第三幕「星冠祭」 第46話 遠い席への入口
午後は、大舞台で最終通し稽古を行った。
ノアは休息を優先し、客席脇の椅子で眠っている。
暗転部分は確認済みのため、午後は使わない。
次に問題になったのは、セラの声だった。
旧兵站庫なら、生の声が壁へ返った。
祭典広場には天井がない。
風が吹けば、声は客席の外へ逃げる。
舞台には既存の共鳴板が設置されていた。
歌手の声を固定位置で受け、客席周囲の受音板へ振動として伝える設備だ。声を大きくする道具ではない。決められた位置の音を、遠くへ運ぶために使われる。
セラが舞台中央で歌う。
後方まで届く。
中央から五歩移動する。
声が薄くなる。
静かな一節で舞台端へ寄ると、最後列では言葉がほとんど聞こえなくなった。
「中央の印から動かないでください」
音響技師が言った。
「嫌」
「この共鳴板は、固定位置を前提に設計されています」
「歌の途中で歩きたい」
「歩けば、後方席へ届きません」
「なら設備を変えて」
「前日に言う内容ではありません」
音響技師の額に、太い皺が寄る。
セラも譲らず、床の中央印を見る。
リラは二人の間へ入らなかった。
「セラ」
代わりに、マリエが小型鍵盤の前から呼んだ。
「歩くことは、歌に必要ですか」
「必要」
「すべての部分で?」
セラは答えようとして、止まる。
歌詞の紙を開き、最初から目で追う。
「窓から離れるところ」
「ほかは?」
「最後の四行へ入る前」
「静かな一節は?」
セラは舞台の左端を見る。
「動かない方がいいかもしれない」
マリエは音響技師へ向き直った。
「固定位置は、一つでなければなりませんか」
「共鳴板を三枚まで増やせます」
「切り替えには?」
「二秒。歌声がない時間が必要です」
「呼吸で渡せます」
マリエは譜面を床へ置き、三か所を指した。
「中央。窓の位置。最後の四行の位置」
「檻みたい」
セラが言う。
「三つの場所から選べます」
マリエは顔を上げた。
「どこへでも行けることと、どこからでも同じように届くことは別です」
セラは中央印から、左側の候補位置まで歩いた。
「この間は?」
「歌わない呼吸で移動してください」
音響技師が答える。
「歌いながら歩きたいところもある」
「それなら、移動中の声が薄くなることを受け入れる必要があります」
「後方には届かない?」
「完全には」
セラは客席を見る。
三千人の一番後ろ。
自分が動きたいという理由だけで、言葉を渡さないままにしてよいのか。
以前なら、見えないなら見えないままでいいと言った。
今は、届かないことを選ぶ前に、それを知ろうとしていた。
「全部は動かない」
セラが言う。
「でも、中央だけにも立たない」
「三か所を使いますか」
「使う」
「移動の前に、呼吸を一つ空ける?」
マリエが尋ねる。
「うん」
「静かな一節は中央?」
「窓の位置」
「最後の四行は?」
「まだ決めない」
音響技師は腕を組んだ。
「それでは切り替え表を作れません」
「本番中に変える可能性があります」
セインが事実として補足する。
「今、それを聞きたくありませんでした」
音響技師の皺が深くなった。
◇
レティアが、三枚の共鳴板の間を歩いた。
「板と板の間だけなら、薄い水膜で振動を運べる可能性があります」
「水で声を?」
音響技師が見る。
「増幅はしません。最寄りの共鳴板まで、振動の減衰を抑えて渡します」
「風で膜が乱れれば、声も歪む」
「固定支柱を使います」
「本番中に水量が変われば?」
「私が維持します」
レティアの返事は迷わなかった。
音響技師は舞台の床へしゃがみ、共鳴板と候補位置の距離を測る。
「中央から左までなら可能かもしれない。右端は遠すぎます」
「右には行かない」
セラが言う。
「今、決めていいのですか」
「音が届かないなら、行かない」
「歌が縛られない?」
リラが尋ねる。
セラは少し考える。
「自分で選んだ制限なら、違う」
百人試演では、他人に順番を決められた。
今は、自分が歌を届けるために、行かない場所を選んでいる。
同じ制限でも、身体の感じ方は違った。
「水膜を客から隠しましょうか」
エヴレンが提案する。
「隠さないで」
客席脇の椅子から、ノアが言った。
外套を肩まで掛けたまま、眠そうな目を開ける。
「見えない設備は、踏まれる」
「舞台上へ立ち入りませんが」
「見えないと、誰かが物を置く」
音響技師がうなずく。
「そのとおりです。水膜の支柱は、術者と舞台係から見える必要があります」
「では、美しく見えるよう整えます」
エヴレンは言い直した。
「隠すのではなく、舞台の線として扱います」
「形を決めるのは?」
セラが尋ねる。
「水の安全はレティア。舞台上の見え方はリラ。歌の邪魔になるかは、あなた」
「それでいい」
◇
試験が始まった。
レティアが、中央と左側の共鳴板の間へ細い水膜を張る。
膝より低い位置。
観客には、水面というより銀色の細い道に見えた。
エヴレンは水を消さない。
代わりに、舞台床へ続く一本の線として輪郭を整える。
セラが中央で歌う。
声は共鳴板を通り、後方席へ届いた。
呼吸を一つ空ける。
左へ歩く。
歩いている間、マリエは低い基音だけを残した。
セラが窓の位置で次の言葉を歌う。
声の振動が水膜へ触れ、左側の共鳴板へ運ばれる。
最後列の音響係が、白い札を上げた。
「聞こえます」
音響技師の表情は、まだ険しい。
「静かな声でもう一度」
セラが同じ位置で、声量を落とす。
風が吹く。
水膜が細かく揺れた。
言葉の最後が少し歪む。
「膜の張力を上げます」
レティアが指を動かす。
「上げすぎると、高い音が硬くなる」
音響技師が言う。
「どこまでですか」
「今の半分」
「数値で」
「張力計がない」
「感覚で指示しないでください」
「前日に張力計を要求しないでください」
二人の声が同時に硬くなる。
リラは口を挟みかけ、止まった。
「一度、歌って決める?」
セラが尋ねる。
レティアと音響技師が、同時にこちらを見る。
「私の声を運ぶ設備でしょう」
「はい」
レティアが答える。
「では、私が聞く」
セラは舞台を降り、客席後方まで歩いた。
代わりにマリエが舞台上で同じ旋律を歌う。
一回目。
水膜は柔らかい。
声は自然だが、語尾が風へ流れる。
二回目。
張力を強くする。
言葉は明瞭だが、高音が薄く硬く聞こえた。
セラは二つを聞き比べる。
「最初と二回目の間」
「曖昧です」
レティアが言う。
「私の声も、毎回同じじゃない」
「では、範囲を決めます」
音響技師が測定板へ数値を書く。
「この幅の中で、レティアさんが歌唱に合わせて調整する。下限を下回れば後方へ届かない。上限を超えれば高音が歪む」
「範囲内なら、私が決めます」
レティアが確認する。
「お願いします」
二人の間で、ようやく条件が決まった。
◇
「名前を教えてください」
調整を終えたあと、リラが音響技師へ尋ねた。
「今?」
「報酬表に必要なので」
「祭典庁の設備担当と書けばよいでしょう」
「一緒に作った人の名前がない」
音響技師は、しばらくリラを見る。
「オーリン・ベック」
「オーリンさん」
「技師で結構です」
「技術協力費は?」
「祭典庁の勤務時間内です」
「追加調整は、通常業務に入っていますか」
オーリンの眉が動く。
「水膜との連携試験は、当初の業務にありません」
「では、追加作業として申請します」
「通るとは限りません」
「申請しないと、通る可能性もないでしょう」
リラは報酬表の技術協力欄へ、名前を書き込んだ。
「観客には、誰が声を届けたか分かりません」
オーリンが言う。
「拍手は歌手へ向かいます」
「拍手の向きと、仕事をしたかどうかは別です」
リラは筆を止めなかった。
「ノアの闇も、レティアの水も、オーリンさんの共鳴板も、見えないところが多い」
「演出家も、見えない仕事でしょう」
「今度は舞台の端に立ちます」
「なぜ」
「誰が作ったかを、全部隠さないためです」
オーリンは藍色の外套を一度見た。
「舞台の端は、音を拾いませんよ」
「私は歌わないので」
「なら問題ありません」
返事は最後まで技師らしかった。
◇
午後の通し稽古では、三つの歌唱位置と水膜の範囲を使った。
セラは自由に動き回らなかった。
決められた場所へ押し込まれたのでもない。
歌詞のどこで、誰へ言葉を渡したいかを考え、自分で立つ場所を選んだ。
予定外に移動したくなったときは、呼吸を一つ空ける。
リラが合図を出す。
マリエが基音へ戻る。
レティアが水膜の張りを変える。
オーリンが共鳴板を切り替える。
一度目は遅れた。
二度目は、セラの声が水膜から外れた。
三度目で、最後列まで言葉が届いた。
大きな音ではない。
どこから鳴っているか分からない声でもない。
舞台上のセラから発した声が、水の細い道を通り、観客の周囲から柔らかく返ってくる。
歌の中へ閉じ込めるのではなく、遠い席まで同じ入口を作る音だった。
◇
通し稽古が終わるころ、ノアが椅子から起き上がった。
眠った跡で、黒藍色の髪の片側だけが潰れている。
「終わった?」
「音響は通ったよ」
リラが答える。
「闇は?」
「認可済みです」
セインが、祭典庁の書類を渡した。
ノアは押された印を何度も見る。
「これで、闇を使える」
リラが言う。
「違う」
「何が?」
「私が使える」
ノアは書類を工具袋へ入れた。
「闇だけが舞台に出るんじゃない」
リラは一度目を瞬き、うなずいた。
「そうだね。ノアが出る」
「衣装も着る」
「術路の星があるやつ?」
「術路の点」
「はい」
ノアは潰れた髪を手で直そうとした。
うまく戻らない。
セラが手を伸ばしかけ、止める。
「直していい?」
「少しだけ」
セラの指が、跳ねた毛先を整える。
ノアは逃げなかった。
広場の後ろでは、アルドが銀の杖へ両手を重ねていた。
「少しは演出家らしくなったな」
「弟子にします?」
リラが尋ねる。
「まだ早い」
「では、本番後に」
「成功しても早い」
「長生きしてくださいね」
「お前を弟子にするよりは簡単だ」
アルドは舞台を見る。
三百人を安全に外へ出した闇。
歌手が自分で選んだ三つの場所。
水が作った声の道。
名前を記された音響技師。
どれも、一人の正解から生まれたものではなかった。
「明日は、もっと問題が起きるぞ」
アルドが言う。
「前日に不吉なことを言わないでください」
「本番とは、練習で起きなかったことが起きる日だ」
リラは大舞台を見上げた。
以前なら、起こり得る問題をすべて書き出そうとしただろう。
今も考えないわけではない。
ただ、すべてを自分一人で予測し、支配しようとは思わなかった。
「何か起きたら、みんなで止まります」
「止まれない場合は」
「出せない魔法は出さない」
「歌は」
セラが、舞台中央から答えた。
「私が決める」
「演出は?」
リラが藍色の外套の袖を持ち上げる。
「歌に聞く」
ノアが工具袋の口を閉じた。
「闇は?」
「私が決める」
誰の答えも、一つには揃わなかった。
それでも、明日の十二分を始めるには十分だった。




