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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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第二幕「歌を返して」 第31話 百人の成功

 百人試演の日、旧兵站庫には、人の体温と緊張がこもっていた。


 王立音楽院の審査官が三人。


 祭典庁の役人。


 招待された市民と、前回の試演にも来た子どもたち。


 椅子は百脚。前回より間隔が狭く、上着の擦れる音や、誰かが咳をのみ込む気配まで舞台袖へ届いた。


 セラは幕の裏で発声をしていた。


 低い声を一つ伸ばし、息を吸う。


 リラが近づくと、次の音は出なかった。


「今日、予定どおり歌える?」


「予定どおりって、誰の予定」


「私たちの」


「私の歌詞は戻した?」


 リラの返事が、一呼吸だけ遅れた。


 袖の外では、セインが開演までの時間を告げている。あと四分。明瞭な声が、布越しに聞こえた。


「戻した」


「演出は?」


「窓と道の見え方を、少し変えた」


「何を加えたの」


「歌詞にあるものだけ」


 嘘ではない。


 夜灯花は出さない。


 焼けた家も出さない。


 歌詞にある窓と道を、観客にも見える形へしただけだ。


 リラは、それで質問へ答えたことにした。


 セラはしばらくリラの顔を見ていた。


「分かった」


 それだけ言い、客席の方へ向き直る。


 濃い灰色の髪が肩から滑り落ち、二人の間へ細い境界を作った。


 リラは胸の奥に残った痛みを、開演前の緊張だと思うことにした。


     ◇


 客席後方に立つノアの闇が、百人の観客を包んだ。


 完全には閉ざさない。


 出口まで続く細い避難線と、前列の足元だけは残している。


 前回より二秒短い暗転。


 不安がざわめきへ変わる直前、リラの豆明かりが舞台中央へ灯った。


 セラが歌い始める。


 マリエの低音が床を走り、光粒子が声の近くへ集まる。


 エヴレンの街は、遠い建物から少しずつ形を得た。


 予定どおりだった。


 ラウルは炎を急がない。


 レティアの水面は、完璧に固めず、小さな揺れを残している。


 セインは倉庫上部の足場から、信号経路と全員の中止動作を順に確認していた。


 客席の顔が上がる。


 前列。


 中央。


 最後列。


 リラが光粒を動かすたび、視線も狙った順番で移っていった。


 赤札は多い。


 白札も上がっている。


 審査官の一人が、記録用紙へ何かを書いた。


 リラは歌より先に、その筆の動きを見た。


 二番へ入る。


 セラが、帰れない窓を歌った。


 声は昨日より低かった。


 窓の内側ではなく、遠くから眺めているような歌い方だった。


 歌詞にある窓と道だけ。


 花は出さない。


 家も出さない。


 歌詞の順番も、セラが選んだものへ戻した。


 リラは自分へ言い聞かせ、指を上げた。


 豆明かりの一粒が、水面を経由してエヴレンへ合図を送る。


 エヴレンはすぐには動かなかった。


 舞台袖から、リラを見る。


 昨夜と同じ問いが、紫の目に残っていた。


 ――本当に出すのですか。


 セラは歌い続けている。


 審査官の筆も止まっていない。


 歌を変えるわけではない。


 記憶そのものを見せるわけでもない。


 リラは、もう一度指を動かした。


 発動の合図。


 エヴレンの長手袋が上がった。


 幻影の街、その最も奥に、壁のない窓が現れる。


 崩れた道は、その窓の前で途切れていた。


 窓辺には、輪郭の薄い人影が立っている。


 顔はない。


 年齢も分からない。


 ただ、待っている人だと見えるように、片手だけが窓枠へ添えられていた。


 窓の下に、小さな白い光が灯る。


 茎もない。


 花弁もない。


 ただの丸い光だった。


 花ではない。


 家でもない。


 それでも、セラから預かった記憶を知らなければ、作れなかった配置だった。


 ――幻影にしないで。


 ――エヴレンにも話さないで。


 ――真似をしないで。


 ――でも、覚えていて。


 休日の温室で、セラから預かった言葉が、リラの中へ戻ってくる。


 客席から、一斉に息をのむ音がした。


 狙いどおりだった。


 審査官の筆が速く動く。


 前列の少女が、母親の手を握った。


 フィンは窓の下の光を見たまま、瞬きもしない。


 セラの声が止まった。


 歌の途中で切れた息だけが、倉庫へ残る。


 一拍。


 二拍。


 リラは再開の合図を出した。


 光粒子が、次の位置へ移る。


 セラは歌わない。


 右手が喉元へ上がる。


 声が出ないのではない。


 そこにあるはずのないものを確かめるように、指が震えていた。


「消して」


 小さな声だった。


 リラには聞こえた。


 エヴレンにも届いていた。


 エヴレンの両手が下がりかける。


 リラは、とっさに別の合図を送った。


「白い光だけ落として」


 エヴレンは一瞬、動かなかった。


 それでも右手だけを閉じる。


 窓の下の光が消えた。


 壁のない窓と人影は残った。


 セラがリラを見る。


「全部」


「窓と道は、歌詞にある」


「全部、消して」


 今度は、はっきり聞こえた。


 エヴレンが両手を閉じようとする。


 リラは首を横へ振った。


 ここで全部を消せば、失敗になる。


 あと数行。


 最後まで歌えば、客席は戻る。


 白い光はもう消した。


 残っているのは、歌詞にある窓と道だけだ。


「セラ、客席を見て」


「見てる」


「みんな、歌を待ってる」


「私は、消してって言ってる」


「あとで話そう。今は――」


「消して!!」


 叫びが、倉庫の天井へぶつかった。


 マリエの指が鍵盤から離れる。


 ラウルは反射的に炎を握りつぶした。


 レティアが水面を床へ落とす。幻影を映していた朝が砕け、ただの水へ戻った。


 ノアの闇が、客席と舞台の間へ厚く降りる。


 観客からセラの顔を隠すための闇だった。


 エヴレンは両手を閉じた。


 壁のない窓が消える。


 人影がほどける。


 すでに消えていたはずの白い光が、残像だけを一瞬残し、形を失った。


 街全体が崩れたあとも、セラは消えた場所を見ていた。


 肩が小さく上下している。


 歌ったあとの呼吸ではなかった。


 セラがリラへ向き直る。


 闇が客席を遮っているため、今、その表情を正面から見ているのは仲間だけだった。


「誰に話したの」


「エヴレンには、歌にあるものを見える形にしたって」


「私の話が混じってるって、言わなかった?」


「言わなかった」


「じゃあ、隠したの」


 リラの喉が詰まる。


「そのままは出してない。家も、花も出してない」


「名前と形を変えたら、私の話じゃなくなるの?」


 答えられなかった。


 ここで認めれば、すべてが壊れる気がした。


 まだ試演の途中だった。


 百人が待っている。


「でも、伝わった」


 口から出たのは、謝罪ではなかった。


「今、客席は全員――」


「私の歌を届けたいんじゃない」


 セラの声が震えた。


 怒りの奥に、恐怖が混じっている。


「私が傷ついた証拠を、みんなに見せたいんだ」


「違う。成功させたいだけ」


「誰の成功?」


 リラは答えられなかった。


 セラのため。


 仲間のため。


 アルドのため。


 公演を残すため。


 いくつも答えは浮かんだ。


 どれを口にしても、自分のしたことを別の名前へ変えるだけだった。


 セラは闇の向こうへ顔を向けた。


 百人の気配がある。


 審査官。


 役人。


 知らない市民。


 フィン。


 歌を聞きに来た人たちの前で、見せないでと頼んだ記憶を見せられた。


 セラは一度、目を閉じた。


 呼吸を整えようとして、うまくいかない。


 それでも、自分で足を客席へ向けた。


「ノア。少し開けて」


「顔、見えるよ」


「いい」


 ノアはすぐには動かなかった。


 セラがもう一度うなずく。


 闇が、顔一つ分だけ薄くなる。


 セラは観客へ頭を下げた。


「ごめんなさい。今日は、ここまでです」


 歌うときより小さい声だった。


 それでも、倉庫の後ろまで届いた。


 頭を上げる。


 リラを見ず、舞台を降りた。


 扉へ向かう足音が、途中で一度だけ乱れる。


 誰も呼び止めなかった。


 重い扉が開き、閉じる。


 音が消えてから、リラはようやく動いた。


「追わないと」


 舞台を降りようとした腕を、アルドがつかんだ。


「離してください」


「今、お前が追えば、あの娘は客の前でお前を拒むか、許していないのに話を聞かされる」


「でも、一人で」


「一人にしたのはお前だ」


 アルドの声は低かった。


 力を込めて責めてはいない。


 その事実だけが、逃げ道を塞いだ。


 足場から、セインが中止の白い信号を出す。


 倉庫上部を、音のない雷光が一度だけ走った。


「技術上の理由により、本日の試演を終了します」


 公務の声が、客席へ届く。


「係員の案内に従い、前列から順にご退出ください。質問への回答は、後日、祭典庁を通じて行います」


 祭典庁の役人が立ち上がり、出口へ移動する。


 ノアは闇の中へ退場路だけを残した。


 レティアが床の水を客席から遠ざける。


 ラウルは耐火板を片づけず、舞台と客席の境へ立った。誰かが裏へ回ろうとすれば、すぐに止められる位置だった。


 エヴレンは、消えた街の方を見たまま動かなかった。


 リラは舞台中央へ戻る。


 百人の気配が、闇の向こうからこちらを見ている。


 いつもなら、言葉は考えるより先に出た。


 今日は、口を開いても息しか出なかった。


 手の中では、豆明かりが一粒だけ震えている。


 セラを照らすための光だった。


 今は、誰もいない場所に浮かんでいる。


「本日の試演は、ここまでです」


 それだけ言った。


 拍手はなかった。


     ◇


 最後の観客が退場したあと、倉庫の扉が閉められた。


 音楽院の審査官は、技術評価の用紙を机へ置いた。


「歌唱中断以前の構成については、高く評価します」


 年長の審査官が言う。


「特に複数術式の同期、後方席への視認性、観客の集中維持は、前例の少ない水準です」


「歌手の評価は?」


 アルドが尋ねる。


「本日の状態では、出演可否を決定できません」


「再試験は」


「音楽院へ持ち帰ります」


 審査官の指が、集計用紙の一行を示した。


「途中まで強く引き込まれたと回答した観客は、百人中八十二人です」


 八十二。


 リラが越えようとしていた七割より、十二人多い。


 炎。


 水。


 幻影。


 闇。


 雷。


 視線の移動。


 すべての評価が、五十人試演を上回っていた。


 歌手の途中退場を除けば、成功だった。


 審査官たちが帰ったあとも、リラは集計用紙を見ていた。


 成功。


 高評価。


 八十二人。


 昨日までなら、何度も読み返したかった言葉だった。


 今は、自分が知らない言語で書かれているように見えた。


「八十二人」


 ノアが言った。


「うん」


「セラは一人」


 リラが顔を上げる。


 ノアは作業台の前に立っていた。


 大きすぎる黒いローブの袖から、指先だけが出ている。金灰色の目は眠そうなままだったが、逸らさなかった。


「八十二人には届いた」


 リラは、紙へ書かれた結果を読むように答えた。


「セラには?」


 返事ができない。


 ノアは一歩だけ近づいた。


 十二歳の少女と座ったリラの目線が、ほとんど同じ高さになる。


「観客を見すぎたんだよ」


 ノアの声は小さかった。


「目の前に一人いたのに」


 リラの指から、集計用紙が滑った。


 床へ落ちる。


 紙の角が石へ触れ、乾いた音を立てた。


 ラウルは何も言わなかった。


 いつもなら怒鳴るか、何かを殴るか、少なくとも大きく息を吐く。


 今は両手を握ったまま、舞台の端を見ている。


 レティアは左右の違う手袋を外し、机へ置いた。


「私は、あの幻影を水面へ映しました」


「レティアは知らなかったでしょう」


 リラが言う。


「知らないものを映したことと、起きたことが消えることは別です」


 レティアは、自分の手へ残った水気を布で拭かなかった。


「次からは、演者本人が確認していない像を、水面へ載せません」


 責める言葉ではなかった。


 それが、かえって痛かった。


 エヴレンは、幻影の設計紙を机へ広げた。


 壁のない窓。


 輪郭の薄い人影。


 窓の下に置かれた、小さな白い印。


 自分の手で描き足した、光の角度と人影の指先。


「私は、セラさんがこの景色を見たかと確認しました」


「はい」


「あなたは、まだだと答えた」


「はい」


「それでも私は、準備しました」


 エヴレンは長手袋を外した。


 素手で紙の中央をつかむ。


「出すかどうかを、あなたに返せばよいと思った」


 ゆっくり、紙を二つに裂く。


「最初の『消して』で、私は全部を消せた」


 さらに半分へ裂く。


「けれど、あなたの合図を待った」


 細くなった紙を、もう一度破る。


 窓の下の白い印が、四つに分かれた。


「私は、美しく作りました」


 破れた紙を机へ置く。


「だから、美しかったことも、あなたに命じられたことも、言い訳にはしません」


 細くなった紙を、もう一度破る。


 白い花が、四つに分かれた。


 セインは白い制服のまま、出口の前へ立っていた。


 試演終了後、祭典庁の者や観客がセラを追わないよう、最後まで扉を守っていた。


「セラさんは、一人で酒場へ戻ったと確認しました」


「追わなかったの?」


「本人が同行を拒否しました」


 セインはリラを見る。


「追いますか」


「何て言えばいいか、分からない」


「いつも、分からないまま話すでしょう」


「今日だけ、できない」


「では、先に会ってよいか確認してください」


「会って、謝ったら」


 リラの声が止まる。


 許してもらえるか、と続けかけた。


 セインは待っていたが、代わりに言葉を補わなかった。


「謝ったら、何?」


 ノアが尋ねる。


「……分からない」


「一回謝って、元に戻ると思わないで」


「思ってない」


 反射的に答えたあと、自信がなくなる。


 許してほしい。


 明日の稽古には来てほしい。


 百人試演をやり直したい。


 星冠祭を失いたくない。


 謝罪の先へ、もう次の予定を置こうとしている自分がいた。


 リラは両手で顔を覆った。


「私、今も公演のことを考えてる」


 誰も、すぐには答えなかった。


 倉庫の高い窓から、午後の光が細く差し込む。


 床へ落ちた集計用紙の上で、八十二という数字だけが明るく照らされていた。


 リラは手帳を開いた。


 拍手。


 視線。


 笑顔。


 涙。


 百人分の反応を記録する欄がある。


 けれど、セラが何度「嫌だ」と言ったかを記す場所はなかった。


 リラは手帳を閉じた。


 継ぎ足した紙の厚みで、表紙は最後まできれいに重ならなかった。

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