第三幕「星冠祭」 第48話 星冠祭の朝
星冠祭当日、リラは日の出より早く目を覚ました。
正確には、ほとんど眠っていなかった。
目を閉じるたび、舞台が始まる。
ラウルの炎を、あと半拍待たせた方がいい。
レティアの水膜は、北から風が来た場合だけ少し低く。
ノアの暗転前に、南側の避難標を確認する。
セラが二番を変えたら、円の合図。
最後の四行へ直接跳んだら。
声が水膜から外れたら。
セインが国家儀礼から間に合わなかったら。
考えないようにするほど、次の問題が浮かんだ。
枕元に演出表は置いていない。
それでも、頭の中にはすべての線と数字が残っている。
失敗を一つ残らず予測できれば、誰も傷つかない。
そんなことはできないと分かっているのに、身体だけがまだ信じようとしていた。
窓の外が白み始める。
リラは毛布を蹴り、寝台から降りた。
◇
台所へ下りると、ユアンが朝食を作っていた。
鍋から湯気が上がり、焼いたパンの匂いが部屋に満ちている。
「兄さん、料理できたんだ」
「お前に任せるよりは」
「今日まで隠してた?」
「聞かれなかった」
「兄妹の情報共有に問題があるね」
「朝食を作るたびに報告書が必要か?」
「できれば献立も」
「食べてから言え」
ユアンは卵を皿へ移した。
焼いたパン。
野菜の入った温かいスープ。
いつもの朝より、少し多い。
リラは椅子へ座ったが、手を伸ばせなかった。
「食べろ」
「喉を通らない」
「歌わないだろ」
「そういう問題かな」
「倒れた演出家は、客席から見えなくても迷惑だ」
スープの中で、細く切った野菜が揺れている。
リラはパンを一口かじった。
味がしない。
噛む回数だけが増え、なかなかのみ込めなかった。
「おいしくない?」
「味が分からない」
「なら、味以外の理由で食え」
「身体を動かすため?」
「舞台の端で立っているためだ」
ユアンは向かいの椅子へ座った。
急かさず、自分もパンを食べ始める。
リラはスープを一口飲んだ。
温かさだけは分かった。
「兄さん」
「何だ」
「見に来る?」
「招待札はある」
「聞き方を変える」
リラは匙を器へ置いた。
陶器へ触れ、小さな音が鳴る。
「来てほしい」
兄へ何かを見せたいと思ったことが、この公演の始まりだった。
北辺から戻った兄を笑わせたかった。
昔のような顔へ戻したかった。
けれど、途中から、その願いは中心ではなくなった。
セラの歌を届けたい。
仲間たちが持ち寄った魔法を、十二分の舞台へ置きたい。
三千人が同じ意味を見るのではなく、それぞれの景色を受け取れる道を作りたい。
兄が笑うかどうかを、成功の条件にはしたくない。
それでも、客席にいてほしかった。
「行く」
ユアンは短く答えた。
「笑わなくてもいい?」
「いいよ」
「拍手をしなくても」
「少し嫌だけど、いい」
「途中で帰っても」
リラの指が、器の縁で止まる。
「かなり嫌だけど、それもいい」
「正直だな」
「今日は、いい演出家より妹でいたいから」
ユアンはしばらくリラを見た。
やがて手を伸ばし、額を指で軽く弾く。
「痛い」
「いつも妹だ」
「演出家でも?」
「役所の人間でも、犯罪者でも、妹は妹だ」
「犯罪はしてないよ」
「今日はするな」
「努力します」
「そこは約束しろ」
ユアンの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうかを、リラは確かめなかった。
残ったパンをもう一口食べる。
今度は、塩の味が少しだけした。
◇
家を出るころには、王都はすでに祭りの音で満ちていた。
大鐘の低い響き。
通りの楽師が鳴らす笛。
屋台を組み立てる槌の音。
呼び込みの声と、荷車を避ける人々の足音。
大通りには各地区の旗が並び、朝の風を受けて揺れている。
遠方から来た旅人たちが、祭典広場へ向かっていた。
リラの視線が、人の流れを追う。
北側の案内板は、屋台の天幕に半分隠れている。
南の交差点では、客が中央の広場へ集中し、細い道へ人があふれ始めている。
小さな子どもの目線からは、東側の出口表示が見えない。
以前なら、立ち止まった人の顔を見ただろう。
誰が期待しているか。
誰が不満そうか。
どの言葉を使えば、人の気持ちを動かせるか。
今朝、リラが見たのは、人の感情ではなく、人が安全に歩ける道だった。
通りにいた祭典庁の誘導員へ近づく。
「北の案内板、屋台の布で隠れてます」
「確認します」
「南の交差点も、あと少しで荷車の道へ人が出ます」
「応援を一名回します」
「東の出口表示は、低い位置にも一枚あると子どもから見えます」
誘導員は三点を記録し、近くの職員へ指示を出した。
リラは自分で看板を動かさなかった。
祭典全体を背負う必要はない。
気づいたことを、担当者へ渡す。
それだけで、道は少し広くなった。
◇
祭典広場の裏手にある準備棟へ入ると、ノアが床で寝ていた。
普段の大きなローブを丸めて枕にし、工具袋を胸へ抱えている。
黒藍色のボブは片側だけ潰れ、内側の淡い紫が少しのぞいていた。
「家で寝なかったの?」
「寝た」
目を閉じたまま返事が来る。
「ここでも寝てる?」
「見れば分かる」
「合理的だね」
リラは腰をかがめる。
床は冷たい。
別の長椅子へ移した方がよいと思い、両腕を伸ばしかけた。
薄い闇が、手首を押し返す。
「触るのは別料金」
「起きてるじゃん」
「寝言」
「長い寝言だなあ」
「蜂蜜牛乳一本」
「移動料金?」
「接触許可」
リラは手を下ろした。
「床、冷たくない?」
「ローブがある」
「長椅子へ移る?」
「あと三分」
「セインみたいになってきたね」
「嫌」
ノアは工具袋を抱き直し、再び動かなくなった。
眠っているのか、会話を終えただけなのかは分からなかった。
◇
準備棟の奥では、それぞれが本番前の確認をしていた。
ラウルは、炎の逃がし先となる耐火溝を一周し、留め具を自分の手で引いている。
同じ場所を二度確認したあと、三度目へ向かおうとした。
「そこ、さっきも見てたよ」
リラが声をかける。
「二回目は留め具。今度は地面の傾きだ」
「昨日と変わった?」
「本番の日は、昨日と同じ場所も変わって見える」
ラウルはしゃがみ、溝へ指を添えた。
いつもの大声はない。
金獅子を選ばず、この火を選んだ。
後悔していないとしても、緊張しないわけではなかった。
「怖い?」
「火を出す前の炎術師へ聞くな」
「どうして」
「怖いと答えたら、お前が心配する」
「大丈夫って答えたら?」
「嘘になる」
ラウルは立ち上がり、耐火手袋を強く締めた。
「だから聞くな」
「了解」
「ただし、合図は見落とすな」
「それは聞く前から了解してる」
ラウルは鼻を鳴らし、四度目の確認には行かなかった。
レティアは水導管の接続部へ手を置いていた。
水圧は規定範囲内。
漏れもない。
それでも、乾いた金具を布で何度も拭いている。
「濡れてないよ」
「濡れていないことを確認しています」
「三回目?」
「四回目です」
「正直」
「回数を誤魔化しても、圧力は安定しません」
レティアは布を畳んだ。
左右の手袋は、衣装に追加された一つながりのポケットへ収まっている。
「大噴水は?」
「副主任への引継ぎを完了しました」
「心配?」
「非常に」
「戻る?」
「戻りません」
声はきっぱりしていた。
「任せた者が失敗しないよう、いつまでも横に立つことは、任せるとは言いません」
レティアは導管から手を離した。
その言葉を、自分にも聞かせているようだった。
エヴレンは客席の各区画へ、淡い人影の幻影を一体ずつ置いていた。
本人そっくりの観客ではない。
後方席から舞台がどこまで見えるかを確かめるための、輪郭だけの人型だった。
「三千体?」
リラが尋ねる。
「各区画に一体。全部で二十四体です」
「少ない」
「以前なら、すべての席へ私を座らせたでしょう」
「反省した?」
「効率を覚えました」
エヴレンは最後列の幻影を消す。
「それに、私ばかりが客席へいるのは、美しいですが情報が偏ります」
「美しいは残るんだ」
「事実ですから」
口調はいつもどおりだった。
けれど、白金の髪を整える指が、同じ場所へ二度触れている。
セインは雷信塔と舞台を往復していた。
国家儀礼の開始時刻。
終了予定。
移送車の経路。
遅延した場合の連絡手順。
すべてを確認したあと、また塔へ戻ろうとする。
「今、何往復目?」
リラが尋ねる。
「四往復目です」
「予定は?」
「三往復」
「一回多いよ」
「国家儀礼終了後の通行規制が、一部変更されました」
「間に合う?」
「予定どおりなら」
「遅れたら?」
「雷なしの構成で開始してください」
セインは、迷いなく答えた。
「待ってほしい?」
「私個人としては」
白い手袋の指が、記録板の端へ触れる。
「少しだけ、待ってほしいです」
リラが目を瞬く。
「今の、記録していい?」
「演出記録には不要です」
「覚えておく」
「勝手に意味を加えないでください」
「間に合いたいんだなって」
「それは、言いました」
セインは儀礼用の外套を持ち上げ、雷信塔へ向かった。
◇
マリエは、まだ準備棟にいなかった。
王立音楽院の祝祭合唱へ出演している。
小型鍵盤の上には、到着予定時刻と、遅れた場合の伴奏開始手順が書かれた札が置かれていた。
――到着予定、午前九時四十六分から五十二分。
――五十五分を過ぎた場合、低音弦奏者が基音を担当。
――本人到着後も、演奏中の交代は行わない。
「マリエらしいね」
リラが札を読む。
「到着前から、交代条件まで決めています」
レティアが言った。
「歌手として中央へ立ちたい人が、今日は伴奏の遅刻手順を書いてる」
「どちらも本人が選んだ仕事です」
「うん」
リラは札を元の位置へ戻した。
来てほしい。
けれど、音楽院で歌う時間を削ってまで急いでほしいとは思わなかった。
◇
「みんな、顔が怖いね」
リラが準備棟を見回して言った。
ラウルが振り返る。
「お前が一番笑いすぎだ」
「いつもどおりだよ」
「いつもの二倍」
床からノアの声がする。
「数えた?」
「見れば分かる」
「私の笑顔、そんなに違う?」
「口の端だけ、ずっと同じ高さ」
ノアは目を開け、指で自分の頬を押し上げた。
「怖いときの顔」
リラの頬から、笑顔が少し落ちた。
「笑ってた方が、みんな安心するかなって」
「しない」
ラウルが即答する。
「普段のお前より不自然だと、何か隠してると思う」
レティアが続けた。
「怖いと申告していただいた方が、判断基準として有用です」
「全員、厳しいなあ」
「怖いの?」
ノアが尋ねる。
リラは一度、藍色の衣装袋を見る。
「怖い」
「何が」
「全部」
誰も、大丈夫だとは言わなかった。
ラウルは留め具を一つ締める。
レティアは布を置く。
エヴレンは最後の幻影を消した。
「全員、同じだ」
ラウルが言った。
「全部ではありません」
セインが訂正する。
「私は、移動遅延と雷経路と儀礼終了時刻を恐れています」
「細かいな」
「対象が明確な方が、対処できます」
「私は、歌手が来てないこと」
リラが言った。
空気が、ほんの少しだけ止まった。
◇
セラは、まだ来ていなかった。
集合時刻まで十五分ある。
遅刻ではない。
リラは時計を見ないようにして、三度見た。
「セラさんが集合時刻を五分過ぎた場合は?」
セインが尋ねた。
「待つ」
「祭典進行は、理由なく待機できません」
「来るから」
「根拠は?」
「私が信じたい」
答えてから、リラは目を閉じた。
信じたいことと、進行手順は別だ。
「今のは、手順じゃないね」
「はい」
「五分過ぎたら、私が祭典庁へ遅延を報告する。十分で出演意思を確認。連絡が取れなければ、アルドさんと中止判断」
「十五分の場合は?」
「中止」
その言葉を口にすると、胸の奥が冷えた。
それでも、別の歌手は探さない。
セラがいない舞台を、同じ演目として始めない。
「来るとは思ってる」
リラが付け加える。
「承知しました」
セインは手順を書き込んだ。
「期待と中止条件が両立しました」
「そう言われると、少し冷たいなあ」
「両立しない方が危険です」
セインは記録板を閉じ、今度こそ雷信塔へ向かった。
◇
集合時刻の五分前。
準備棟の扉が開いた。
セラが立っていた。
酒場の作業着の上に衣装袋を抱え、歌詞の紙を脇へ挟んでいる。
髪はまだ結んでいなかった。
「遅い!」
リラが言う。
「まだ五分ある」
「心の集合時刻は一時間前」
「知らない」
「せめて三十分前に共有して」
「存在しない予定は守れない」
「セインみたいになってる」
「嫌」
リラはセラへ走り寄りかけた。
二歩目で止まる。
抱きつきたい。
腕をつかんで、本当に来たことを確かめたい。
けれど、安心するために相手の身体を使わないと決めている。
二人の間に三歩分の距離が残った。
「来たね」
「来るって言った」
「うん」
セラの顔にも、よく眠った様子はない。
けれど、逃げてきた顔でもなかった。
歌詞の紙は、自分の手にある。
それだけで十分だった。
◇
衣装へ着替えたセラは、準備棟の鏡の前へ立った。
濃紺の布に銀の線が走り、呼吸するたび胸元で小さく光を返す。
髪を結ぼうとしたが、指がうまく動かなかった。
紐が床へ落ちる。
セラが拾う。
もう一度まとめようとして、今度は髪が指から逃げた。
「貸して」
リラが言う。
「自分でできる」
「できるけど、今は難しそう」
「できる」
セラは三度目を試した。
紐が、また床へ落ちる。
布と石が触れる、小さな音がした。
「三回」
「今のは二回目」
「最初のを数えない理由は?」
「まだ始めてなかった」
「判定が厳しいなあ」
リラは紐を拾い、掌へ載せる。
「触っていい?」
セラの指が、ほどけた髪の間で止まる。
鏡越しにリラを見る。
「……手伝って」
「うん」
セラが背を向けた。
リラは髪を両手で集める。
最初に触れたときより、少し長くなっているように感じた。
三十日ほどしか経っていない。
それでも、路地で初めて歌を聞いた夜は、ずっと昔のことのようだった。
髪を引かないよう、指の間へ均等に分ける。
「きつくない?」
「大丈夫」
「本当の大丈夫?」
「今は」
「途中で痛くなったら?」
「言う」
「本番中でも?」
「歌の切れ目で」
「すぐ言って」
「髪で中止するの」
「集中が切れるなら」
セラは鏡の中で、ほんの少しだけ眉を上げた。
「合理的」
「レティアとノアに鍛えられたからね」
結び終える。
リラはすぐに手を離した。
鏡の中で、歌姫と演出家が並ぶ。
中央へ立つ濃紺と銀。
舞台の端へ立つ藍色と金。
「リラ」
「何?」
「今日、私が歌を変えても」
「予告があれば、追えるものは追う」
「なかったら?」
「追えない魔法は出さない」
「歌を止める?」
「危険なら止める。危険じゃなければ、歌だけ続けていい」
鏡の前の距離は近い。
それでも、二人は互いの顔を直接見ず、映った姿を見ていた。
「失敗しても?」
セラが尋ねる。
「失敗をきれいな思い出にはしない」
「うん」
「終わったら、何が悪かったか全部話す」
「怒る?」
「かなり」
「それ、気に入ったの」
「責めないことと、怒らないことは違うからね」
セラの口元が、鏡の中で少し上がった。
「私も、リラが勝手に演出を変えたら怒る」
「それは怖いなあ」
「今さら」
◇
準備棟の扉が勢いよく開いた。
祭典庁の事務官が、封印された書類を抱えて入ってくる。
「特例出演許可の最終書面です」
全員の動きが止まった。
事務官は机へ書類を置き、封を切る。
「王立音楽院からの正式推薦は得られませんでした」
セラの表情は変わらない。
「学院側は、既定の祝祭曲を提出済みの譜面どおり歌唱する場合に限り、推薦すると回答しています」
「断りました」
セラが言う。
「記録されています」
事務官は次の紙を開いた。
「祭典評議会は、学院推薦外の特例演者として、セラ・アルメリアの出演を認めます」
リラが息を止める。
「条件は三点です」
事務官の指が、書面の項目を順に示す。
「安全計画に記載された術式範囲を超えないこと」
「はい」
セインが答える。
「歌唱や演出の変更により、安全な同期が不可能となった場合、該当する魔法を使用しないこと」
「分かっています」
リラが言う。
「演者、演出家、各担当術者、総監督、安全信号担当者のいずれかが中止を宣言した場合、理由の確認より先に全術式を停止すること」
「最初の一言で止めます」
ノアが、床から起き上がった。
事務官は最後の頁をめくる。
そこには、総監督として責任を引き受けるアルドの署名があった。
その隣には、セラ本人が確認するための空欄が残されている。
「セラさん」
事務官が筆を渡す。
「歌詞を固定する条件ではありません。ただし、変更によって設備が追従できない場合は、演出を出さない判断が優先されます」
「歌は続けていい?」
「安全上の問題がなければ」
「止めてと言ったら?」
「すべて止まります」
「私が続けたいと言っても、危険なら?」
「安全担当者が止めます」
セラは一度、書面を最初から読み直した。
リラは横から説明しなかった。
早く署名してとも言わない。
セラが自分で最後まで読み、筆を取る。
名前を書く。
セラ・アルメリア。
書き終えたあと、事務官へ顔を上げた。
「これで、私の歌を歌える?」
「許可されたのは、あなた自身が選ぶ歌です」
事務官は書面へ祭典庁の印を押した。
乾いた音が、準備棟へ響いた。
◇
「通った?」
事務官が去ったあと、リラが尋ねた。
「条件付き」
「何を譲ったの」
「危険なら、歌より先に魔法を止める」
「それは最初から決めてた」
「だから、譲ってない」
セラは許可証を衣装袋の内側へ入れた。
歌詞の紙とは別の場所へ収める。
「学院の歌を歌えば、もっと簡単だった?」
「推薦は出た」
「断った?」
「うん」
「怖くなかった?」
「怖い」
返事は迷わなかった。
「推薦がないことも。失敗したら、やっぱり無所属は駄目だって言われることも」
セラはリラの藍色の外套を見る。
「でも、違う歌で成功しても、私が立ちたかった舞台じゃない」
「うん」
「だから、これでいい」
それは、怖くない者の言葉ではなかった。
怖いものを知ったうえで、自分の側に残すものを選んだ声だった。
◇
外から、星冠祭の開始を告げる鐘が鳴った。
一度。
二度。
王都の各地から、別の鐘が重なる。
リラは藍色の外套の袖を整える。
指先へ光を灯す前から、手が震えていた。
「怖い?」
セラが尋ねる。
「すごく」
「逃げる?」
「少しだけ」
「少しなら?」
「舞台の反対方向へ三歩くらい」
「だめ」
セラの手が、リラの袖をつかむ。
前夜祭で決めた、舞台へ出るまでの許可だった。
「逃げないように」
「私が?」
「両方」
リラがセラを見る。
「セラも逃げたい?」
「少し」
「どっちへ?」
「旧音楽堂」
「遠いなあ」
「だから、つかんでる」
濃紺の袖と、藍色の袖が触れる。
セラの指には、少し強く力が入っていた。
「顔が逃げたいって言ってる」
「私の顔、そんなに分かるようになった?」
「最初から見てた」
「私は、見てるつもりだった」
「今は?」
リラは鏡を見る。
セラの顔。
自分の顔。
怖さを隠しきれず、どちらも少し硬い。
「今は、分かったふりをしないで見てる」
「そう」
「セラも?」
鏡越しに、目が合う。
「見返してるから」
準備棟の外で、次の演目を呼ぶ声が上がった。
二人は、すぐには袖を離さなかった。
怖さが消えるまで待つのではない。
互いがまだそこにいることを確かめてから、舞台へ向かって歩き始めた。




