第二幕「歌を返して」 第40話 合図のない歌
再び歌い始めた翌日、最初の通し稽古は十二分で終わる予定だった。
実際に終わったのは、二十六分後だった。
最初の一回は、一番の途中で止まった。
セラが一語だけ長く伸ばし、マリエが次の和音を待った。リラも光を動かさず、ラウルは火を握ったまま留まる。
「今のは、変更?」
リラが尋ねた。
「まだ決めてない」
「続ける?」
「少し待って」
「分かった」
倉庫には、セラが次の言葉を選ぶ呼吸だけが残った。
以前なら、リラが空白を埋めるために光を足していた。
今は、一粒をセラの左肩へ置いたまま動かさない。
やがてセラが歌い直し、全員もそこから続けた。
二回目は、ラウルの炎が半拍遅れた。
三回目は、レティアの水面へ幻影が映る前に、セラが次の一節へ進んだ。
そのたびに止めた。
誰かを責めるためではない。
何が起きたかを確認し、再開してよいかを全員で確かめる。
時間はかかった。
けれど、百人試演の前よりも、倉庫の中で分からないことを口にできるようになっていた。
崩れたのは、四回目だった。
◇
二番の途中。
セラは、窓の外へ出るか迷う一節を歌っていた。
予定では、そのあとにマリエの四和音が入り、レティアの水面へ街が広がる。ラウルは低い炎を三つだけ灯し、セインの雷は最後のサビまで待機する。
セラの喉に、百人試演で止まった感覚が戻った。
決められた順番。
待っている合図。
次に出る魔法。
予定どおり進めば、また自分の声が演出表の上へ乗せられるような気がした。
自分で変えられる。
今度は、自分が選べる。
そのことを確かめたくなった。
セラは予告なく旋律を切り、最後のサビへ跳んだ。
マリエの指が鍵盤の上で止まる。
ラウルは中盤用の炎を両手の間へ抱えていた。
レティアは街を映す水面を持ち上げかけている。
セインは雷を撃つ準備ではなく、終盤に使う導線確認のため、すでに経路へ魔力を流し始めていた。
三人が予定していた動作をそのまま続ければ、火、水、雷の逃がし先が、舞台中央で重なる。
「全員、待って!」
リラの停止光が上がる。
一拍、遅かった。
ラウルの炎は、すでに手から離れている。
「中止」
ノアの声が、歌へ重なった。
闇が舞台と客席の間へ落ちる。
セラの姿も、炎も、水面も、一度すべて観客側から隠した。
闇には細い穴が三つだけ開いている。
リラの停止光が、ラウル、レティア、セインへ直接届く。
「火、逃がす!」
ラウルが腕を振り、炎を耐火溝へ曲げる。
「排水へ移します」
レティアが水面を落とす。
「雷信経路を上方へ変更」
セインは予定していた導線を切らず、誰もいない天井側の接地柱へ流した。
白い光が一度だけ梁の間を走る。
炎が耐火溝へ落ちた。
水は排水路へ流れ込む。
火と水と雷は衝突しなかった。
誰も負傷しなかった。
ただ、炎を曲げるための導魔板が一枚割れ、水導管の接続金具が熱で歪んだ。
硬い破裂音が、闇の中へ響いた。
それでも、セラの歌は止まらなかった。
予定より早く入った最後のサビを、途中まで歌い続けている。
「止める」
ノアの声がした。
伴奏が切れた。
闇が、舞台側からゆっくり薄くなる。
「まだ歌ってた」
セラが言った。
歌を止めた唇が、まだわずかに開いている。
「知ってる」
ノアは割れた導魔板へ目を向けた。
「でも、このまま続けたら、次は板じゃなくて誰かが怪我する」
ラウルの手袋が焦げていた。
レティアの水路は、予定していた位置へまだ戻っていない。
セインは放電を止めたまま、導線を確認している。
セラは舞台中央に立っていた。
自分で歌の入りを変えた。
けれど、誰もその変化についてこなかった。
一瞬だけ、また歌を途中で奪われたように感じた。
以前と同じように、決められた形から外れたから止められたのだと。
けれど、割れた板と、ラウルの焦げた手袋が目に入る。
今回は、歌を正されるために止められたのではない。
そのことは分かる。
分かっても、胸の奥に残った痛みまではすぐに消えなかった。
「歌いたいように歌った」
ようやく出た言葉は、自分でも言い訳に聞こえた。
「自由に歌うのは、セラの権利」
ノアは遮光眼鏡を額へ戻し、割れた板の破片を工具で拾った。
「変えちゃいけないとは言ってない」
「じゃあ、どうすればよかったの」
「合図して」
ノアは破片を回収箱へ入れた。
「私たちは、セラが次に何を変えるか当てられない」
「合図したら、自由じゃなくなる?」
「ならない」
ノアは顔を上げた。
「一人で先に行くことと、自由に歌うことは別」
セラの指が、衣装の脇をつかんだ。
「変えるなら、置いていかないで」
倉庫が静かになる。
ラウルは耐火溝から残った火を回収し、靴の裏で安全札を押さえた。レティアは歪んだ金具へ触れず、まず周囲の温度を確認している。
セインは懐中時計を開いた。
「停止宣言から、全術式の安全化まで六・八秒です」
「遅い?」
リラが尋ねる。
「停止宣言が一拍早ければ、設備損傷は避けられました」
「私の合図が遅れた」
「私も、変更を認識してから宣言まで待ちました」
セインは記録板へ、自分の名も書き込む。
「セラさんの歌唱変更だけが原因ではありません」
「でも、最初に変えたのは私」
セラはノアへ頭を下げた。
「ごめん」
次にラウル、レティア、セイン、マリエを見る。
「私が行き先を変えて、全員を置いていった」
リラは、すぐに大丈夫だとは言わなかった。
許す立場でもない。
「今日は、ここで終わりにしよう」
「まだ歌える」
セラの声が少し強くなる。
「歌えるかどうかじゃなくて、設備を確認しないと再開できない」
「私のせいで?」
「全員で失敗したから」
「同じにしないで」
セラは唇を結んだ。
自分の責任を薄められたように感じたらしい。
リラは少し考え、言い直す。
「始まりは、セラの予告なしの変更。私の停止判断も遅れた。セインも中止を待った。原因を分けて、全部直す」
セラの肩がわずかに下がる。
「明日、私も修理する」
「歌手の仕事ではありません」
レティアが言った。
「壊した側の仕事」
「導管を扱う技能は?」
「ない」
「では、支えてください。勝手に触れないことが最初の作業です」
「分かった」
レティアは歪んだ接続部へ、使用禁止の札を掛けた。
◇
翌朝、旧兵站庫へ最初に来たのはセラだった。
酒場の作業着の袖を肘までまくっている。
レティアの指示どおり、焼けた水導管の端を両手で支えていた。
「もう少し上です」
「ここ?」
「指一本分、右へ」
「右」
「私から見た右です」
「先に言って」
「通常、作業者同士は同じ方向を向きます」
「今、向いてない」
「次から向きます」
金具が外れる。
レティアが水で内部の熱を下げ、セラは言われた位置で導管を支え続けた。
重さで腕が震えても、勝手には動かさない。
近くでは、ラウルが割れた導魔板を交換している。ノアは客席後方から、停止時に舞台を隠し、避難口を残す闇の境界を確かめ、セインは前日の時刻記録を三つの列へ分けていた。
マリエは壊れた設備には触れず、弦奏者たちの譜面をすべて閉じている。
セラの歌詞の裏には、前日に聞いた数字が並んでいた。
「ノア」
「何」
「止めるまで、どれくらい必要?」
「一呼吸」
「なかったら?」
「私が歌ごと隠す」
「それでいい」
客席後方で、ノアが停止札の縁を一度鳴らした。
「歌を止めても?」
「止めて」
「あとで怒らない?」
「怒るかもしれない」
「それは自由」
ノアは新しい停止札を壁際へ留めた。
「でも、中止は取り消さない」
「うん」
セラは歌詞の裏へ、一呼吸と書いた。
「ラウルは?」
「炎を放つ前なら止められる」
「放ったあと」
「安全に閉じるまで三拍。急には消えない」
「三拍より早く歌が変わったら?」
「俺はついていかない。今出ている炎を片づける」
ラウルは新しい導魔板の留め金を引いた。
「歌を無視する?」
「歌を守るために、火を増やさない」
セラは三拍と書く。
「レティア」
「水面は、畳むなら二呼吸。排水へ逃がすだけなら一呼吸です」
「歌が急に明るくなったら?」
「水を残すとは限りません。遅れた水面を無理に追わせるより、消した方がよい場合があります」
「消していい」
「判断は私が行います」
「うん」
レティアは新しい金具を導管へ合わせた。
セラの手から重さが少し抜ける。
「セイン」
「雷は、導線へ魔力を流した時点で、五秒先まで経路が固定されます」
「途中で変えられない?」
「安全な逃がし先への変更だけ可能です。演出上の変更は不可能です」
「五秒前に見る」
「視線だけでは、見落とす可能性があります」
「どうすればいい」
「専用の予告動作が必要です」
セインは記録板へ、五秒と書いた。
「変更するかもしれない時点で、知らせてください。変更が確定していなくても構いません」
「決めてないのに?」
「未確定であることも情報です」
セラはその言葉を一度読み返した。
「エヴレン」
「幻影は、即時に消せます」
「変更は?」
「新しい像を作るには、内容によります」
「時間では答えられない?」
「人物の表情なら長く、光や輪郭なら短い」
エヴレンは新しい紙を取り出さず、両手を見せた。
「ただし、消した像を観客の記憶から消すことはできません」
百人試演の白い花が、全員の間へ戻る。
「出す前に、私へ見せる」
「はい」
「本番中に思いついても?」
「私的な記憶へ触れる可能性があるものは出しません」
エヴレンは迷わなかった。
「その場で思いついた美しさより、事前に決めた境界を優先します」
セラは、歌詞の裏へ短く書き込んだ。
「伴奏は?」
舞台下を見る。
マリエは閉じた譜面を重ね終え、顔を上げた。
「和音を変えるなら二拍。完全に消すなら一呼吸です」
「知らない旋律へ行ったら?」
「追いません」
「歌を見捨てるの?」
セラの声が硬くなる。
マリエはすぐに否定しなかった。
小型鍵盤の前へ座り、最も低い鍵盤を一つだけ鳴らす。
「戻る場所を守ります」
低い音が、床の下へ沈んでいく。
「知らない旋律へ、分かったふりで和音をつければ、セラさんの歌を別の場所へ引っ張ります」
「音を消す?」
「低い基音だけを残すか、完全に消えます」
「戻ってこなかったら?」
「そのまま歌ってください」
「伴奏なしで?」
「はい」
マリエは音が消えるまで待った。
「私たちが追えないことと、セラさんが歌えないことは同じではありません」
セラは紙へ、二拍、一呼吸、基音と書いた。
◇
修理が終わるころには、歌詞の裏が数字と短い言葉で埋まっていた。
「大きく変える前に、リラを見る」
セラが読み上げる。
「まだ決めていないときは、呼吸を一つ長くする。最後の四行へ跳ぶときは、左手を一度開く」
「手を開いたまま歌える?」
リラが尋ねる。
「できる」
「歌うことより、合図を気にしすぎない?」
「最初は気にすると思う」
「嫌になったら?」
「変える」
「合図を?」
「うん」
リラは導管の亀裂確認に使っていた光粒子を消した。
「歌を変えるなとは言わない」
「言いたくないだけ?」
「少しは言いたい」
正直に答えると、セラが眉を上げた。
「昨日みたいに飛ばれると、すごく困る」
「うん」
「怖かった」
セラの指が、歌詞の裏で止まる。
リラは続けた。
「また誰かを止められなかったと思った。百人試演と同じことになるって」
「私も」
セラの声は小さかった。
「決められた順番どおり歌ったら、また誰かの歌になる気がした」
「だから跳んだ?」
「自分で変えられるって、確かめたかった」
「確かめられた?」
「変えられた。皆を置いていった」
二人の間に、修理のため外された金具が置かれている。
焼けた縁が、黒く変色していた。
「自由に歌うことと、誰にも行き先を知らせないことは、同じじゃない」
マリエが言った。
セラが顔を向ける。
「昨日は、違いが分からなかった」
「今は?」
「まだ全部は分からない」
セラは歌詞を閉じなかった。
「でも、全員が曲がれる道を作りたい」
「なら、合図は命令ではなく、予告です」
セインが記録板を持ち上げる。
「歌の進路を決めるのではありません。術者が進むか、止まるかを選ぶための情報です」
「細かい意図まで伝わる?」
「一つの信号で、感情までは伝えられません」
「それでは演出がずれる」
「ずれてはいけないのですか」
セインの問いに、リラが黙る。
以前なら、全員を一つの意味へ揃えようとした。
「大きく外れないための合図だけにしよう」
リラは床へ白紙を置いた。
「何を感じたかまで、私が翻訳しない。今から変わる。大きくする。小さくする。待つ。止める。それだけ」
「火、水、幻影、雷への指定は?」
「必要なときだけ属性を足す」
「何種類?」
ノアが客席後方から尋ねる。
「少なくしたい」
「前は十五通りって言ってた」
「数えたくないと言ったのはノアでしょう」
「多いから」
ノアが黒藍色の髪を揺らした。
「六つまで」
「また六つ」
セラが言った。
「多いと、リラが楽しくなる」
「覚えてたんだ」
「忘れてない」
リラの指が、一瞬だけ止まる。
セラに「六粒まで」と言われた日のことを思い出す。
今度は、六つを先に埋めなかった。白紙へ六つの欄だけを作った。
◇
基本の合図は、六つになった。
一粒を高く上げる。
拡大の可能性。
一粒を低く落とす。
縮小、または静める準備。
二粒を同時に消す。
待機。
核で小さな円を描く。
次の展開へ移る可能性。
光を握りつぶすように閉じる。
中止。
一粒をその場へ残す。
各自判断。
色は属性指定が必要なときだけ使う。
赤は火。
青は水。
紫は幻影。
白は雷。
闇はノアがリラの光を見て、自分で判断する。伴奏はマリエが歌と合図の両方を聞く。
「合図用と、観客へ見せる光は分けられる?」
セラが尋ねる。
「分ける。ただ、同時にたくさんは出せない」
リラは豆明かりを灯し、縁から二粒だけをほどいた。
「客席用を増やしたら、合図が暗くなる。合図を優先したら、演出の光は減る」
「減らして」
セラは迷わなかった。
「観客へ見せる光を?」
「合図が見えない方が危ない」
「後ろの席から見えにくくなるよ」
「全部見せるために、また聞こえなくなるのは嫌」
リラは二粒のうち、一粒を消した。
「分かった。合図を先に残す」
ノアが指先を動かす。
薄い闇が舞台裏へ三層に重なった。
それぞれに、針の穴ほどの通り道が開く。
「リラの光だけ通す」
「客席から見える?」
ラウルが舞台側からのぞく。
「見えない」
「本当か?」
「見たいなら客席へ行って」
ラウルが前列まで走る。
リラが赤い粒を一つ出した。
舞台裏では明るく見える。
客席からは、ノアの闇に吸われ、何も見えない。
「見えない!」
「声が大きい」
「成功したからだ」
「成功は静かに確認して」
ノアの口元が、ほんの少しだけ上がった。
◇
午後から、合図の練習が始まった。
演奏というより、避難訓練と球技を混ぜたような時間になった。
セラが旋律を変える可能性を呼吸で知らせる。
リラが変化を読み、六つの基本合図から一つを選ぶ。
各術者は、合図を受けて進むか、止まるかを自分で決める。
最初の三回、リラは全部へ指示を出した。
「火、待機。水、縮小。幻影、消去。雷、中止」
「多い」
ノアが言った。
「でも全部必要でしょう」
「ラウルは、水の合図を見なくていい」
「レティアも火の合図は不要です」
レティアが続ける。
「リラさんが全術式の手順を毎回選ぶ必要はありません」
セインも記録板から顔を上げた。
「全体の進路だけを示してください。各担当者は、自分の術式を判断できます」
リラは指を下ろした。
「任せていい?」
「そのために、昨日、責任を分けた」
ノアの言葉に、リラは一度息を吐く。
「分かった。次は、方向だけ」
セラが歌い始める。
二番の途中で左手を開いた。
リラは核で小さな円を描く。
次の展開へ移る可能性。
ラウルは炎を出さず、手の中で準備だけする。
レティアは水面の高さを変えず、排水路だけを開く。
セインは雷へ魔力を流さない。
エヴレンは、存在しない街の窓を一つだけ暗くした。
「今の、勝手に窓を消したね」
歌が止まったあと、リラが言う。
「歌の中で、帰る場所が遠くなりました」
「私は、消す合図を出してない」
「各自判断でした」
「悔しいけど、合ってた」
「演出家がすべてを見る必要はありません」
「前にも言われた気がする」
「以前は、あなたに任せられないと言うために使いました」
エヴレンの微笑みが、わずかに薄くなる。
「今は、任せてもらえる者になるために言っています」
リラは消えた窓を見る。
自分では思いつかなかった。
けれど、セラは嫌だと言わない。
「セラは?」
「今のは残す」
「分かりました」
エヴレンは飾らず、短く答えた。
◇
休憩前、エヴレンが一枚の設計紙を持ってきた。
「百人試演の前に作成していた案が、保管箱から見つかりました」
紙には、窓辺へ咲く夜灯花が描かれていた。
花は歌の最後に光となり、空へ舞い上がる。
あの日の幻影とは別案だった。
それでも、セラの記憶から生まれたものだった。
「破棄したと思っていました」
エヴレンは紙を机へ置く。
「箱の底に、写しが一枚残っていた。私の管理不足です」
セラの顔が固くなる。
リラの指も、反射的に紙へ伸びかけた。
触れる前に止める。
「どうしたい?」
セラへ尋ねた。
「使わない」
「分かった」
「捨てて」
エヴレンが紙の両端を持つ。
「魔式の記録も、同時に破棄します」
「うん」
「破棄後の証明は?」
「ノアに見てもらう」
「私?」
客席後方から声が上がる。
「前に、窓を描いたから」
「確認はする」
ノアは壁際の暗がりから出てきた。
セラは紙を見たまま、動かない。
リラも理由を尋ねなかった。
花の代わりに何を置くかも、すぐには考えない。
エヴレンが設計紙を細く裂く。
ノアが破片を暗い火皿へ入れ、文字と魔式の線が読めなくなるまで黒く焼いた。
白い花が、紙の上から消えた。
「空いたね」
リラが言う。
「何が」
「歌の最後」
「埋める?」
セラが尋ねる。
リラは、空白になった演出表を見る。
「今日は、空けておく」
「何も出さない?」
「セラが置きたいものを決めるまで」
セラはしばらく紙を見ていた。
「分かった」
信頼が戻ったわけではない。
それでも、空白を奪われなかったことだけは、受け取ったようだった。
◇
翌朝、セラは一枚の小さな図を持ってきた。
窓。
その外に、形を持たない点が三つだけ描かれている。
「花じゃなくて、窓の外に光を置いて」
「どんな形?」
「形にはしない」
「動きは?」
「外へ行くか、戻るか、まだ決めてない光」
「三粒?」
「最初は」
リラは図を受け取らず、机の上へ置いたまま見る。
「見えにくいかも」
「うん」
「後方席からは、ほとんど分からない」
「それでも使いたい」
「分かった」
すぐにノアを見る。
「闇を借りてもいい?」
「どこを暗くする?」
「窓の周りだけ。セラの顔は残す」
ノアがセラへ視線を移す。
「いい?」
「うん」
「暗すぎたら?」
「薄くして」
「分かった」
三人で位置を決めた。
リラは豆明かりから三粒をほどき、窓の外へ置く。
セラが歌い始める。
光はどちらへも進まない。
風に押されるように離れかけ、また少し戻る。
リラが意味を決めて動かしているのではない。
セラの呼吸と、窓からの距離だけを見て、揺れを合わせていた。
派手ではなかった。
試演で大きな拍手を取る演出でもない。
それでもセラは、白い花が現れた場所を見ず、最後まで歌った。
歌い終えたあとも、三粒は一つに集まらない。
「今の、使える?」
リラが尋ねる。
「使いたい」
「次も同じ?」
「次に歌ってから決める」
「了解」
リラは演出表へ、確定とは書かなかった。
試行中とだけ記した。
◇
休憩時間、セラは倉庫の壁へ背を預け、水を飲んでいた。
午前中だけで何度も歌ったため、喉の下へ薄く汗が浮いている。
リラは肩一つ分ほど離れた場所へ立った。
「喉、大丈夫?」
「大丈夫」
「今の大丈夫は、本当に?」
「たぶん」
「分からないんだ」
「あなたみたいに、何でも分析しないから」
リラの口元が少し動く。
「分からないなら、水を飲んで休もう」
「もう飲んでる」
「合理的」
セラは水筒を見たあと、リラへ差し出した。
「飲む?」
「いいの?」
「喋りすぎ」
「喉の心配?」
「合図が聞こえなくなると困る」
「私の合図、光だけど」
「停止は声でも言うでしょう」
「かなり合理的だなあ」
リラは水筒を受け取った。
飲み口へ触れる前、一度セラを見る。
「本当にいい?」
「早く飲んで」
水を一口だけ飲み、すぐに返す。
以前なら、この距離へ意味を足していたかもしれない。
今は、水を分けてもらったことだけを受け取った。
「リラ」
「何?」
「本番で、私が全然違う歌を歌ったら?」
「困る」
「怒る?」
「かなり」
「止める?」
リラは少し考えた。
「危険なら止める」
「危険じゃなかったら?」
「ついていけるところまでついていく」
「できなかったら?」
「出せない魔法は出さない」
「歌だけになる?」
「うん」
セラは水筒の蓋を閉めた。
「一緒に失敗する、とは言わないんだ」
「前なら言ったかも」
「どうして変えたの」
「一緒に失敗するって、きれいだけど、巻き込まれる側へ許可を取ってないから」
離れた場所では、ラウルが新しい導魔板を蹴って強度を確かめている。レティアが靴で試すなと止め、セインは交換後の検査時刻を書き留めていた。
「皆が失敗してもいいと言ったら?」
「そのときは、皆で選ぶ」
「私は?」
「歌うか止めるか、自分で選ぶ」
「リラは?」
「光を出すか、消すか選ぶ」
セラは壁から背を離した。
「じゃあ、成功しよう」
リラが言う。
「簡単に言う」
「難しいことを簡単に言うの、得意だから」
「知ってる」
セラの口元が、はっきり上がった。
ほんの一秒ほどだった。
リラは数えなかった。
手帳へも書かなかった。
ただ、その顔を見ていた。




