第三幕「星冠祭」 第56話 次の話
最後に、商人組合の代表が分厚い契約案を机へ広げた。
「王都大劇場での再演をご提案します」
紙には、公演回数、会場費、広告費、物販収益の見込みが細かく記されている。
「全十公演。会場、衣装、宣伝、設備運搬費は組合が負担します」
リラの目が、提示された金額へ向く。
自分たちが集めた星冠祭の予算とは、桁が違う。
「歌姫セラの肖像画、炎の翼を模した玩具、観客用の小光石、演目記録冊子も商品化できます」
ノアの報酬。
マリエや奏者の給金。
安全係。
運搬担当。
今回は最低額しか払えなかったリラ自身の報酬も、正式な仕事として確保できる。
「昨夜と同じ演目を、十回?」
セラが尋ねた。
「同じ感動を、より多くのお客様へお届けします」
商人組合の代表は、迷いなく答えた。
セラの指が、契約書の上で止まる。
「同じ歌詞?」
「昨夜、最も反応の大きかった形を基本とします」
「私が泣いたところも?」
「そこまで再現を求めるものでは――」
「歌詞を変えたところは?」
「観客から好評だった部分です。固定すれば、宣伝もしやすいでしょう」
セラは契約書から手を離した。
「嫌」
短い声だった。
「条件は交渉できます」
「泣く場所と、歌を変える場所を決められるなら、やらない」
商人の表情が硬くなる。
「観客へ、何を提供するかを約束する必要があります」
「歌うことは約束できる」
「内容は?」
「その日に選ぶ」
「それでは商品として成立しません」
リラの頭の中で、別の計算が始まる。
十公演分の売上。
最低保証。
物販収益。
この機会を逃した場合、次に同規模の契約が来る保証はない。
成功直後の熱があるうちに決めなければ。
そんな焦りが、胸を前へ押した。
「同じ夜は、作れません」
リラは言った。
「完全な再現でなくても構いません」
「同じ感情を演じさせることはできない」
「演技を求めているわけではありません」
「結果として同じなら、過程は違ってもよいと?」
「商業公演には、一定の品質保証が必要です」
商人の言葉は間違っていない。
客は金を払う。
昨日は見えたものが、今日は何も見えないでは困る。
「再現できるものはあります」
リラは契約書を自分の方へ引く。
「安全手順。停止権限。基本の舞台設備。合図の体系。歌手が変更したとき、追えない魔法を出さないこと」
「演出内容は?」
「選択肢までは用意できる。でも、どれを使うかは毎回変わる」
「火の翼が出ない夜も?」
「あります」
「雷を使わない場合も?」
「あります」
「観客の光は?」
「参加を求めない歌なら、使いません」
商人組合の代表は、難しい顔で契約案を見る。
「それでは、昨夜の演目の再演とは呼べない」
「同じ方法で、違う舞台を作る公演です」
「何を宣伝すればよいのですか」
リラはすぐに答えなかった。
昨日の奇跡。
歌が見える舞台。
毎回違う公演。
どれも、言い方を誤れば、再現できないものを売ることになる。
「歌手が、その日に選んだ歌を歌う」
セラが言った。
掠れた声を使ったため、最後に小さく咳をする。
それでも続けた。
「演出家と仲間が、その歌を聞いて舞台を作る」
リラを見る。
「同じにならないことを、約束する」
商人の眉が上がった。
「違うことを保証する?」
「全部を変えるという意味ではありません」
リラが引き取る。
「同じ夜を偽物として再現しない。安全と技術は積み上げる。その日の歌を、前の成功へ戻さない」
「それで十公演を埋められますか」
「私たちだけでは決められません」
言い終えてから、リラ自身が少し驚いた。
以前なら、ラウル、レティア、ノア、エヴレン、マリエ、セインの参加を前提に、すぐ条件を並べていた。
「参加する術者と奏者へ、まだ聞いていないので」
「昨夜の出演者を、そのまま起用する案です」
「本人たちが受けるとは限りません」
「報酬は十分に用意できます」
「お金があっても、ラウルには工房がある。レティアには研究所。エヴレンは劇場。マリエは音楽院。セインは防衛隊です」
ノアには年齢と工房の契約がある。
それぞれの生活がある。
「私が、全員の参加を約束することはできません」
商人組合の代表は、椅子へ背を預けた。
「では、今日、何を決められますか」
リラはセラを見る。
「私たちが公演をしたいかどうか」
「私は、したい」
セラが答える。
リラの胸が弾む。
すぐに笑顔が大きくなりかけたが、次の言葉を待った。
「でも、昨日と同じ歌は、もう歌えない」
「うん」
「違う歌を作りたい」
「うん」
「その歌を、誰と作るかは、一人ずつ聞く」
「うん」
リラは商人の方へ向き直った。
「今日は、再演契約には署名しません」
「提案を拒否するのですか」
「持ち帰ります」
「いつまでに回答を?」
「全員が契約案を読み、自分の条件を出せるだけの時間をください」
「商機を逃す可能性があります」
「急いで誰かを置いていったら、また公演そのものを失います」
会議室の窓から、朝の光が机へ入っている。
契約書の金額だけが、白く浮かんで見えた。
リラは紙を閉じなかった。
拒絶ではない。
成功の勢いに押されて、今日決めないだけだった。
「こちらから、原則案は出します」
「どのような?」
「歌詞、歌唱、私的記憶の最終判断はセラ。統合演出は私。魔法と安全の判断は各担当者。全員に停止権限がある」
そこで、リラは一度止まる。
「ここまでは、昨日の公演で本人たちと決めた内容です」
「物販は?」
「肖像、衣装、魔法の意匠、名前を使うなら、それぞれ本人の許可が必要です」
「未成年術者については?」
「ノア本人と、工房責任者、それから法的な保護責任者の確認を取る」
「利益配分は?」
「それも、私が一人で決めません」
リラは契約書の最後へ、今日の日付だけを書き込んだ。
「次の会議には、全員を呼んでください」
◇
交渉は、その日にはまとまらなかった。
商人組合の代表は不満そうだったが、契約案を撤回はしなかった。
「三日以内に、協議参加者の名簿を提出してください」
「分かりました」
「全員を呼べば、交渉が複雑になります」
「公演も複雑です」
「商売では、複雑さは費用になります」
「人を省いた費用は、あとで事故になります」
代表はしばらくリラを見たあと、契約書を鞄へ戻した。
「昨夜のような公演を、組合は初めて見ました」
「私たちも初めて作りました」
「二度目を作れるか、疑っています」
「私もです」
リラは笑って誤魔化さなかった。
「だから、確認しながら作ります」
◇
会議室を出ると、長い廊下には朝の光が差し込んでいた。
昨夜の祭りの飾りが、窓の外でまだ揺れている。
セラは受験申請書を抱え、ゆっくり歩いていた。
「喉、痛くない?」
リラが尋ねる。
セラがうなずく。
「なら、喋らなくていいよ」
セラは筆談用の小さな板を出そうとした。
途中でやめる。
「公演、やりたい?」
掠れた声で尋ねた。
「すごくやりたい」
「昨日と同じにはできない」
「知ってる」
「もっと悪くなるかもしれない」
「うん」
「昨日は、風と客席の光に助けられた」
「うん」
「次は、誰も光を出さないかもしれない」
「そのときは、出さない歌になる」
セラが少し考える。
「怖くない?」
「怖いよ」
「それでも?」
「一回起きたことを、もう一回同じにする方が怖い」
「どうして」
「昨日を正解にしたら、次のセラを昨日へ戻すかもしれないから」
セラの足が止まる。
二人の間には、一歩分の距離がある。
「私は、昨日の歌を嫌いじゃない」
「私も」
「残したくないわけでもない」
「うん」
「でも、次は違う歌を作りたい」
「一緒に?」
リラの声が、少しだけ軽くなる。
「ほかの演出家を知らない」
「消極的な選び方だなあ」
「今のところ、リラがいい」
リラはすぐに笑えなかった。
胸の奥へ、ゆっくり熱が広がる。
「昨日の成功を理由に、全部任せるわけじゃない」
「うん」
「嫌なら止める」
「うん」
「勝手に分かったふりをしたら」
「止める」
「そのあと?」
「怒られる」
セラの口元が少し上がる。
「あとで怒る」
「それ、ずっと使う気?」
「便利だから」
リラも笑った。
◇
廊下の角で、先ほどの事務官が二人を呼び止めた。
「歌手の方と、演出補佐の方」
セラが振り返る。
まだ掠れた声で、短く言った。
「歌手と演出家です」
「法令上は――」
「制度が遅れてるだけ」
事務官は言葉を失う。
リラが藍色の外套の袖を整えた。
「そのうち、書類も追いついてください」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
次の公演は、まだ決まっていない。
仲間たちの返事も。
契約も。
次に歌う曲さえ、何もない。
それでも、誰が歌い、誰がその歌を見える場所へ連れていくのかだけは、もう決まっていた。




