第二幕「歌を返して」 第26話 消せると信じた夜
昼食は植物園の外で、固いパンと赤い果物を買った。
木陰へ並んで座る。
二人の間に夜灯花の鉢はない。
代わりに、買ったパンを入れた紙袋が置かれていた。
「惜しくない?」
セラが果物の皮を見ながら尋ねる。
「何が?」
「花」
「セラは?」
「少し」
リラはパンを一口かじった。
「私も少し」
「買いたいって言わないの」
「言ったら、セラが自分で決めたことを変えさせようとするでしょう」
「私が欲しいと言ったら?」
「そのとき相談する」
セラはしばらく果物を見ていた。
「星冠祭が終わったら、買う」
「うん」
「自分で」
「うん」
「忘れたら言って」
リラは答える前に、少しだけ考えた。
「苗を買うことは、覚えてていい?」
「それはいい」
「夜灯花の話は?」
「使わないで覚えてて」
「了解」
セラが果物をリラへ渡した。
「半分にして」
「私が?」
「私は今、手が汚れてる」
「見たところ汚れてないけど」
「休日だから」
「便利な言葉になってきたね」
リラは果物を両手で持ち、中央へ指をかけた。
力を入れた瞬間、皮が不規則に裂ける。
赤い汁が、自分の外套へ飛んだ。
「あ」
白い布に、小さな染みが広がる。
「演出家、果物にも負ける」
「切れ目が見えなかった」
「見ないで力を入れたから」
「観客の流れと、果物の内部構造は別分野です」
「座ってて」
セラは荷物から布を出し、水筒の水を少し含ませた。
リラの前へ膝をつき、染みを外側から押さえていく。
いつもより顔が近い。
濃い灰色の髪が一筋、頬へ落ちていた。
「セラ」
「何」
「まつ毛、長いね」
布を押さえていた手が止まる。
「今さら?」
「いつも見てるけど、近いともっと長い」
「見ないで」
「今、服を押さえられてるから逃げられない」
セラは染みを少し強く押さえた。
「痛い」
「汚した罰」
顔を離した耳が、わずかに赤い。
リラは笑いそうになり、口元だけを押さえた。
「何」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「顔までは止められないなあ」
セラは元の場所へ座った。
それでも、残りの果物は自分で割り、汁の少ない方をリラへ渡した。
◇
午後は河岸まで歩いた。
目的はない。
荷船が着くのを眺め、風術師が帆をたたむところを見て、冷たい果汁水を一杯ずつ買った。
対岸から楽器の音が聞こえる。
リラが反射的にそちらを向くと、袖口が反対へ引かれた。
「今日は歌を聞かない」
「歌姫が?」
「他人の歌を聞くと、考えるから」
「私と同じだね」
「違う。私は歌を考える」
「私は?」
「何でも舞台にする」
「今日は灯具も直さなかったでしょう」
「私が止めた」
「止まれた私も評価してほしい」
「半分だけ」
「残り半分は?」
「明日まで倉庫へ行かなかったら」
セラは楽器の音から離れる方角へ歩き、河岸の端へ腰を下ろした。
石段の下では、荷船が通るたび水面が崩れる。
波が岸へ当たり、少し遅れて形を取り戻す。
リラも隣へ座った。
肩が触れない程度の距離だった。
「リラは、最初から演出家になりたかった?」
セラが水面を見たまま尋ねる。
「全然」
リラも川へ視線を落とした。
「光が弱いから、灯務局で細かい仕事を続けるんだと思ってた。壊れた灯具を見つけて、夜になる前に直して、誰にも気づかれないまま帰る」
「嫌だった?」
「好きだよ」
返事はすぐに出た。
「街灯が直っても、たいてい誰も褒めない。壊れていたことにも気づかないまま、みんな安全に帰る。そういう仕事、けっこう好き」
「今日も直したかった」
「かなり」
「怒ってる?」
「少し」
セラが横を見る。
「私に?」
「直せなかったことに」
「私には?」
リラは考えた。
すぐに「怒ってない」と答えるのは簡単だった。
「少しだけ」
「そう」
「でも、止めてもらってよかったとも思ってる」
「どっち」
「両方」
船が一艘、二人の前を横切る。
風術師が帆を畳み、濡れた布が大きな音を立てた。
「休むって、何もしないことじゃなくて、できることをしないでおくことなのかもね」
「今さら」
「教わってなかったから」
「アルドが言ってた」
「もっと優しい言葉で教えてほしかった」
「鍵を取らないと止まらない人に?」
「それを言われると難しいなあ」
しばらく、船の波だけを見た。
「なら、どうして今のことを始めたの」
セラが尋ねる。
「セラの歌を聞いたから」
今度の返事も迷わなかった。
ただ、そのあとをすぐには続けなかった。
「あの日、私の光が初めて、故障を直す以外のことをした」
リラは自分の指を見る。
今は、光を出していない。
「フィンが泣くのをやめた。セラが粒を目で追った。小さい光なのに、なくてもいい飾りじゃなくて、歌の中にあった方がいいものに見えた」
「それで演出家に?」
「最初は、もう一度見たかっただけ」
リラは少し笑う。
「演出家って名乗り始めたのは、だいぶあと。名乗った方が人を誘いやすかったから」
「順番が逆」
「職業って、始めたあとに名前がつくこともあるでしょう」
セラは果汁水の器を両手で持った。
「私がいなかったら?」
「分からない」
「考えないの」
「知らなかった人生は、後悔できないよ」
リラは水面から顔を上げた。
「セラの歌を聞かなかった私が何をしていたかは、今の私には分からない。でも、今の方が好き」
「大変なのに?」
「かなり」
「何度も怒られてる」
「主にセラにね」
「やめたくならない?」
リラは隣を見る。
セラは川へ顔を向けたままだった。
「ならない」
軽口を足さずに答える。
セラの指が、器の縁を一度だけなぞった。
「私は、リラがいなかったら、今も酒場で働いてた」
「歌ってた?」
「人がいないときだけ」
「後悔してたかな」
「知らなかったから、しないと思う」
セラは少し間を置く。
「星冠祭も、粒子ライブも、自分の歌が途中で変わるのを待ってくれる人がいることも、知らないままだから」
水面へ傾いていた顔が、わずかに下がる。
「でも今、路地だけに戻ったら」
最後まで言う前に、船の波が石段へ届いた。
二人の靴先近くで砕ける。
セラは濡れなかった。
リラも動かなかった。
「後悔する」
声は小さかったが、波の音には消えなかった。
言ったあとで、セラは果汁水へ口をつけた。
器の中は、もうほとんど空だった。
リラは嬉しいとは言わなかった。
誰かへ聞かせたいとも、もっと大きな舞台へ行こうとも言わない。
ただ、セラと同じ川を見る。
「そっか」
それだけ答えた。
二人の間にあった肩一つ分の距離は、帰るまで変わらなかった。
それでも、遠いとは思わなかった。
◇
西門へ戻るころには、日が落ちていた。
植物園で見た夜灯花が、頭から離れなかった。
鉢はない。
二人の手も空いている。
それでもリラには、セラの指の間へ収まるほど小さな光が見える気がした。
窓の下。
帰る場所。
焼けた家。
舞台の最後へ置けば、きっと美しい。
リラの指先から、豆明かりが一つ浮かんだ。
縁から二粒ほどがほどける。
何もない道の端へ、花のように置きかける。
セラが足を止めた。
「何を作るの」
リラも止まる。
指先の粒を見る。
自分で光る花。
使わないと約束した記憶。
「作りかけた」
正直に答えた。
「夜灯花?」
「うん」
セラの表情はほとんど変わらない。
ただ、視線が光からリラへ移った。
「使わないって言った」
「言った」
リラは粒を消した。
「ごめん。反射で出した」
「反射なら、また出る」
「出ると思う」
「どうするの」
すぐに答えられなかった。
忘れれば使わずに済む。
けれど、忘れないでと言われた。
「出したら消す」
「それだけ?」
「出す前に、誰の記憶か思い出す」
リラは、光の消えた指先を握った。
「私が思いついた演出じゃない。セラから預かったものだって」
セラはしばらくリラを見ていた。
人通りの向こうで、荷車の鈴が鳴る。
「今日は、消した」
「うん」
「次も?」
「消す」
「私がいなくても?」
約束は、相手が見ているときに守るものではない。
「消す」
セラは前を向いた。
「なら、覚えてて」
二人は再び歩き始める。
観客はいない。
意味も作らない。
道の端には、何の光も残らなかった。
◇
セラの部屋は、酒場の二階にあった。
狭い寝台。
小さな机。
何度も折り畳まれた歌詞の紙。
衣服は少ないが、紙だけは濡れない場所へ整えて置かれている。
窓辺には何もなかった。
セラはそこを一度見たあと、荷物から小さな布袋を取り出した。
中には銀貨が一枚入っている。
「何?」
「苗の分」
「星冠祭のあとに買うんでしょう」
「今日から貯める」
セラは銀貨を机の端へ置いた。
風で落ちないよう、歌詞の紙を押さえる小さな重石を隣へ動かす。
「あと二枚」
「貸そうか?」
「借りない」
「贈るのも?」
「まだ駄目」
「分かりました」
リラは窓辺から一歩下がった。
そこへ光を置く想像はしない。
少なくとも、今は。
「じゃあ、帰るね」
戸口へ向かう。
昼から一緒にいたのに、部屋を出る段階になって初めて、休日が終わることを実感した。
「リラ」
背後から呼び止められる。
振り返ると、セラは窓辺に立っていた。
夜灯花はない。
外から差し込む街灯の光が、顔の輪郭を薄く照らしている。
「今日は、ありがとう」
歌ではない。
高くも、強くもない。
誰かに聞かせるために整えられた声でもなかった。
「どういたしまして」
リラも、いつもの半分ほどの声で答えた。
扉を閉める。
廊下を数歩進み、角を曲がったところで足が止まる。
壁へ背をつけた。
そのまま、ゆっくりしゃがみ込む。
胸の奥が、試演前よりもうるさい。
「普通の声の方が、困るなあ」
誰にも聞こえないように呟く。
見せない。
使わない。
忘れない。
その三つを同じ場所に置いておくことは、光を消すより難しかった。
それでも、この夜のリラは、次も消せると信じていた。




