第三幕「星冠祭」 第55話 歌手と演出家
翌朝、リラが目を覚ますと、右脚の感覚がなかった。
休憩室の椅子へ浅く腰かけたまま眠っていたらしい。
藍色の外套は肩から半分ずり落ち、膝の上にはノアの頭が載っていた。黒藍色の髪が片側へ広がり、頬の下に工具袋が挟まっている。
「ノア」
「寝てる」
「返事したよ」
「寝言」
「脚が動かないんだけど」
「枕の品質が低い」
「借りてる側の感想が厳しいなあ」
ノアは目を閉じたまま、頭の位置を少し変えた。
痺れた脚へ、さらに重さがかかる。
「起きる気は?」
「蜂蜜牛乳」
「朝から請求?」
「延長料金」
扉が開き、祭典庁の職員が顔を出した。
「リラ・オルフェンさん。セラ・アルメリアさん。総監督から、会議室へ来るようにとのことです」
「今?」
「三十分後です」
「ノア、聞いた?」
「三十分ある」
「二十九分、寝る気だ」
ノアは否定しなかった。
◇
三十分後。
祭典庁の会議室には、アルド、王立音楽院の代表、祭典庁の事務官、商人組合の代表が並んでいた。
長机の上には、昨夜の安全記録、観客調査、新聞用の速報原稿、複数の契約書が積まれている。
リラは椅子へ座った途端、欠伸をのみ込んだ。
隣にはセラがいる。
喉を守るため、首元へ薄い布を巻き、温かい水の器を両手で持っていた。医務係から、必要なとき以外は声を出さないよう言われている。
「先に、観客調査の速報値をお伝えします」
祭典庁の事務官が一枚目の紙を開いた。
「回答者千二百四十六名中、『非常に満足』が七十四パーセント。『満足』が十九パーセント」
リラの視線が、紙の数字を追う。
「『同様の演目を再び見たい』が八十八パーセント。安全上の事故はゼロ。軽度の体調不良は三名、いずれも混雑または長時間の立ち見によるものと報告されています」
七十四。
十九。
八十八。
頭の中で、足し算が始まる。
不満と回答した割合。
次回公演を望まなかった十二パーセント。
闇が長いという意見がどの席に多かったか。
歌声が途切れた後方席の満足度は――。
リラの指が、机の上で数字を書くように動いていた。
「リラ」
セラのかすれた声がする。
「何?」
「今、どこ見てるの」
「数字」
「私は?」
リラは顔を上げた。
セラは調査票ではなく、リラを見ている。
「ごめん」
「数字が嫌なわけじゃない」
セラは一度、水を口に含んだ。
「でも、昨日の歌と同じものにしないで」
「うん」
リラは調査票から手を離した。
「うれしい?」
小声で尋ねる。
「うれしい」
セラの返事は、迷いがなかった。
「たくさんの人が、また見たいと思ってくれたのは、うれしい」
「私も」
「でも、何を見たかは分からない」
「そうだね」
「だから、八十八パーセントの人が、同じものを見たとは言わないで」
「言わない」
リラは数字を覚えたまま、それ以上の意味を加えなかった。
◇
音楽院の代表が、別の書類をセラの前へ置いた。
「特例公演の審査結果です」
セラは水の器を机へ置く。
「星冠祭での歌唱実績、安全記録、観客評価、参加した奏者からの報告を検討しました」
代表は紙の最初の項目を指した。
「セラ・アルメリアに、公演歌手資格の受験申請を認めます」
正式な合格ではない。
これから複数の公演審査と、発声、舞台安全、楽団連携の試験を受けなければならない。
それでも、以前は申請書を受け取ることさえ拒まれていた門だった。
セラは書類を手に取る。
指で端を押さえ、最初から最後まで読む。
「即興歌唱については、安全基準を新設する必要があります」
音楽院代表が続けた。
「昨夜の演目は成功しました。しかし、予定外の歌唱変更を一般的な公演へそのまま認めることはできません」
「分かっています」
セラの声が掠れる。
「声を出さなくても構いません」
代表が言う。
セラは机に置かれた筆を取り、余白へ書いた。
――歌を固定するのではなく、周囲が止まれる基準を作ってください。
代表は、その一文を読む。
「歌手が変更を予告する手順と、奏者や術者が追従しない権限を含める、という意味ですか」
セラがうなずく。
「検討します」
「検討だけ?」
リラが口を挟む。
アルドの杖が、机の下でリラの靴を軽く叩いた。
「痛い」
「本人の話を奪うな」
「補足しようとしただけです」
「補足が早い」
セラが新しい一文を書く。
――私も基準作りに入ります。
音楽院代表の眉がわずかに上がった。
「受験者が制度設計へ参加した前例はありません」
セラは、すぐに次を書く。
――歌う側がいないと、同じ失敗をします。
会議室が静かになる。
代表は反論せず、その紙を自分の側へ引き寄せた。
「演者代表としての意見聴取を提案します。正式な委員ではありませんが、基準案の確認は依頼できるでしょう」
セラは短くうなずいた。
◇
「もう一点」
音楽院代表は、細い封筒を差し出した。
「王立音楽院への特別編入も選択できます。通常の入学試験を免除し、個別課程へ入る制度です」
「入りません」
今度は声で答えた。
返事が早すぎて、喉が少し咳き込む。
リラが温かい水を近くへ寄せた。
「考えてから答えても遅くありません」
「考えました」
セラは水を飲み、呼吸を整える。
「歌唱技術は学びたい。喉を壊さない歌い方も。楽団や音響との合わせ方も必要です」
「なら、学院で体系的な教育を――」
「私の歌を、楽譜へ戻す場所には戻らない」
声は小さい。
けれど、代表から目を逸らさなかった。
「全教員が、あなたの即興を否定するわけではありません」
「知っています」
「学院そのものを拒むのですか」
「今は、入らないと決めます」
セラは封筒を相手へ戻した。
制度そのものへ二度と関わらないと誓うのではない。
今の自分が、どこで学ぶかを自分で選んだ。
「個別指導の講師なら、こちらで紹介できる」
アルドが言った。
セラが横目で見る。
「私の歌を直そうとしない人?」
「直すべきところは直す」
「同じ」
「喉を壊す発声と、歌の選択を混同しない者を選ぶ」
「誰」
「候補は三人いる。お前が話して選べ」
「アルドが決めない?」
「歌うのはお前だ」
セラは少し考え、筆を取った。
――話だけ聞く。
「それでいい」
アルドは候補者の名前を書いた紙を、セラの側へ置いた。
◇
祭典庁の事務官が、今度はアルドへ向けて書類を開いた。
「星冠祭の特例実験演目に関する監督責任についてです」
リラの背筋が伸びる。
「百人試演において、演者本人の同意が確認されていない記憶表現を使用し、拒否の表明後も演目を継続しようとした件について、調査結果が出ました」
昨日の拍手とは別の時間が、会議室へ戻ってくる。
「祭典総監督として、即時介入を行わなかった責任を認定します」
事務官は処分内容を読み上げる。
「実験演目に関する総監督単独の裁量権を、一年間停止します。今後の特例演目は、安全責任者、演者代表、総監督の三者承認制とします」
「予算は?」
アルドが尋ねる。
「実験予算を三割削減。安全審査費用は削減対象外です」
「妥当だ」
アルドは筆を取った。
「待って」
リラが椅子から腰を浮かせる。
「昨日は事故なく終わりました。止まる手順も作って、三百人の試験も通して――」
「座れ」
アルドは署名の手を止めなかった。
「でも」
「昨日の成功は、百人試演の同意違反を消さん」
「アルドさんだけの責任じゃない」
「お前の責任もある」
「なら、私にも処分を」
「後で来る」
「来るんだ」
リラはゆっくり椅子へ戻った。
隣で、セラが机を指先で一度叩く。
「成功したから、なかったことにしたい?」
「したくない」
「なら、止めないで」
セラはアルドの書類を見る。
「私も、処分がある方がいい」
「どうして」
「次の人が、成功すれば許されると思わないため」
アルドは署名を終えた。
「賭けに負けた代金ではない」
紙を事務官へ返す。
「人を守る前に、自分の失敗を恐れた代金だ」
その声に、自嘲はなかった。
自分を罰して終わろうとする顔でもない。
「三者承認は悪くない」
アルドは続ける。
「一人で決められなくなるだけだ」
「不便では?」
事務官が尋ねる。
「不便にすべき場面だった」
◇
「続いて、リラ・オルフェンさん」
リラの前へ、別の書類が置かれた。
「百人試演における同意確認違反については、総監督の管理下で行われた非公開試演であり、現行資格の停止処分対象とはなりません」
「資格、持ってないから?」
「はい」
「少し複雑な気持ちです」
「ただし、正式な演出業務へ就くには、特例試験を受けていただきます」
「演出家の?」
「演出補佐資格です」
「補佐?」
リラの眉が上がる。
「現行制度には、あなたが行った業務を正確に表す資格区分がありません」
事務官は説明書を開いた。
「総監督は祭典全体の進行と責任を担います。舞台監督は設備と人員を管理します。魔法技術監督は各術式の安全統合を行います」
「私は?」
「歌唱、伴奏、複数属性の魔法、観客参加、視線誘導を、歌手の変化に合わせて統合した」
「それを演出家って呼びませんか」
「日常語としては」
「法令でも呼んでください」
事務官が困った顔をする。
アルドが喉の奥で笑った。
「制度を作れと言っているぞ」
「簡単に言わないでください」
「昨日、前例のない公演を許可した役所だろう」
「その結果、今日この書類の山があります」
事務官はこめかみを押さえた。
「当面は、実験演目演出補佐として登録します。アルド総監督の監督下で実務経験を積み、特例試験を通過した後、業務区分の新設を検討します」
「補佐だと、最終判断はアルドさん?」
「制度上は」
「歌詞や歌い方も?」
「それは演者本人の権限です」
「統合演出は?」
「現状では総監督の承認が必要です」
リラは書類へ目を落とした。
補佐という文字が、小さく印刷されている。
以前なら、資格がもらえるだけで喜んだかもしれない。
あるいは、肩書などいらないと笑って、自分を小さく扱っただろう。
「仕事内容を明記してください」
「仕事内容?」
「歌手の選択を受けて、各担当者が追従するか止まるか判断できる合図を設計する。統合演出の提案と、上演中の変更判断を行う」
「それを資格証へ?」
「少なくとも登録記録には」
リラは書類の余白を指した。
「演出補佐だけだと、私が何をした人か見えないから」
セラが筆を取り、紙へ一行書く。
――演出家。
「これは公文書です」
事務官が言う。
セラはもう一行加えた。
――役所の書類が遅れているだけ。
アルドが声を上げて笑った。
「お前より話が早いな」
「今、声が出ないから強いんですよ」
「普段から強い」
事務官はしばらく二人を見たあと、登録内容の備考欄へ筆を入れた。
――複合魔法歌唱演目における統合演出担当。
「現時点では、ここまでです」
「演出家とは書けない?」
「制度ができたら」
「作ります?」
「検討します」
「逃げた」
「行政用語です」
リラは、ひとまず書類を受け取った。
「特例試験、受けます」
「承知しました」
「アルドさんの弟子になった?」
「行政上の監督対象だ」
「師匠」
「呼ぶな」
「アルド師匠」
「試験問題を増やすぞ」
「職権乱用です」




