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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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第二幕「歌を返して」 第35話 歌のない日

 セラは三日間、歌わなかった。


 朝は酒場で樽を洗った。


 昼は料理を運び、客の注文へ短く答えた。常連客に一曲求められても、聞こえなかったふりをした。


 夜になると、閉鎖された旧音楽堂へ行った。


 崩れた場所を避け、舞台の端へ座る。


 歌詞の紙は、毎日持ってきた。


 開く。


 最初の行を目で追う。


 息を吸う。


 声を出そうとすると、喉が閉じた。


 百人の顔が浮かぶ。


 息をのんだ音。


 窓辺に立つ母の幻影。


 足元で光る白い花。


 次へ進めと動いた、リラの光。


 歌えば、また誰かが自分の痛みに意味をつける。


 身体の方が、セラより先にそう判断していた。


 歌わないと決めたわけではない。


 歌おうとするたび、声が戻っていった。


     ◇


 三日目の夕方、セラが旧音楽堂へ入ると、客席に青い帽子が見えた。


 崩れていない最後列の椅子へ、フィンが座っている。


 足が床へ届かず、靴先がゆっくり揺れていた。


「いつからいたの」


「少し前」


「ここは入っていい場所じゃない」


「セラもいる」


「私は大人」


「十二歳より上?」


「かなり」


 入口の方を見ると、開いた扉の向こうにフィンの母親が立っていた。


 こちらへ軽く頭を下げる。息子を一人で放置したわけではないらしい。


 セラは舞台の端へ座った。


 フィンとの間には、空の客席が十列以上ある。


「歌わないの?」


「今日は歌わない」


「昨日も?」


「歌ってない」


「明日は?」


「分からない」


 フィンは帽子の位置を直した。


「じゃあ、分かるまで待つ」


「待っても歌わないかもしれない」


「うん」


「それでも?」


「今日は座ってるだけでもいいから」


 フィンの足が、また前後へ揺れる。


 何かを要求している顔ではなかった。


 歌わなければ退屈するかと思ったが、少年は屋根から落ちる雨粒を眺め始めた。


 一粒が舞台へ当たる。


 少し遅れて、別の場所から音が返る。


「帰りなさい」


「お母さん、外にいる」


「一緒に帰って」


「セラも?」


「私はあとで」


「じゃあ、あとで一緒に帰る」


「そういう意味じゃない」


「一人で帰りたい?」


 セラは答えに詰まった。


 フィンは断っても諦めない。


 リラほどではないが、こちらの言葉の穴を見つけて居場所を作る。


「一人でいたい」


「分かった」


 フィンは椅子から降りた。


 本当に帰るのかと思うと、胸の中がわずかに沈んだ。


 少年は二列前の椅子へ移動し、また座る。


「遠くなった」


「帰るんじゃないの」


「一人に見えるくらい離れた」


「見えてる」


「目を閉じる?」


「そういう問題じゃない」


 フィンは少し考え、青い帽子を顔まで下げた。


 前が見えなくなり、両手で椅子の縁を探している。


「これなら?」


「危ないから戻して」


「はい」


 帽子を戻す。


 髪が押し潰され、片側だけ跳ねていた。


 セラは直してやろうと手を上げかけたが、遠すぎて届かない。代わりに自分の膝へ手を戻す。


「どうして、私の歌を聞きたいの」


「見えるから」


「光がなくても?」


「うん」


「幻影も、火も、闇もない」


「最初から見えたよ」


 フィンは当たり前のように答えた。


「最初に路地で聞いたときも、窓が見えた」


「窓なんて、あのとき歌ってない」


「じゃあ、窓じゃなかったかも」


「何が見えたの」


「誰かがいる場所」


 少年はうまく説明できず、膝の上で両手を丸くした。


「光があると、もっと見えた。でも、光が作ったんじゃない」


 セラは歌詞の紙へ視線を落とした。


 リラの魔法が歌を作ったわけではない。


 それは最初から分かっている。


 けれど、リラがいなければ、フィンの言葉を信じられなかった。


 自分の歌を聞いた誰かが、自分とは違う景色を見る。


 以前なら、間違っていると思っただろう。


 今は、それ自体が怖かった。


 見えると言われたものを、また誰かが勝手に本物へ変えるかもしれない。


「見えたもの、誰かに話した?」


「お母さんに」


 セラの肩が強張る。


「何を」


「きれいだったって」


「それだけ?」


「あと、セラがすごかったって」


 フィンは首を傾げた。


「話しちゃ駄目だった?」


 母親の記憶を話したわけではない。


 何を見れば正しいとも教えていない。


 ただ、自分が見たものを、自分の言葉で渡しただけだった。


「それは、いい」


「よかった」


 フィンの肩から力が抜ける。


 少し迷ってから、セラは尋ねた。


「リラ、来ないね」


「来ないよ」


「どうして知ってるの」


「お母さんが、酒場の人に聞いた」


「余計なことを」


「来てほしい?」


「来なくていい」


「分かった」


 フィンはそれ以上聞かなかった。


 嫌いになったのかとも、喧嘩をしたのかとも尋ねない。


 そのことが、少しだけ寂しかった。


 セラは自分の感情に腹を立てる。


 来てほしくない。


 顔を見たくない。


 それでも、来ないことを確かめてしまう。


 どれか一つに決めなければならないと思うほど、息が苦しくなった。


「今日は、本当に歌わないよ」


「うん」


「待っても変わらない」


「待つって、変えてもらうことじゃないよ」


 フィンは雨粒の落ちる舞台を見ていた。


「変わるまで、ここにいていいってことでしょう?」


 セラは答えなかった。


 歌詞の紙を開く。


 代表歌詞として提出した一行が目に入る。


 ――私が誰かの灯になる。


 あの言葉まで、リラに奪われたような気がしていた。


 けれど、書いたのは自分だ。


 選んだのも、自分だった。


 セラは一度、息を吸う。


 喉が閉じかける。


 客席にはフィンしかいない。


 少年は手を叩く準備もしていない。


 評価する紙も持っていない。


「目を閉じて」


「どうして?」


「見ないで」


「歌うの?」


「まだ分からない」


「分かった」


 フィンは素直に目を閉じた。


 セラは舞台中央へは行かなかった。


 端へ座ったまま、紙も見ずに声を出す。


 ――灯を持つ人がいないなら。


 一行で、声が掠れた。


 喉の奥に、百人の気配が戻ってくる。


 セラは歌を止めた。


 フィンは目を開けない。


 続きを促さない。


 拍手もしない。


 しばらくして、セラはもう一度息を吸った。


 ――私が、灯になればいい。


 二つ目の声は、最初より小さかった。


 正しい音程ではなかった。


 途中で揺れた。


 それでも、最後まで言葉になった。


「終わり?」


 フィンが目を閉じたまま尋ねる。


「今日は」


「目、開けていい?」


「いい」


 少年が目を開ける。


「見えた?」


「うん」


「何が」


「言わない方がいい?」


 セラは少し考えた。


「今は、言わなくていい」


「分かった」


 フィンは笑った。


 セラは笑わなかった。


 歌は戻っていない。


 ただ、自分で始めて、自分で終えることができた。


 それだけだった。


     ◇


 翌日の昼すぎ、ノアが酒場へ来た。


 大きすぎる黒い作業ローブを引きずり、片手には甘い牛乳の瓶を抱えている。


 空いている席を見つけると、店主へ何も頼まずに座った。


「持ち込みは禁止」


 セラが言う。


「子ども用の飲み物も?」


「十二歳が一人で酒場へ来ない」


「子ども扱いしないで」


「なら、一品頼んで」


「甘いパン」


「昼食?」


「おやつ」


「どっちでもいい」


 セラが厨房へ注文を通す。


 ノアは椅子の上で足を組もうとしたが、座面が高く、うまく届かなかった。諦めて牛乳の瓶へ口をつける。


「リラから?」


「違う。自分で来た」


「何のために」


「確認」


「何を」


「闇」


 セラの手が止まった。


 店内では、昼の客が少ない。厨房から皿を重ねる音だけが聞こえる。


「星冠祭、出ないの」


「出ない」


「今は?」


「三日後も」


「その先は?」


「分からない」


「分かった」


 ノアは説得しなかった。


 牛乳を一口飲み、瓶を両手で持つ。


「停止札を外すところだった」


「アルドが止めたって聞いた」


「うん。最初の『消して』で、私も止められた。でも、私が百人の試演を止めていいのか、一拍迷った」


 瓶を抱える指に、少しだけ力が入った。


「危険なものだけ外した。闇の経路は残ってる」


「どうして私に聞くの」


「セラの歌に合わせて作ったから」


 ノアは眠そうな目を、まっすぐセラへ向けた。


「もう使わないなら、工房へ戻す。まだ決めてないなら、三日だけ残す」


「三日を過ぎたら?」


「また聞く」


「誰かに使えばいいでしょう」


「誰にでも同じ闇は使わない」


「暗くするだけなのに」


「違う」


 ノアの返事は短かった。


「最初は、全部隠してた」


 銀の瓶が机へ触れ、小さな音を立てる。


「セラに、最後は顔を見てほしいって言われた。だから、声が消える前にそこだけ残すようにした」


 セラは、自分がそう言った場面を思い出す。


 暗闇の中で、見えない子どもを観客が歩かせた。


 最後だけは、自分の顔を見てほしいとノアへ頼んだ。


 ノアは次に、そこだけを残すと答えた。


 リラの指示ではない。


 二人で決めた闇だった。


「返してほしい?」


 ノアが尋ねる。


「闇を?」


「セラが使わないなら、私の工房のものに戻す」


 返してと言えば、舞台から自分の場所が一つ消える。


 残してと言えば、星冠祭へ戻る期待を持たせるかもしれない。


 どちらも選びたくなかった。


「残したら、リラに言うの」


「言わない」


「どうして」


「セラの答えだから」


「チームには?」


「必要になるまで言わない」


「必要って?」


「撤去期限が来たとき」


 ノアは、セラの沈黙を都合よく解釈しない。


 戻るとも、戻らないとも決めない。


 ただ、期限が来たらもう一度尋ねると言っている。


 十二歳の方が、リラよりよく分かっている。


 そう思ったあとで、それをリラと比べる自分にも腹が立った。


「リラは?」


 気づけば、尋ねていた。


 ノアはすぐには答えなかった。


「聞きたいの?」


「状況を確認してるだけ」


「セインみたい」


「答えて」


「倉庫には来た」


「何をしてた」


「何も作ってない」


「笑ってた?」


 ノアの指が、瓶の縁で止まる。


「それを聞いて、セラが戻るなら言わない」


「戻らない」


「なら、言わなくても同じ」


「ノア」


「リラが苦しんでるから許して、って話は嫌い」


 セラの肩から、わずかに力が抜けた。


 ノアは牛乳を飲みきり、空の瓶を机へ置く。


「リラがどうしてるかと、セラがどうしたいかは別」


「分かってる」


「なら、闇は?」


 セラは厨房の方を見る。


 注文した甘いパンが、まだ焼けている。


 窓の外では、昼の光が通りを白く照らしていた。


 ノアの闇。


 ラウルが最後まで待つ炎。


 壊れることを覚えたレティアの水。


 見せすぎたと認めたエヴレンの街。


 セラの息に合わせて帰る道を残したマリエの音。


 決められた時刻ではなく、歌の歩幅を待ったセインの雷。


 リラだけではない。


 皆と作ったものだった。


 それまで捨てれば、リラへ傷つけられた記憶だけが、この歌の最後になる。


「返さないで」


 声は小さかった。


 ノアは聞き返さない。


「まだ残す?」


「三日だけ」


「そのあとは?」


「また聞いて」


「分かった」


 ノアは椅子から降りた。


 そのとき、厨房から甘いパンが運ばれてくる。


「食べてから帰って」


「仕事がある」


「休みじゃなかったの」


「今から工房」


「嘘ついた?」


「来たときは休みだった」


「途中で予定が変わったの」


「パンを食べる予定が増えた」


 ノアは再び椅子へよじ登った。


 焼きたてのパンを両手で持ち、少しずつちぎる。


「リラに言う?」


 セラが、もう一度尋ねた。


「言わない」


「誰にも?」


「セラが決めてないことを、決まったみたいに話さない」


 ノアはパンの中に入った蜜を見つけ、眠そうな目をわずかに開いた。


「でも、闇は残す」


「うん」


「私が使うかは、まだ決めてない」


「知ってる」


「星冠祭に出るとも言ってない」


「聞いてない」


 ノアは蜜のついた指をなめる。


「歌ったかも、聞かない」


 セラの視線が止まった。


「どうして」


「聞かれたくない顔だから」


「人の顔を勝手に読まないで」


「外れた?」


 セラは答えなかった。


 ノアも正解を求めず、残りのパンへ戻った。


 リラを許したわけではない。


 星冠祭へ戻ると決めたわけでもない。


 それでも、自分で選んだ闇を、今すぐ捨てたくはなかった。


 相反する気持ちは、どちらかが嘘なのではない。


 セラはようやく、それらを一つに決めずに持っていてもよいのだと思えた。

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