第三幕「星冠祭」 第43話 祭りの外側
星冠祭が近づくにつれ、王都は夜になっても眠らなくなった。
大通りには各地区の旗が並び、空いていた広場へ屋台の骨組みが建つ。
遠方から来た商人と旅人が宿を埋め、荷車は朝から晩まで石畳を行き交った。
夜になると、花火工房の試験火が上がる。
赤。
青。
金。
窓が震れるほどの音が鳴るたび、通りにいた子どもたちが空を見上げた。
街全体が、本番を待っていた。
リラたちの演目についても、噂が広がっている。
無所属の歌姫。
祝祭で闇魔法を使う不吉な舞台。
祭典総監督が、南区の素人へ与えた特別枠。
王立劇場の人気俳優と、雷信隊のセインが参加する謎の新演目。
世界で初めて歌を見せる公演。
期待と悪意は、同じ速さで広がった。
◇
その日、旧兵站庫の前には、王立音楽院の生徒が数人集まっていた。
見学許可を取ったわけではない。
休憩へ出てきたセラを見つけると、聞かせるための声で話し始めた。
「特例出演の人でしょう」
「試験で楽団の拍も守れなかったって」
「百人試演も途中でやめたらしいよ」
「星冠祭まで壊さなければいいけど」
セラは足を止めなかった。
手にしていた水筒の蓋を閉め、そのまま倉庫へ戻ろうとする。
リラは生徒たちの方へ身体を向けた。
一歩目を出す前に、外套の袖をつかまれる。
「何もしないで」
「まだ何もしてない」
「顔がしてる」
「私の顔、そんなに分かりやすい?」
「今は」
セラの指が、藍色の袖から離れない。
「でも、聞こえてたでしょう」
「聞こえた」
「腹は立たない?」
「立つ」
「なら、一言くらい――」
「あなたが言ったら、私が言い返せない人に見える」
リラの口が閉じた。
音楽院の生徒たちは、こちらが反応しないことに飽きたのか、そのまま通りの向こうへ歩いていく。
笑い声だけが少し遅れて残った。
セラは倉庫の扉へ手をかける。
「無視できることと、平気なことは別だからね」
リラが言った。
「知ってる」
「今は、一人で平気?」
セラはすぐには答えなかった。
水筒を持つ指へ、わずかに力が入っている。
「少し、一緒にいて」
「うん」
「喋らないで」
「難易度が高いなあ」
「無理なら離れて」
「黙ります」
二人は倉庫の壁際へ並んだ。
リラは励まさなかった。
セラの代わりに怒鳴り返しもしなかった。
ただ、肩一つ分の距離を空けて立った。
花火の試験音が、遠くで一度鳴った。
◇
別の日、祭典庁へ闇魔法に対する抗議書が届いた。
祝祭で闇を使うのは縁起が悪い。
子どもが怖がる。
事故による消灯と、演出上の暗転を区別できない。
闇属性の術者を、王都最大の祭典へ出すべきではない。
会議室へ呼ばれたノアは、大きすぎる黒いローブの袖へ両手を隠し、長椅子の端に座っていた。
足は床へ届いていない。
隣にはリラ、セラ、アルド、セインがいる。
「闇の使用時間を、現在の計画の半分へ減らしてください」
祭典庁の事務官が書類を見ながら告げた。
「嫌」
ノアの返事は短かった。
「感情ではなく、安全上の要請です」
「半分にすると、危ない」
「暗い時間が短くなるのに?」
「ほかの魔法を閉じる前に、客席が開く」
ノアは袖から指を出し、机の上へ三本並べた。
「一枚目で客席の視線を切る。二枚目で、舞台上の魔法を安全に止める。三枚目で、出口とセラの顔を残す」
「二枚目を省けませんか」
「消えきってない火や幻影が見える」
「観客は気にしません」
「気にする。子どもは追う。前の人が動けば、後ろも動く」
ノアは事務官を見た。
「暗いから危ないんじゃない。見てはいけない方向へ人が動くから危ない」
事務官は、初めてノア本人へ視線を向けた。
「では、別の暗転術者へ同じ構成を任せることは?」
「できる人がいるなら」
リラが何か言いかける。
ノアが横目で止めた。
「でも、私より上手いかは試して」
「あなたでなければならない理由は、技術だけですか」
「違う」
ノアの金灰色の目が、わずかに細くなる。
「最後に顔を残すって、セラと決めた」
セラがうなずいた。
「私が頼んだ」
「闇の厚さも、開ける場所も、二人で決めた」
ノアは机の三本の指を、一つずつ畳む。
「同じ暗さは作れても、同じ闇にはならない」
以前のリラなら、「観客に違いが伝わるか」を先に考えていただろう。
今は何も足さなかった。
ノアが伝えたいことを、ノアの言葉のまま残した。
事務官は書類を閉じる。
「計画どおりの使用を認めるには、追加の避難試験が必要です」
「何人?」
セインが尋ねる。
「三百人。通常の観客に近い年齢構成で実施します」
「照度条件は」
「本番と同等」
「出口誘導員は」
「祭典庁から十名出します」
「不足です。計画上は十二名必要です」
「二名は演目側で用意してください」
セインは条件を記録板へ書き込んだ。
「試験の失敗条件を明文化してください。避難時間だけでなく、転倒、逆流、誘導線の視認率も測定します」
「承知しました」
「試験に失敗した場合は?」
「本番での闇魔法使用を認めません」
会議室が静かになる。
ノアは足をぶらつかせるのをやめた。
「できます」
声は変わらなかった。
会議を終え、廊下へ出てから、リラが隣を歩く。
「怖くない?」
「怖い」
珍しく、ノアはすぐに認めた。
「闇が不吉って言われるのは慣れてる」
「慣れても、嫌だよね」
「うん」
黒藍色の髪が、歩くたび頬へ触れる。
「失敗したら、やっぱり闇は危ないって言われる」
「失敗しないようにする」
「リラが?」
リラの口が止まる。
「……また一人で言いかけた」
「言いかけた」
「みんなで準備する」
「失敗したら?」
「何が悪かったか、みんなの名前で出す」
ノアが足を止めた。
「私だけの失敗にしない?」
「しない」
「成功したら?」
「ノアだけの手柄にする?」
「それも違う」
「難しいなあ」
「皆の公演だから」
ノアは再び歩き出す。
「でも、闇の設計は私の手柄」
「そこは譲らないんだ」
「報酬に関わる」
◇
ラウルには、花火工房から正式演目へ戻るよう通達が来た。
工房の親方は、若手の中で最も目立つ炎術師を、例年の金獅子から外すつもりがなかった。
セラとリラが工房へ到着したとき、二人は安全箱を挟んで向かい合っていた。
「今年の金獅子は、お前が設計した」
親方が言う。
「弟子たちへ手順を渡した」
「手順を渡せば、同じ火になると思うか」
「思わない」
「なら戻れ」
「戻らない」
ラウルの声が、工房の壁へ響く。
周囲の職人たちは作業を続けるふりをして、全員が聞いていた。
「名もない歌手の後ろで、客に気づかれない火を出すのか」
「名前はある。『帰れない灯』だ」
「歌ではなく、お前の火の話だ」
「俺も火の話をしてる」
ラウルは安全箱の蓋へ両手を置いた。
「金獅子なら、客は最初から俺の火を待ってる」
「当然だ」
「こっちは違う。俺が出したいと思った瞬間に、まだ待てと言われる」
「それが何だ」
「腹が立つ」
親方の眉が上がる。
「でも、待ったあとの火は、今までの俺には出せなかった」
ラウルは一度、リラたちの方を見る。
セラは何も言わない。
戻ってきてほしいとも、自分を選んでほしいとも言わず、彼の答えを待っている。
「俺の炎を待ってる奴がいる」
「歌手が?」
「全員だ」
ラウルの手が、箱の留め金を一つ閉じる。
「セラが最後の言葉を歌う。リラが合図を出す。レティアが水を引く。ノアが空を開ける。全員が、俺が早まらないことを信じて待つ」
「金獅子より小さい火だぞ」
「出力の話じゃない」
「客の半分は、お前の名前にも気づかん」
ラウルの口元が歪む。
そこは痛いらしかった。
炎術師として名を上げたい気持ちまで、捨てたわけではない。
「気づいてほしい」
ラウルは正直に言った。
「俺の火だって分かってほしい。金獅子よりすごいって言われたい」
「なら、なぜ行く」
「まだ、どっちの方がすごいか俺にも分からないからだ」
工房が静かになる。
「今年の金獅子へ戻れば、去年より大きくできる。それは分かる」
ラウルは安全箱から手を離した。
「でも、最後まで待った火が、どこまで行けるかは分からない。俺はそっちを見たい」
親方は長い間、ラウルを見ていた。
笑わない。
褒めもしない。
「金獅子は、ほかの者の手柄になるぞ」
「分かってる」
「失敗して戻っても、今年の中央には立てん」
「分かってる」
「では行け」
親方は作業台から、予備の耐火留め具を一袋持ち上げた。
ラウルへ投げる。
「貸すだけだ。焦がしたら弁償しろ」
ラウルが受け取る。
「親方」
「戻ってこられないほど燃やすな」
「俺の火は安全だ」
「それを信じられないから言っている」
親方は背を向け、職人たちへ作業再開を命じた。
ラウルは留め具の袋を握ったまま、しばらく動かなかった。
◇
レティアには、星冠祭当日の王城前大噴水の管理がある。
水務研究所の主任として、最初の放水を確認するまでは離れられない。
彼女は副主任へ四十二頁の手順書を渡した。
「通常運転の手順書は、九頁だったはずですが」
副主任が厚みを確かめる。
「異常時の判断基準を追加しました」
「二十七種類も?」
「想定できる異常を減らす方が危険です」
「主任が戻ってきた方が早いのでは」
「星冠祭の別業務があります」
「どちらが本業ですか」
レティアの指が、書類の端で止まった。
「どちらも、引き受けた仕事です」
きっぱり言い、最初の放水終了後に権限を移す時刻を記入した。
エヴレンには、王立劇場の昼公演がある。
劇場側からは代役を立てる案も出たが、本人が拒んだ。
「観客は、私を見に来ています」
「星冠祭の方は?」
舞台監督が尋ねる。
「歌を聞きに行きます」
「出るのでしょう」
「それでも、聞きに行くのです」
エヴレンは昼公演の終演まで責任を果たし、挨拶を終えた直後に衣装を替える予定を組んだ。
移動用の馬車にも、幻影の準備を持ち込まない。
劇場でしか作れないものと、セラの歌へ持っていくものを分けた。
マリエは、音楽院の祝祭合唱にも名前が入っていた。
首席候補として、学院の演目へ出ることを期待されている。
「伴奏者として別演目へ参加すれば、歌手科の評価対象から外れる可能性があります」
教師が告げた。
「承知しています」
「八年かけて得た順位だ」
「順位を捨てるつもりはありません」
マリエは合唱譜を閉じる。
「午前の合唱には出演します。終了後、許可された移動経路で旧兵站庫へ向かいます」
「両方を選ぶのか」
「どちらも、私が練習した音です」
合唱の代役にはならない。
セラの代わりにもならない。
自分で選んだ二つの役割を、どちらも途中で投げなかった。
セインは国家儀礼の雷信演目を終えてから、短い時間で合流しなければならない。
儀礼が遅れれば、リラたちの演目へ間に合わない。
「国家儀礼を短縮することはできません」
セインは全員へ先に告げた。
「遅延が七分を超えた場合、私は不在の構成へ切り替えてください」
「走れば間に合う?」
リラが尋ねる。
「走ることを前提にした安全計画は認められません」
「馬車は?」
「祭典庁の移送車を申請しました」
「間に合わなかったら?」
「雷なしで始めてください」
セインの声は平らだった。
「待たないの?」
セラが尋ねる。
「私は、歌へ雷を待たせることを覚えました」
白い手袋の指が、予定表の時刻を示す。
「しかし、公演全体を私一人の到着へ待たせるつもりはありません」
全員が、それぞれの仕事と誇りを持っている。
この十二分だけが、人生のすべてではない。
それでも、ほかの場所で積み上げてきた技術と時間の一部を、自分で選んで持ち寄っていた。




