第二幕「歌を返して」 第34話 静止の演出
倉庫の扉が開いた。
祭典庁の制服を着た事務官と、王立音楽院の教師が入ってくる。
その後ろに、灰色の学院制服を着たマリエがいた。
淡い金髪を普段よりきつく結び、胸元には歌手科の徽章をつけている。いつも持っている伴奏用の譜面ではなく、歌唱用の新しい楽譜を抱えていた。
マリエはすでに、このチームの一員だった。
何度もセラの呼吸を待ち、戻るための低音を置き、四和音の間へ歌の自由を残してきた。
今日だけ、音楽院は彼女を伴奏者ではなく、代わりの歌手として連れてきた。
「星冠祭の実験枠について、代替案をお持ちしました」
事務官は、片づけ途中の倉庫を見回した。
「百人試演では、演出技術そのものが高い評価を得ています。歌手のみを、正式な学院推薦者へ変更すれば、枠を維持できます」
ラウルの手から、砂袋が落ちた。
布袋が床へ当たり、中の砂が少しだけ漏れる。
「歌手だけ?」
「問題の直接原因は、歌手の途中退場です」
「原因は私です」
リラが言った。
「あなたの監督責任も、調査対象となります」
事務官は表情を変えない。
「ただし、総監督アルド殿の指導下へ戻り、演目構成を固定するなら、続投を認める余地があります」
「歌手の意思を無視した幻影が原因でしょう」
レティアが一歩前へ出た。
「途中退場だけを切り取るのは、事実の順序が逆です」
「責任の判断は評議会が行います」
「では、判断資料へ正確に記録してください」
レティアの声は丁寧だった。
怒っているときほど、言葉が整う。
音楽院の教師が、話を引き取るようにマリエへ手を向けた。
「歌手科首席候補、マリエ・セルヴァです。演目の構成を熟知し、『帰れない灯』と近い音域を持つ。楽団の拍へ正確に合わせ、事前に定めた歌詞を変更しません」
マリエが抱えている楽譜の端が、指の下で曲がった。
「『帰れない灯』は、作者の許可が得られなければ使用しません。その場合は、祭典用の新曲へ変更します」
教師は続ける。
「演出の大部分は流用できます。試演結果を失わず、三日以内に再構成できる現実的な案です」
歌わせれば、マリエは音を外さない。
セラのように、その場で歌詞を変えない。
リラが示した合図へ、決めた拍数で戻る。
百人試演で得た数字も、さらに高くなるかもしれない。
数日前のリラなら、必要な稽古時間と成功率を計算していた。
今も、数字は頭へ浮かんだ。
三日。
既存の四和音。
同じ音域。
演出の七割以上を流用可能。
考えた自分が怖くなり、即座に答えようとする。
「お断り――」
「待ってください」
止めたのはマリエだった。
リラの口が閉じる。
マリエは教師の半歩後ろから、自分で前へ出た。
「先に、私へ話させてください」
「マリエ」
「候補は私です」
教師は眉を寄せたが、止めなかった。
マリエはリラたちへ向き直る。
「私は、この提案を今朝聞きました」
「断ってもいいんだよ」
リラが言う。
「先に答えを決めないでください」
「……ごめん」
マリエは楽譜を抱き直した。
「私は、この舞台へ立ちたいです」
倉庫が静かになる。
声は震えていなかった。
楽譜を押さえる指だけに力が入っている。
「八年間、歌手として選ばれるために練習してきました。伴奏者として必要とされることは嬉しい。でも、歌う側へ行きたくないわけではありません」
空になりかけた舞台を見る。
「決められた歌なら、私はセラさんより楽団を困らせません。毎回同じ音程、同じ拍、同じ言葉で歌えます」
「それは優れている点です」
教師が言う。
「はい」
マリエは否定しない。
「今まで、それを優れていると教わってきました」
胸元の徽章へ一度視線を落とす。
「だから、候補になれたことを、少し嬉しいと思いました」
誰も、その感情を責めなかった。
「でも」
マリエは、抱えていた楽譜を開く。
祭典用に準備された新曲。
整った拍。
変更箇所のない旋律。
「これは、私が選ばれた舞台ではありません。セラさんがいなくなった場所へ、ずれなく収まる歌手として選ばれただけです」
「機会であることに変わりはない」
教師が静かに言う。
「分かっています」
「次がある保証はない」
「それも分かっています」
マリエの指が、譜面の一行をなぞる。
「それでも、自分の歌を選ばれたい」
楽譜を閉じた。
「誰かが拒んだ場所へ、扱いやすいから置かれるのは嫌です」
リラは胸の奥が痛むのを感じた。
セラの代わりを拒んでいる。
同時に、自分がいつか歌手として立ちたい気持ちも、隠していない。
どちらかをきれいな犠牲へ変えなかった。
「私は辞退します」
マリエが教師へ頭を下げる。
「次は、私の歌で推薦してください」
教師はしばらくマリエを見ていた。
「容易ではないぞ」
「八年、容易ではありませんでした」
返事は短かった。
教師はそれ以上、責めなかった。
事務官が書類を閉じる。
「演出側の回答は」
リラは仲間を見た。
先ほどは一人で断ろうとした。
それも、全員の判断を自分が代表してよいと思う癖だった。
「一人ずつ、答えてもらってもいいですか」
「今さらか」
ラウルが腕を組む。
「ごめん」
「俺は断る」
「理由は」
「セラの歌を待つために、火の出し方を変えた。別の歌なら、同じ火にはならない」
レティアが外した手袋を持ち上げる。
「私も辞退します。水面は歌手を交換しても同じ形を保つ設備ではありません」
エヴレンは箱の上へ片手を置いた。
「私の街へ、欠けた人物と同じ輪郭の誰かを置くつもりはありません。代役にも、元の歌手にも失礼です」
セインは記録板を閉じた。
「雷信術は、任務命令があれば提供できます」
全員の視線が集まる。
「ただし、今回の私は、儀礼任務として参加したのではありません」
白い手袋の指をそろえる。
「セラさんの歌に合わせる技術協力として、継続担当を希望しました。歌手が変更される場合、私が同じ申請へ残る理由はありません」
「セラじゃないなら寝る」
ノアが言った。
「理由が雑」
ラウルが見る。
「分かりやすいでしょう」
「一番分かりやすいな」
ノアは肩の工具袋を持ち直した。
「私は、歌の最後にセラの顔を残すって決めた。別の顔を残す約束はしてない」
最後に、全員の視線がリラへ戻る。
「私は」
一度、息を吸う。
「代替案を断ります」
「一人の歌手のために、全員の機会を失うのですか」
事務官が尋ねる。
「一人の歌手から始まった公演です」
「演出技術は、別の歌手へ転用できる」
「できます」
リラは否定しなかった。
「でも、それは別の公演です」
マリエを見る。
「あなたが悪いから断るんじゃない。歌手として足りないとも思ってない」
「分かっています」
「伴奏者として、この歌が戻る場所を作ってくれた。だからこそ、セラの代わりとして舞台へ置きたくない」
マリエは小さくうなずいた。
「私も、置かれたくありません」
事務官は全員の回答を記録する。
「本日中に再考がなければ、代替案は取り下げます。実験枠の保留期限は変わりません」
事務官と教師が倉庫を出ていく。
マリエも数歩ついていき、扉の前で振り返った。
「セラさんへ伝えてください」
リラの肩がわずかに固くなる。
マリエは気づき、言葉を変えた。
「伝える機会を、セラさんが許したら」
「うん」
「途中までではなく、いつか最後まで聞きたいと」
「分かった」
「舞台へ戻れという意味ではありません」
「うん」
「ただ、聞きたいだけです」
扉が閉じる。
楽譜を抱えた背中が見えなくなった。
◇
「ありがとう」
リラが言うと、ラウルは露骨に顔をしかめた。
「礼を言うな。お前のために断ったんじゃない」
「分かってる」
「なら言うな」
「みんなが自分で選んだことに、ありがとうって思った」
ラウルは返事をしなかった。
床へ落ちた砂袋を拾い、漏れた砂を手で集める。
「それでも、お前を許したわけじゃない」
「うん」
「次に勝手なことをしたら、今度は先に殴る」
「殴るのは安全規則に反するよ」
「規則を作る前に殴る」
「抜け道を探さないでください」
レティアが言った。
いつものやり取りだった。
けれど、誰も笑わなかった。
公演は、歌手を替えれば技術的には残せた。
全員が、それを自分の意思で捨てた。
リラは初めて、失いかけているものの大きさを、観客数でも評価点でもなく、一人ずつの選択として見た。
◇
昼を過ぎたころ、アルドが現れた。
倉庫へ入るなり、壁際の外されかけた停止札と、外されかけた導管を見回す。
「片づけは中止だ」
全員が振り返った。
「終わったんじゃないのか」
ラウルが尋ねる。
「星冠祭の実験枠は、三日だけ保留にした」
「セラは出ません」
リラが言う。
「本人から聞いたか」
「聞きました」
「今後、一切歌わないと言ったか」
「星冠祭には出ないって」
「なら、決まったのはそこまでだ」
「三日で気持ちが変わると思ってるんですか」
「思っていない」
アルドは銀の杖で、床に残った白線をなぞる。
「三日は、セラを説得する時間ではない。祭典庁が設備を撤去するまでの猶予だ」
「では、どうして片づけを止めるのですか」
レティアが尋ねる。
「今日すべて外せば、戻るという選択肢までこちらから消す」
「戻ると思ってる」
「思っていない」
アルドの声は変わらない。
「戻らない可能性も、戻る可能性も、今は他人が閉じるなと言っている」
ノアが外した留め具を見る。
「じゃあ、三日間このまま?」
「危険なものだけ外せ。戻せるものは残せ」
セインが記録板を開く。
「保留期間中の管理責任者は?」
「私だ」
「設備へ触れる権限は?」
「安全維持に必要な者だけ。演出変更は禁止」
「観客を入れることは」
「ない」
「稽古は」
「しない」
セインは項目を順に書き込む。
「明確です」
リラは舞台中央に立ったまま、アルドを見た。
「私には、何をしろと?」
「何も作るな」
「三日間?」
「少なくとも、セラのためだと言いながら新しい演出を作るな」
「話を聞けってことですか」
「会ってもらえればな」
「会わせる方法を考えるのは?」
「お前の得意分野だろうが、今回は使うな」
「じゃあ、どうすれば」
「会ってよいか尋ねろ。断られたら待て」
「それだけ?」
「それだけができなかった結果だ」
リラの喉に、熱いものが上がる。
昨日から抱えていた怒りが、言葉になる前に胸を押した。
「分かっていたなら、止めてくれればよかった」
倉庫が静かになる。
ラウルの手から砂の音が消える。
「私が集計に執着してたとき。セラの言葉を聞かなくなってたとき。幻影を頼もうとしてたとき」
リラはアルドへ一歩近づく。
「止められたでしょう」
「止めようとはした」
「質問しただけです」
「そうだ」
「数字に逃げてるって分かってたんでしょう」
「分かっていた」
「だったら、演出表を取り上げることも、エヴレンへ確認することもできた」
「できた」
「どうしてしなかったの」
アルドはすぐに答えなかった。
銀の杖を握る手へ力が入る。
「お前が、自分で判断を変えなければならないと思った」
「セラが傷ついても?」
声が大きくなる。
高い天井から、自分の言葉が返ってきた。
アルドの顔から、いつもの飄々とした表情が消える。
「違う」
老人はゆっくり首を横へ振った。
「傷つくまで待つつもりはなかった」
「でも、傷ついた」
「私が見誤った」
短い言葉だった。
言い訳を続けず、アルドは杖を身体の横へ置いた。
「お前へ警告すれば止まると思った。セラが拒めば、お前は最後には聞くと思った。私が権限を取り上げれば、若い演出家の判断を奪うことになると考えた」
「それが間違いだった?」
「そうだ」
アルドはリラへ頭を下げた。
銀髪が額から落ちる。
誰も動かなかった。
「私は、演出家の自立と、歌手の安全を同じ秤へ載せた。載せてはならなかった」
頭を上げる。
「本人の同意が疑われる演出は、総監督として止めるべきだった。セラ本人へ確認すべきだった。私は、その責任を果たさなかった」
リラの怒りは消えない。
謝罪されたからといって、セラの傷がなくなるわけではない。
「どうして、そんな判断をしたんですか」
アルドは杖へ視線を落とした。
握っている右手の甲に、古い火傷の跡がある。
「昔、歌手を一人、壊した」
倉庫の空気が重くなる。
「客を泣かせる声を持つ娘だった。苦しい記憶を歌わせるほど、評判が上がった」
祭典庁の部屋で裏返されていた公演画。
赤い衣装の若い歌手。
リラは、その顔を思い出した。
「娘が嫌がるたび、私は客へ届いている証拠だと言った。舞台を降りたいと言えば、今逃げれば努力が無駄になると言った」
「セラへ言ったのと、同じ」
リラの声が掠れる。
「そうだ」
アルドは否定しない。
「最後の公演で、娘は歌えなくなった。声が出ないのではない。舞台へ立つと、自分の悲しみが客へ売られているように感じると言った」
「その人は」
「二度と、公の場では歌わなかった」
杖の先が、床へ静かに触れる。
「私は、お前が私と同じ道へ近づいていると気づいた」
「それなのに」
「過去と同じ形で止めればよいのか、分からなくなった」
アルドはリラを見る。
「今度は若い者の判断を奪うまいと考えた。それが、介入しないための言い訳になった」
「過去を繰り返したくなかったのに」
「別のやり方で、繰り返した」
倉庫には、誰の軽口もなかった。
完璧な師匠ではない。
答えを隠している賢者でもない。
失敗を恐れた結果、別の失敗をした老人が立っている。
リラは、それでも腹が立っていた。
「許せません」
「許さなくていい」
「私は、自分のしたことも許せない」
「今は、それで楽になろうとするな」
リラが顔を上げる。
「自分を罰すれば、償った気になれる」
アルドの言葉は静かだった。
「大切なのは、お前が苦しむことではない。次に、相手の拒絶を聞けるかだ」
「次がなかったら?」
「それでもだ」
リラは床に残った白線を見る。
かつて安全な場所を示すために引いた線だった。
いつの間にか、自分がセラの歩く方向まで決める線になっていた。
「何をすればいいですか」
尋ねたあとで、また答えを他人へ求めたことに気づく。
アルドは、すぐには返さなかった。
「セラを戻す方法は、私に聞くな」
「うん」
「ただし、演出家として間違えた場所なら言える」
銀の杖が白線を一度叩く。
「演出家は、客の感情を作る者ではない」
乾いた音が倉庫へ広がった。
「演者が渡したいものと、観客が受け取ろうとするもの。その間に、届く道を作る者だ」
「歩く方向は?」
「演者が決める」
「受け取るものは?」
「観客が決める」
「演出家は?」
「道を照らす」
アルドは杖を白線から離した。
「引きずって歩かせるな」
リラは、自分の両手を見る。
光を出せる手。
人の視線を動かせる手。
セラの歌を、自分が正しいと思う場所へ運ぼうとした手。
「まず、会っていいか聞きます」
「そうしろ」
「断られたら」
「待て」
「戻らなかったら」
アルドは答えなかった。
戻ると約束することは、誰にもできない。
リラは指先へ光を灯さなかった。
笑いもしなかった。
そのまま、舞台の中央に立っていた。
演出家として初めて、何も動かさずに。




