第三幕「星冠祭」 第53話 拍手のあと
舞台を降りても、すぐには座れなかった。
「水路、排水完了」
レティアが接続部を確認する。
「圧力、ゼロ。漏水なし」
「耐火溝、残り火なし!」
ラウルが安全箱の蓋を閉めた。
「炎術式、終了!」
「導雷経路、接地完了」
セインが白い導線から手を離す。
「残留電荷は規定値以下です」
「幻影、全消去」
エヴレンが両手を開いた。
白い花びらも、窓も、道の輪郭も残っていない。
「闇、全部開いた」
ノアが最後に言う。
「避難路も見えてる」
リラは舞台裏を見回した。
火。
水。
雷。
幻影。
闇。
すべてが安全な状態へ戻っている。
「演目終了」
その言葉を口にした瞬間、膝から力が抜けた。
全員が示し合わせたように、その場へ座り込む。
緊張している間は感じなかった疲労が、身体の内側から一度に戻ってきた。
リラの指は、まだ合図を出す形のまま震えている。
ラウルは熱の抜けた両腕を膝へ載せた。レティアは排水弁から手を離したあとも、指がしばらく同じ動きを続けていた。
エヴレンは長椅子へ背中から倒れ込む。
「美しさを、すべて使い果たしました」
「幻影は消したって言ったでしょう」
レティアが答える。
「私自身の話です」
「残ってる」
ノアが言った。
「少しだけ」
「慰めとして受け取ります」
セインだけは、もう一度閉鎖水路の接地点へ戻ろうとした。
背後からアルドの杖が、外套の襟へ引っかかる。
「どこへ行く」
「発動記録と、閉鎖水路の接地状態を確認します」
「安全確認は終わった」
「終了後十五分の数値が必要です」
「担当技師へ任せろ」
「しかし――」
「任せるのも仕事だ」
アルドが杖を引く。
セインは二歩だけ抵抗したあと、元の場所へ戻された。
「……承知しました」
「座れ」
「床は任務用制服に適していません」
「では立っていろ」
セインは長椅子の端へ腰を下ろした。
座ること自体に不慣れなように、背筋だけはまっすぐだった。
◇
ノアは、右手の指を一本ずつ折っていた。
「何を数えてるの?」
リラが尋ねる。
「暗転」
「八秒だったよ」
「自分でも確認する」
一本。
二本。
最後まで折り終える。
「八秒」
「疑ってた?」
「リラは途中で数を増やすことがある」
「暗転時間は増やさないよ」
「光粒子は増やす」
「今日は減らしたでしょう」
「成長」
ノアは両手を下ろした。
そのまま身体が少し傾く。
「リラ」
「何?」
「背中、借りる」
「どうぞ」
ノアはリラの藍色の外套へ背を預けた。
大きなローブの内側から、黒藍色の髪が肩へ触れる。いつものように接触料金を要求する元気は残っていないらしい。
「料金は?」
「今は、私が借りてるから払わない」
「合理的だね」
「眠い」
「寝ていいよ」
「まだ」
ノアの金灰色の目は、舞台へ続く通路を見ていた。
拍手はまだ止んでいない。
重い壁を隔てても、波のような音が床を震わせていた。
セラだけは、立ったままだった。
舞台衣装の裾を握り、壁へ片手をついている。
「セラ」
リラが呼ぶ。
反応はある。
けれど、返事がない。
「座れる?」
「……座ったら、立てなくなりそう」
ひどくかすれた声だった。
「もう立たなくていいよ」
「まだ、終わった感じがしない」
「安全確認は終わった」
「そういう意味じゃない」
セラは、自分の喉へ触れた。
「声が出にくい」
「歌いすぎ!」
「誰かが予定を変えたから」
「最初に変えたの、セラだよ」
「途中から、リラも変えた」
「ついていったんです」
「演出家の言い訳」
二人は顔を見合わせた。
リラが笑う。
セラも笑おうとしたが、音は出なかった。
肩だけが、小さく揺れた。
◇
医務係がセラの喉と呼吸を確認した。
痛みはあるが、息苦しさはない。
今夜は発声を控え、温かい水を少しずつ飲むこと。明朝になっても強い痛みが残る場合は、改めて診察を受ける。
指示を聞いたセラが、小さくうなずく。
「返事もしなくていいです」
医務係が言った。
セラはもう一度うなずいた。
「素直だね」
リラが囁く。
セラが肘で外套の脇を押した。
「喋らなくても攻撃はできるんだ」
今度は、少し強く押された。
◇
準備棟へ戻る通路には、祭典庁の職員や、次の演目を待つ出演者が集まっていた。
「客席の生活灯は、どのように同期させたのですか」
「闇の時間が長すぎたという意見も出ています」
「水と雷の併用について、追加の安全記録を」
「歌詞の変更は事前承認されていましたか」
「セラさんへ取材をお願いします」
「演目の分類は、光粒子ライブでよろしいですか」
リラの頭が、質問へ反応する。
誰から答えるか。
安全関係を先に。
歌詞変更の責任は自分が。
闇への意見は、避難記録と分けて――。
「今は答えないで」
セラが、かすれた声で言った。
「でも、説明しないと」
「今、決めたら、リラが全部答える」
「責任者だから」
「皆の仕事でしょう」
セラの指が、リラの袖をつかむ。
質問へ向かおうとしていた身体が止まった。
「明日、全員で答える」
「声、出さない方がいいよ」
「だから、リラが静かにして」
「私の方?」
銀の杖が、石床へ打ちつけられた。
硬い音が通路へ響く。
「出演者と技術担当者は休ませる」
アルドが職員たちの前へ立った。
「安全記録は担当部署から提出する。演出意図、歌詞変更、観客参加に関する質問は、明日の正午までに書面で寄越せ」
「しかし、速報記事が――」
「疲労した術者の発言を、正式回答として扱う気か」
「いえ」
「なら下がれ」
総監督の声に、人の輪が開いた。
「アルドさん、怖いね」
リラが小声で言う。
「使えるときだけ師匠扱いするな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っている」
「今日は顔を読まれすぎでは?」
◇
全員は、準備棟の小さな休憩室へ押し込まれた。
机には水、温かい茶、果物、パンが置かれている。
扉が閉まった途端、ノアがリラの背中から離れた。
「食べる」
一番に蜂蜜パンへ手を伸ばす。
「回復、早いね」
「成長期」
「今日、衣装は大きくならなかった?」
「明日」
「まだ諦めてないんだ」
ノアは蜂蜜パンへかじりついた。
頬へ蜜が少しつく。
自分では気づいていない。
リラは指摘せず、近くにあった布巾を机へ置いた。
ラウルもパンへ手を伸ばした。
指がうまく曲がらず、掴んだパンが皿へ落ちる。
「見なかったことにしろ」
「腕が震えています」
向かいに座ったレティアが言う。
「炎を長く保持した反動だ」
「分かっています」
「なら放っておけ」
「半分に割りましょうか」
「自分で食える」
ラウルはもう一度持ち上げようとした。
パンが皿の縁へ当たり、また落ちる。
乾いた音がした。
「……割ってくれ」
「最初から頼んでください」
レティアはパンを半分にする。
「口元まで運ぶ必要は?」
「ない!」
「確認です」
「お前、今楽しんでるだろう」
「腕の動かない人へ、事実を伝えているだけです」
レティアの口元は、ほんの少しだけ上がっていた。
喧嘩が戻った。
それを聞いたリラの肩から、ようやく力が抜けた。
◇
エヴレンは小さな鏡を取り出し、涙の跡を確認していた。
「感動で崩れた顔にも、独自の美しさがあります」
「自分の顔へ言う?」
リラが尋ねる。
「他人へ言われる前に、正確な評価を行っています」
「防御だね」
エヴレンの指が止まる。
「そう見えますか」
「少し」
「では、鏡なしでも確認しましょう」
エヴレンは鏡を閉じる。
「私は今、美しいですか」
「疲れてる」
「質問へ答えていません」
「泣いたあとで、安心してる顔に見える」
エヴレンは目を瞬く。
いつもの完璧な微笑みへ直そうとはしなかった。
「それは、舞台上では出せなかった顔ですね」
「今は舞台じゃないから」
「では、しばらくこのままにします」
鏡を鞄へ戻した。
マリエは温かい茶の器を両手で包んでいた。
午前中は合唱で歌い、夕方はセラの変化を追い続けた。
右手の指はまだ動く。
左手は、自由区間の合図を何度も出したため、開いた形のまま少し強張っていた。
セラが隣へ座り、マリエの左手を見た。
「大丈夫です」
マリエが先に言う。
セラの眉が寄る。
「今のは、本当に大丈夫です」
マリエは一度、手を握り直す。
「少し休めば戻ります」
セラは自分の温かい水を、マリエの器の横へ置いた。
飲めという意味ではない。
冷えた指を温めるためらしい。
「ありがとうございます」
マリエが器へ手を近づける。
セラは声を出さず、うなずいた。




