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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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第三幕「星冠祭」 第49話 開演一時間前

 出演時刻は、日没直後だった。


 王立騎馬隊の行進が終わり、王立音楽院の祝祭合唱が始まるまでの間。


 昼から祭りを歩いていた客が広場へ戻り、夜の大花火を待つ人々も集まり始める。祭典庁の予測では、一日の中でも観客数が最も多くなる時間帯だった。


 開演一時間前。


 準備棟へ、祭典庁の進行役が駆け込んできた。


「演目の正式名称をお願いします」


 全員が動きを止めた。


 リラは、机の上に広げていた最終確認表から顔を上げる。


「申請書に書いてませんでした?」


「『粒子ライブ実験枠・歌唱演目』は仮称です」


「仮称のままでは?」


「舞台上の掲示、場内放送、記録書へ残す名称が必要です」


「いつまでに?」


「五分以内です」


 進行役は筆と記録板を差し出した。


 倉庫の申請。


 五十人試演。


 百人試演。


 安全審査。


 出演許可。


 報酬表。


 停止手順。


 それだけの書類を作っておきながら、公演そのものの名前がなかった。


「『帰れない灯』でいい」


 セラが言った。


「そちらは楽曲名として登録されています」


「同じでは駄目なの」


「曲と公演を別々に記録する規則です」


「規則が名前を増やしてる」


 セラは不満そうに歌詞の紙を閉じた。


「『金獅子と水鏡、雷鳴を添えて』」


 ラウルが胸を張る。


「料理の名前のようです」


 レティアが即座に却下した。


「どこがだ」


「主要な材料を列挙し、最後に調理法を加えれば完成します」


「俺の金獅子を材料扱いするな」


「それ以前に、金獅子は出さないでしょう」


 ラウルの勢いが少し落ちる。


「似たような獅子は出す」


「似たものと本人は別です」


 レティアは水導管の確認表へ視線を戻した。


「『追憶幻想夜曲――帰還せざる街に捧ぐ』」


 エヴレンが提案する。


「長い」


 ノアが床から答えた。


「では、『帰還せざる街』」


「歌より幻影が主役みたい」


 リラが言う。


「幻影は常に主役となる可能性を秘めています」


「今回は秘めたままにして」


「『闇』」


 ノアが言った。


「短すぎます」


 マリエが小型鍵盤の蓋を閉じる。


「曲名より短い公演名は、案内上、判別しにくいと思います」


「覚えやすい」


「ほかの闇演目と区別できません」


「闇は私のが一番」


 ノアは工具袋を抱えたまま、譲らなかった。


 セインは記録板へ候補を書き並べていた。


「魔法歌唱統合演目」


「役所っぽい」


 リラが言う。


「祭典庁へ提出する名称です」


「観客も聞くんだよ」


「では、魔法歌唱統合公開演目」


「公開を足しただけ」


「情報は増えました」


 進行役が懐中時計を見る。


「残り三分です」


 全員の視線が、リラへ集まった。


「私?」


「演出家」


 セラが言う。


「全員で決めるんじゃなかった?」


「候補を出して」


「断るかもしれない?」


「内容による」


「責任が重いなあ」


 リラは笑いかけ、すぐに口を閉じた。


 名前をつけることは、意味を一つへ固定することではない。


 そう教えられたばかりだった。


 最初の路地を思い出す。


 歌手と、小さな豆明かり。


 立ち止まった一人の少年。


 光の技術も、火も水も闇もなかった。


 まだ何を作ろうとしているのか、リラ自身にも説明できなかったとき、フィンだけが言った。


「『歌が見えた』」


 準備棟が静かになる。


 外では、騎馬隊が通る道を空けるため、警備兵が声を上げていた。その音が厚い壁を通し、遠く聞こえる。


「過去形ですか」


 レティアが尋ねる。


「最初に言われた言葉だから」


「まだ今日の客には、見えていない」


 セラが言う。


「うん」


「見えるとも決まってない」


「それも、うん」


 リラはセラを見る。


「見えたって言わせるための名前じゃない」


「では、何」


「私たちが始まった場所」


 リラは言葉を探しながら続ける。


「フィンが、私たちより先に見つけたもの。今日、同じものが見える人も、別のものが見える人も、何も見えない人もいると思う」


「何も見えなかったら、題名と違う」


「その人には違って聞こえるね」


「それでいいの?」


「題名まで、全員の答えにしなくていい」


 セラはしばらく黙っていた。


 手にした歌詞の紙を、親指で一度だけなぞる。


「私は、もう一度見たい」


「何を?」


「最初にフィンが見たものじゃなくて」


 セラの目が、リラの指先へ向く。


「今日、私が歌って見えるもの」


 リラはうなずいた。


「じゃあ、これにする?」


「私は賛成」


 マリエが言う。


「曲名と演目名の役割も重複しません」


「闇より長い」


 ノアは不満そうだった。


「闇は演出の中で残すから」


 セラが言う。


「ならいい」


 ラウルが腕を組む。


「金獅子は入らないのか」


「公演を見れば分かります」


 セインが答える。


「見て分かるなら、題名へ入れる必要はありません」


「お前が一番うまくまとめるな」


 進行役が記録板へ書き込む。


 ――演目名『歌が見えた』。


「こちらで場内放送と掲示を更新します」


 扉が閉じる。


 公演に、名前がついた。


 完成したからではない。


 ここまで戻ってくるための場所が、ようやく一つできた。


     ◇


 開演五十五分前。

 準備棟の外では、祭典広場への入場が始まっていた。

 生活灯を使える者には、光を肩より高く上げず、手のひらほどの大きさに抑えるよう説明される。

 光を使えない者のうち、参加を希望した者には、低出力の小光石が一つずつ貸し出された。

「舞台から円の合図が出て、係員の許可札が上がるまでは、灯さないでください」

 係員が同じ説明を繰り返す。

 南区から来た子どもが、まだ暗い小光石を両手で包んだ。

「これ、本当に光るの?」

「今はまだ駄目だよ」

 母親が答える。

「合図が出たら、お前が灯すんだ」

 子どもは石を掲げかけ、慌てて胸元へ戻した。

 参加を望まない者は、何も受け取らずに客席へ進む。

 光を持つ者も、持たない者も、同じ入口から広場へ入っていった。

     ◇


 開演四十八分前。


 準備棟の外で、車輪の止まる音がした。


 セインが儀礼用の外套を片手に抱え、扉から入ってくる。白い制服の肩には、国家儀礼で使った金の飾り紐がまだ残っていた。


「到着予定より二分遅れました」


「間に合った!」


 リラが駆け寄る。


「移送路で、騎馬隊の列が予定より長くなりました」


「走った?」


「走っていません」


「本当に?」


「移送車を降りてからは、早歩きです」


「それは走る寸前では?」


「規定上は歩行です」


 セインは息を整えながら、儀礼用の外套を係員へ渡した。


 額には薄く汗が浮かんでいる。


「国家儀礼は?」


「予定より一分四十秒遅れて終了しました。雷信術、誘導、撤収とも異常なし」


「見たかったなあ」


「今から戻れば記録映像を――」


「戻らないよ」


「適切です」


 セインは白い手袋を交換し、舞台設備の方へ向かった。


 間に合いたかったと、前日に自分の口で言った。


 今は、それ以上説明しなかった。


     ◇


 舞台裏では、最後の雷経路確認が始まった。


 三日前の接続試験で、雷信塔から舞台へ雷を引く経路は、安全基準を満たせないと判明していた。


 塔の雷を使う案は、その時点で破棄した。


 代わりに、セイン自身の低出力雷を、レティアが作る閉鎖水路の内部へ通す。


 実際の雷光は、安全が確認された短い距離だけ。


 その光をエヴレンの幻影で空へ広げ、雷が舞台全体を走ったように見せる。


 一度目の試験では、水路の端から火花が漏れた。


 二度目は出力を下げ、水路を二重にした。


 三度目で、安全官の基準を通過した。


 今日は新しい変更を加えない。


 決めた構成が、設計どおり動くか確かめるだけだった。


「閉鎖水路、圧力安定」


 レティアが言う。


「外周への漏れはありません」


「導雷経路、接続」


 セインが白い導線を固定した。


「出力は試験時と同じ。追加しません」


「空中展開の幻影も、承認済みの範囲だけです」


 エヴレンが長手袋を整える。


「本物の雷光が三割。私の美しい虚構が九十七割」


「足して百を超えてる」


 ラウルが言う。


「美は常に予定を超過します」


「安全出力は超過させないでください」


 レティアの声が、いつもより丁寧になる。


 エヴレンは両手を上げた。


「幻影に熱量はありません」


「驚かせすぎると、観客が立ち上がります」


 セインが続ける。


「視覚上の拡大率も、試験時から変更しないでください」


「美しさが規定値へ収められていく」


「本番前に増やすなと言われたでしょう」


 ラウルが、珍しく安全側へ立った。


 セインが導線へ、ごく弱い雷を流す。


 白い光が閉鎖水路の中だけを走った。


 レティアの水が細く震える。


 エヴレンは幻影を出さない。


 実光が予定の終点で消えたことを、全員で確認する。


「雷経路、準備完了です」


 セインは導線から手を離した。


     ◇


 開演三十五分前。


 マリエが、音楽院の衣装袋を抱えて到着した。


 淡い金髪の結び目が、朝より少しだけ緩んでいる。


「合唱は?」


 リラが尋ねる。


「終了しました」


「歌えた?」


「二曲目ですこし息が上がりましたが、規定範囲です」


「評価は?」


「まだ出ていません」


「気にならない?」


「気になります」


 マリエは迷わず答えた。


「ですが、今は伴奏の確認をします」


 小型鍵盤の前へ座り、低い基音を一つ鳴らす。


 音の戻りを確かめたあと、指をすぐに離した。


「調律に変化はありません」


「喉は?」


 セラが尋ねる。


「歌唱は終えました。伴奏への支障はありません」


「歌いたくならない?」


 問いかけに、マリエの指が鍵盤の上で止まった。


「なります」


 少し遅れて、低い音が一つ鳴る。


「それでも、今日はここを選びました」


 セラは短くうなずいた。


     ◇


 開演二十分前。


 舞台係が、準備棟の扉から顔を出した。


「出演者は最終待機へ入ってください」


 衣装を着た仲間たちが、それぞれの位置へ移る。


 ラウルは耐火手袋を締める。


 レティアは左右の手袋を一つながりのポケットから取り出す。


 エヴレンは長すぎた飾り布が、安全規定どおり短くなっていることを不満そうに確かめた。


 ノアは黒いローブの袖を上げる。内側の銀の点が、術路のように一瞬だけ見えた。


「セラ」


 マリエの声がした。


 返事がない。


 濃紺の衣装を着たセラは、壁の前に立っていた。


 歌詞の紙を持っている。


 口を開く。


 息だけが出た。


 もう一度、吸う。


 最初の音を出そうとした瞬間、肩が上がり、呼吸が止まる。


「セラ?」


 リラが近づきかける。


 セラは片手を上げた。


「待って」


 リラはその場で止まった。


 二人の間に、四歩ほどの距離が残る。


 マリエが小型鍵盤から立った。


「話す声は出ますか」


「出る」


「痛みは?」


「ない」


「喉に異物感は」


「少し詰まる」


「母音だけ出せますか。歌わなくて構いません」


 セラは短く息を吸う。


「あ」


 声は出た。


 かすれているが、途切れてはいない。


「もう一度歌おうとしないでください」


 マリエが言う。


「声が出ないわけではありません。歌おうとしたときに、呼吸を止めています」


「どうすればいい」


「今、無理に発声すれば、止める癖が強くなります」


 マリエは歌手科の徽章へ一度触れた。


「まず、見られている人数を減らします」


 周囲には、仲間と舞台係と衣装係がいた。


 全員が心配そうにセラを見ている。


 それ自体が、百人試演の客席を思い出させていた。


「誰を残しますか」


 マリエが尋ねる。


 セラは全員を見た。


「マリエ」


「はい」


「リラ」


 リラの指がわずかに動く。


「うん」


「ノアも」


「分かった」


 ノアはすぐに薄い闇を広げた。


 部屋全体を暗くはしない。


 セラのいる一角だけ、ほかの人の視線から隠す。


 出口と時計は見えるまま残した。


「それ以外の方は、準備を続けてください」


 マリエが言う。


「異常があれば呼びます」


 ラウルは何か言いたそうに口を開いた。


 セラを見る。


 結局、耐火手袋を持ち直した。


「火は準備しておく」


「うん」


「出せと言われるまで出さない」


「分かってる」


 レティアも水導管へ戻る。


「声を出す必要があるときだけ呼んでください」


 エヴレンは白い花びらを一枚も残さず、その場から離れた。


 セインは時計を確認する。


「開演十七分前です。五分前までは、予定どおり待機できます」


「五分を過ぎたら?」


 セラが尋ねる。


「出演意思を再確認します。開始できない場合は、総監督と中止判断を行います」


「分かった」


 誰も、必ず間に合うとは言わなかった。


     ◇


 薄い闇の内側に、四人だけが残った。


 マリエは床へ座り、小型の音叉を膝の上へ置く。


「歌わなくてよいので、呼吸だけ合わせますか」


「音はいらない」


「分かりました」


 マリエは音叉を置いた。


 ノアはセラから少し離れた場所へ座る。


 闇を維持する以外、何もしない。


 リラも隣へ行かず、四歩先の床へ腰を下ろした。


「大丈夫?」


 問いかけてから、言葉を選び間違えたことに気づく。


 セラは壁へ背を預けた。


「大丈夫じゃない」


「うん」


「怖い」


「うん」


「客が多すぎる」


 リラの頭に、人数が浮かぶ。


 三千。


 口へ出す前に止めた。


「数えないで」


「言ってないよ」


「顔が言った」


「ごめん」


 外では、騎馬隊の行進を告げる太鼓が鳴っている。


 一定の間隔で響くたび、壁がわずかに震えた。


「歌ったら、全部知られる」


 セラが言う。


「私は、歌うと隠せない」


 リラは、全部ではないと否定しかけた。


 歌を聞けば、感情が分かる。


 そう決めつけた結果、セラを傷つけた。


「何を知られるのが怖い?」


 代わりに尋ねる。


「分からない」


「分からないままでもいい」


「よくない」


 セラの指が、衣装の布を強く握る。


「怖いことも。歌いたいことも。リラをまだ許してないことも」


 指先の力がさらに強くなる。


「それでも、一緒に立ちたいことも」


 リラはすぐに答えられなかった。


 許されたのだと、都合よく受け取りたくなる。


 同じ舞台へ立つことと、傷がなくなることは別だった。


「全部、一緒にあってもいいと思う」


 リラはゆっくり言う。


「歌ったら、どれか一つに見えるかもしれない」


「見る人は、一つにするかもしれない」


「また、勝手に意味をつけられる」


「うん」


「止められない」


「全部は止められない」


 リラは、きれいな答えを探さなかった。


「でも、私たちが舞台へ置くものは選べる。見せないと決めた景色は出さない。歌を止めたいなら止める」


「観客が待ってても?」


「待たせる」


「祭典庁が止めろと言ったら?」


「終わる」


「公演がなくなる」


「なくなる」


 セラの目が、リラへ向く。


「それでも?」


「セラの声を、公演のために使わない」


 百人試演のとき、言えなかった言葉だった。


「歌うなら、セラが選んだ歌を始める。歌わないなら、私たちが舞台を終わらせる」


「簡単に言う」


「簡単じゃないよ」


 リラの手は膝の上で震えている。


「私も逃げたい」


「何から」


「今日、私が演出家だって知られること」


「今さら」


「豆明かりしか使えないのに、大魔法使いたちへ合図してるって笑われるかもしれない」


「笑わせておけば」


「軽いなあ」


「あなたが教えた」


「相手が笑わない自由も残せって、兄に言われた方だよ」


「では、笑う自由も残せばいい」


 セラは少しだけ息を吐いた。


 先ほどより、肩が下がっている。


「リラは、笑われたらどうするの」


「傷つく」


「逃げる?」


「舞台へ出る前なら、セラが袖をつかむ予定」


「今は?」


 リラは、二人の間の四歩を見る。


「来てほしい?」


 セラはすぐには答えなかった。


 やがて、床を指で示す。


「あと二歩」


 リラは立ち上がり、二歩だけ近づいた。


 残り二歩の距離で、もう一度座る。


「ここ?」


「うん」


 許可された分だけ近づいた。


     ◇


 開演十分前。


 外から、舞台係の声が聞こえる。


「次の騎馬隊演目、終盤へ入ります」


 セラの呼吸は戻り始めていた。


 けれど、まだ歌おうとすると喉が閉じる。


 マリエは急かさず、セラの呼吸だけを見ている。


「最初の音を出す必要はありません」


「でも、舞台で出なかったら」


「そのときは、出るまで待つか、終わります」


「伴奏は?」


「私は低い基音を一つ置きます」


「私が入らなかったら?」


「消します」


「困らないの」


「困ります」


 マリエは短く答えた。


「ですが、困ることと、無理に歌わせることは別です」


 セラは目を閉じた。


 百人試演では、客席が歌の続きを待っていた。


 今、三人も待っている。


 けれど、続きを要求する待ち方ではなかった。


「最初の光を見せて」


 セラが言う。


 リラはすぐに魔法を出さない。


「どこへ?」


「左。肩より少し下」


「距離は?」


「最初の路地くらい」


「分からないなあ」


「近すぎないところ」


「手のひら二つ分?」


「それで」


 リラは指先へ豆明かりを灯した。


 小さな光だった。


 縁から、六つの粒をほどく。


 一粒は、セラの左肩から手のひら二つ分離れた場所。


 二粒は髪の後ろ。


 残りは壁と床へ、互いに重ならないよう置く。


 準備棟の灯りの中では、弱い。


 大舞台の魔法に比べれば、何も起きていないようにも見える。


「小さい」


 セラが言う。


「知ってる」


「三千人には、これだけじゃ見えない」


「うん」


「でも、これがないと始まらない」


 セラが一番近い光粒へ指を伸ばす。


 触れる直前で止めた。


 最初の路地にも、同じ光があった。


 そのときは、安全手順も、演出表も、名前もなかった。


 歌う者と、見せようとする者。


 立ち止まった一人。


「今、何が見える?」


 リラが尋ねる。


 セラは光を見たまま答えない。


 しばらくして、首を横へ振った。


「まだ分からない」


「うん」


「分からないまま、始めてもいい?」


「いい」


 マリエが小型鍵盤へ手を置く。


「最初の基音は?」


 セラは一度、息を吸った。


 今度は肩が上がらない。


「ほしい」


 低い音が一つ鳴った。


 戻れと命じる音ではない。


 戻ってもよいと知らせる音だった。


 セラは歌わなかった。


 ただ、音が消えるまで呼吸を続けた。


「もう一度?」


 マリエが尋ねる。


「舞台で」


 セラは壁から背を離した。


     ◇


 ノアが闇を薄くする。


 準備棟の人々と、舞台へ続く通路が戻ってきた。


 ラウルは耐火手袋をはめ終えている。


 レティアは導管の前。


 エヴレンは何もない両手を見せた。


 セインは懐中時計を開く。


「開演五分前です」


「歌える?」


 ラウルが尋ねる。


 セラは少し考えた。


「まだ分からない」


 誰も顔を強張らせなかった。


「炎は待つ」


 ラウルが言う。


「水も、歌声を確認してから始めます」


 レティアが続ける。


「幻影は、最初の許可が出るまで何も置きません」


 エヴレンは手を下ろす。


「雷信術は、歌唱開始を発動条件とします」


 セインが記録を確認する。


「闇は?」


 リラがノアを見る。


「セラが立ったら、足元だけ」


「伴奏は?」


 マリエが鍵盤の前へ戻る。


「一音目を置いて、待ちます」


 セラは全員を見た。


 一人も、歌えると決めつけなかった。


 一人も、歌えないと決めなかった。


「行く」


 セラが言う。


 リラは藍色の外套を整え、立ち上がった。


 足が、わずかに震えている。


「リラ」


「何?」


「袖」


「ああ」


 前夜祭で決めた許可を思い出す。


 セラがリラの外套の端をつかんだ。


「逃げないように」


「両方?」


「両方」


 舞台へ続く扉の向こうで、騎馬隊への拍手が起きた。


 地面を揺らすような音だった。


 その拍手が収まり始める。


 場内放送の声が、祭典広場へ響いた。


『続きまして、特別実験演目――』


 リラの指先で、六つの粒が小さく揺れる。


『歌と魔法が作る、新たな舞台』


 セラの手に力が入った。


『演目名――「歌が見えた」』


 開演の鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 ノアが舞台へ続く足元だけを薄く暗くする。


 マリエが鍵盤へ手を置く。


 ラウル、レティア、エヴレン、セインが、それぞれの位置へ向かう。


 セラはリラの袖を離した。


 怖さが消えたからではない。


 自分の足で、中央へ立つためだった。


「行こう」


 今度は、セラが先に歩き出した。

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