第一幕「歌が見えた」 第20話 五十人の観客
星冠祭まで、残り十八日。
旧兵站庫には、五十脚の椅子が並んでいた。
祭典庁の職員、南区の住民、王立劇場の関係者、音楽院の教師。フィンのような子どもから、杖をついた老人までいる。客席の幅は酒場裏の路地より広く、最後列は舞台から二十歩以上離れていた。
舞台下には、王立楽団から借りた弦奏者が二人と、小型鍵盤を担当する奏者が一人座っている。星冠祭の実験枠へ三日間だけ割り当てられた奏者であり、リラたちの専属ではない。
譜面台へ置かれているのは、マリエが整理した薄い楽譜だった。
音符が並んでいるのは、始まりの四小節、必ず戻ってくる四行、最後の低音だけ。その間には、セラが歌詞と旋律を変えられる広い空白が残されている。
マリエは今回、一度だけ譜面を整理するという条件で協力していた。
仲間になったわけではない。
本人は客席の最後列に立ち、胸の前で同じ譜面を開いていた。
「五十人」
舞台袖から客席をのぞいたセラが呟いた。
「一人を五十回」
「その数え方、まだ使うの」
「今日は私も緊張してるから。使えるものは再利用します」
「見えない」
「見せ方が上手いんです」
リラは笑い、演出表を持ち直した。
紙の端が、かすかに鳴った。
セラの視線が、リラの顔から手元へ下がる。
「手」
「何?」
「震えてる」
指摘された途端、震えが少し大きくなった気がした。リラは演出表を胸へ寄せ、舞台袖の壁へ肩を預ける。
「倉庫が冷えるのかも」
「夏」
「石造りだから」
「ノア、闇を薄くして」
「寒さと関係ない」
客席後方で、ノアが眠そうな目をリラへ向けた。
ノアは大きな遮光眼鏡を額へ押し上げ、リラの手を一度見てから、左右の避難口へ視線を戻した。
「怖いなら、怖いって言えばいいのに」
「十二歳に諭される日が、思ったより早く来たなあ」
「給金は大人と同じ」
「半分は工房へ払ってるでしょう」
「私の取り分の残り、忘れてない?」
「忘れてません。成功報酬まで契約書の三枚目に記載済みです」
ノアは納得した様子もなく、遮光眼鏡を下ろした。黒藍色のボブが、壁際の暗がりへ溶け込む。
セラがリラの手から演出表を取った。
「ちょっと待って。それがないと、私は舞台袖で立ってるだけの人になる」
「今のままだと読めないでしょう」
セラは紙を縦に一度折り、細かな書き込みが内側へ隠れないよう、折り目を指で押さえた。持ち直すと、紙の揺れが小さくなる。
「震えても読める大きさにした」
「優しい」
「途中で指示が止まると困る」
「合理的な優しさだ」
「優しくない」
演出表を返す指が離れるまで、セラは一瞬だけリラの手元を見ていた。
袖の向こうから、椅子を引く音がした。
もう時間だった。
◇
ノアの闇が、天井からゆっくり降りた。
倉庫全体を一度に黒く塗るのではない。割れた窓から差す昼の光を一枚ずつ閉じ、壁際を暗くし、最後に客席の頭上を覆う。
足元と避難口だけは見える。
それでも、五十人が同時に暗闇へ入るのは初めてだった。
「お母さん」
前列で子どもの声がした。
年配の男が、隣へ向かって「灯具が落ちたのか」と尋ねる。椅子が数脚、床を擦った。
想定より、ざわめきが大きい。
リラは最初の光を灯そうとした。
客席後方から、二度、固い音が鳴った。
ノアが停止札の縁を指で叩いたのだ。
まだ。
リラは浮かせかけた指を止めた。
暗闇の中で、避難口の細い線だけが残っている。母親が子どもの肩を抱き、男も足元が見えることに気づいたらしい。ざわめきが、少しずつ小さくなる。
ノアがもう一度、停止札を鳴らした。
今度は一回。
リラは豆明かりを灯した。
暗闇の中央に、小さな光が一つ浮かぶ。
五十人の視線が、音もなく集まった。
セラが息を吸う。
マリエの楽譜を見ていた弦奏者が、その呼吸の後ろへ細い音を置いた。歌を引っ張る音ではない。どちらへ進んでも、最初の場所だけは見失わないための低い道標だった。
セラの声が落ちる。
窓辺の灯。
閉ざされた扉。
名前を呼ばなくなった人。
リラの光粒子は、言葉の形をなぞらなかった。
セラの斜め前へ三粒。足元へ二粒。残りは客席との間へ置き、声が届く距離だけを淡く示す。
闇の中で、エヴレンが片手を上げた。
幻影の街が現れる。
石造りの家も、正しい道幅もない。屋根は途中で途切れ、窓の位置は少しずつ歪み、遠くへ行くほど建物の輪郭が曖昧になる。
どこにも存在しない街だった。
それでも、帰れなくなった場所に見えた。
レティアは、舞台の床へ薄い水を走らせる。
水面は客席まで広げない。セラの足元と、リラの光粒子が通った道だけを細く映す。弱い光が通り過ぎるたび、微かな波紋が一つ残り、遅れて消えた。
前列のフィンが、水面へ手を伸ばしかける。
母親が服の背をつかんだ。
フィンは座り直したが、目だけは光の粒子を追っている。
リラは客席を見た。
右端の教師は腕を組んだまま、セラではなく幻影の建物を見ている。前列の子どもは、水面の波紋を指差している。後方の職員二人は、歌詞を聞き取ろうと顔を寄せ合っていた。
演出表の端へ、印を三つ書く。
右端、幻影。
前列、水。
後方、音。
直せる。
そう書こうとして、リラは紙から目を上げた。
セラが予定より長く、言葉を置かずにいた。
弦奏者は次の小節へ進まない。
一人が弓を弦へ触れたまま止め、もう一人が低い音を細く残す。鍵盤奏者の指は、鍵盤の上で宙に浮いていた。
セラが戻るのか。
別の旋律へ進むのか。
奏者には、まだ分からない。
ラウルが舞台裏で指を立てた。
出していいか、と聞いている。
リラは手のひらを向けた。
待って。
ラウルの眉間に皺が寄る。
それでも、炎は出なかった。
客席で椅子が軋んだ。
誰かが咳をする。
先ほどまで揃いかけていた呼吸が、少しずつ別々になっていく。
リラの指先に、光が一つ生まれた。
空白を埋めればいい。
動くものがあれば、観客は待てる。
粒子をセラの肩へ近づけた瞬間、セラの目が動いた。
ほんの一度だけ、リラを見る。
眉も、口元も変わらない。
ただ、歌詞の紙を持つ指が開いていた。
まだ、何も決めていない。
リラは光を消した。
暗闇へ戻った指先が、少し冷たくなる。
一秒。
二秒。
三秒。
五十人の前では、三秒が路地より長い。
倉庫の空気が、期待から不安へ傾きかける。
セラが息を吸った。
最初の予定より低い声が出た。
練習では一度も聞かなかった音だった。
少しかすれ、細い。
それでも、五十人の顔が一斉に舞台へ戻る。
弦奏者の一人が迷った。
最後列で譜面を見ていたマリエが、胸の高さで指を一本下ろす。
低い音を残して。
奏者がその合図を見た。
一本の弦だけが、セラの声の下へ残る。
旋律を決めず、戻る場所だけを消さない音だった。
セラの声が、そこへ触れる。
離れ、また戻る。
リラは何もしなかった。
何もしないまま、セラの肩と、客席と、マリエの指を見た。
ラウルの炎は、まだ待っている。
レティアの水面から、最後の波紋が消える。
エヴレンも新しい幻影を足さず、歪んだ街の輪郭を薄く保っていた。
誰も空白を奪わなかった。
歌が、空白の中で自分の道を選んだ。
最後の四行へ入る直前、セラの呼吸が変わる。
今度はマリエが合図を出さない。
弦奏者が自分で気づき、最初の和音へ戻った。
リラはラウルを見る。
ラウルはすでに、セラを見ていた。
歌の最後の言葉が落ちる。
その余韻が消える寸前、ラウルの指が開いた。
炎は大きく爆ぜなかった。
舞台の奥、幻影の街が地平へ溶ける位置から、細い朝焼けのように昇る。客席へ熱が流れないよう、炎の上端だけを内側へ巻き、光だけを広げていく。
レティアが水面をわずかに傾けた。
炎そのものではなく、朝焼けの色だけが水へ映る。
エヴレンの街にあった窓が、一つずつ明るくなる。
すべて同じ窓ではない。
開いた窓。
閉じた窓。
半分だけ板で塞がれた窓。
どれも完全には形を持たず、見る人の記憶が入り込める隙間を残している。
ノアが闇を上から少しずつ開いた。
天井へ向かって夜がほどける。
最後まで残った暗闇は、セラの背後ではなく、舞台袖へ帰るための道を作っていた。
五十人が、同時に息をのんだ。
歌が終わる。
炎が消える。
水面から朝の色が抜ける。
幻影の街も、窓の明かりから順に消えていった。
すぐには拍手が起きなかった。
倉庫には、誰かが息を吐く音だけが残った。
リラの心臓が、一度大きく沈む。
長い。
止まり方を間違えたのかもしれない。
演出表を握る手に、また震えが戻る。
前列で、小さな音が鳴った。
フィンが両手を叩いている。
ぱち。
ぱち。
隣の母親が続く。
後ろの椅子から、もう一つ。
少し遅れて、倉庫全体へ拍手が広がった。
ラウルが舞台裏で拳を握る。
声を上げようとして、レティアに腕を押さえられた。
「まだ余韻です」
「拍手が来たぞ」
「聞こえています」
「なら、少しくらい喜んでもいいだろ」
「静かに喜んでください」
レティア自身の口元も、普段よりわずかに緩んでいた。
エヴレンは胸へ手を当て、当然の結果を受け取る俳優のように一礼した。けれど、客席から見えない角度で、長手袋の指先が一度だけ強く握られている。
客席後方では、ノアが大きく息を吐いた。
「終わった?」
「終わったよ」
リラが小声で答えると、ノアが黒藍色の髪を揺らしてうなずいた。
「誰も転ばなかった?」
「一人も」
「じゃあ、半分成功」
「残り半分は?」
「給金を受け取ってから」
ノアは再び左右の避難口へ視線を戻した。
舞台の中央で、セラは客席を見ていた。
拍手を受けても、表情はほとんど変わらない。
視線だけが、客席、舞台袖、消えた水面の順に動く。
何かを探している。
リラは指先へ豆明かりを一つ灯した。
セラの目が止まる。
拍手の中で、ほんの少しだけ口元が上がった。
リラも笑い返した。
今度は、何秒続いたか数えなかった。
◇
拍手が収まり、客席の人間が立ち始めたころ、マリエが最後列から歩いてきた。
胸には、書き込みの増えた楽譜を抱えている。
「途中の沈黙、よかったです」
セラが意外そうに見る。
「音楽院の人は、止まる歌が嫌いなんじゃないの」
「学院がどう教えるかと、私が何を好きかは別です」
「でも、奏者は困ってた」
「はい」
マリエは迷いなく認めた。
舞台下では、借り物の奏者たちが互いの譜面を見せ合っている。空白になっていた箇所へ、鉛筆で何かを書き足していた。
「あなたが戻るのか、別の場所へ行くのか分からなかった。最初の一人は、次の音を出しかけました」
「歌は私のもの」
「そうです。行き先を決めるのは、あなたです」
マリエはセラとの距離を一歩だけ縮めた。
それ以上は近づかない。
「でも、自由に歌うことと、誰にも行き先を伝えないことは同じではありません」
セラの指が、歌詞の紙を強くつかむ。
「全部、先に決めろってこと?」
「違います。決めたら、あなたの歌ではなくなる」
「なら、何を伝えるの」
「迷っていることを」
倉庫の奥で、椅子を重ねる音がした。
マリエはその音が収まるのを待ってから、舞台下の小型鍵盤へ向かう。奏者へ短く断り、空いた椅子へ座った。
一番低い鍵盤を、一つだけ鳴らす。
長く、暗い音だった。
「これは帰る場所です」
「帰りたくない日もある」
「なら、戻らなくていい」
マリエの指は鍵盤から離れない。
「ただ、帰れる場所がまだ残っていると、私たちに教えてください。捨てるのか、戻るのかは、そのあとであなたが選べばいい」
セラは鍵盤を見た。
低い音が消えかけている。
「もう一回」
短く言った。
マリエが同じ鍵盤を押す。
セラは先ほどの最後の一節ではなく、途中の言葉を一行だけ歌った。
試演とは違う旋律だった。
声は低音から離れ、予想より高い場所へ進む。マリエは追いかけない。鍵盤に低い一音だけを残し、セラがどこまで遠ざかるのか待った。
セラの声が、一度途切れる。
次の呼吸で、低音の近くへ戻った。
ぴたりとは重ならない。
それでも、互いを見失ってはいなかった。
「今のは?」
セラが尋ねる。
「戻ったのではありません」
マリエは鍵盤から指を離した。
「戻れる場所があると分かったうえで、近くを通っただけです」
セラは少し考えた。
歌詞の紙を握っていた指から、力が抜ける。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「褒めてない。まだ」
「では、次までに褒められるよう直します」
マリエは立ち上がり、楽譜を胸へ抱えた。
リラが口を開くより先に、マリエがこちらを見る。
「次の試演まで、私が入ります」
「本当に?」
「聞き返さないでください。変わるかもしれません」
セラの言葉をそのまま使われ、リラは一度口を閉じた。
マリエの表情は静かだった。
けれど、楽譜の端を押さえる指だけが白い。
「客席で、歌が止まるのを見ているのは、もう嫌です。奏者が置いていかれるのも、置いていかれたまま何もできないのも」
「学院の合唱枠は?」
「出ます」
「両方できるの」
「できるように組みます」
マリエはセラへ向き直った。
「ただし、私の音が邪魔なら言ってください。あなたが何も言わなければ、正しいと思って残してしまいます」
「途中でも止める」
「止めてください」
「怒らないの」
「腹は立ちます」
マリエの声は変わらない。
「でも、間違った音を残されるよりはましです」
セラは数秒、マリエを見ていた。
「分かった」
その一言を聞き、リラはようやく息を吐いた。
誘っていない。
説得もしていない。
マリエは自分で客席から降り、舞台へ来た。
「これで、音の担当が増えたね」
リラが言う。
「まだ正式な契約が先です」
客席後方からノアの声が飛んだ。
「報酬、時間、休憩、途中解除の条件」
「分かってます」
「今、絶対に忘れてた」
「感動してたところだったので、少しだけ順番が後ろへ」
「契約を感動の後ろに置かないで」
ノアが契約書用の板を床へ置く。
マリエは目を瞬いたあと、その板を受け取った。
「合理的ですね」
「十二歳にしては、でしょう」
「年齢に関係なく」
ノアの手が一瞬止まる。
「……そこに署名して」
声は相変わらず眠そうだったが、板から手を離す動きだけが少し速かった。
◇
試演後の夜、倉庫の作業机には五十枚の回答用紙が広げられた。
リラは紙を項目ごとに分けていく。
「初めて見るものだった、四十三人。もう一度見たい、三十五人。中盤で長く感じた、十一人。歌詞が聞き取れなかった、九人」
一枚を右へ。
二枚を左へ。
同じ回答が増えるほど、机の上の山が高くなる。
数字は動かない。
セラの歌のように、昨日と今日で意味を変えない。そのことが、リラには少し心地よかった。
「一番印象に残ったもの」
リラが次の欄を読み上げる。
「炎、二十四人」
「当然だ」
ラウルが胸を張る。
椅子へ座っているのに、立っている人間より大きく見えた。
「歌、十七人。幻影、五人。水、二人。闇、一人。光、一人」
ノアが回答用紙の山から顔を上げる。
「闇、一人」
「一人いたよ。『暗くなったとき怖かったけど、足元が見えて安心した』」
「それは闇が印象に残ったんじゃなくて、避難線」
「ノアの仕事でしょう」
「そうだけど」
ノアは紙を受け取り、文章をもう一度読んだ。
その一枚だけは、ほかの山へ重ねず、自分の前へ置いた。
「水は二人ですか」
レティアの声は平静だった。
ただ、右手に白い手袋をつけ、左手には似ているが別の留め具がある手袋をつけている。急いで来たため、また片方を見つけられなかったらしい。
「『足元の道がきれいだった』と、『消える波紋が惜しかった』」
リラが読み上げる。
レティアは二枚目の紙へ手を伸ばした。
「貸してください」
「集計中です」
「読み終えたでしょう」
「持って帰る気?」
「記録のためです」
「返してくださいね」
「返却期限を記載してください」
レティアは紙を丁寧に折らず、そのまま書類入れへ収めた。
ラウルが横からのぞき込む。
「二人分でも残すんだな」
「二人分“でも”?」
「言い方の話だ」
「今、言い方が問題だと認めましたね」
「認めてない」
二人の間へ、熱ではなくいつもの張り合う空気が戻る。
エヴレンは回答用紙を一枚ずつ読み、気に入ったものだけを抜き出していた。
「『街を見たはずなのに、自分の部屋を思い出した』」
その一文を、声に出す。
「これはいただいても?」
「持ち帰るのは禁止です」
リラが即座に答えた。
「記憶します」
「書き写すならいいです」
「私の記憶力を信用していませんね」
「大事なものは、信用してても記録する主義なので」
エヴレンは微笑み、白い花びらを一枚だけ紙の上へ出した。
花びらが文字へ触れる前に消える。
「なら、これは私の記憶にだけ残しましょう」
セラは少し離れた木箱へ座っていた。
回答用紙には近づかない。
それでも、リラが「歌、十七人」と言ってから、歌詞の紙の同じ角を何度も撫でている。
ラウルがセラを見る。
「炎に負けたな」
「勝ち負けじゃない」
「でも、悔しいか?」
「別に」
声はいつもと同じだった。
紙の角だけが、少し折れている。
リラは指摘しかけた。
セラが先にこちらを見る。
「言わないで」
「まだ何も」
「顔が数えてる」
リラは口を閉じ、手元の回答用紙へ視線を戻した。
先ほどまでなら、「今の別には大きい」と言っていたかもしれない。
代わりに、折れた紙の角を直すための小さな重石を、セラの隣へ滑らせる。
セラは何も言わなかった。
しばらくしてから、自分で重石を紙へ置いた。
アルドが倉庫へ来たのは、集計が半分を超えたころだった。
机の上に積まれた紙と、壁へ書き写された数字を見る。
「成功だと思うか」
「はい」
リラはすぐに答えた。
「三十五人が、もう一度見たいと答えています。それに四十三人が、初めて見るものだったと」
「成功したところは分かった」
アルドは、壁の数字からリラへ目を移した。
「では、失敗したところは」
「あります」
今度は、答えるまでに少し間が空いた。
リラは別の集計表へ目を落とす。
「歌より炎を覚えている人が多い。途中で長く感じた人も十一人いるし、歌詞が聞き取れなかった人も九人います」
ラウルが腕を組む。
「俺の炎が悪かったのか」
「違う。炎が強いのは武器だよ」
「なら、何が悪い」
リラは数字の列を指でなぞった。
「歌と炎が別々に記憶されたこと。たぶん、もっとセラの言葉と炎が同じ瞬間に――」
「たぶん?」
アルドに遮られ、指が止まる。
正解を問われていると思った。
けれど、分からない。
今回、ラウルは待った。
炎も歌が終わってから出した。
それでも二十四人は炎を最初に書いた。
「分かりません」
リラは認めた。
「今の形が間違っているのか、炎が強かったから自然に残っただけなのか。十七人が歌を選んだことを少ないと考えるべきなのかも」
アルドは回答用紙の山へ手を伸ばした。
分類されていない一枚を取る。
「これはどこへ入れる」
紙には、細い字で長い文章が書かれていた。
リラが読む。
――途中の沈黙で、亡くなった母と台所に立っていた夜を思い出した。何が見えたのか説明できないので、もう一度見たいかと聞かれても分からない。
「『もう一度見たい』には入れてません」
「では、成功か」
「分かりません」
「失敗か」
「それも、分かりません」
アルドは紙を机へ戻した。
「数字は便利だ」
「はい」
「同じ答えをまとめられる。昨日と今日で、意味も変わらん」
リラの指が止まる。
自分が先ほど感じたことを、見られていたようだった。
「だが、まとめた瞬間に消えるものもある」
アルドは、母親のことを書いた一枚を指先で押さえた。
「この一人を、どの山へ入れる」
リラは答えられなかった。
もう一度見たいと答えた三十五人。
炎を選んだ二十四人。
歌を選んだ十七人。
数字へすれば、比べられる。
比べれば、次に何を増やし、何を減らすべきか決められる気がする。
けれど、目の前の一枚だけは、どの数字にも入らない。
「もっと調べます」
ようやく出た答えは、それだった。
「質問を増やして、選択肢だけじゃなくて、何を思い出したのかも書いてもらう。途中で目を逸らした場所や、呼吸が変わったところも記録して――」
言葉を重ねるほど、また数字へ近づいている気がした。
アルドの目が、わずかに細くなる。
「調べることは悪くない」
「では」
「ただし、調べれば相手の中身まで分かると思うな」
倉庫の奥では、セラが一枚の回答用紙を読んでいた。
先ほどアルドが置いた、母親のことが書かれた紙だった。
読み終えても、感想は言わない。
紙を元の場所へ戻し、その上へ折れた歌詞の紙を重ねる。
リラは、その動きを見た。
「数字は使います」
アルドへ向き直る。
「使わないと、五十人の反応を私一人では覚えられないから」
「そうだな」
「でも、数字だけを人の代わりにはしません」
言い切ったあと、自分が本当に守れるのか分からなくなった。
アルドも、褒めなかった。
「忘れるな」
それだけ言い、背を向ける。
倉庫を出ていく足音が、椅子のなくなった客席へ響いた。
リラは集計表へ目を戻した。
三十五。
二十四。
十七。
数字は、紙の上で静かに並んでいる。
その隣には、どの山にも入れられない一枚が残っていた。




