第二幕「歌を返して」 第27話 届かなかった歌
休み明けの朝、旧兵站庫へ戻ると、アルドが一枚の申請書を作業机へ置いた。
「今日中に埋めろ」
「休み明けの第一声として、もう少し優しいものはなかったんですか」
「おはよう。今日中に埋めろ」
「言葉が一つ増えただけだ」
リラが紙を持ち上げる。
上部には、星冠祭演目登録申請書と印刷されていた。術者名、演目時間、使用属性、観客からの距離。すでに埋まっている欄の間に、白い場所が三つ残っている。
「何が足りないの?」
「歌の題名、演目概要、代表歌詞」
アルドが杖の先で、空欄を順に指した。
「今夜までに祭典庁へ提出する」
倉庫にいた全員の視線が、セラへ集まった。
セラは歌詞の紙を胸元へ引き寄せる。
誰かに奪われたわけでもないのに、紙を持つ指へ力が入っていた。
「題名はない」
「仮題でも必要だ」
「名もない歌でいい」
「役所は、名もないものを三千人の前へ出せない」
「役所って不自由」
「灯務局員が言うな」
リラは申請書とセラを交互に見た。
「じゃあ、みんなで考えてみる?」
「嫌な予感がする」
「一人で悩むより早いよ」
「早いことと、よいことは同じではありません」
レティアが排水路の記録を閉じながら言った。
「でも、提出には間に合います」
「どっちの味方?」
「期限の味方です」
題名会議が始まった。
最初に手を上げたのは、やはりラウルだった。
「『終焉を焼き尽くす不死鳥の凱歌』」
「却下」
セラの返事は早かった。
「まだ途中だ!」
「途中でも長いです」
レティアが言う。
「最後まで言えばよくなる」
「今の時点で十四文字です」
セインが申請書の注意事項を確認していた。
「題名欄は二十四文字以内。読み仮名を併記する必要があります」
「数えるな」
「規定です」
ラウルが不満そうに腕を組む。
その隣で、エヴレンが白い花びらを一枚、申請書の上へ浮かべた。
「『在りし日の都に捧ぐ、帰郷を許されぬ者のための幻想曲』」
「規定を超えました」
「余白を広げればよいでしょう」
「申請書の様式変更には、別途申請が必要です」
「美しさに不寛容な制度ですね」
「制度に美しさは要求されていません」
エヴレンとセインの視線が合う。
一方は題名の響きを見ている。
もう一方は欄の幅を見ていた。
「『暗い歌』」
客席後方からノアの声がした。
「正確だけど、人が来なさそうだね」
リラが言う。
「来てほしいの?」
「いつかは、たくさん」
「今度は三千人」
客席後方で、ノアが黒藍色の髪を揺らした。
「最初は一人だったのに」
「フィン一人から、ずいぶん増えたなあ」
リラが笑う。
セラは笑わなかった。
胸元へ引き寄せた紙の端が、少しだけ折れている。
セインが申請書の下部へ目を移した。
「題名だけではありません。演目概要は百字以内。代表歌詞は一行です」
「代表歌詞?」
セラの顔が、さらに険しくなる。
「広報用の掲示、演目一覧、入場案内へ掲載されます」
「載せなくていい」
「空欄では、演目内容を告知できません」
「告知しなくていい」
「三千人の前で歌う人の発言じゃないなあ」
リラが言う。
「あなたが勝手に三千人まで増やした」
「私だけじゃないよ。アルドさんと、祭典庁と、客席を作った人たちも少しずつ」
「責任を分散しないで」
セラは歌詞の紙を畳んだ。
今度は丁寧にではない。
折り目がずれ、紙の角が手の中へ食い込む。
題名を一つ選べば、それ以外の歌ではないと決められる。
一行を代表にすれば、前後を失った言葉だけが、自分の代わりに人前へ立つ。
セラにとって歌は、歌うたびに形を変えるものだった。
紙へ書いたものですら、まだ自分の外へ完全には出ていない。
「少し考える」
それだけ言い、倉庫の隅へ移った。
◇
その日の通し稽古は、何度やっても最後まで届かなかった。
マリエが低い和音を置く。
セラが一番を歌う。
ラウルの火が遠くで灯り、レティアの水面へエヴレンの街が映る。
ノアが客席までの距離を闇で縮め、セインの白い信号が全員の時刻をそろえる。
二番の終わりへ近づくたび、セラの声が細くなった。
そして、止まる。
マリエは次の和音を弾かない。
ラウルの炎は開く場所を失い、握った手の中で消える。
リラの光粒子も、次にどこへ進めばよいか分からないまま、セラの周囲で揺れていた。
「三回目」
セインが記録板へ書き込む。
「停止位置は、すべて二番の最終行直前。誤差は半拍以内です」
「歌えなかった回数を、そんなに正確に数えないで」
リラが言う。
「同じ箇所で停止しているなら、偶発的な失敗ではありません」
「それは分かるけど」
「責めてはいません。原因を切り分けています」
セインは記録板から顔を上げ、セラを見た。
「伴奏、信号、演出のいずれかに問題がありますか」
「ない」
「歌詞が完成していない?」
レティアが、水面を床へ戻しながら尋ねる。
「完成してる」
「では、喉か呼吸に異常が?」
「ない」
「なら、なぜ歌わない」
ラウルが、消えた炎の熱を手から払った。
セラは答えなかった。
歌詞の紙を開く。
最後まで文字はある。
何度も書き直した跡もある。
歌うための言葉は、すでにそろっていた。
「完成したくないから」
矛盾した答えに、倉庫が静かになる。
セラは紙を持ったまま、誰とも目を合わせなかった。
「最後まで歌ったら、これが私の歌だって決まる」
声がわずかに低くなる。
「今は、歌うたびに違うものが見える。昨日と今日でも違う。題名をつけたら、その言葉の中から出られなくなる気がする」
「題名が、歌の意味を一つに決める?」
マリエが尋ねる。
「聞いた人が決める」
「題名がなくても、聞いた人は意味を考えます」
「分かってる」
「なら、何が違うのでしょう」
「私が、先に答えを渡したみたいになる」
セラの指が、紙の最後の行を隠した。
届けたい。
けれど、決められたくない。
自分の歌として受け取ってほしい。
けれど、自分の内側まで所有されたくない。
反対の願いが、同じ紙の上で引き合っていた。
エヴレンが白い花びらを消した。
「名づけることは、閉じ込めることではありません」
珍しく、舞台用ではない声だった。
「呼び戻せる場所を作ることです」
「あなたは何にでも、きれいな意味をつける」
「職業ですから」
「自分の名前にも?」
セラが顔を上げる。
エヴレンの微笑みが、一瞬だけ止まった。
「ええ」
答えるまでに、短い間があった。
「舞台へ戻るための名前です」
それ以上、誰も尋ねなかった。
アルドが壁の時計を見る。
「今日は解散」
「まだ時間があります」
リラが言う。
「歌手が歌を閉じたくない日に、大魔法を重ねて蓋をするな」
「でも、申請は今日中です」
セインが確認する。
「祭典庁には、明朝まで待たせろ」
「延期理由は?」
「演目名の最終確認」
「歌手の心理的事情とは記載しない?」
「書くな」
「了解しました」
セインは記録板を閉じた。
ラウルは不満そうに息を吐いたが、炎を出し直さなかった。
レティアは水面の縁を確認し、濡れた箇所へ布を置く。
エヴレンは申請書へ描きかけた飾り枠を指で消した。
ノアは工具と契約書を袋へ入れ、マリエは譜面の最後を空白のまま閉じる。
「明日の集合時刻は?」
セインが尋ねる。
「通常どおり」
アルドが答えた。
「演目名が未決定でも?」
「通常どおりだ」
「了解しました」
一人ずつ倉庫を出ていく。
ラウルの足音が遠ざかり、重い扉が閉じた。
残ったのは、リラとセラだけだった。




