第三幕「星冠祭」 第58話 最初の一粒
倉庫の奥から、セラが一枚の紙を持ってきた。
声はまだ少しかすれているが、短い会話ならできるところまで戻っていた。
「新しい曲?」
「途中」
「見ていい?」
セラは紙を差し出す。
「渡してる」
「でも、前に勝手に読んだから」
リラは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「これは、読んでほしくて渡した?」
「うん」
「演出を考えてもいい?」
「読んでから聞いて」
「了解」
リラは紙を受け取った。
歌詞は、まだ一番の途中までしかない。
最初の歌とは違う。
待つ灯も。
帰れない街もない。
同じ道を歩く二人がいる。
片方は速く。
片方は何度も立ち止まる。
先を行く者が振り返っても、戻ってはこない。
遅い者も、追いつくためには走らない。
別々の速さのまま、同じ場所ではなく、同じ方向だけを見ている歌だった。
「これ、誰のこと?」
リラが尋ねる。
「知らない」
「紙を持ってた右手、跡がついてるよ」
セラの指が、紙の端をつまんでいた形のまま赤くなっている。
「見るのやめて」
「歌詞を?」
「手」
「はい」
リラはすぐに視線を紙へ戻した。
セラが、ほんの少しだけ息を吐く。
「演出、考えていい?」
「歌詞は変えない」
「変えない」
「許可なく、私の記憶を使わない」
「使わない」
「昨日の客が喜んだものを、必ず入れようとしない」
「客席の灯も、炎の翼も、必要か聞く」
「私だけで決めない」
「仲間にも聞く」
「リラは、勝手に全部背負わない」
奥からノアの声が加わった。
「聞こえてたの?」
「倉庫は広くても、リラの声は大きい」
「顔じゃないんだ」
「今の顔もうるさい」
ノアは工具箱を枕にしたまま、こちらを見ていなかった。
◇
ラウルとレティアが、依頼書を抱えて奥の机へ移動する。
マリエは、セラの新しい歌詞を見たそうにしながらも、許可を待っていた。
「マリエにも見せる?」
セラが尋ねる。
「よいのですか」
「音の相談をしたい」
マリエは手を洗い、紙を受け取る。
「伴奏は?」
「まだ分からない」
「歌い始める音は?」
「それも」
「なら、決める前に一度、声だけを聞かせてください」
「喉が治ってから」
「待ちます」
マリエは読んだ紙を、自分のもののように折らず、セラの前へ戻した。
「二人の速度は、最後まで変わりませんか」
「まだ決めてない」
「同じ速さへそろえる必要は?」
「ないと思う」
「では、伴奏も二人を一つの拍へまとめない方がよさそうです」
「どうするの」
「まだ、分かりません」
セラの口元が少し上がった。
「同じ」
「はい」
答えがないことを、失敗のようには扱わなかった。
◇
リラは新しい歌詞を見る。
頭の中へ、色が浮かぶ。
速く進む金色の粒。
遅れて揺れる青い光。
二筋の道。
遠くで一つへ重なる景色。
指先に光を出しかけ、閉じた。
思いついたものを、すぐ演出へ変えない。
「この歌を歌うとき、何が見える?」
リラが尋ねる。
セラは紙へ目を落とす。
「道」
「どんな?」
「まだ分からない」
「明るい?」
「分からない」
「二人は、最後に会う?」
「決めてない」
セラの返事が短くなる。
リラは、それ以上質問を重ねなかった。
「分からないところが多いね」
「嫌?」
「うれしい」
「どうして」
「勝手に完成させられないから」
リラは指先へ、豆明かりを一つだけ灯した。
「分からない場所へ、一緒に光粒を置ける」
「私が違うと思ったら?」
「消す」
「すぐ?」
「説得する前に」
セラは、豆明かりへ指を近づけた。
触れない距離で止める。
「なら、考えていい」
◇
「もう一通、届いてる」
セラが言った。
「何が?」
「リラが鞄の下へ入れた手紙」
リラの肩が止まる。
「見てた?」
「二回読んで、急に仕事を増やしたから」
「関係ないよ」
「顔が関係ある」
リラは鞄の留め具へ手を伸ばした。
一番下から、白い封筒を取り出す。
王宮光術団の紋章が押されている。
「読む?」
セラが尋ねる。
「もう読んだ」
「私が」
リラは封筒を渡した。
セラが書状を開く。
星冠祭で行われた歌の視覚化は、筆頭光術師一名の出力と操作数のみでも成立させられる可能性がある。
火、水、闇、幻影、雷を使用せず、光のみで一曲の全景を描く。
公開検証を希望する。
礼儀正しい文面だった。
リラたちの舞台を否定する言葉はない。
ただ、一人で代替できる可能性が、淡々と書かれている。
「怖い?」
セラが尋ねる。
「かなり」
「何が」
「私たちが八人でやったことを、一人でできるって言われること」
「できるかもしれない」
「そこは否定してほしかったなあ」
「見てないから分からない」
セラは書状を机へ置く。
「強い光なら、炎も、水も、雷も、見える形は作れると思う」
「うん」
「闇も、周りを明るくすれば暗く見える」
「うん」
「エヴレンの街も、光だけで描けるかもしれない」
リラの指先で、豆明かりがわずかに揺れた。
「じゃあ、私たちはいらない?」
「分からない」
「また、それ?」
「まだ見てない」
セラは逃げずに答えた。
「一人で全部作れることと、一人で作った方がいいことは同じじゃない」
「でも、同じ景色が作れるなら」
「同じかどうかは、誰が決めるの」
「観客?」
「また数える?」
リラの口が閉じた。
セラは王宮光術団の書状へ指を置く。
「その人が何を見せたいのかは、聞いてみたい」
「私も」
「負けるかもしれない」
「うん」
「会わない?」
リラは、強い光術師が一人で作る舞台を想像する。
自分より明るい光。
自分より多い光粒。
遠い客席まで、誰の助けも借りずに届く景色。
怖かった。
けれど、その人が歌をどう聞くのかは知りたかった。
「会う」
「今すぐ?」
リラは新しい歌詞を見る。
まだ行き先の決まっていない二人の道。
「返事は今日、書かない」
「逃げる?」
「順番を選ぶ」
リラは王宮の書状を鞄の底へ戻さなかった。
新しい歌詞とは重ねず、机の端へ置く。
「今日は、こっち」
セラがうなずいた。
◇
旧兵站庫の扉が開く。
外へ出ていたラウルが、依頼書の束を抱えて戻ってきた。
午後の光が、広い床へ差し込む。
その中では、リラの豆明かりは小さすぎた。
金色の陽射しに紛れ、少し離れればどこにあるか分からない。
「消えた?」
セラが尋ねる。
「あるよ」
リラは指先を、セラの方へ少し近づける。
近くまで来れば、弱い核の周囲で光粒が動いているのが見えた。
「見える」
セラが言う。
「一人分の距離ならね」
「今は、それでいい」
ノアは工具箱の上で目を閉じている。
マリエは、新しい歌の拍をまだ書かずに待っている。
ラウルとレティアは、それぞれの名前が書かれた依頼書を自分の机へ運ぶ。
エヴレンは、全員の仕事を記録へ残すための訂正要求を書いていた。
セインの席には、全員の名を記した雷信隊への報告書が置かれている。
歌手。
演出家。
闇、火、水、幻影、音、雷を扱う者。
安全を守り、記録し、運ぶ者。
仕事には、それぞれの名前がつき始めていた。
リラは指先の光を、新しい歌詞の上には置かなかった。
紙から手のひら一つ分離れた空中で、一粒だけ止める。
セラも答えを決めないまま、その光を見ていた。
次の舞台は、まだ何も見えない。
だから今度も、二人で最初の一粒から始められた。




