第二幕「歌を返して」 第29話 来訪と許可
五十人の試演が成功してから、リラの手帳は急速に厚くなった。
観客が顔を上げた時刻。
視線を外した人数。
笑った場所。
息をのんだ場所。
拍手が始まるまでの秒数。
年齢別、座席別、職業別の反応。
最初は数枚だった紙が、糸で継ぎ足され、元の表紙から指二本分ほどはみ出している。
灯務局の休憩中にも書いた。
食事中にも書いた。
寝る前には机へ紙を広げ、光粒を一つずつ動かして、似た反応を同じ場所へ集めた。
不安は、形がない。
数字にすれば並べられる。
順番をつければ、直せるものに見えた。
「それ、灯務局の仕事より真面目にやってないか」
夕食の向かいで、ユアンが尋ねた。
「仕事も真面目だよ」
「昨日、街灯の番号を『第一場』って呼んでた」
「名前がある方が愛着を持って修理できるでしょう」
「役所は愛着より台帳番号を求める」
「不自由だね」
「灯務局員が言うな」
ユアンは匙を置き、机の端まで伸びてきた手帳を引き寄せた。
綴じ糸が軋む。
「目を拭った人、七人」
「泣いたとは書いてないよ。汗かもしれないから」
「夏だからな」
「でも、五人は同じ歌詞のあとだった」
「人が泣けば成功なのか」
リラの筆が止まった。
「届いたってことじゃない?」
「何が」
「歌が」
「泣かせるための歌なのか」
「違うけど」
「なら、泣いた人数だけじゃ分からないな」
ユアンは手帳を閉じず、元の場所へ戻した。
リラは不満そうに頬を膨らませる。
「最近、みんな数字に冷たい」
「お前が温めすぎてる」
「数字は、誰が見ても同じだよ」
「数字はな」
「どういう意味?」
ユアンは少し考えた。
食卓の灯具が、一度だけ小さく鳴る。
「七人が目を拭いた。それは同じだ」
「うん」
「寂しくて泣いたのか、思い出して泣いたのか、歌が痛かったのか。そこから先は、お前が決めてる」
「本人に一人ずつ聞けってこと?」
「聞いても分からないことはある」
「役に立たない助言だなあ」
「人間の話だからな」
リラは手帳へ視線を戻した。
七という数字は、紙の上で変わらない。
変わらないものの方が、今は信じやすかった。
◇
その週、祭典庁へ二通の文書が届いた。
一通は、王立音楽院からだった。
百人試演で一定の評価を得られなかった場合、セラの特例出演を再検討する。
もう一通は、星冠祭評議会から。
実験演目が失敗した場合、アルドの裁量枠を停止し、旧兵站庫の使用費と設備復旧費の一部を、本人へ請求する可能性がある。
「ずいぶん丁寧な脅しだな」
ラウルが文書を掲げた。
「脅迫ではありません。条件付きの事前通知です」
セインは、発行者と決裁印を確認している。
「呼び方を変えても、嫌なものは嫌だ」
「呼び方ではなく、責任の範囲が変わります」
「やっぱり役所側だな」
「防衛隊です」
紙を受け取ったレティアは、請求対象となる設備の項目へ目を通した。
「排水設備は、使用前から一部劣化していました。全額をこちらへ負担させるのは不当です」
「そこ?」
リラが顔を上げる。
「重要です」
レティアは紙を折らず、机へ平らに戻した。
「失敗した場合の話をしているのであって、失敗すると決まったわけではありません」
「でも、私たちだけの失敗じゃない」
リラは二通の文書を何度も読み返した。
「ノアの闇は、不吉だったって記録されるかもしれない。ラウルは工房の本演目を断った。レティアもエヴレンも、職場へ頭を下げて時間を作ってる。セインは、国家儀礼の外で雷を使う責任がある」
指が紙の端を強く押さえる。
「セラが二度目を失うだけじゃない。全員の賭けを、失敗にはできない」
「俺は、自分で断った」
ラウルが言った。
「リラに断らされたわけじゃない」
「私も、自分で時間を作りました」
レティアが続ける。
「劇場へ頭を下げたのは事実ですが、頭を下げる相手くらい自分で選べます」
「防衛隊への説明責任は、私にあります」
セインは文書の余白へ、関係者ごとの責任範囲を書き分けていた。
「演目全体の成否を、リラさん一人の責任として処理する根拠はありません」
「責任を独占するのも、演出家の仕事ですか?」
エヴレンが、白い花びらを指先で弄ぶ。
「美しくありませんね」
「私は工房へ戻ればいい」
ノアは作業台へ頬杖をついた。
「だから、私の分まで勝手に背負わないで」
「でも、失敗したら困るでしょう」
「困る」
「だったら」
「困ることと、リラが全部決めていいことは別」
ノアの金灰色の目が、眠そうなままリラを見ていた。
誰も、責任から逃げようとはしていない。
それでもリラには、全員が落ちかけている場所で「自分の分は自分で持つ」と言われても、手を離すことができなかった。
「分かってる」
口ではそう答えた。
「だから、勝手に決めないために、確認できるものを増やす」
そう言いながら、手帳へ百人試演までの残り日数を書き込んだ。
◇
翌日の練習から、リラは観客役を増やした。
灯務局の同僚。
酒場の常連。
花火工房の職人。
学院の学生。
空いている椅子へ順番に座ってもらい、歌の途中で印象に残った場面があれば、木札を上げてもらう。
札の色も分けた。
赤は驚いた場面。
青は悲しかった場面。
白は、もう一度見たい場面。
「ここで炎を一段増やすと、赤札が二割上がる」
リラは集計表をラウルへ向けた。
「増やしていいのか」
「最後まで出すわけじゃない。途中で少し見せても、最後に開ける余地は残る」
「歌は?」
ラウルは演出表ではなく、セラを見た。
セラは歌詞の紙から顔を上げる。
「一度だけなら」
「嫌なら途中で戻す」
ラウルが言った。
「それでいい」
指示された場所で、炎が一段高くなる。
赤札が増えた。
「二割どころじゃないぞ」
火を消したあと、ラウルは笑った。
その笑顔を見て、リラも嬉しくなる。
条件を決めて試した。
セラも止めなかった。
数字どおりに反応が動いた。
自分たちの判断が正しかったと、客席全体が答えてくれたように見えた。
レティアの水面については、二つの角度を試した。
低い水面は、セラの足元から離れない。
水が客席へ流れてくるように見え、前列の子どもたちは靴を濡らすまいと足を引いた。
高い水面は、後方席から見やすい。
「高くすれば、水たまりではなく壁に見えます」
レティアが言った。
「一度だけ高い方も見たい。前列の反応も一緒に取る」
「一度だけです」
「うん」
水面が持ち上がる。
後方席の白札が増えた。
先ほど足を引いていた子どもたちは、今度は動かなかった。
怖がらなくなったのではない。
水が、自分たちのところまで来るものではなくなったのだ。
前列の視線は、足元から高い水壁へ移っている。
リラは、後方席の数字を書いた。
その隣へ、前列の反応も記す。
――視認性、上昇。
――足元への反応、消失。
けれど、太い線で囲んだのは、増えた視認性の方だった。
エヴレンの幻影には、窓辺の人影を加える案を出した。
「誰を待っている人物ですか」
「母親くらいの年齢だと、分かりやすいと思う」
「セラさんが母親と決めたのですか」
「決めてない」
リラは一度、案を引っ込めた。
「じゃあ、年齢も顔も分からない影。誰にでも見えるくらい薄く」
「誰にでも見える影は、誰でもない影ではありませんよ」
「それでも、窓が空のままより入口になる」
「入口だけにしてください」
「出口までは決めない」
幻影の窓辺へ、輪郭の曖昧な人影が加わった。
青札が増えた。
リラは、具体的にした方が伝わる、と手帳へ書いた。
輪郭を曖昧にしたことは書かなかった。
「あと二秒、早く開けられる?」
「できる」
ノアはすぐには答えず、暗転表を指でなぞった。
「ただし、フィンが『セラがいなくなった』って言った時間も短くなる」
「一回だけ試したい。怖くて歌を聞けなくなったら、最後まで残ってもらえないから」
「最後まで残ったら、届いたことになる?」
「ならない」
リラは一度、暗転表へ目を落とした。
「でも、怖くて目を閉じたままなら、受け取ってもらうところまで行けない」
「見ることと、受け取ることは別」
「うん。だから、見られるところまでは残したい」
ノアは遮光眼鏡を額へ上げた。
「一回だけ」
次の試演では、闇が二秒早く開いた。
ノアの闇を短くすると、年配の観客が係員を呼ぶ回数が減った。
暗転の終わりが見えない不安から、席を立ちかける者も少なくなった。
その代わり、フィンが以前「セラがいなくなった」と呟いた沈黙も、短くなった。
リラは二つの変化を書き留めた。
――暗転中の不安反応、減少。
――子どもの混乱、なし。
どちらにも、丸をつけた。
◇
次の通しで、セラは二番へ入った。
最後の四行には、まだ遠い。
リラは舞台袖に残していた灯の一粒を見つめた。
『帰れない灯』と名づけた日、セラが「今の、使っていい」と言った三粒のうち、客席のない暗がりへ飛ばした灯だった。
今は、決められた位置で待っている。
低い歌声が、後方席へ届く前に薄くなる。
後ろの観客が、歌ではなく舞台の端を探すように顔を動かした。
リラは、セラの合図を待った。
左手は開かない。
それでも、今使っているのは、以前セラが使っていいと言った灯だった。
リラは灯を舞台袖から離した。
床すれすれに客席側へ滑らせ、予定より一節早く、舞台と前列の間の通路へ置く。
光が通路へ出た瞬間、後ろで伏せられていた顔がいくつか上がった。
セラの視線が、一度だけ灯を追う。
次の息が半拍浅くなった。
それでも声を切らず、自分で呼吸を取り直して、一節を歌い終える。
「その灯、そこまで動かすの?」
「今の方が、後ろから見える」
「前は、最後に使った」
「同じ灯だよ。歌は止まってない」
セラの指が、歌詞の紙の端を強く押さえた。
「同じじゃない」
短く言い、次の旋律へ入る。
リラは、灯を元の位置へ戻さなかった。
通しが終わると、白札が集められた。
ほかの条件をそろえて試した前回より、七枚多い。
「増えた」
リラの声が弾む。
「七枚なら、効いてるだろ」
ラウルが客席を見たまま言った。
「条件は同じではありません」
セインは、記録板の三つの欄を順に示した。
「灯の位置と使った節が変わっています。白札七枚増加は測定欄です。許可は別欄。セラさんが何を感じたかは、本人の回答があるまで空欄にします」
ノアは遮光眼鏡を額へ上げたまま、灯とセラの指を交互に見た。
停止札には触れなかった。
セラは白札を見なかった。
歌詞の紙を畳み、予定表の上へ置く。
「次」
肯定ではなかった。
けれど、歌を止めなかった。
一度は使っていいと言われた灯だった。
セラは止めなかった。
白札は増えた。
場所を少し変えただけなら、歌を壊さない範囲の調整として任されているのかもしれない。
リラは手帳の白札の欄へ、七と書き足した。
許可の欄は空いたままだった。
空欄は、否定ではない。
そう見ようとすれば、そう見えた。
◇
セインは、観客の視線が動いた時刻をリラの隣で記録していた。
「水面の変更後、後方席の視認率は上昇。前列の身体反応は減少しています」
「前列は近いから、見慣れたのかも」
「可能性の一つです」
「幻影を具体的にしたら、分かりやすかったという回答も増えた」
「質問文は『分かりやすかったか』です。歌詞を理解したかどうかとは一致しません」
「でも、傾向は見えるでしょう」
「傾向はあります」
セインは否定しなかった。
記録板へ、測定項目と推測を分けて書く。
「ただし、評価は私の担当外です」
「セインは、数字と推測を分けてくれるから助かる」
「数字以外も記録しています」
「何を?」
「セラさんの発言回数」
リラが顔を上げる。
「初日は、演出修正について十三回発言しました。本日は三回です」
「調整が減って、任せられるところが増えたのかも」
「その可能性もあります」
「ほかには?」
「発言しても変わらないと判断した可能性」
倉庫の奥で、セラが歌詞の紙を畳んでいた。
リラはその姿を見る。
聞かなければ、と考えた。
「休憩のときに聞く」
「記録します」
そのとき、次の観客役が倉庫へ入ってきた。
椅子の位置がずれている。
札が足りない。
セラは医務係に呼ばれ、喉の確認へ向かった。
リラは観客を座らせ、札を配り、開始時刻を確認した。
休憩のあとで聞くつもりだった。
休憩らしい休憩がないまま、次の通しが始まった。
◇
日を追うごとに、セラの口数は減っていった。
「今日の二番、あと四拍長くしたい。光粒子も上へ集める」
「上じゃない」
「後方席の視線が、一番戻る位置なの」
「その言葉は、立ち上がる音じゃない」
セラは舞台の床へ手をついた。
「床に手をついたまま、顔だけ上げる音」
「でも、低い光粒は後方席から見えない」
「見えないなら、見えないままでいい」
「それだと、この言葉の重さが伝わらない」
「何の重さ?」
セラの手が、床から離れた。
立ち上がらず、膝をついたままリラを見る。
「私が悲しいと思ってる?」
「歌の中では、そう聞こえた」
「今の私は?」
リラは手帳から顔を上げた。
「怒ってる」
「それだけ?」
「……疲れてるかもしれない。でも、そこから先は分からない」
セラは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「歌も同じ」
「でも、歌えば隠せないでしょう」
「隠せないだけ」
セラは立ち上がった。
二人の間には、光粒が六つ浮いている。
以前は歌の呼吸へ合わせて動いていた光粒が、今は演出表へ書かれた位置で止まっていた。
「あなたが、正しく読めるって意味じゃない」
リラの指が、手帳の端へ食い込む。
「分かる形にしないと、観客へ届かない」
「あなたが決めた形なら、私じゃなくても歌える」
倉庫の空気が止まった。
ラウルは手の中の炎を消した。
レティアの水面も、ゆっくり床へ戻る。
セラは歌詞の紙を持ち、出口へ向かった。
「セラ」
呼ぶと、一度だけ足を止めた。
「明日も来る?」
「来る」
「なら、今日の続きは明日――」
「続けるために来るんじゃない」
振り返らなかった。
「私の歌を、置いていかないために来る」
扉が閉じる。
重い音が、倉庫の奥まで響いた。
リラは追わなかった。
明日になれば来ると言った。
実際、翌日も来た。
決められた時刻に倉庫へ入り、準備をし、歌った。
だからリラは、問題はまだ、話し合って修正できる範囲にあると考えた。
来ることと、許したことを、同じだと思った。




