第三幕「星冠祭」 第47話 前夜祭
本番前夜、王都の各地区では、もう小さな前夜祭が始まっていた。
正式な大花火も祝典演目も明日だというのに、大通りには屋台が隙間なく並び、焼いた肉と蜜菓子の甘い匂いが夜風に混じっている。
通りの角では楽師たちが競うように曲を奏で、知っている旋律が始まるたび、酒杯を持った客が勝手に歌へ加わった。
調子を外した声へ笑いが起こり、それにつられて、別の通りからも手拍子が返ってくる。
試験花火が一発上がった。
青い火の輪が夜空へ開くと、宿の窓が一斉に開いた。
遠方から来た旅人たちが身を乗り出し、まだ本番ではないと知りながら歓声を上げる。
通りでは、子どもたちが空へ指を伸ばした。
「今の、明日も出る?」
「もっと大きいのが出るぞ」
父親が答えると、子どもは明日の空に届かせるつもりなのか、両腕をいっぱいに広げた。
屋台の店主が鐘を鳴らし、焼き上がった菓子を掲げる。
「本番を待てない者から買っていけ!」
「それ、毎晩言ってるだろ!」
客の声に、周囲から笑いが起きた。
二発目の試験花火が上がる。
今度は窓辺だけでなく、通りにいる者まで足を止め、光が消えるまで空を見上げた。消えたあとには、どこからともなく拍手が湧いた。
明日になれば、王都中の空が光で埋まる。
誰もがそう知っているのに、今夜の小さな光にも惜しみなく笑い、声を上げている。
街そのものが、明日まで待ちきれずに祭りを始めてしまったようだった。
旧兵站庫では、まだ夕刻にもなっていない時刻に、アルドが銀の杖で床を二度叩いた。
「今日は終わりだ」
「まだ最終確認が三つあります」
セインが記録板を見る。
「明朝の確認へ回せ」
「水膜の張力も、もう一度だけ試した方が」
レティアが言う。
「明日と同じ風は、今日には吹かん」
「火の最終出力も」
ラウルが手を上げる。
「今夜出した火は、明日まで取っておけない」
「幻影の色調だけなら疲労へ影響しません」
エヴレンが続いた。
「お前たちは、休めと言われると急に勤勉になるな」
アルドは全員を見回した。
「本番前日に増える技術はない。増えるのは疲労と、疲れている自覚を失った判断だけだ」
「休むのも仕事?」
リラが尋ねる。
「そうだ」
「報酬は?」
「働いていない時間へ報酬を求めるな」
「仕事なのに?」
「言葉尻へ給金は出さん」
アルドは倉庫の鍵を腰へ下げた。
誰かが戻ってこないよう、自分で持ち帰るつもりらしい。
「食べろ。眠れ。喉と手と魔力を使うな。解散」
◇
倉庫の外へ出ても、全員はしばらくその場に残った。
「何する?」
リラが尋ねる。
「寝る」
ノアの返事は早かった。
「食べる」
ラウルが続く。
「王城前噴水の最終引継ぎ確認があります」
レティアは鞄から四十二頁の手順書を出した。
「それ、休む人が持つ厚さじゃないよ」
「私は実演しません。副主任が読んだか確認するだけです」
「四十二頁全部?」
「必要箇所のみです」
「何頁?」
「四十二頁です」
リラが顔をしかめる横で、エヴレンが髪を払った。
「私は、前夜祭の美観を監督します」
「誰にも頼まれてないでしょう」
マリエが言う。
「美しさは、頼まれてから守るものではありません」
「安い仮面へ勝手に幻影を足すのは禁止です」
「なぜ、私がそれをすると?」
「先ほどから、仮面屋を見ています」
エヴレンの視線が通りへ戻る。
図星だったらしい。
「私は警備経路の最終確認を行います」
セインが言った。
「仕事は禁止だよ」
「前夜祭への参加者として、安全な道を歩きます」
「それを警備確認って呼ばなければ、休みになると思ってる?」
「呼称ではなく、任務の有無が基準です」
「マリエは?」
リラが尋ねる。
「喉を休め、就寝前に明朝の合唱譜を一度だけ確認します」
「一度だけ?」
「二度目を開こうとしたら止めてください」
「了解。みんなを休ませる係は私が――」
「一番いらない」
セラが遮った。
「どうして」
「自分が休まない理由を作るから」
全員の視線がリラへ集まる。
「信用がないなあ」
「実績です」
セインが答えた。
結局、王城方面へ向かう者も、南区へ帰る者も、一度だけ一緒に前夜祭を回ることになった。
◇
南区の通りは、普段より狭く感じられた。
屋台の前に人が集まり、焼いた肉と甘い蜜の匂いが風へ混じっている。
ラウルは射的屋を見つけると、迷わず足を止めた。
「セイン。勝負だ」
「何を競うのですか」
「見れば分かる。あの的を多く倒した方が勝ちだ」
「得点の高低ではなく、枚数で判定しますか?」
「細かいな。合計点だ」
「使用する道具の個体差は?」
「遊びに規定を持ち込むな!」
店主から小さな射出器を受け取り、ラウルが最初の的へ狙いをつける。
指先に火花が灯った。
「魔法禁止!」
店主の声が飛ぶ。
「まだ使ってない」
「使う顔をしてた!」
「俺の顔も分かりやすいのか」
「火を出してるからだよ」
リラが言う。
ラウルは不満そうに火花を消した。
一方、セインは射出器の重さ、弦の張り、的までの距離を一度ずつ確認した。
一発目で中央を倒す。
二発目も中央。
三発目は、一つ目の的が倒れた風圧まで計算して、その後ろを落とした。
「遊び方が怖い」
マリエが呟く。
「規則の範囲内です」
セインは景品の木剣と布人形を受け取った。
周囲で見ていた子どもたちへ、一つずつ渡していく。
「いらないのか」
ラウルが尋ねる。
「使用予定がありません」
「勝った記念は?」
「記録しました」
懐から小さな紙を出す。
「遊びまで記録するの?」
リラがのぞき込む。
「射出器の調整精度が高かったため、店主へ伝える資料です」
「休んで」
セラが言った。
「今は休暇行動です」
「難しい人」
◇
少し先の飲み物屋では、レティアが水差しを灯りへ透かしていた。
「何を見てるの?」
リラが尋ねる。
「濁りと容器の衛生状態です」
「屋台の水だよ」
「屋台でも水です」
「飲める?」
「基準内です」
屋台の主人が安堵した顔をする。
「でも、氷の保存箱は直射日光を避けてください」
「今、夜ですけど」
「明日の話です」
主人は素直に箱の位置を書き留めた。
その隣で、エヴレンは銅貨一枚の仮面を顔へ当てていた。
薄い木板へ、むらのある金色を塗っただけの品だった。
「幻影を少し重ねれば、王城の仮面舞踏会へ着けていっても見劣りしませんね」
エヴレンの指先に、白い花びらが浮かびかける。
「先に買ってください」
マリエが止めた。
「試してからでは?」
「商品です」
「では、私が買います」
エヴレンは銅貨を払い、改めて仮面へ細い幻影を重ねた。
金色の蔓が縁を走り、その間に白い花びらが浮かぶ。
安い木の仮面が、一瞬で舞踏会用の装飾品へ変わった。
しばらく眺めたあと、エヴレンは幻影をすべて消した。
「消すの?」
セラが尋ねる。
「飾る前の粗さも、悪くありませんでした」
「安物なのに?」
「安いことと、美しくないことは同じではありません」
エヴレンは元の仮面を鞄へ収めた。
「明日は、このまま使います」
「使う場所あるの?」
「これから作ります」
◇
ノアは、蜂蜜牛乳の瓶と蜂蜜菓子を両手に抱えていた。
普段のローブへ戻っているが、裾は本番衣装と同じように少し持ち上げて歩いている。
「それ、全部食べるの?」
リラが尋ねる。
「必要」
「何に?」
「成長」
「明日には、衣装がちょうどよくなるかもしれないね」
「可能性はある。魔法の世界だし」
ノアは真顔で答えた。
リラが目を瞬く。
「覚えたねえ」
「悪い癖」
「私の台詞を使ったのに?」
「使ってから分かった」
蜂蜜菓子の包みが開かれる。
ノアは一口食べ、すぐに瓶の牛乳を飲んだ。
「甘すぎない?」
マリエが尋ねる。
「甘い」
「嫌ではないのですか」
「褒めてる」
ノアは残りを誰にも渡さないよう、胸元へ寄せた。
「一口だけ」
ラウルが手を伸ばす。
「子どもの食事を奪わないで」
「菓子だろう」
「成長に必要」
「明日、急に大きくなったら衣装が入らないぞ」
ノアの手が止まった。
少し考え、菓子を一口分だけラウルへ渡す。
「成長を調整する」
「そこは信じるのか」
◇
セラは、人混みから半歩離れて歩いていた。
祭りが嫌いなわけではない。
前から来る人を避け、背後から聞こえる声を確かめ続けているうちに、仲間たちとの距離が少しずつ開いていく。
リラはラウルの射的を見に行き、レティアの水質確認をのぞき込み、ノアの菓子を狙った。
それでも、何度か人の間を行き来したあと、気づけばセラの隣へ戻ってくる。
「楽しい?」
リラが尋ねる。
「普通」
「口元、ちょっと上がってる」
「蜂蜜菓子が甘いから」
「食べてないよね」
「ノアが食べてるのを見た」
「見るだけで甘い?」
「顔が甘そうだった」
前を歩くノアが振り返る。
「顔は食べ物じゃない」
「聞こえてた」
「闇術師は耳もいい」
ノアは再び前へ向き、セラの外套の端をつかんだ。
人の流れに押されないためらしい。
許可を求めるように、一度だけ見上げる。
セラは振り払わなかった。
「セラもつかむ?」
リラが藍色の外套の袖を少し持ち上げる。
「迷子じゃない」
「私が迷子になるかも」
「そのままどこかへ行って」
「冷たいなあ」
リラは笑いながらも、歩幅をセラへ合わせた。
◇
通りの小さな舞台では、王立音楽院の生徒たちが歌っていた。
灯具が均等に舞台を照らし、楽団は譜面どおりの拍を刻んでいる。
中央に立つ少女の声は、正確だった。
風が吹いても音程が揺れない。
観客へ笑顔を向ける時刻まで、よく整えられている。
マリエが足を止めた。
「同じ学年?」
リラが尋ねる。
「一つ下です」
「明日は一緒に歌う?」
「午前の合唱で」
マリエは舞台の少女を見ている。
羨ましさを隠す顔ではなかった。
かといって、素直に応援しているだけでもない。
「私も、いつか中央で歌います」
「うん」
「セラさんの代わりではなく」
「分かってる」
「今の確認は、自分へ言いました」
マリエは拍手の前に一度だけ手を叩き、また歩き始めた。
セラだけが、その場に残っていた。
舞台の上では、次の歌が始まる。
「昔、あそこに立ちたかった?」
隣に残ったリラが尋ねた。
「もっと大きいところ」
セラは舞台から目を離さずに答えた。
冗談のような言い方だった。
「欲張りだ」
「あなたが三千人を勝手に用意した」
「客席を作ったのは祭典庁だよ」
「最初に連れていったのはあなた」
「最初はフィン一人だったのにね」
「増やしすぎ」
音楽院の歌が終わる。
観客が拍手をした。
セラは歌手ではなく、客席を見ていた。
指が、外套の脇を小さく握る。
「怖い」
周囲の拍手に紛れそうな声だった。
「うん」
「大丈夫って言わないの」
「大丈夫か、私には分からないから」
「そこは言って」
「大丈夫」
「遅い」
リラの口元が上がる。
セラも、ほんの少しだけ笑った。
笑顔はすぐに消えたが、肩に入っていた力はわずかに抜けた。
「何が一番怖い?」
リラが尋ねる。
「歌えなくなること」
「うん」
「声が止まって、三千人が待ってること」
「そのときは止める?」
「私が止めてって言えなかったら」
セラの視線が、明日の大舞台がある方向へ動く。
「皆が、続けると思ったら」
「ノアとセインは止める」
「リラは?」
百人試演で、セラが消してと言ったあとも、リラは公演を続けようとした。
なかったことにはできない。
「今度は止める」
「本当に?」
「信じてとは言わない」
リラはセラから目を逸らさなかった。
「明日、最初の一言で止める。私が迷ったら、ノアとセインが私より先に止める」
「また歌えなかったら?」
「歌うか、終わるか、セラが決めるまで待つ」
「三千人がいても?」
「いるからこそ」
通りの楽団が、次の曲を始める。
二人の間へ、知らない旋律が流れてきた。
「失敗したら、五年は公の舞台へ立てないかもしれない」
セラが言う。
「うん」
「皆の時間も、お金も失う」
「損失はあると思う」
リラは、無駄にはならないとすぐに否定しなかった。
「ラウルは金獅子を手放した。マリエは評価が下がるかもしれない。アルドさんの枠もなくなる。私たちが困ることは、ちゃんとある」
「なら」
「でも、それをセラ一人で背負わないで」
「私の歌だから」
「歌はセラのもの」
リラは前を歩く仲間たちを見る。
ラウルとセインは、景品の木剣を一本ずつ持っている。
どちらが勇者役かで揉め、レティアが木剣を振り回すなと止めていた。
エヴレンは二人へ、勝手に勇者と魔王の幻影を重ねている。
マリエは、明朝の合唱譜を開こうとした手を自分で止めた。
ノアはセラの外套をつかんだまま、眠そうに歩いている。
「でも、ここへ来た時間を選んだのは、一人ずつだよ」
リラが続ける。
「成功してほしい。でも、成功しなかったら、全部がセラに騙されたことになるわけじゃない」
「無駄だったと思う人もいる」
「いるかもしれない」
「リラは?」
「私は、もうたくさん受け取った」
セラの眉が寄る。
「きれいにまとめないで」
「まとめてないよ」
「演出家になれたから、もういいって言うの」
「よくない」
リラは少しだけ声を強くした。
「明日、成功させたい。星冠祭のあとも作りたい。セラと次の歌もやりたい」
欲しいものを、失敗したときの慰めへ変えずに口にする。
「でも、失敗したら全部が消えるとも言いたくない」
「どうして」
「明日までの時間は、明日の結果だけのためにあったんじゃないから」
セラはすぐには答えなかった。
前を行く仲間たちとの距離が少し開く。
リラも追いつこうとはせず、同じ場所で待った。
「私も」
やがてセラが言った。
「何?」
「次も歌いたい」
「うん」
「失敗しても、路地では歌えるって言わないで」
「言わない」
「公の舞台へ立ちたい」
「うん」
「明日、成功したい」
「私も」
同じ望みを持っている。
それだけで、成功を保証する必要はなかった。
◇
「リラは怖くないの」
歩き始めたセラが尋ねた。
「怖いよ」
「何が」
「舞台の端に立つこと」
「衣装を着たのに?」
「着たから、もっと現実になった」
「逃げる?」
「逃げたくなるかも」
「そのときは?」
リラは藍色の外套の背中を指した。
「つかんで。逃げそうになったら、引き戻して」
「本当に?」
「本番前だけ許可します」
「いつから?」
「舞台に出るまで」
「長い」
「一秒だと、そのあと逃げるかもしれないでしょう」
セラはリラの外套の端を、指先でつまんだ。
「今から?」
リラが振り返る。
「練習」
「まだ逃げてないよ」
「逃げる前に止める」
「それ、予防拘束では?」
「嫌なら離す」
リラは少し考えた。
「そのままでいい」
二人は、外套の端でつながったまま歩いた。
前を行くノアが振り返る。
「迷子?」
「演出家の安全管理」
セラが答えた。
「追加料金が必要」
「ノアには頼んでない」
「規則は全員に適用」
◇
蜂蜜菓子の屋台には、最後の一つだけが残っていた。
丸く焼いた生地へ、蜜と砕いた木の実がかかっている。
リラとセラが同時に指を差した。
「半分」
セラが言う。
「公平だね」
「私が大きい方」
「公平とは?」
「歌手は喉を使う」
「演出家は指と頭を使います」
「頭は普段から使って」
「最近かなり使ってるよ」
店主が苦笑しながら菓子を二つへ割った。
見た目には、明らかに片方が大きい。
セラが大きい方を取る。
「迷いがないね」
「歌手だから」
「万能な理由になってない?」
セラは一口食べたあと、木の実が多くついた端を折った。
リラの小さい方へ載せる。
「何?」
「大きすぎた」
「返してくれた?」
「調整」
「ありがとう」
「礼を言うほどじゃない」
二人は屋台の脇へ並び、同じ菓子を食べた。
明日、一度きりの大舞台が待っている。
だからこそ今夜まで、緊張し続けなければならないわけではなかった。
◇
帰り際、広場の上へ小さな試験花火が上がった。
金色の筋が、夜空をまっすぐ昇る。
花が開く。
音が少し遅れて腹へ響いた。
リラは反射的に、周囲の人々へ顔を向けかけた。
誰が驚いたか。
どこで子どもが指を差したか。
拍手まで何秒か。
身体へ染みついた習慣が、観客を探す。
途中で止めた。
顔を上げ、消えていく花火を見る。
「見ないの?」
セラが尋ねる。
「何を?」
「客」
「今日は私も客だから」
金色の光が、夜空の中でほどける。
意味は考えなかった。
次の演出へ使えるとも思わないようにした。
ただ、きれいだった。
「きれいだね」
リラが言う。
「うん」
セラも空を見たまま答えた。
◇
南区へ戻る途中、街灯の消えた角でセラが足を止めた。
灯具の硝子は割れていない。
内部の導光線が切れているらしく、次の街灯まで道が暗かった。
「直す?」
セラが尋ねる。
リラは灯具を見上げる。
「今日は工具がない」
「前なら上ってた」
「前なら、明日の衣装のままでも上るかも」
「今は?」
「明日の灯務局へ報告する」
手帳を出しかけ、今日は持っていないことへ気づく。
代わりに、街灯の番号だけを声に出して覚えた。
指先へ豆明かりを一つ灯す。
「これは仕事?」
セラが尋ねる。
「帰るための光」
「演出じゃない?」
「歩く人は二人しかいないから」
「フィンなら、公演って言う」
「立ち止まる一人がいないから、まだ違う」
リラが先に歩き出す。
豆明かりは二人の足元だけを照らした。
セラはその横へ並ぶ。
光は遠くまで届かない。
明日の舞台も、三千人すべての心を同じ場所へ運べるわけではない。
それでも今夜は、二人が並んで帰る道を見るには足りていた。




