第二幕「歌を返して」 第36話 それぞれの返事
ノアが酒場を訪ねた翌日、セラは仕事を早退した。
洗い終えた樽は、まだ半分ほどしか乾いていない。
「残りは給金から引く」
店主が帳面を見たまま言った。
「三つ」
「五つだ」
「二つは昨日の分」
「昨日、歌わずに帰った分だ」
「歌は仕事に入ってない」
「客は入っていると思ってる」
セラが言い返そうとすると、店主は背を向けたまま布巾を一枚投げた。
顔へ飛んできた布を、片手で受け取る。
「何」
「夕方から雨だ」
「布巾で雨は防げない」
「頭に載せろ」
「嫌」
「なら濡れろ」
店主は厨房へ戻った。
引き止めもしない。
歌えとも言わない。
ただ、早退した分は給金から引き、雨が降ることだけを教えた。
セラは布巾を畳み、鞄へ入れた。
◇
最初に向かったのは、ラウルの花火工房だった。
通りの角を曲がる前から、怒鳴り声が聞こえる。
「その導火糸を戻せ! 指一本分短い!」
「本番では見えませんよ!」
「見えないところで事故が起きるんだ!」
工房の中央では、職人たちが火線枠や耐火箱を運んでいた。
ラウルはその間を歩き回り、自分で留め金を引き、安全札の記載まで確かめている。
セラに気づくと、声の大きさだけが少し落ちた。
「歌わない歌姫が何の用だ」
「まだ歌姫じゃない」
「面倒だな。では、歌わない樽洗い」
「帰る」
「待て。来たなら用件を言え」
ラウルは職人へ箱を渡し、作業台の前まで移動した。
焦げた革手袋を外す。
右腕の袖口から、古い火傷の端が少しだけ見えた。
「星冠祭がなくなったら、あの炎はどうするの」
「どの炎だ」
「最後まで待つ炎」
「名前みたいに言うな」
「あなたが、何度もそう言った」
「俺は炎の話をしてたんじゃない。出す時刻の話だ」
ラウルは外した手袋を机へ置いた。
革が木へ当たり、重い音を立てる。
「別の歌でも出せる?」
「出せる」
迷いのない返事だった。
胸の奥が、わずかに冷える。
自分で尋ねた。
できないと言ってほしかったわけではない。
それでも、簡単に代えられると言われたように感じた。
「同じ炎?」
「同じ出力は出せる。形も作れる」
「なら、私がいなくても」
「だが、同じ時刻には出せない」
ラウルが遮った。
「別の歌には、別の待ち方がある」
「私の歌だけ、特別?」
「そういう言い方をすると腹が立つな」
「どうして」
「俺が、お前のためだけに変わったみたいに聞こえる」
ラウルは作業台に置かれた導火糸を、指先でまっすぐ伸ばした。
「待つと決めたのは俺だ。お前の歌を聞いて、今までの出し方では駄目だと思った。だから変えた」
「私が戻らなかったら?」
「残念だ」
「それだけ?」
「戻れと言えば戻るのか」
「戻らない」
「なら言わん」
ラウルはセラをまっすぐ見た。
いつもの大きな笑顔はない。
「お前の傷を見世物にする舞台なら、俺も燃やさない。だが、俺が待つことを覚えた時間まで、リラ一人の間違いに渡すな」
「渡してない」
「全部捨てようとしてる顔だ」
セラの眉が動く。
「人の顔を読むな」
「リラほど外してない」
「比べないで」
「なら、自分で決めろ」
ラウルは新しい革手袋へ手を入れた。
「俺の炎を捨てるかどうかまで、お前が一人で決めるな。使うかどうかは、また全員で決める」
工房の奥から、職人がラウルを呼ぶ。
彼は返事をしながら、セラへ背を向けた。
「それと」
「何」
「戻るなら、俺の炎が必要か先に聞け」
「必要だと答えたら?」
「出す」
「不要なら?」
「工房で金獅子を作る」
ラウルは振り返らなかった。
「俺はどちらでも火を使う。選んだ方で、最高のものを出す」
◇
次に向かったのは、レティアの所属する水務研究所だった。
受付で名前を告げると、若い職員が困った顔をした。
「レティア主任の執務室は、現在、安全を保証できません」
「水の研究所なのに?」
「水害ではありません」
「何が危ないの」
「書類です」
誇張だと思った。
扉を開けるまでは。
完璧な水魔法を扱う女性の執務室には、書類、空の瓶、濡れた手袋、読みかけの本、途中まで乾燥させた植物が積み上がっていた。
机の中央だけ、水で作られた薄い膜が書類の山を支えている。
一枚抜けば、すべて崩れそうだった。
「見ないでください」
レティアが言った。
「もう見た」
「これは研究上の配置です」
「床に靴下がある」
「水分量を測っています」
「左右で色が違う」
「比較試験です」
「片方しかない手袋も?」
「それは探しています」
レティアは指を動かし、椅子の上に積まれていた紙を水の膜で持ち上げた。
「座ってください」
「濡れない?」
「私の水です」
「あなたの部屋だから不安」
レティアの眉がわずかに上がる。
「帰っていただいても構いません」
「座る」
セラが椅子へ腰を下ろすと、水の膜は紙を机の端へ運んだ。
一枚も落とさない。
部屋だけが片づいていない。
「何かご用ですか」
「星冠祭がなくなったら、私の歌に使った水をどうするの」
「記録を保管します」
「別の歌手へ使う?」
「技術の一部は使えます」
レティアの返事も早かった。
「反射角、排水経路、観客との安全距離。歌手が変わっても利用できる情報です」
「そう」
セラは自分の膝を見る。
また、胸の奥が冷えた。
技術は残る。
人だけが入れ替わる。
そんな答えを自分で引き出し、勝手に傷ついている。
都合のよい言葉を求めて訪ねていることへ、ようやく気づいた。
「でも」
レティアが小さな器を机へ置く。
指先から水を満たした。
「この水面は、ほかの歌へ渡しません」
器の中に、完璧な鏡面が生まれる。
天井ではなく、向かいに座るセラの顔が映っていた。
「どうして」
「私は、乱れない水を美しいと思っていました」
「今もでしょう」
「今もです」
レティアは否定しない。
「ですが、あなたの歌に合わせると、同じ水面を再現できない。最初は欠点だと思いました」
「歌が?」
「私の技術が」
レティアは器の縁へ指を添える。
鏡のようだった水が、呼吸するように小さく揺れた。
「あなたが言葉を変えるたび、水面も変わる。私は、それを失敗として直そうとしました」
「今は?」
「変化を残したい」
水に映るセラの顔が揺れる。
目も、口元も、輪郭も崩れる。
それでも、水が静まれば同じ顔が戻る。
「あなた以外の歌へ、この揺れを使えば、それは形だけを真似たものになります」
「私が戻らなかったら」
「残念です」
「困らない?」
「困ります」
レティアは即座に答えた。
「ですが、困るから戻ってくださいとは言いません」
「どうして」
「それでは、私の水を完成させるためにあなたへ歌わせることになる」
レティアの指が器から離れた。
波紋はすぐに消えず、しばらくセラの顔を細かく揺らしていた。
「この設計を破棄しますか」
「私が決めるの?」
「あなたの歌と一緒に作った水です。私だけでは決めません」
セラは器を見る。
「捨てないで」
「では、保管します」
「ほかの歌には使わないで」
「使いません」
「期限は」
「必要ですか」
「分からない」
「では、期限なしで封じます」
レティアは机の山から、封印用の箱を引き出そうとした。
積まれていた本が傾く。
水の膜がすぐに支えた。
「片づけた方がいい」
「今は水面の話です」
「床の靴下も封じて」
「比較試験です」
レティアの返事は、最後まで変わらなかった。
◇
王立音楽院へ立ち寄ると、マリエは小さな練習室にいた。
伴奏用の小型鍵盤ではなく、歌手科の譜面台を前にしている。
音楽院が用意した祭典用の新曲が開かれていた。
マリエは一人で歌っていた。
音程は正確だった。
呼吸の位置も、譜面の指定からほとんどずれない。
けれど、一番の途中で自分から止めた。
「聞いていたのですか」
「少し」
セラは扉の内側へ立っていた。
「上手い」
「知っています」
「そこは否定しないんだ」
「八年練習しましたから」
マリエは譜面を閉じる。
紙の間から、見覚えのある別の譜面がのぞいた。
『帰れない灯』の伴奏譜だった。
「代役を断ったって聞いた」
「はい」
「歌いたくなかった?」
「歌いたかったです」
マリエは迷わなかった。
「提案を聞いた瞬間、嬉しいと思いました」
その声に、弁解はなかった。
「ずっと歌手として選ばれたかった。星冠祭の舞台です。嬉しくないふりをする方が嘘です」
「断ったのに」
「嬉しいことと、受けることは別です」
窓の外から、学院の鐘が聞こえる。
マリエは『帰れない灯』の譜面を抜き、両手で持った。
「あなたがいなくなった場所へ、扱いやすい歌手として置かれるのは嫌でした」
「私より、楽団を困らせない」
「はい」
「歌詞も変えない」
「はい」
「音楽院は、そっちを求めてる」
「だからこそ、受ければ評価されたでしょう」
マリエの指が、譜面の端を押さえる。
「でも、評価されるのは、セラさんより扱いやすい部分です」
「それも、あなたの技術でしょう」
「そうです」
マリエは顔を上げた。
「だから、別の舞台で選ばれます」
セラは何も言わなかった。
誰かの代わりではなく、自分の歌で選ばれたい。
その願いは、星冠祭へ出たいという気持ちより弱くない。
「これ」
マリエが伴奏譜を少し持ち上げる。
「返した方がよいですか」
「譜面を?」
「あなたの歌へ、私が四和音を書きました」
「マリエの音でしょう」
「あなたの呼吸に合わせて作りました」
「なら、二人のもの」
答えが自然に出た。
マリエの目が、わずかに開く。
「持ってて」
「別の人には演奏しません」
「私が歌わなくても?」
「歌わなければ、譜面として保管します」
「無駄になる」
「音楽院には、演奏されない譜面が何千枚もあります」
「それでいいの」
「いつか必要になる可能性だけで、音楽は残せます」
マリエは譜面を閉じ、祭典用の新曲とは別の棚へ置いた。
「最後まで聞きたいです」
「星冠祭で?」
「場所は問いません」
「途中までしか歌わなかったら」
「そこまで聞きます」
マリエは譜面台の高さを直した。
「私が続きを求めることと、あなたが歌う義務は別です」




