第二幕「歌を返して」 第33話 動かせない朝
翌日、リラは旧兵站庫へ行かなかった。
セラから、今日は来ないでと言われている。
倉庫へ行かないでとは言われていない。
それでも、仲間たちに会えば、星冠祭をどうするか話すことになる。セラに会う方法や、謝罪の伝え方や、公演を残す手段を考え始める。
今は、そのどれもセラの選択より先に置いてはいけない気がした。
リラは灯務局へ出勤した。
いつもどおり作業証を受け取り、梯子を担いで街へ出る。
通りの角にある灯具へ上り、外れた導光線を固定する。光を均等に巡らせるための灯核を取り外し、煤を拭い、元の位置へ戻す。
指先へ灯した豆明かりは、細い術路だけを照らした。
歌の形にはしない。
窓にも、花にも見立てない。
「今日は静かだね」
梯子を支えていたマルタが言った。
「省エネ運転」
「口まで豆明かりになったか」
「そうかも」
「故障なら交換する?」
「交換部品の在庫があるなら」
「ないね。珍しい型だから」
軽口は言えた。
いつものように口元も動かせた。
けれど、その次の言葉が出なかった。
マルタは梯子を押さえたまま、上にいるリラを見た。
「落ちないでよ」
「落ちる予定はありません」
「予定表どおりにいかない日もあるでしょう」
リラの手が止まった。
マルタは深い意味で言ったのではないらしく、通りを走った荷車へ顔を向けている。
「そうだね」
リラは導光線を固定し、灯具の蓋を閉じた。
光は一定に戻った。
見上げる人はいない。
誰も拍手をしない。
それでも、通りの端にあった暗がりが一つ消えた。
◇
昼休み、灯務局の二階窓から祭典広場が見えた。
大舞台の骨組みは、ほとんど完成している。
火術用の放出口。
水術用の導管。
広場の端に立つ雷信塔。
舞台中央には、まだ何もない。
あそこへセラが立つはずだった。
歌が始まれば、リラの光が髪の横へ浮かび、ラウルの火が遠くで待ち、レティアの水面が歌の景色を映す。
想像した瞬間、胸の中に、次の演出が浮かびかけた。
リラは窓から離れた。
演出を考えること自体が悪いわけではない。
けれど今は、考えることで、失ったものをまだ自分が動かせるような気になろうとしている。
机へ戻り、冷めたパンを口へ運ぶ。
味はした。
おいしいかどうかは、分からなかった。
◇
家へ帰ると、ユアンが台所の椅子へ座り、古い靴を直していた。
切れた紐を抜き、固くなった革の穴へ新しい紐を通している。
「公演は」
ユアンは靴から顔を上げずに尋ねた。
「中止になるかも」
「そうか」
理由を聞かない。
責めもしない。
その距離が、今は苦しかった。
「私が、セラの嫌がることをした」
「そうか」
「もっと何か言って」
「何を」
「怒るとか。最低だとか」
「本人に言われたんだろ」
「言われた」
「なら、俺が加わっても人数が一人増えるだけだ」
紐が革穴を抜け、乾いた音を立てた。
ユアンは左右の長さをそろえ、結び目を作る。
「謝ったか」
「謝った」
「許されたか」
「許されてない」
「なら、そこから先は相手の時間だ」
リラは向かいの席へ座り、机に額をつけた。
「待つの苦手」
「知ってる」
「何かしたい」
「何のために」
「セラのため」
「本当に?」
リラは顔を上げられなかった。
手紙を書く。
仲間へ頼む。
店主を通じて伝言を渡す。
セラが戻りやすい条件を作る。
いくつもの方法が浮かんでいる。
その全部の先に、セラが許してくれる場面を置いていた。
「自分が楽になるためかもしれない」
「両方だろうな」
「じゃあ、何もしない方がいい?」
「それも俺に決めさせるのか」
「兄さん、アルドさんみたいになってきたね」
「嫌なら聞くな」
ユアンは直した靴を床へ置いた。
左右の紐が、同じ長さで結ばれている。
「何もしないことと、待つことは違う」
「どう違うの」
「何もしない奴は、相手が戻るまで同じ場所にいる。待つ奴は、戻らなくても相手の選択だったと受け取る」
「難しい」
「人の話だからな」
リラは机から額を離した。
ユアンは直した靴へ足を入れ、紐を結び直す。
「お前は、人を笑わせたいと言ってたな」
「うん」
「相手が笑わない自由も残せ」
リラは兄の横顔を見た。
ユアンは、北辺から戻って以来、ほとんど笑わなくなった。
リラはそれを悲しいことだと思っていた。
面白い話をすれば。
光をきれいに見せれば。
昔のように笑わせられれば。
そう考えて、何度も兄の反応を確かめた。
「兄さん、私の光、嫌だった?」
「嫌ではない」
「でも笑わなかった」
「笑うほどではなかった」
「ひどい」
「事実だ」
ユアンの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑顔と呼ぶには小さすぎる変化だった。
「ただ、見ようとは思った」
靴底を床へ打ちつけ、具合を確かめる。
「笑わせなくていい。見ようと思わせるだけで、十分な日もある」
「そのとき、私は笑わせられなかったって思ってた」
「それは、お前の採点だ」
「兄さんは?」
「光を見た」
ユアンは立ち上がった。
リラの頭へ手を伸ばしかける。
途中で止め、代わりに机の上へ置かれていた空の器を持ち上げた。
「今日は食べたか」
「パンは」
「夕食の話だ」
「まだ」
「なら座ってろ」
「手伝う」
「今は俺の台所だ」
拒絶ではなかった。
役割を渡さないという選択だった。
リラは立ち上がらず、椅子へ座り直した。
◇
翌朝、リラは旧兵站庫へ向かった。
セラへ会いに行くためではない。
仲間へ謝り、今後の判断を全員へ返すためだった。
重い扉を開ける。
中には、すでに全員がいた。
セラだけがいない。
「遅い」
壁際でノアが言った。
「今日は練習ないよ」
「知ってる」
「じゃあ、どうして」
「道具を片づけるため」
ノアは、壁際に留めた停止札の脇にしゃがみ込んでいた。
停止札を一つずつ外し、番号順に工具袋へ入れていた。
レティアは水導管から水を抜き、濡れた布を別の箱へ分けている。
エヴレンは幻影の位置を示す標を床から剥がし、白い布へ包んでいた。
ラウルは炎の範囲を示した印へ砂をまき、焦げ跡が残っていないか膝をついて確かめている。
セインは祭典庁から借りた安全柵の本数を数え、返却用の札を結びつけていた。
終わるための作業だった。
リラは舞台中央まで進んだ。
誰も作業を止めない。
「星冠祭は、どうなる」
先に尋ねたのはラウルだった。
「セラは出ないって言った」
「お前は」
「歌姫がいない」
「別の歌手を探す気は?」
「ない」
返事は考える前に出た。
ラウルの肩から、わずかに力が抜ける。
「そうか」
「安心した?」
「少し」
砂を払った手を、作業着の膝へこする。
「ここで代わりを探すって言ったら、殴らないように外へ出るところだった」
「殴る候補には入ってたんだ」
「候補じゃない。確定だ」
「それは困るなあ」
リラは笑おうとした。
口元は動かなかった。
ラウルも笑わない。
「笑わなくていい」
それだけ言って、砂袋へ手を戻した。
レティアが水導管を床へ置く。
留め金が石へ触れ、硬い音がした。
「私は、あなたの判断に怒っています」
「うん」
「私の水面へ、本人が許可していない像を映しました」
「レティアは知らなかった」
「知ろうとしなかった」
左右の違う手袋を外し、作業台へ並べる。
「百人試演の前、幻影の内容が変わっていることには気づきました。あなたが最終調整だと言ったので、確認を省いた」
「私が責任者だったから」
「責任者の判断へ従うことと、自分の判断を捨てることは別です」
レティアは素手で、水導管に残った一滴を拭った。
「責任を分けて、あなたを軽くしたいのではありません。次に同じことがあれば、私は演出家の指示を拒否します」
「次は、ないかもしれない」
「それを決めるのはセラ」
ノアが工具袋を肩へ掛けた。
「リラが勝手に終わらせるのも、同じ」
「でも、セラは出ないって」
「星冠祭には、って言ったんでしょう」
「うん」
「一生歌わないとは言ってない」
「また歌うって決めつけるのも駄目だよ」
「決めつけてない」
ノアは袋の口を縛り、リラを見る。
「分からないままにしてるだけ」
三、四歩離れた場所で、エヴレンが標を包む手を止めた。
「私は、リラさんへ許可を確認しました」
「うん」
「あなたは、歌から見た景色だと答えた」
「嘘でした」
「ええ」
エヴレンは包み布の端を折る。
いつものように美しく整えているが、指の動きは少し遅かった。
「私は、それでも違和感を持っていました。本人へ直接確認する時間がないという理由で、演出家の判断へ預けた」
「ごめんなさい」
「謝罪は受け取ります。ですが、次に同じ頼み方をされても作りません」
「うん」
「あなた以外から頼まれてもです」
エヴレンは包みを箱へ収め、蓋を閉じた。
「美しいものを作れることと、作ってよいことを見分ける責任は、私にもあります」
セインは安全柵の数を数え終え、記録板へ線を引いた。
「私も、異常を認識しながら、技術的な中止判断が遅れました」
「セインは止めようとしてた」
「中止動作へ入っただけです。セラさんの最初の『消して』で宣言すべきでした」
「演出の内容は知らなかったでしょう」
「本人が停止を求めた時点で、内容を知る必要はありません」
白い手袋の指先が、記録板の端をそろえる。
「安全とは、身体だけを守ることではない。その判断が不足していました」
誰もリラを慰めなかった。
誰も、自分には責任がないとも言わなかった。
それがありがたく、同時に苦しかった。




