↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/62

第二幕「歌を返して」 第40話 合図のない歌

 再び歌い始めた翌日、最初の通し稽古は十二分で終わる予定だった。


 実際に終わったのは、二十六分後だった。


 最初の一回は、一番の途中で止まった。


 セラが一語だけ長く伸ばし、マリエが次の和音を待った。リラも光を動かさず、ラウルは火を握ったまま留まる。


「今のは、変更?」


 リラが尋ねた。


「まだ決めてない」


「続ける?」


「少し待って」


「分かった」


 倉庫には、セラが次の言葉を選ぶ呼吸だけが残った。


 以前なら、リラが空白を埋めるために光を足していた。


 今は、一粒をセラの左肩へ置いたまま動かさない。


 やがてセラが歌い直し、全員もそこから続けた。


 二回目は、ラウルの炎が半拍遅れた。


 三回目は、レティアの水面へ幻影が映る前に、セラが次の一節へ進んだ。


 そのたびに止めた。


 誰かを責めるためではない。


 何が起きたかを確認し、再開してよいかを全員で確かめる。


 時間はかかった。


 けれど、百人試演の前よりも、倉庫の中で分からないことを口にできるようになっていた。


 崩れたのは、四回目だった。


     ◇


 二番の途中。


 セラは、窓の外へ出るか迷う一節を歌っていた。


 予定では、そのあとにマリエの四和音が入り、レティアの水面へ街が広がる。ラウルは低い炎を三つだけ灯し、セインの雷は最後のサビまで待機する。


 セラの喉に、百人試演で止まった感覚が戻った。


 決められた順番。


 待っている合図。


 次に出る魔法。


 予定どおり進めば、また自分の声が演出表の上へ乗せられるような気がした。


 自分で変えられる。


 今度は、自分が選べる。


 そのことを確かめたくなった。


 セラは予告なく旋律を切り、最後のサビへ跳んだ。


 マリエの指が鍵盤の上で止まる。


 ラウルは中盤用の炎を両手の間へ抱えていた。


 レティアは街を映す水面を持ち上げかけている。


 セインは雷を撃つ準備ではなく、終盤に使う導線確認のため、すでに経路へ魔力を流し始めていた。


 三人が予定していた動作をそのまま続ければ、火、水、雷の逃がし先が、舞台中央で重なる。


「全員、待って!」


 リラの停止光が上がる。


 一拍、遅かった。


 ラウルの炎は、すでに手から離れている。


「中止」


 ノアの声が、歌へ重なった。


 闇が舞台と客席の間へ落ちる。


 セラの姿も、炎も、水面も、一度すべて観客側から隠した。


 闇には細い穴が三つだけ開いている。


 リラの停止光が、ラウル、レティア、セインへ直接届く。


「火、逃がす!」


 ラウルが腕を振り、炎を耐火溝へ曲げる。


「排水へ移します」


 レティアが水面を落とす。


「雷信経路を上方へ変更」


 セインは予定していた導線を切らず、誰もいない天井側の接地柱へ流した。


 白い光が一度だけ梁の間を走る。


 炎が耐火溝へ落ちた。


 水は排水路へ流れ込む。


 火と水と雷は衝突しなかった。


 誰も負傷しなかった。


 ただ、炎を曲げるための導魔板が一枚割れ、水導管の接続金具が熱で歪んだ。


 硬い破裂音が、闇の中へ響いた。


 それでも、セラの歌は止まらなかった。


 予定より早く入った最後のサビを、途中まで歌い続けている。


「止める」


 ノアの声がした。


 伴奏が切れた。


 闇が、舞台側からゆっくり薄くなる。


「まだ歌ってた」


 セラが言った。


 歌を止めた唇が、まだわずかに開いている。


「知ってる」


 ノアは割れた導魔板へ目を向けた。


「でも、このまま続けたら、次は板じゃなくて誰かが怪我する」


 ラウルの手袋が焦げていた。


 レティアの水路は、予定していた位置へまだ戻っていない。


 セインは放電を止めたまま、導線を確認している。


 セラは舞台中央に立っていた。


 自分で歌の入りを変えた。


 けれど、誰もその変化についてこなかった。


 一瞬だけ、また歌を途中で奪われたように感じた。


 以前と同じように、決められた形から外れたから止められたのだと。


 けれど、割れた板と、ラウルの焦げた手袋が目に入る。


 今回は、歌を正されるために止められたのではない。


 そのことは分かる。


 分かっても、胸の奥に残った痛みまではすぐに消えなかった。


「歌いたいように歌った」


 ようやく出た言葉は、自分でも言い訳に聞こえた。


「自由に歌うのは、セラの権利」


 ノアは遮光眼鏡を額へ戻し、割れた板の破片を工具で拾った。


「変えちゃいけないとは言ってない」


「じゃあ、どうすればよかったの」


「合図して」


 ノアは破片を回収箱へ入れた。


「私たちは、セラが次に何を変えるか当てられない」


「合図したら、自由じゃなくなる?」


「ならない」


 ノアは顔を上げた。


「一人で先に行くことと、自由に歌うことは別」


 セラの指が、衣装の脇をつかんだ。


「変えるなら、置いていかないで」


 倉庫が静かになる。


 ラウルは耐火溝から残った火を回収し、靴の裏で安全札を押さえた。レティアは歪んだ金具へ触れず、まず周囲の温度を確認している。


 セインは懐中時計を開いた。


「停止宣言から、全術式の安全化まで六・八秒です」


「遅い?」


 リラが尋ねる。


「停止宣言が一拍早ければ、設備損傷は避けられました」


「私の合図が遅れた」


「私も、変更を認識してから宣言まで待ちました」


 セインは記録板へ、自分の名も書き込む。


「セラさんの歌唱変更だけが原因ではありません」


「でも、最初に変えたのは私」


 セラはノアへ頭を下げた。


「ごめん」


 次にラウル、レティア、セイン、マリエを見る。


「私が行き先を変えて、全員を置いていった」


 リラは、すぐに大丈夫だとは言わなかった。


 許す立場でもない。


「今日は、ここで終わりにしよう」


「まだ歌える」


 セラの声が少し強くなる。


「歌えるかどうかじゃなくて、設備を確認しないと再開できない」


「私のせいで?」


「全員で失敗したから」


「同じにしないで」


 セラは唇を結んだ。


 自分の責任を薄められたように感じたらしい。


 リラは少し考え、言い直す。


「始まりは、セラの予告なしの変更。私の停止判断も遅れた。セインも中止を待った。原因を分けて、全部直す」


 セラの肩がわずかに下がる。


「明日、私も修理する」


「歌手の仕事ではありません」


 レティアが言った。


「壊した側の仕事」


「導管を扱う技能は?」


「ない」


「では、支えてください。勝手に触れないことが最初の作業です」


「分かった」


 レティアは歪んだ接続部へ、使用禁止の札を掛けた。


     ◇


 翌朝、旧兵站庫へ最初に来たのはセラだった。


 酒場の作業着の袖を肘までまくっている。


 レティアの指示どおり、焼けた水導管の端を両手で支えていた。


「もう少し上です」


「ここ?」


「指一本分、右へ」


「右」


「私から見た右です」


「先に言って」


「通常、作業者同士は同じ方向を向きます」


「今、向いてない」


「次から向きます」


 金具が外れる。


 レティアが水で内部の熱を下げ、セラは言われた位置で導管を支え続けた。


 重さで腕が震えても、勝手には動かさない。


 近くでは、ラウルが割れた導魔板を交換している。ノアは客席後方から、停止時に舞台を隠し、避難口を残す闇の境界を確かめ、セインは前日の時刻記録を三つの列へ分けていた。


 マリエは壊れた設備には触れず、弦奏者たちの譜面をすべて閉じている。


 セラの歌詞の裏には、前日に聞いた数字が並んでいた。


「ノア」


「何」


「止めるまで、どれくらい必要?」


「一呼吸」


「なかったら?」


「私が歌ごと隠す」


「それでいい」


 客席後方で、ノアが停止札の縁を一度鳴らした。


「歌を止めても?」


「止めて」


「あとで怒らない?」


「怒るかもしれない」


「それは自由」


 ノアは新しい停止札を壁際へ留めた。


「でも、中止は取り消さない」


「うん」


 セラは歌詞の裏へ、一呼吸と書いた。


「ラウルは?」


「炎を放つ前なら止められる」


「放ったあと」


「安全に閉じるまで三拍。急には消えない」


「三拍より早く歌が変わったら?」


「俺はついていかない。今出ている炎を片づける」


 ラウルは新しい導魔板の留め金を引いた。


「歌を無視する?」


「歌を守るために、火を増やさない」


 セラは三拍と書く。


「レティア」


「水面は、畳むなら二呼吸。排水へ逃がすだけなら一呼吸です」


「歌が急に明るくなったら?」


「水を残すとは限りません。遅れた水面を無理に追わせるより、消した方がよい場合があります」


「消していい」


「判断は私が行います」


「うん」


 レティアは新しい金具を導管へ合わせた。


 セラの手から重さが少し抜ける。


「セイン」


「雷は、導線へ魔力を流した時点で、五秒先まで経路が固定されます」


「途中で変えられない?」


「安全な逃がし先への変更だけ可能です。演出上の変更は不可能です」


「五秒前に見る」


「視線だけでは、見落とす可能性があります」


「どうすればいい」


「専用の予告動作が必要です」


 セインは記録板へ、五秒と書いた。


「変更するかもしれない時点で、知らせてください。変更が確定していなくても構いません」


「決めてないのに?」


「未確定であることも情報です」


 セラはその言葉を一度読み返した。


「エヴレン」


「幻影は、即時に消せます」


「変更は?」


「新しい像を作るには、内容によります」


「時間では答えられない?」


「人物の表情なら長く、光や輪郭なら短い」


 エヴレンは新しい紙を取り出さず、両手を見せた。


「ただし、消した像を観客の記憶から消すことはできません」


 百人試演の白い花が、全員の間へ戻る。


「出す前に、私へ見せる」


「はい」


「本番中に思いついても?」


「私的な記憶へ触れる可能性があるものは出しません」


 エヴレンは迷わなかった。


「その場で思いついた美しさより、事前に決めた境界を優先します」


 セラは、歌詞の裏へ短く書き込んだ。


「伴奏は?」


 舞台下を見る。


 マリエは閉じた譜面を重ね終え、顔を上げた。


「和音を変えるなら二拍。完全に消すなら一呼吸です」


「知らない旋律へ行ったら?」


「追いません」


「歌を見捨てるの?」


 セラの声が硬くなる。


 マリエはすぐに否定しなかった。


 小型鍵盤の前へ座り、最も低い鍵盤を一つだけ鳴らす。


「戻る場所を守ります」


 低い音が、床の下へ沈んでいく。


「知らない旋律へ、分かったふりで和音をつければ、セラさんの歌を別の場所へ引っ張ります」


「音を消す?」


「低い基音だけを残すか、完全に消えます」


「戻ってこなかったら?」


「そのまま歌ってください」


「伴奏なしで?」


「はい」


 マリエは音が消えるまで待った。


「私たちが追えないことと、セラさんが歌えないことは同じではありません」


 セラは紙へ、二拍、一呼吸、基音と書いた。


     ◇


 修理が終わるころには、歌詞の裏が数字と短い言葉で埋まっていた。


「大きく変える前に、リラを見る」


 セラが読み上げる。


「まだ決めていないときは、呼吸を一つ長くする。最後の四行へ跳ぶときは、左手を一度開く」


「手を開いたまま歌える?」


 リラが尋ねる。


「できる」


「歌うことより、合図を気にしすぎない?」


「最初は気にすると思う」


「嫌になったら?」


「変える」


「合図を?」


「うん」


 リラは導管の亀裂確認に使っていた光粒子を消した。


「歌を変えるなとは言わない」


「言いたくないだけ?」


「少しは言いたい」


 正直に答えると、セラが眉を上げた。


「昨日みたいに飛ばれると、すごく困る」


「うん」


「怖かった」


 セラの指が、歌詞の裏で止まる。


 リラは続けた。


「また誰かを止められなかったと思った。百人試演と同じことになるって」


「私も」


 セラの声は小さかった。


「決められた順番どおり歌ったら、また誰かの歌になる気がした」


「だから跳んだ?」


「自分で変えられるって、確かめたかった」


「確かめられた?」


「変えられた。皆を置いていった」


 二人の間に、修理のため外された金具が置かれている。


 焼けた縁が、黒く変色していた。


「自由に歌うことと、誰にも行き先を知らせないことは、同じじゃない」


 マリエが言った。


 セラが顔を向ける。


「昨日は、違いが分からなかった」


「今は?」


「まだ全部は分からない」


 セラは歌詞を閉じなかった。


「でも、全員が曲がれる道を作りたい」


「なら、合図は命令ではなく、予告です」


 セインが記録板を持ち上げる。


「歌の進路を決めるのではありません。術者が進むか、止まるかを選ぶための情報です」


「細かい意図まで伝わる?」


「一つの信号で、感情までは伝えられません」


「それでは演出がずれる」


「ずれてはいけないのですか」


 セインの問いに、リラが黙る。


 以前なら、全員を一つの意味へ揃えようとした。


「大きく外れないための合図だけにしよう」


 リラは床へ白紙を置いた。


「何を感じたかまで、私が翻訳しない。今から変わる。大きくする。小さくする。待つ。止める。それだけ」


「火、水、幻影、雷への指定は?」


「必要なときだけ属性を足す」


「何種類?」


 ノアが客席後方から尋ねる。


「少なくしたい」


「前は十五通りって言ってた」


「数えたくないと言ったのはノアでしょう」


「多いから」


 ノアが黒藍色の髪を揺らした。


「六つまで」


「また六つ」


 セラが言った。


「多いと、リラが楽しくなる」


「覚えてたんだ」


「忘れてない」


 リラの指が、一瞬だけ止まる。


 セラに「六粒まで」と言われた日のことを思い出す。


 今度は、六つを先に埋めなかった。白紙へ六つの欄だけを作った。


     ◇


 基本の合図は、六つになった。


 一粒を高く上げる。


 拡大の可能性。


 一粒を低く落とす。


 縮小、または静める準備。


 二粒を同時に消す。


 待機。


 核で小さな円を描く。


 次の展開へ移る可能性。


 光を握りつぶすように閉じる。


 中止。


 一粒をその場へ残す。


 各自判断。


 色は属性指定が必要なときだけ使う。


 赤は火。


 青は水。


 紫は幻影。


 白は雷。


 闇はノアがリラの光を見て、自分で判断する。伴奏はマリエが歌と合図の両方を聞く。


「合図用と、観客へ見せる光は分けられる?」


 セラが尋ねる。


「分ける。ただ、同時にたくさんは出せない」


 リラは豆明かりを灯し、縁から二粒だけをほどいた。


「客席用を増やしたら、合図が暗くなる。合図を優先したら、演出の光は減る」


「減らして」


 セラは迷わなかった。


「観客へ見せる光を?」


「合図が見えない方が危ない」


「後ろの席から見えにくくなるよ」


「全部見せるために、また聞こえなくなるのは嫌」


 リラは二粒のうち、一粒を消した。


「分かった。合図を先に残す」


 ノアが指先を動かす。


 薄い闇が舞台裏へ三層に重なった。


 それぞれに、針の穴ほどの通り道が開く。


「リラの光だけ通す」


「客席から見える?」


 ラウルが舞台側からのぞく。


「見えない」


「本当か?」


「見たいなら客席へ行って」


 ラウルが前列まで走る。


 リラが赤い粒を一つ出した。


 舞台裏では明るく見える。


 客席からは、ノアの闇に吸われ、何も見えない。


「見えない!」


「声が大きい」


「成功したからだ」


「成功は静かに確認して」


 ノアの口元が、ほんの少しだけ上がった。


     ◇


 午後から、合図の練習が始まった。


 演奏というより、避難訓練と球技を混ぜたような時間になった。


 セラが旋律を変える可能性を呼吸で知らせる。


 リラが変化を読み、六つの基本合図から一つを選ぶ。


 各術者は、合図を受けて進むか、止まるかを自分で決める。


 最初の三回、リラは全部へ指示を出した。


「火、待機。水、縮小。幻影、消去。雷、中止」


「多い」


 ノアが言った。


「でも全部必要でしょう」


「ラウルは、水の合図を見なくていい」


「レティアも火の合図は不要です」


 レティアが続ける。


「リラさんが全術式の手順を毎回選ぶ必要はありません」


 セインも記録板から顔を上げた。


「全体の進路だけを示してください。各担当者は、自分の術式を判断できます」


 リラは指を下ろした。


「任せていい?」


「そのために、昨日、責任を分けた」


 ノアの言葉に、リラは一度息を吐く。


「分かった。次は、方向だけ」


 セラが歌い始める。


 二番の途中で左手を開いた。


 リラは核で小さな円を描く。


 次の展開へ移る可能性。


 ラウルは炎を出さず、手の中で準備だけする。


 レティアは水面の高さを変えず、排水路だけを開く。


 セインは雷へ魔力を流さない。


 エヴレンは、存在しない街の窓を一つだけ暗くした。


「今の、勝手に窓を消したね」


 歌が止まったあと、リラが言う。


「歌の中で、帰る場所が遠くなりました」


「私は、消す合図を出してない」


「各自判断でした」


「悔しいけど、合ってた」


「演出家がすべてを見る必要はありません」


「前にも言われた気がする」


「以前は、あなたに任せられないと言うために使いました」


 エヴレンの微笑みが、わずかに薄くなる。


「今は、任せてもらえる者になるために言っています」


 リラは消えた窓を見る。


 自分では思いつかなかった。


 けれど、セラは嫌だと言わない。


「セラは?」


「今のは残す」


「分かりました」


 エヴレンは飾らず、短く答えた。


     ◇


 休憩前、エヴレンが一枚の設計紙を持ってきた。


「百人試演の前に作成していた案が、保管箱から見つかりました」


 紙には、窓辺へ咲く夜灯花が描かれていた。


 花は歌の最後に光となり、空へ舞い上がる。


 あの日の幻影とは別案だった。


 それでも、セラの記憶から生まれたものだった。


「破棄したと思っていました」


 エヴレンは紙を机へ置く。


「箱の底に、写しが一枚残っていた。私の管理不足です」


 セラの顔が固くなる。


 リラの指も、反射的に紙へ伸びかけた。


 触れる前に止める。


「どうしたい?」


 セラへ尋ねた。


「使わない」


「分かった」


「捨てて」


 エヴレンが紙の両端を持つ。


「魔式の記録も、同時に破棄します」


「うん」


「破棄後の証明は?」


「ノアに見てもらう」


「私?」


 客席後方から声が上がる。


「前に、窓を描いたから」


「確認はする」


 ノアは壁際の暗がりから出てきた。


 セラは紙を見たまま、動かない。


 リラも理由を尋ねなかった。


 花の代わりに何を置くかも、すぐには考えない。


 エヴレンが設計紙を細く裂く。


 ノアが破片を暗い火皿へ入れ、文字と魔式の線が読めなくなるまで黒く焼いた。


 白い花が、紙の上から消えた。


「空いたね」


 リラが言う。


「何が」


「歌の最後」


「埋める?」


 セラが尋ねる。


 リラは、空白になった演出表を見る。


「今日は、空けておく」


「何も出さない?」


「セラが置きたいものを決めるまで」


 セラはしばらく紙を見ていた。


「分かった」


 信頼が戻ったわけではない。


 それでも、空白を奪われなかったことだけは、受け取ったようだった。


     ◇


 翌朝、セラは一枚の小さな図を持ってきた。


 窓。


 その外に、形を持たない点が三つだけ描かれている。


「花じゃなくて、窓の外に光を置いて」


「どんな形?」


「形にはしない」


「動きは?」


「外へ行くか、戻るか、まだ決めてない光」


「三粒?」


「最初は」


 リラは図を受け取らず、机の上へ置いたまま見る。


「見えにくいかも」


「うん」


「後方席からは、ほとんど分からない」


「それでも使いたい」


「分かった」


 すぐにノアを見る。


「闇を借りてもいい?」


「どこを暗くする?」


「窓の周りだけ。セラの顔は残す」


 ノアがセラへ視線を移す。


「いい?」


「うん」


「暗すぎたら?」


「薄くして」


「分かった」


 三人で位置を決めた。


 リラは豆明かりから三粒をほどき、窓の外へ置く。


 セラが歌い始める。


 光はどちらへも進まない。


 風に押されるように離れかけ、また少し戻る。


 リラが意味を決めて動かしているのではない。


 セラの呼吸と、窓からの距離だけを見て、揺れを合わせていた。


 派手ではなかった。


 試演で大きな拍手を取る演出でもない。


 それでもセラは、白い花が現れた場所を見ず、最後まで歌った。


 歌い終えたあとも、三粒は一つに集まらない。


「今の、使える?」


 リラが尋ねる。


「使いたい」


「次も同じ?」


「次に歌ってから決める」


「了解」


 リラは演出表へ、確定とは書かなかった。


 試行中とだけ記した。


     ◇


 休憩時間、セラは倉庫の壁へ背を預け、水を飲んでいた。


 午前中だけで何度も歌ったため、喉の下へ薄く汗が浮いている。


 リラは肩一つ分ほど離れた場所へ立った。


「喉、大丈夫?」


「大丈夫」


「今の大丈夫は、本当に?」


「たぶん」


「分からないんだ」


「あなたみたいに、何でも分析しないから」


 リラの口元が少し動く。


「分からないなら、水を飲んで休もう」


「もう飲んでる」


「合理的」


 セラは水筒を見たあと、リラへ差し出した。


「飲む?」


「いいの?」


「喋りすぎ」


「喉の心配?」


「合図が聞こえなくなると困る」


「私の合図、光だけど」


「停止は声でも言うでしょう」


「かなり合理的だなあ」


 リラは水筒を受け取った。


 飲み口へ触れる前、一度セラを見る。


「本当にいい?」


「早く飲んで」


 水を一口だけ飲み、すぐに返す。


 以前なら、この距離へ意味を足していたかもしれない。


 今は、水を分けてもらったことだけを受け取った。


「リラ」


「何?」


「本番で、私が全然違う歌を歌ったら?」


「困る」


「怒る?」


「かなり」


「止める?」


 リラは少し考えた。


「危険なら止める」


「危険じゃなかったら?」


「ついていけるところまでついていく」


「できなかったら?」


「出せない魔法は出さない」


「歌だけになる?」


「うん」


 セラは水筒の蓋を閉めた。


「一緒に失敗する、とは言わないんだ」


「前なら言ったかも」


「どうして変えたの」


「一緒に失敗するって、きれいだけど、巻き込まれる側へ許可を取ってないから」


 離れた場所では、ラウルが新しい導魔板を蹴って強度を確かめている。レティアが靴で試すなと止め、セインは交換後の検査時刻を書き留めていた。


「皆が失敗してもいいと言ったら?」


「そのときは、皆で選ぶ」


「私は?」


「歌うか止めるか、自分で選ぶ」


「リラは?」


「光を出すか、消すか選ぶ」


 セラは壁から背を離した。


「じゃあ、成功しよう」


 リラが言う。


「簡単に言う」


「難しいことを簡単に言うの、得意だから」


「知ってる」


 セラの口元が、はっきり上がった。


 ほんの一秒ほどだった。


 リラは数えなかった。


 手帳へも書かなかった。


 ただ、その顔を見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。