


 セラは否定しなかった。


「でも、怖くて急いでる」


 リラの指が、収支表の端で止まる。


「何が怖い?」


「今断ったら、次の依頼がなくなること」


「うん」


「一度だけ成功した人で終わること」


 口にすると、思っていたより声が小さくなった。


 星冠祭の舞台が偶然ではなかったと、早く証明したかった。


 次も、その次も成功させれば、自分は本当に演出家なのだと言える。


「今日、証明しないと駄目?」


 セラが尋ねる。


「興行は待ってくれないかもしれない」


「それも分かってる」


「惜しくない?」


「惜しい」


 セラは一度、契約書を見る。


「でも、惜しいからって同じ歌を歌ったら、次の歌がなくなる」


 リラは息を吐いた。


「同じ夜は、売れません」


 エドガーへ向き直る。


「ですが、違う夜を安全に作るための仕組みなら、売れます」


     ◇


「仕組みとは?」


 エドガーが尋ねた。


「必ず再現するものと、固定しないものを分けます」


 リラは白紙を一枚取り、中央へ線を引いた。


 左側へ、


 ――公演ごとに保証するもの。


 右側へ、


 ――公演ごとに選び直すもの。


 と書く。


「保証できるのは、安全な舞台設備。停止手順。各担当者の権限。稽古時間。歌が変わったとき、追いつかない魔法を出さないこと」


「観客が見る内容は?」


「歌手がいる。歌がある。複数の魔法と音が、その歌を聞いて舞台を作る」


「抽象的です」


「では、一人ずつ決めます」


 リラは筆を置いた。


「私が全員分を約束すると、また同じことになるので」


 エドガーの視線が、長机の周囲を巡った。


     ◇


「最初に、歌について確認しましょう」


 マリエが自分の資料を開いた。


「楽曲は『帰れない灯』を使用するのですか」


「十回全部では歌わない」


 セラが答える。


「最低一回は?」


「まだ決めない」


「新曲が完成しなかった場合は」


「延期する」


 エドガーの眉が寄る。


「劇場は、簡単には延期できません」


「なら、完成前に日付を決めないで」


「制作期間を定めなければ、宣伝を始められません」


 マリエは二人の間へ、制作日程の紙を置いた。


「歌詞完成、作曲、伴奏設計、術式試験には、それぞれ期限が必要です」


 セラが紙を見る。


「歌詞の締切も?」


「興行として行うなら」


「間に合わなかったら?」


「未完成のまま歌わせるのではなく、延期条件を使います」


 マリエは契約案へ書き込む。


 ――歌詞提出日は上演日の六週間前。

 ――提出後も歌詞変更は可能。ただし、術式との安全な同期が不可能な場合、該当演出を使用しない。

 ――歌手が未完成と判断した場合、所定の日まで延期協議を求められる。


「歌詞を変更する権利は、セラさんにあります」


 マリエが続ける。


「伴奏は、変更へ必ず追従する義務を負いません。追えない場合は、基音へ戻るか、演奏を止めます」


「稽古日数は?」


 エドガーが尋ねる。


「最低八日。うち三日は、歌手と奏者だけの稽古。全術者を入れるのは、その後です」


「大劇場での稽古は二日までしか確保できません」


「残りは、同じ広さの稽古場か、音響条件を再現できる施設が必要です」


「費用が上がります」


「稽古を削った費用は、本番の事故になります」


 マリエの口調は穏やかだった。


 紙へ書く手は止まらない。


     ◇


「火の翼は、告知へ使いたい」


 エドガーがラウルへ向けて言う。


「俺の炎を見せるのは構わん」


「毎公演、使用できますか」


「歌が呼べばな」


「歌が呼ぶ、では契約になりません」


「なら、火が出ない可能性も書け」


 ラウルは腕を組んだ。


「巨大な火を約束して、出す場所がない歌でも出せと言われる方が危ない」


「最低限の火炎演出は?」


「安全試験を通した小火なら、構成へ入れられる」


「炎の翼は?」


「公演ごとに判断する」


「商品として、火の鳥の玩具も検討しています」


 ラウルの顔が明るくなる。


「俺の名前を大きく入れろ」


「形の設計には、エヴレンさんの幻影も使われています」


 レティアが指摘する。


 ラウルの顔が止まった。


「火は俺だ」


「翼の輪郭は私です」


 エヴレンが微笑む。


「さらに、水滴への反射がなければ、客席の遠方からは形が見えません」


 レティアが加える。


「では、三人の商品か?」


「ノアさんの闇がなければ、輪郭が埋もれます」


「四人?」


「リラさんの発動判断もあります」


「増えるな!」


 ラウルの声が酒場へ響いた。


 店主が厨房から顔を出す。


「火は出すなよ」


「出してない!」


 ラウルは声を落とした。


「……玩具は、全員の許可を取れ」


「利益配分も?」


「当然だ」


「承知しました」


 エドガーは、物販欄へ共同意匠と記入した。


     ◇


「水の設備については、会場図面を修正してください」


 レティアは大劇場の平面図を広げた。


「後方席まで歌を運ぶには、左右二系統の音響水路が必要です」


「既存の共鳴板では不足しますか」


「歌手を中央へ固定するなら足ります」


 レティアはセラを見る。


「固定されますか」


「されない」


「では不足します」


「水路を増やすと、後方通路が狭くなります」


 セインが図面へ指を置いた。


「この位置には設置できません。避難幅が規定を下回ります」


「壁面へ上げます」


「落下防止の支柱が必要です」


「舞台内側へ一列移します」


「客席の視界を遮ります」


 レティアとセインは、しばらく図面の上で線を動かした。


 リラは口を挟まない。


 水の安全と避難経路は、二人の領域だった。


「この位置なら」


 レティアが舞台の側面を指す。


「歌手が、事前に承認された客席端の位置へ出た場合も、その位置用の固定補助板へ渡せます」


「通路幅も確保できます」


 セインが測定値を書き込む。


「ただし、観客参加を行う場合、立ち上がる演出は禁止です」


「光は座ったまま?」


「肩より下。小光石の出力も星冠祭と同じ上限です」


「参加しない公演もある」


 セラが言う。


「その場合、配布しない?」


「はい」


 セインは契約案へ条件を書いた。


「観客参加を宣伝へ使用する場合でも、当日の歌手と演出家、安全担当者の承認がなければ実施しません」


「実施しない可能性を広告へ記載します」


 エドガーが答えた。


     ◇


「闇は、星冠祭より短くできますか」


 エドガーがノアへ尋ねる。


「理由は?」


「闇が長いという感想が、一部ありました」


「何人?」


「調査票では七十六名です」


「怖かった人と、長いと思った人は別?」


 ノアが尋ねる。


 エドガーが資料を確認する。


「質問項目が分かれていません」


「なら、短くする理由にならない」


「顧客の意見です」


「次は分けて聞いて」


 ノアは大劇場の図面を自分の方へ引いた。


「闇の長さは、転換と避難路で決める。客が好きかだけでは決めない」


「最大時間は?」


「舞台暗転は八秒。客席外周の薄い闇は、歌と安全で変える」


「毎回同じ時刻で使えますか」


「歌が同じなら」


「歌は変わります」


「なら変わる」


 ノアは、契約案の自分の欄を指した。


「夜間作業なし。稽古は一日四時間まで。休憩を一時間ごとに入れる」


「本番が夜の場合は?」


「本番だけ許可。終演後の片づけはしない」


「出演料は?」


「銀貨二枚半では足りない」


 ノアは淡々と言った。


「星冠祭より規模が大きい」


「希望額は?」


 ノアが金額を伝える。


 ラウルが振り向いた。


「俺より高くないか?」


「準備時間を含む」


「俺にも準備がある」


「交渉して」


 ノアは蜂蜜牛乳を一口飲む。


「年少だから安くするのは禁止」


「承知しています」


 エドガーは笑わず、要求額を記録した。


「正式契約には、本人、工房責任者、法的な保護責任者の承認を取ります」


「蜂蜜牛乳は?」


「現物支給として記載しますか」


「書いて」


「そこまで?」


 リラが尋ねる。


「契約」


 ノアの返事に、エドガーは飲料二本と書き足した。


     ◇


「幻影の記録利用は、上演契約と分けてください」


 エヴレンが言った。


「公演記録は宣伝に必要です」


「全景記録と、私の幻影を単独で再利用する権利は別です」


「記録映像の一部を広告へ使用するのは?」


「公演ごとに確認します」


「毎回ですか」


「私の幻影も毎回変わります」


 エヴレンは契約書へ細い線を引く。


「星冠祭の窓、道、未完成の翼を、そのまま別の歌へ使わないでください」


「観客には人気があります」


「人気があるから、別の歌へ勝手に移すのですか」


「販売上は、認知された意匠を――」


「私たちは、観客が好きだったものを集める箱ではありません」


 エヴレンの声から、いつもの芝居がかった柔らかさが消えた。


「前の公演で生まれた形には、前の歌と、全員の判断が入っています」


 エドガーは一度黙り、契約書の物販欄を閉じる。


「記録、広告、商品化は、上演権と別契約にします」


「制作者名の表示も」


「全員分を?」


「全員分です」


 エヴレンは満足そうに背もたれへ身体を預けた。


     ◇


 昼を過ぎるころ、長机には修正された紙が何枚も並んでいた。


 保証するもの。


 歌手と全担当者がいること。


 最低限の稽古日数。


 安全な設備。


 停止手順。


 報酬。


 誰が何を作ったかを表示すること。


 保証しないもの。


 同じ歌詞。


 同じ涙。


 同じ即興。


 炎の翼。


 観客の灯。


 同じ感情。


 エドガーは、修正案を最初から読み直した。


「全員、要求が多いですね」


「共同制作者ですから」


 レティアが答える。


「統一した窓口は必要です」


「連絡は、リラさんへまとめても構いません」


 マリエが言う。


「ただし、創作上の判断は各担当者へ確認してください」


「返答期限も必要です」


 セインが加えた。


「依頼当日に回答を求めない。変更案は最低三日前。安全に関わる変更は、再試験が終わるまで採用しない」


「緊急時は?」


「本番中の危険なら、許可を待たず中止します」


「興行主にも中止権は?」


「あります」


 セインはエドガーを見る。


「ただし、続行を命じる権限はありません」


「舞台を止めることはできても、止めた者へ再開を強制できない?」


「そのとおりです」


 エドガーは長く息を吐き、椅子へ背を預けた。


「十公演を一度に契約するのは難しそうです」


「一公演なら?」


 リラが尋ねる。


「採算は悪くなります」


「安全と続けられるかを確認する費用です」


「一公演だけ成功して、残りを断られる可能性もある」


「あります」


 リラは誤魔化さなかった。


「組合にとっては、かなり不利です」


「私たちも、一度で全員の生活を押さえられる契約はできません」


 ラウルには花火工房がある。


 レティアには水務研究所。


 エヴレンは王立劇場。


 マリエは音楽院。


 セインは防衛隊。


 ノアには工房と、年齢に応じた時間制限がある。


 セラとリラだけで、全員の十公演を売ることはできなかった。


「最初の一公演を正式契約にする」


 エドガーが言った。


「終了後、安全記録、収支、観客への提供内容を確認する。そのうえで、追加九公演について、組合へ優先交渉権を与えていただきたい」


「追加公演は自動で決まらない?」


「出演者全員の書面による再承認を条件とします」


「断れる?」


「理由を問わず」


 ノアがすぐに確認した。


「はい」


「報酬は毎回、同じ?」


「最低保証は同額。追加設備や創作内容によって増額協議を行います」


「下げない?」


「下げません」


 ノアがうなずく。


「それなら読む」


「まだ署名はしない?」


 リラが尋ねる。


「保護責任者と工房に見せる」


「正しい」


     ◇


 料金表の確認へ移る。


 最も安い後方席でも、銀貨一枚だった。


 セラの指が、金額の上で止まる。


「高い」


「王都大劇場としては、最低価格です」


 エドガーが説明する。


「会場費と安全設備を考えれば、これ以上下げると赤字になります」


「フィンは入れない」


 リラが言う。


「一人の客を基準に料金を決めることはできません」


「フィンだけじゃない」


 南区には、星冠祭の路上公演を見た子どもが何人もいる。


 あの一人から始まった舞台なのに、大劇場へ移った途端、最初の客が入れなくなる。


「子ども席を作れませんか」


「差額を誰かが負担する必要があります」


「セラさんの肖像商品を販売すれば――」


「顔は売らない」


 セラが即答する。


「肖像を使用しない商品では、売上規模が下がります」


「歌詞カードならいい」


「歌詞だけで商品になりますか」


「読みたい人はいる」


「字、小さいよ」


 リラが言う。


「リラが清書して」


「私が?」


「歌詞の権利は私。清書だけリラ」


「絵は?」


「勝手に足さないで」


「光の枠くらいは」


「先に見せて」


「はい」


 マリエが紙へ項目を書き加える。


「歌詞冊子に、楽曲構成と制作担当者の記録を入れてはどうでしょう」


「舞台設備の図も」


 レティアが言う。


「安全図面を商品へ載せることはできません」


 セインが即座に止める。


「一般向けに簡略化します」


「公開可能範囲は確認します」


「俺の火の設計も入れろ」


「危険な術式手順は載せません」


「完成画だ!」


「幻影の図も、制作者名つきで」


 エヴレンが加わる。


 エドガーは全員の発言を聞き、収支表へ数字を書き込んだ。


「制作冊子の利益の一部を、子ども席の差額へ充てることは可能です」


「売れなかった場合は?」


 レティアが尋ねる。


「商人組合と、南区商店会の協賛枠で不足分を折半します」


「子ども席は何席?」


「まず五十席」


「少ない」


 セラが言う。


「大劇場で採算を維持できる上限です」


 セラは客席図を見る。


 すぐには納得しなかった。


「百席」


「難しい」


「七十五」


 エドガーが計算する。


「六十席。さらに当日、冊子の予約数が基準を超えた場合、追加二十席を開放します」


「最初から八十にして」


「保証できるのは六十です」


 セラの眉が寄る。


 リラは横から決めなかった。


「六十席は、必ず?」


「必ず確保します」


「追加分は、いつ決まる?」


「公演一週間前」


 セラは少し考えた。


「それで、一回やる」


 エドガーは子ども料金枠へ印をつけた。


     ◇


 最終案ができたころには、窓から入る光が橙色へ変わっていた。


 酒場の店主が、冷めた料理を温め直すか尋ねに来る。


「交渉中に食べるなと言われた」


 ラウルが、ずっと残っていた肉料理を見る。


「もう終わりです」


 レティアが答えた。


「食べて構いません」


「冷えてる」


「温めてもらってください」


「火ならある」


「店内で出さないでください」


 いつもの言い争いが戻る。


 エドガーは、修正された契約書を全員の前へ並べた。


 正式契約は、一公演のみ。


 追加九公演は、組合の優先交渉対象。


 続行には、出演者と技術担当者全員の再承認が必要。


 歌詞、歌唱、私的記憶に関する最終判断はセラ。


 統合演出はリラ。


 音楽構成と奏者判断はマリエ。


 火、水、闇、幻影、雷の使用判断は各担当者。


 全員が停止権限を持つ。


 肖像、記録、意匠、商品化は別契約。


 未成年者の勤務条件と保護手続き。


 子ども料金枠。


 制作冊子の権利と収益配分。


 署名欄には、一人ずつ異なる役職が記されていた。


 歌手。


 統合演出。


 音楽構成。


 闇演出・退避設計。


 火炎演出・防火設計。


 水演出・水路設計。


 幻影演出・視覚設計。


 雷信演出・安全連携。


 奏者代表。


 音響技師。


 舞台安全責任者。


 誰か一人の名前の下へ、まとめられてはいない。


「今日は、仮署名です」


 セインが確認した。


「各自が持ち帰り、所属先と必要な責任者へ確認したあと、正式署名を行います」


「一週間以内に回答をお願いします」


 エドガーが言う。


「急がせすぎでは?」


 リラが尋ねる。


「大劇場の仮予約期限です」


「延ばせますか」


「三日までなら」


「では、十日」


 セラが言った。


「一週間で足ります」


 セインが答える。


「ノアさんの手続きも含め、七日で確認可能です」


「無理な人は?」


「期限内に判断できなければ、参加しない選択になります」


 セインは全員を見る。


「沈黙を承認として扱わないことが重要です」


「七日で」


 セラはうなずいた。


     ◇


 仮署名が始まった。


 セラは、自分の名前を歌手欄へ書く。


 マリエは、音楽構成の範囲をもう一度確認してから署名した。


 ラウルは大きすぎる字で、隣の欄へ少しはみ出した。


「狭い」


「あなたの字が大きいのです」


 レティアは、はみ出した線を避けて正確に書く。


 エヴレンは、署名まで美しく見せようとして時間を使った。


 セインは、日時を秒までは書かず、日付だけに留めた。


 ノアは自分の欄へ名前を書き、その横へ小さく、


 ――蜂蜜牛乳二本。


 と追加した。


「本文にもうあります」


 エドガーが言う。


「署名の近くにも必要」


「必要ありません」


「消さない」


 エドガーは諦め、訂正しなかった。


 最後に、リラへ筆が回ってくる。


 統合演出。


 その下に、自分の名前を書く欄がある。


 以前なら、少しでもほかの者の邪魔にならないよう、小さく書いただろう。


 リラは、欄の中央へ筆を置いた。


 ほかの者と同じ大きさで、


 リラ・オルフェン。


 と書いた。


 セラが横から確認する。


「普通」


「褒めてる?」


「大きさの話」


「字は?」


「少し曲がってる」


「そこは見逃して」


     ◇


 エドガーは契約書を閉じる前に、全員を見た。


「一つだけ、確認させてください」


「まだ条件が?」


 ラウルが冷めた肉へ手を伸ばす。


「商人としてではなく、この公演へ資金を出す者として聞きます」


 エドガーは、星冠祭の記録画が載った新聞を机へ置いた。


「次の公演は、星冠祭を超えられますか」


 誰もすぐには答えなかった。


 星冠祭では、予定外の風が吹いた。


 歌声が途切れた。


 観客が自分の光を出した。


 セラが泣き、歌詞を変えた。


 全員が最大演出を捨てた。


 同じ条件は、二度と揃わない。


「超えることを約束したら、昨日を基準にします」


 セラが言った。


「では、下回る可能性もある?」


「ある」


「それでも料金を取る?」


 エドガーの問いは、厳しい。


 間違ってはいない。


 リラは、すぐにきれいな答えを返さなかった。


「技術を下げるつもりはありません」


 自分の手を机へ置く。


「安全も。準備も。誰が何を決めるかも、星冠祭より良くします」


「感動は?」


「保証できません」


「観客へ何を売るのですか」


 リラは、セラが持ってきた新しい歌詞を見た。


 同じ道を、違う速さで歩く二人。


 まだ、どこへ着くのか決まっていない歌。


「完成した感情ではなく、歌が舞台になる時間です」


「成功するか分からなくても?」


「分かりません」


 リラは正直に答えた。


「だから、次の歌を聞きます」


 エドガーはしばらく黙っていた。


 やがて、星冠祭再演と書かれた表紙へ線を引く。


 その上に、新しい文字を書いた。


 ――複合魔法歌唱公演『歌が見えた』第一回大劇場公演。


「同じ夜ではない」


 エドガーが言う。


「違う夜です」


「それを売るのは、難しいですよ」


「作るのも難しいです」


 リラが答えると、エドガーは初めて少し笑った。


 契約書が閉じられる。


 その日、彼らが売ったのは、星冠祭の奇跡ではなかった。


 安全に止まれる仕組み。


 選び直せる時間。


 それぞれが自分の仕事へ名前を置く権利。


 そして、まだ誰にも見えていない次の夜を作るための、一度分の約束だった。

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