第三幕「星冠祭」 第54話 帰らない仲間たち
セインは、膝の上へ小さな記録紙を載せていた。
「休めと言われなかった?」
リラが尋ねる。
「記憶が鮮明なうちに、最低限の数値だけ記録します」
「どこまでが最低限?」
「雷出力、発動時間、閉鎖水路の電圧、接地完了時刻です」
「観客の反応は?」
「記録しません」
セインの筆が一度止まる。
「私の担当ではありません」
「えらい」
「職務範囲を守っているだけです」
「何か、笑ってない?」
白い制服の口元が、わずかに緩んでいた。
「雷術師になってから、出力を三割に抑えたことを評価されたのは初めてです」
「大きくできる人は、小さくするところを見られなかった?」
「小さくすることは、失敗だと思っていました」
セインは記録紙へ、規定値内と書く。
「雷信隊では、必要な場所へ必要な量だけ落とすことを教えられます。それでも、祝祭では大きいほど称賛される」
「今日は?」
「本物の雷は小さかった」
「うん」
「しかし、見えた範囲は、これまでで最も広かったと思います」
セインはリラの指先を見る。
「あなたの光に教わりました。小さく分けても、役割まで小さくなるわけではない」
「ありがとう。豆の粉って呼んだ人に聞かせたい」
「誰ですか」
「灯務局にたくさんいる」
「全員へ報告書を送りますか」
「それは嫌がらせになるからやめよう」
◇
部屋の隅で、セラは温かい水を少しずつ飲んでいた。
リラは隣の椅子を指す。
「ここ、座っていい?」
セラがうなずく。
椅子一つ分の距離を空けて座った。
「喉、痛い?」
「少し」
声を出したセラへ、リラが眉を寄せる。
「返事は、うなずくだけでいいよ」
セラはうなずいた。
「かなり無茶したでしょう」
今度は首を少し傾ける。
「自覚なし?」
横へ振る。
「自覚ありか」
縦。
「ついていくって言ったけど、壊れるまで歌わせるって意味じゃないからね」
セラが、リラを見る。
以前なら、観客が静かに聞いていることを理由に続けさせたかもしれない。
泣いている姿も。
外れた音も。
声が枯れていくことも、成功のための材料にしたかもしれない。
「今日は、止めなくてよかったと思う」
リラは言う。
「でも、次も同じ歌い方はさせたくない」
セラが机の上の紙と筆を取った。
短い文字を書く。
――次は、もう少し楽に歌う。
リラが紙を読む。
「次?」
声が大きくなった。
全員がこちらを見る。
「セラが次って書いた!」
「読めば分かります」
レティアが答える。
「声が出なくても、リラよりよく伝わる」
ノアは蜂蜜パンを食べながら言った。
セラの耳が赤くなる。
すぐに紙へ続きを書き足す。
――次を作るとは決めていない。
――次の話をしたい。
「話すんだ」
リラの声がまた弾む。
セラが筆の先を向ける。
――明日。
「今日じゃない?」
紙へ一文字増える。
――寝て。
「私だけ?」
セラは部屋全体を指した。
「全員ね」
リラは腰へ下げた手帳へ手を伸ばす。
ノアが先に手帳を押さえた。
「何を書く気」
「明日の相談事項」
「明日書いて」
「忘れるかも」
「忘れたなら、今決めなくていいこと」
「十二歳が正しいことを言う」
「報酬に含まれてる」
リラは手帳から手を離した。
次があると、もう決めない。
明日、セラへもう一度聞く。
仲間たちへも、それぞれ尋ねる。
今夜は、次を作るためではなく、今日を終えるために休む。
◇
扉が開いた。
アルドの許可札を持ったユアンが、休憩室へ入ってくる。
「兄さん!」
リラが立ち上がる。
急に動いたため、椅子が後ろへ倒れかけた。
ユアンが片手で押さえる。
「落ち着け」
「最後までいた?」
「いた」
「途中で帰りたくなった?」
「少し」
「どこで?」
「闇が長いところ」
「ノア、改善意見」
「客一名の感想」
ノアが答える。
「兄さんは一名だから」
「改善理由になってない」
ユアンは普段と同じ顔をしていた。
笑っていない。
大きく目を見開いてもいない。
リラは、そこから成功か失敗かを読み取ろうとしなかった。
「見てくれて、ありがとう」
「呼んだのはお前だ」
「来たのは兄さん」
「そうだな」
ユアンはセラの方へ向く。
声を出さないようにしていることに気づき、少し離れた場所で頭を下げた。
「歌、よかった」
セラの目が、少し大きくなる。
声の代わりに、同じように頭を下げた。
「昔、北で夜番をしていたときのことを思い出した」
ユアンは言葉を急がず、空いている椅子へ座る。
「帰れないと思っていたわけじゃない。任務が終われば帰る場所はあった」
指先が、膝の上で一度だけ動く。
「ただ、帰ったあとに何をすればいいかが、分からなかった」
リラは黙って聞いた。
兄が何を感じていたのか、歌によってすべて分かったとは思わない。
「今日、何か分かった?」
「分からない」
ユアンは短く答えた。
「でも、明日のことを一つ考えた」
「何を?」
「倉庫の同僚に聞く」
「何を聞くの」
「今日の演目を見たか、と」
「見てなかったら?」
「次に何を見たか聞く」
大きな変化ではない。
昔のように笑えるようになったわけでもない。
夜番の記憶が消えたわけでもない。
それでも、ユアンは明日、誰かへ自分から話しかけようとしていた。
リラの視界が滲む。
いつもの笑顔で隠そうとして、頬へ力を入れた。
「笑わなくていい」
ユアンが言う。
口元の形が崩れる。
「今日、舞台でも泣いたのに」
「回数制限があるのか」
「ないけど、兄さんの前だと少し恥ずかしい」
「いつも妹だと言っただろう」
涙が頬へ落ちた。
セラが、自分の衣装の内側から白い布を出す。
リラへ差し出した。
「これ、衣装の布じゃない?」
セラが首を横へ振る。
「予備の布?」
うなずく。
「鼻をかんでいい?」
セラの目が細くなる。
声を出さず、唇だけが動いた。
――殺す。
「今のは聞こえた気がする」
リラは布で目元だけを拭った。
泣きながら笑う。
ユアンの口元も、ほんの少しだけ上がった。
リラは指摘しなかった。
何秒続いたかも見なかった。
◇
遠くから、大きな花火の音が聞こえた。
星冠祭の夜を締めくくる、正式な大花火が始まったらしい。
休憩室の窓へ、金色の光が差し込む。
「見に行かないの?」
セラが、ほとんど息だけの声で尋ねた。
「喋らない」
リラが注意する。
セラは窓を指す。
「私は動けない」
ラウルが答えた。
「脚は使っていないでしょう」
レティアが言う。
「全身で炎を出すんだよ」
「先ほどまでは腕だけが動かないと言っていました」
「今は脚も疲れた」
「窓からで十分です」
マリエが立ち上がり、カーテンを開ける。
王城の上へ、金色の獅子が昇った。
ラウルが設計し、工房の弟子たちへ預けた花火だった。
巨大な頭が空へ現れ、四本の脚が順番に開く。
左の翼のような火だけが、少し低い。
「左が遅い」
ラウルが言った。
「失敗?」
リラが尋ねる。
「違う。予定より低いだけだ」
金獅子は、低くなった左側に合わせて身体を傾ける。
完全な左右対称ではない。
それでも、王城の上を走り抜け、最後まで形を保った。
「弟子が直した」
ラウルの声が少し小さくなる。
「俺なら左を上げた。でも、あいつは右を下げて合わせた」
「どちらが正解?」
「どっちもだ」
獅子が夜空でほどける。
ラウルは、悔しそうな顔のまま笑った。
次に、王城前の大噴水が上がる。
何層もの水が花火の光を受け、白、青、金へ色を変える。
レティアが窓へ近づいた。
「第三層の圧力が、予定より低いです」
「戻る?」
リラが尋ねる。
「戻りません」
水は第三層だけ少し低い。
副主任は、その分を外側の水柱へ回し、全体の高さを整えていた。
「引継ぎ手順の十九頁です」
レティアの肩から、力が抜ける。
「読んでくれていました」
王立音楽院の合唱が、広場の向こうから聞こえる。
マリエは窓辺で耳を澄ませた。
自分が朝に歌った旋律だ。
中央へ立つ歌手の声も、楽団の和音も正確だった。
「きれい」
マリエが言う。
「歌いたかった?」
セラが紙へ書いて見せる。
「はい」
マリエは迷わず答える。
「明日は、今日の評価を聞きに行きます」
伴奏を選んだからといって、歌手になりたい望みを捨てたわけではなかった。
雷信塔から、国家儀礼の白い雷が空へ走る。
セインが窓の外を見る。
「本日の第二班です」
「セインより大きい?」
リラが尋ねる。
「出力は上です」
「悔しい?」
「少し」
白い光が王城の輪郭を縁取る。
「ですが、役割が違います」
セインは記録紙を閉じた。
「どちらも必要な雷です」
エヴレンは、夜空を埋める花火と噴水を見ていた。
「私たちの方が美しかった」
「比べなくていいよ」
リラが言う。
「比較しなければ、評価はできません」
「美しいものが二つあってもいいでしょう」
エヴレンは少し考える。
「では、私たちは新しく、こちらは完成されています」
「それなら?」
「両方、美しい」
不満そうではあったが、視線は窓から外さなかった。
◇
ノアは長椅子で眠っていた。
蜂蜜パンを半分持ったまま、黒いローブに埋もれている。
外で雷鳴が鳴っても起きない。
セラが外套を掛けようとする。
「さっき使ったでしょう」
リラが小声で言う。
セラは構わず、ノアの肩まで布を掛けた。
ノアの手から落ちかけたパンを、ラウルが皿へ戻す。
レティアは何も言わなかった。
窓の外では、既存の花火が続いている。
音楽に合わせた巨大な火球。
水の城。
王冠の形を作る雷。
どれも、何年もかけて磨かれてきた演目だった。
リラたちの舞台が生まれたからといって、その美しさが古くなるわけではない。
誰も目を逸らさなかった。
リラは椅子の背へ身体を預ける。
手帳は開かない。
観客の反応も。
明日の相談事項も。
次の演出も、今は書かなかった。
机の上には、セラが書いた紙がある。
――次の話をしたい。
――明日。
温かい水の器が、紙の端を押さえている。
窓の外で、最後の花火が開いた。
金色の光が消えたあとも、部屋には眠るノアの呼吸と、まだ帰ろうとしない仲間たちの気配が残っていた。




