第二幕「歌を返して」 第32話 歌を返して
セラは、酒場の二階にもいなかった。
一度は戻ってきたらしい。
店主によれば、濡れた外套を置き、歌詞の紙と薄い上着だけを持って、裏口から出ていったという。
「どこへ行ったかは?」
「聞いたよ。答えなかった」
「何時ごろ?」
「日が落ちる少し前だ。あの子に何があった」
リラは答えられなかった。
何があったのかではない。
自分が、何をしたのかだった。
「探してきます」
「傘くらい持っていけ」
「すぐ見つけるので」
「そう言う奴ほど戻らない」
店主が差し出した古い傘を、リラは受け取らなかった。
受け取っている数秒さえ惜しいと思った。
けれど、酒場を出た時点で、雨はすでに降り始めていた。
◇
最初に歌った路地。
酒場裏の洗濯場。
二人で休日を過ごした河岸。
王立音楽院の裏門。
セラが足を止めそうな場所を、思いつく順に回った。
誰もいない。
雨は次第に強くなり、リラの髪を頬へ貼りつかせた。灯務局の制服も水を含み、走るたび裾が脚へまとわりつく。
南区の鐘が、夜半を告げる。
立ち止まると、急に息が苦しくなった。
どこにもいなければ、次を考えなくて済む。
探している間だけは、謝る言葉を決めなくていい。
そんな考えが一瞬浮かび、リラは自分の頬を両手で挟んだ。
「最低なのは、あとでちゃんと聞くから」
誰に言うでもなく呟き、また走った。
王立音楽院の裏手まで戻ったとき、閉鎖された旧音楽堂の脇に、細い光が見えた。
入口の扉は壊れ、完全には閉まらない。
内側から、持ち込まれた小さな灯具の光が漏れていた。
夜明けには、まだ少し早かった。
◇
旧音楽堂の屋根には、いくつも穴が空いていた。
雨粒が舞台や客席へ落ち、一定ではない音を作っている。
並んだ椅子の半分は壊れ、布の裂けた背もたれから中身がのぞいていた。
セラは、舞台の端へ座っていた。
薄い上着の肩が濡れている。
灯具は足元に置かれていたが、その光はセラの顔まで届いていなかった。
リラは入口から先へ進まなかった。
「入っていい?」
「もう入ってる」
「出た方がいい?」
「好きにすれば」
いつもの冷たい言葉だった。
けれど、声は歌ったあとよりもかすれていた。
リラは舞台へ近づかなかった。
壊れていない椅子を探し、最後列へ腰を下ろす。
二人の間には、客席一つ分の暗闇が広がった。
「見つけるの、遅くなった」
「見つけてほしいとは言ってない」
「うん」
「帰って」
「それが、セラの希望?」
セラは答えなかった。
雨粒が、一つだけ舞台中央へ強く落ちた。
リラは膝の上で両手を組む。指先が冷えて、うまく重ならなかった。
「謝りたい」
「謝ったら、帰る?」
「セラがそうしてほしいなら」
「なら、言って」
許しを求める声ではなかった。
何を理解したのか確かめるための声だった。
「ごめん」
「何が悪かったか、分かってる?」
「夜灯花のことを、許可なくエヴレンへ伝えた」
「花の名前は言ってないでしょう」
リラの息が止まる。
そのとおりだった。
エヴレンには名前も、故郷の記憶だということも話していない。
だから自分は、約束を完全には破っていないように考えていた。
「名前を言わなくても、同じことをした」
「何を?」
「セラから聞かなければ作れなかった景色を使った」
「それだけ?」
セラは舞台の端から動かない。
リラは、次の答えを急いで探しかけた。
正しい言葉を言えば、まだ何かが戻る気がした。
その考えに気づき、口を閉じる。
「すぐに答えを作らないで」
セラが言った。
「……うん」
「私が何を嫌がったか、思い出して」
リラは膝の上の手を見る。
温室で交わした言葉。
見せないで。
話さないで。
真似しないで。
勝手に歌へ入れないで。
舞台のものにしないで。
「セラが何度も使わないでって言ったのに、私は、花そのものじゃなければいいって決めた」
「うん」
「窓ならいい。人影ならいい。象徴なら違うって、言葉を変えて、自分を納得させた」
「それだけ?」
「エヴレンに、歌から見えた景色だって嘘をついた」
「それだけ?」
リラは顔を上げた。
舞台までは遠く、セラの表情は暗がりへ隠れている。
それでも、こちらを見ていることだけは分かった。
「消してって言われたのに、消さなかった」
声が小さくなる。
「セラが二回言ったのに、歌を続けさせようとした」
「どうして?」
「百人が見てたから」
「違う」
「審査に落ちたくなかったから」
「それも違う」
セラの手が、舞台の縁をつかんだ。
濡れた木が、小さく軋む。
「私が嫌だって言ったことを、あなたはどう扱ったの」
リラの喉が狭くなる。
嫌だと言われた。
聞こえていた。
それでも、あとで説明すればいいと考えた。
今は混乱しているだけだと決めた。
試演が終われば分かってもらえると思った。
「進行を止める問題として扱った」
やっと答えた。
「セラが嫌だって言ったのに、セラの気持ちじゃなくて、公演の不具合として見た」
雨音の向こうで、セラが息を吸う。
「それだけ?」
今度の問いは、先ほどより弱かった。
リラは目を閉じた。
観客の反応。
白札。
青札。
八十二人。
セラが来ることを、許している証拠だと思った。
歌うことを、同意だと思った。
「来てくれたから、続けてもいいと思った」
唇が震える。
「セラが毎日来たことを、私をまだ信じてる証拠にした。嫌だと言われても、明日も来るなら大丈夫だって」
セラは答えなかった。
「歌えば気持ちが分かると思ってた」
リラは続ける。
「でも、本当は、私が分かりたい意味をつけてた。悲しい歌。母親を待つ歌。帰れない家の歌。観客が泣けば、セラも届いたって喜ぶと思った」
「思った?」
「思った」
「私の母を見せれば、本物になるって?」
逃げる場所はなかった。
「思った」
舞台の上で、セラの肩が震えた。
怒りなのか、寒さなのか、リラにはもう決められなかった。
「最低」
「うん」
「否定して」
その一言だけが、子どものように不安定だった。
リラの指が強く重なる。
否定したかった。
違うと言いたかった。
あなたを大切に思っていると、成功させたかっただけだと、悪意はなかったと説明したかった。
けれど、そのどれもセラが受けたものを小さくする言葉だった。
「できない」
雨粒が、壊れた天井から二人の間へ落ち続ける。
セラは舞台から客席を見ていた。
百人試演のときよりも広く、誰もいない客席だった。
「あなたなら、分かってくれると思ってた」
リラは息を止めた。
「音楽院の人たちは、私の歌を直そうとした。正しい音程。分かりやすい歌詞。聞いた人が迷わない意味」
セラの指が、舞台の縁からゆっくり離れる。
「店主は、客が酒を買う歌を歌えと言った。明るくて、覚えやすくて、途中からでも分かる歌」
「うん」
「でも、あなたは最初に、その歌を見えるようにしたいって言った」
「うん」
「直したい、じゃなかった」
セラはそこで声を止めた。
言葉を続けるために、一度唇を結ぶ。
「だから信じた」
怒鳴られるより痛かった。
責められるよりも、ずっと深い場所へ届いた。
「私は、セラを見てるつもりだった」
リラは掠れた声で言う。
「歌う前の呼吸も、手の動きも、声が変わる瞬間も。誰より見てるから、分かってるって思った」
「ずっと観客を見てたんだね」
「……うん」
「私を見てたんじゃなくて」
返事ができなかった。
見ていた。
けれど、セラを通して、その先にいる観客を見ていた。
セラの呼吸さえ、観客の視線を動かす合図へ変えていた。
◇
セラが立ち上がった。
長く同じ姿勢でいたためか、一歩目がわずかに揺れる。
リラの身体も反射的に浮いた。
けれど、椅子からは立たなかった。
「星冠祭、辞退する」
「……うん」
「歌わない」
リラの胸の中で、いくつもの言葉が同時に立ち上がる。
特例出演。
五十人試演。
百人試演。
仲間たちの時間。
次はない。
全部をのみ込みきれず、最初の一つだけが口から出た。
「待って」
セラの顔が強張る。
リラはすぐに両手を握った。
「ごめん。今のは、私が止めたかっただけ」
「公演許可がなくなる」
「うん」
「アルドの枠も」
「うん」
「みんなの時間も無駄になる」
「無駄にはならない」
「あなたが決めないで」
その言葉に、リラは口を閉じた。
また、ほかの人の気持ちを先に決めようとした。
「そうだね」
セラは胸元を押さえた。
「いらない」
「何が?」
「星冠祭も、公演許可も」
「本当に?」
「いらない」
「歌手になることも?」
「いらない!」
初めて、大きな声が出た。
壊れた音楽堂の壁へぶつかり、客席へ何度も返ってくる。
セラ自身も、自分の声に驚いたように目を見開いた。
「欲しいって言ったら、また奪われる」
その言葉だけは、反響せずに二人の間へ落ちた。
セラの手が、胸元の布を強く握る。
「一回だけでいいと思ってた」
声が崩れる。
「人前で歌えれば、それでいいって」
リラは動かなかった。
「でも、違った」
セラの目から、一滴だけ涙が落ちた。
頬を伝い、舞台の床へ消える。
「次も歌いたかった」
もう一滴。
「星冠祭のあとも。違う歌も作りたかった」
セラは涙を拭わなかった。
「ラウルの火が待つのも、レティアの水が毎回違うのも、ノアが最後に顔を残すのも、マリエが私の息を待つのも」
言葉が一度詰まる。
「エヴレンが、見せすぎたって困るのも。セインが、歌だからって記録を変えるのも」
最後に、リラを見た。
「あなたと、次も作りたかった」
リラの膝へ、爪が食い込んだ。
立ち上がりたかった。
舞台まで走り、抱きしめたかった。
大丈夫だと言いたかった。
まだ次があると約束したかった。
けれど、それは今のセラが最も怖がっているものだった。
欲しいと言ったものへ、相手が勝手に手を伸ばすこと。
「ごめん」
リラは椅子から立った。
舞台へは向かわない。
足元へ置いていた鞄を開いた。
中から、紙を束ねた封筒を取り出す。
「何」
「セラから預かってた歌詞」
原本。
書き写した歌詞。
リラが作った演出表。
歌詞の横へ意味を書き込んだ別紙。
夜灯花を使った幻影の指示書は、入れていなかった。エヴレンが破いたからではない。自分がもう一度書けてしまうことの方が怖かった。
「私が持ってるものは、全部ここに入れた」
「返すつもり?」
「うん」
「最初から私の歌」
「うん」
セラの声に力が戻る。
「あなたのものになったことは、一度もない」
「分かってなかった」
「今は分かるの?」
「分かろうとしてる」
リラは封筒を両手で持った。
「返したから、もう許してって意味じゃない」
「当然」
「星冠祭へ戻ってほしいって意味にも、しない」
「戻らない」
「うん」
舞台へ一歩近づきかけ、止まる。
「どこへ置けばいい?」
「舞台の端」
リラは客席の横を回った。
セラから三歩以上離れた場所で足を止め、封筒を舞台の端へ置く。
紙が濡れないよう、屋根の残っている場所を選んだ。
それ以上は近づかなかった。
「写しは?」
「全部入れた」
「覚えてるものは?」
リラの指が震える。
「消せない」
「じゃあ、返せない」
「うん」
簡単な言葉で、逃げ道がなくなる。
「忘れないでって言われたから、覚えてていいと思った。でも、覚えてることと、使っていいことを分けられなかった」
「今度は?」
「使わない」
「私がいなくても?」
「使わない」
「もう一度、成功しそうでも?」
百人の息をのむ音を思い出す。
審査官の動く筆。
八十二という数字。
リラは封筒から手を離した。
「使わない」
セラは答えなかった。
信じたのではない。
ただ、聞いた。
今はそれだけだった。
◇
リラは入口へ向かった。
濡れた靴が床を踏むたび、小さな音が残る。
扉まで半分ほど来たところで、背後から名前を呼ばれた。
「リラ」
足を止める。
振り返る前に、一度息を吸った。
セラは封筒を受け取っていなかった。
舞台の端へ置かれたまま、少し離れた場所から見下ろしている。
「星冠祭には出ない」
「分かった」
「止めないの」
「止めたい」
リラは正直に答えた。
セラの目が、わずかに動く。
「今すぐ戻ってって言いたい。みんなでやり直そうって言いたい。私が必ず直すからって」
「言えばいい」
「言ったら、謝ることまで公演のためになる」
リラの声が震えた。
「今の私が止めたら、セラのためなのか、星冠祭を失いたくないだけなのか、自分でも分からない」
「分からないまま、いつも話すでしょう」
「今日は、それで傷つけたから」
セラは舞台の端へ視線を落とす。
壊れた屋根から雨が降り込み、二人の間の床だけを濡らしていた。
「止める言葉は、今は全部、私の都合になる」
リラは扉へ手をかけた。
「だから、分かったって言う」
「もう来ないの?」
問いではなく、確かめるような声だった。
「今日は帰る」
「明日は?」
リラはすぐには答えなかった。
「会っていいか、先に聞く」
「誰に」
「セラに」
長い沈黙が落ちる。
雨音が、客席の端から舞台へ近づいていく。
「……今日は来ないで」
「分かった」
「明日も、まだ分からない」
「うん」
リラは扉を押した。
外の雨は、来たときより強くなっている。
「ごめん」
最後に残したのは、その一言だけだった。
許してほしいとも、待っているとも続けなかった。
◇
外へ出ると、夜と朝の境目が薄く白んでいた。
リラは傘を持っていない。
雨は髪から頬へ流れ、制服の襟を濡らした。
いつもなら、無料の水演出だと笑えた。
雨粒へ豆明かりを混ぜればきれいだと、考えたかもしれない。
指先は動かなかった。
後ろの音楽堂では、扉が閉まる音もしない。
セラが封筒を受け取ったのかも、まだ舞台へ置いたままなのかも分からなかった。
リラは確かめに戻らなかった。
歌を返すことは、紙を返すことではなかった。
自分が握ったままだった決定を、一つずつ手放すことだった。




