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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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20/21

第一幕「歌が見えた」 第20話 五十人の観客

 星冠祭まで、残り十八日。


 旧兵站庫には、五十脚の椅子が並んでいた。


 祭典庁の職員、南区の住民、王立劇場の関係者、音楽院の教師。フィンのような子どもから、杖をついた老人までいる。客席の幅は酒場裏の路地より広く、最後列は舞台から二十歩以上離れていた。


 舞台下には、王立楽団から借りた弦奏者が二人と、小型鍵盤を担当する奏者が一人座っている。星冠祭の実験枠へ三日間だけ割り当てられた奏者であり、リラたちの専属ではない。


 譜面台へ置かれているのは、マリエが整理した薄い楽譜だった。


 音符が並んでいるのは、始まりの四小節、必ず戻ってくる四行、最後の低音だけ。その間には、セラが歌詞と旋律を変えられる広い空白が残されている。


 マリエは今回、一度だけ譜面を整理するという条件で協力していた。


 仲間になったわけではない。


 本人は客席の最後列に立ち、胸の前で同じ譜面を開いていた。


「五十人」


 舞台袖から客席をのぞいたセラが呟いた。


「一人を五十回」


「その数え方、まだ使うの」


「今日は私も緊張してるから。使えるものは再利用します」


「見えない」


「見せ方が上手いんです」


 リラは笑い、演出表を持ち直した。


 紙の端が、かすかに鳴った。


 セラの視線が、リラの顔から手元へ下がる。


「手」


「何?」


「震えてる」


 指摘された途端、震えが少し大きくなった気がした。リラは演出表を胸へ寄せ、舞台袖の壁へ肩を預ける。


「倉庫が冷えるのかも」


「夏」


「石造りだから」


「ノア、闇を薄くして」


「寒さと関係ない」


 客席後方で、ノアが眠そうな目をリラへ向けた。


 ノアは大きな遮光眼鏡を額へ押し上げ、リラの手を一度見てから、左右の避難口へ視線を戻した。


「怖いなら、怖いって言えばいいのに」


「十二歳に諭される日が、思ったより早く来たなあ」


「給金は大人と同じ」


「半分は工房へ払ってるでしょう」


「私の取り分の残り、忘れてない?」


「忘れてません。成功報酬まで契約書の三枚目に記載済みです」


 ノアは納得した様子もなく、遮光眼鏡を下ろした。黒藍色のボブが、壁際の暗がりへ溶け込む。


 セラがリラの手から演出表を取った。


「ちょっと待って。それがないと、私は舞台袖で立ってるだけの人になる」


「今のままだと読めないでしょう」


 セラは紙を縦に一度折り、細かな書き込みが内側へ隠れないよう、折り目を指で押さえた。持ち直すと、紙の揺れが小さくなる。


「震えても読める大きさにした」


「優しい」


「途中で指示が止まると困る」


「合理的な優しさだ」


「優しくない」


 演出表を返す指が離れるまで、セラは一瞬だけリラの手元を見ていた。


 袖の向こうから、椅子を引く音がした。


 もう時間だった。


     ◇


 ノアの闇が、天井からゆっくり降りた。


 倉庫全体を一度に黒く塗るのではない。割れた窓から差す昼の光を一枚ずつ閉じ、壁際を暗くし、最後に客席の頭上を覆う。


 足元と避難口だけは見える。


 それでも、五十人が同時に暗闇へ入るのは初めてだった。


「お母さん」


 前列で子どもの声がした。


 年配の男が、隣へ向かって「灯具が落ちたのか」と尋ねる。椅子が数脚、床を擦った。


 想定より、ざわめきが大きい。


 リラは最初の光を灯そうとした。


 客席後方から、二度、固い音が鳴った。


 ノアが停止札の縁を指で叩いたのだ。


 まだ。


 リラは浮かせかけた指を止めた。


 暗闇の中で、避難口の細い線だけが残っている。母親が子どもの肩を抱き、男も足元が見えることに気づいたらしい。ざわめきが、少しずつ小さくなる。


 ノアがもう一度、停止札を鳴らした。


 今度は一回。


 リラは豆明かりを灯した。


 暗闇の中央に、小さな光が一つ浮かぶ。


 五十人の視線が、音もなく集まった。


 セラが息を吸う。


 マリエの楽譜を見ていた弦奏者が、その呼吸の後ろへ細い音を置いた。歌を引っ張る音ではない。どちらへ進んでも、最初の場所だけは見失わないための低い道標だった。


 セラの声が落ちる。


 窓辺の灯。


 閉ざされた扉。


 名前を呼ばなくなった人。


 リラの光粒子は、言葉の形をなぞらなかった。


 セラの斜め前へ三粒。足元へ二粒。残りは客席との間へ置き、声が届く距離だけを淡く示す。


 闇の中で、エヴレンが片手を上げた。


 幻影の街が現れる。


 石造りの家も、正しい道幅もない。屋根は途中で途切れ、窓の位置は少しずつ歪み、遠くへ行くほど建物の輪郭が曖昧になる。


 どこにも存在しない街だった。


 それでも、帰れなくなった場所に見えた。


 レティアは、舞台の床へ薄い水を走らせる。


 水面は客席まで広げない。セラの足元と、リラの光粒子が通った道だけを細く映す。弱い光が通り過ぎるたび、微かな波紋が一つ残り、遅れて消えた。


 前列のフィンが、水面へ手を伸ばしかける。


 母親が服の背をつかんだ。


 フィンは座り直したが、目だけは光の粒子を追っている。


 リラは客席を見た。


 右端の教師は腕を組んだまま、セラではなく幻影の建物を見ている。前列の子どもは、水面の波紋を指差している。後方の職員二人は、歌詞を聞き取ろうと顔を寄せ合っていた。


 演出表の端へ、印を三つ書く。


 右端、幻影。


 前列、水。


 後方、音。


 直せる。


 そう書こうとして、リラは紙から目を上げた。


 セラが予定より長く、言葉を置かずにいた。


 弦奏者は次の小節へ進まない。


 一人が弓を弦へ触れたまま止め、もう一人が低い音を細く残す。鍵盤奏者の指は、鍵盤の上で宙に浮いていた。


 セラが戻るのか。


 別の旋律へ進むのか。


 奏者には、まだ分からない。


 ラウルが舞台裏で指を立てた。


 出していいか、と聞いている。


 リラは手のひらを向けた。


 待って。


 ラウルの眉間に皺が寄る。


 それでも、炎は出なかった。


 客席で椅子が軋んだ。


 誰かが咳をする。


 先ほどまで揃いかけていた呼吸が、少しずつ別々になっていく。


 リラの指先に、光が一つ生まれた。


 空白を埋めればいい。


 動くものがあれば、観客は待てる。


 粒子をセラの肩へ近づけた瞬間、セラの目が動いた。


 ほんの一度だけ、リラを見る。


 眉も、口元も変わらない。


 ただ、歌詞の紙を持つ指が開いていた。


 まだ、何も決めていない。


 リラは光を消した。


 暗闇へ戻った指先が、少し冷たくなる。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 五十人の前では、三秒が路地より長い。


 倉庫の空気が、期待から不安へ傾きかける。


 セラが息を吸った。


 最初の予定より低い声が出た。


 練習では一度も聞かなかった音だった。


 少しかすれ、細い。


 それでも、五十人の顔が一斉に舞台へ戻る。


 弦奏者の一人が迷った。


 最後列で譜面を見ていたマリエが、胸の高さで指を一本下ろす。


 低い音を残して。


 奏者がその合図を見た。


 一本の弦だけが、セラの声の下へ残る。


 旋律を決めず、戻る場所だけを消さない音だった。


 セラの声が、そこへ触れる。


 離れ、また戻る。


 リラは何もしなかった。


 何もしないまま、セラの肩と、客席と、マリエの指を見た。


 ラウルの炎は、まだ待っている。


 レティアの水面から、最後の波紋が消える。


 エヴレンも新しい幻影を足さず、歪んだ街の輪郭を薄く保っていた。


 誰も空白を奪わなかった。


 歌が、空白の中で自分の道を選んだ。


 最後の四行へ入る直前、セラの呼吸が変わる。


 今度はマリエが合図を出さない。


 弦奏者が自分で気づき、最初の和音へ戻った。


 リラはラウルを見る。


 ラウルはすでに、セラを見ていた。


 歌の最後の言葉が落ちる。


 その余韻が消える寸前、ラウルの指が開いた。


 炎は大きく爆ぜなかった。


 舞台の奥、幻影の街が地平へ溶ける位置から、細い朝焼けのように昇る。客席へ熱が流れないよう、炎の上端だけを内側へ巻き、光だけを広げていく。


 レティアが水面をわずかに傾けた。


 炎そのものではなく、朝焼けの色だけが水へ映る。


 エヴレンの街にあった窓が、一つずつ明るくなる。


 すべて同じ窓ではない。


 開いた窓。


 閉じた窓。


 半分だけ板で塞がれた窓。


 どれも完全には形を持たず、見る人の記憶が入り込める隙間を残している。


 ノアが闇を上から少しずつ開いた。


 天井へ向かって夜がほどける。


 最後まで残った暗闇は、セラの背後ではなく、舞台袖へ帰るための道を作っていた。


 五十人が、同時に息をのんだ。


 歌が終わる。


 炎が消える。


 水面から朝の色が抜ける。


 幻影の街も、窓の明かりから順に消えていった。


 すぐには拍手が起きなかった。


 倉庫には、誰かが息を吐く音だけが残った。


 リラの心臓が、一度大きく沈む。


 長い。


 止まり方を間違えたのかもしれない。


 演出表を握る手に、また震えが戻る。


 前列で、小さな音が鳴った。


 フィンが両手を叩いている。


 ぱち。


 ぱち。


 隣の母親が続く。


 後ろの椅子から、もう一つ。


 少し遅れて、倉庫全体へ拍手が広がった。


 ラウルが舞台裏で拳を握る。


 声を上げようとして、レティアに腕を押さえられた。


「まだ余韻です」


「拍手が来たぞ」


「聞こえています」


「なら、少しくらい喜んでもいいだろ」


「静かに喜んでください」


 レティア自身の口元も、普段よりわずかに緩んでいた。


 エヴレンは胸へ手を当て、当然の結果を受け取る俳優のように一礼した。けれど、客席から見えない角度で、長手袋の指先が一度だけ強く握られている。


 客席後方では、ノアが大きく息を吐いた。


「終わった?」


「終わったよ」


 リラが小声で答えると、ノアが黒藍色の髪を揺らしてうなずいた。


「誰も転ばなかった?」


「一人も」


「じゃあ、半分成功」


「残り半分は?」


「給金を受け取ってから」


 ノアは再び左右の避難口へ視線を戻した。


 舞台の中央で、セラは客席を見ていた。


 拍手を受けても、表情はほとんど変わらない。


 視線だけが、客席、舞台袖、消えた水面の順に動く。


 何かを探している。


 リラは指先へ豆明かりを一つ灯した。


 セラの目が止まる。


 拍手の中で、ほんの少しだけ口元が上がった。


 リラも笑い返した。


 今度は、何秒続いたか数えなかった。


     ◇


 拍手が収まり、客席の人間が立ち始めたころ、マリエが最後列から歩いてきた。


 胸には、書き込みの増えた楽譜を抱えている。


「途中の沈黙、よかったです」


 セラが意外そうに見る。


「音楽院の人は、止まる歌が嫌いなんじゃないの」


「学院がどう教えるかと、私が何を好きかは別です」


「でも、奏者は困ってた」


「はい」


 マリエは迷いなく認めた。


 舞台下では、借り物の奏者たちが互いの譜面を見せ合っている。空白になっていた箇所へ、鉛筆で何かを書き足していた。


「あなたが戻るのか、別の場所へ行くのか分からなかった。最初の一人は、次の音を出しかけました」


「歌は私のもの」


「そうです。行き先を決めるのは、あなたです」


 マリエはセラとの距離を一歩だけ縮めた。


 それ以上は近づかない。


「でも、自由に歌うことと、誰にも行き先を伝えないことは同じではありません」


 セラの指が、歌詞の紙を強くつかむ。


「全部、先に決めろってこと?」


「違います。決めたら、あなたの歌ではなくなる」


「なら、何を伝えるの」


「迷っていることを」


 倉庫の奥で、椅子を重ねる音がした。


 マリエはその音が収まるのを待ってから、舞台下の小型鍵盤へ向かう。奏者へ短く断り、空いた椅子へ座った。


 一番低い鍵盤を、一つだけ鳴らす。


 長く、暗い音だった。


「これは帰る場所です」


「帰りたくない日もある」


「なら、戻らなくていい」


 マリエの指は鍵盤から離れない。


「ただ、帰れる場所がまだ残っていると、私たちに教えてください。捨てるのか、戻るのかは、そのあとであなたが選べばいい」


 セラは鍵盤を見た。


 低い音が消えかけている。


「もう一回」


 短く言った。


 マリエが同じ鍵盤を押す。


 セラは先ほどの最後の一節ではなく、途中の言葉を一行だけ歌った。


 試演とは違う旋律だった。


 声は低音から離れ、予想より高い場所へ進む。マリエは追いかけない。鍵盤に低い一音だけを残し、セラがどこまで遠ざかるのか待った。


 セラの声が、一度途切れる。


 次の呼吸で、低音の近くへ戻った。


 ぴたりとは重ならない。


 それでも、互いを見失ってはいなかった。


「今のは?」


 セラが尋ねる。


「戻ったのではありません」


 マリエは鍵盤から指を離した。


「戻れる場所があると分かったうえで、近くを通っただけです」


 セラは少し考えた。


 歌詞の紙を握っていた指から、力が抜ける。


「悪くない」


「ありがとうございます」


「褒めてない。まだ」


「では、次までに褒められるよう直します」


 マリエは立ち上がり、楽譜を胸へ抱えた。


 リラが口を開くより先に、マリエがこちらを見る。


「次の試演まで、私が入ります」


「本当に?」


「聞き返さないでください。変わるかもしれません」


 セラの言葉をそのまま使われ、リラは一度口を閉じた。


 マリエの表情は静かだった。


 けれど、楽譜の端を押さえる指だけが白い。


「客席で、歌が止まるのを見ているのは、もう嫌です。奏者が置いていかれるのも、置いていかれたまま何もできないのも」


「学院の合唱枠は?」


「出ます」


「両方できるの」


「できるように組みます」


 マリエはセラへ向き直った。


「ただし、私の音が邪魔なら言ってください。あなたが何も言わなければ、正しいと思って残してしまいます」


「途中でも止める」


「止めてください」


「怒らないの」


「腹は立ちます」


 マリエの声は変わらない。


「でも、間違った音を残されるよりはましです」


 セラは数秒、マリエを見ていた。


「分かった」


 その一言を聞き、リラはようやく息を吐いた。


 誘っていない。


 説得もしていない。


 マリエは自分で客席から降り、舞台へ来た。


「これで、音の担当が増えたね」


 リラが言う。


「まだ正式な契約が先です」


 客席後方からノアの声が飛んだ。


「報酬、時間、休憩、途中解除の条件」


「分かってます」


「今、絶対に忘れてた」


「感動してたところだったので、少しだけ順番が後ろへ」


「契約を感動の後ろに置かないで」


 ノアが契約書用の板を床へ置く。


 マリエは目を瞬いたあと、その板を受け取った。


「合理的ですね」


「十二歳にしては、でしょう」


「年齢に関係なく」


 ノアの手が一瞬止まる。


「……そこに署名して」


 声は相変わらず眠そうだったが、板から手を離す動きだけが少し速かった。


     ◇


 試演後の夜、倉庫の作業机には五十枚の回答用紙が広げられた。


 リラは紙を項目ごとに分けていく。


「初めて見るものだった、四十三人。もう一度見たい、三十五人。中盤で長く感じた、十一人。歌詞が聞き取れなかった、九人」


 一枚を右へ。


 二枚を左へ。


 同じ回答が増えるほど、机の上の山が高くなる。


 数字は動かない。


 セラの歌のように、昨日と今日で意味を変えない。そのことが、リラには少し心地よかった。


「一番印象に残ったもの」


 リラが次の欄を読み上げる。


「炎、二十四人」


「当然だ」


 ラウルが胸を張る。


 椅子へ座っているのに、立っている人間より大きく見えた。


「歌、十七人。幻影、五人。水、二人。闇、一人。光、一人」


 ノアが回答用紙の山から顔を上げる。


「闇、一人」


「一人いたよ。『暗くなったとき怖かったけど、足元が見えて安心した』」


「それは闇が印象に残ったんじゃなくて、避難線」


「ノアの仕事でしょう」


「そうだけど」


 ノアは紙を受け取り、文章をもう一度読んだ。


 その一枚だけは、ほかの山へ重ねず、自分の前へ置いた。


「水は二人ですか」


 レティアの声は平静だった。


 ただ、右手に白い手袋をつけ、左手には似ているが別の留め具がある手袋をつけている。急いで来たため、また片方を見つけられなかったらしい。


「『足元の道がきれいだった』と、『消える波紋が惜しかった』」


 リラが読み上げる。


 レティアは二枚目の紙へ手を伸ばした。


「貸してください」


「集計中です」


「読み終えたでしょう」


「持って帰る気?」


「記録のためです」


「返してくださいね」


「返却期限を記載してください」


 レティアは紙を丁寧に折らず、そのまま書類入れへ収めた。


 ラウルが横からのぞき込む。


「二人分でも残すんだな」


「二人分“でも”?」


「言い方の話だ」


「今、言い方が問題だと認めましたね」


「認めてない」


 二人の間へ、熱ではなくいつもの張り合う空気が戻る。


 エヴレンは回答用紙を一枚ずつ読み、気に入ったものだけを抜き出していた。


「『街を見たはずなのに、自分の部屋を思い出した』」


 その一文を、声に出す。


「これはいただいても?」


「持ち帰るのは禁止です」


 リラが即座に答えた。


「記憶します」


「書き写すならいいです」


「私の記憶力を信用していませんね」


「大事なものは、信用してても記録する主義なので」


 エヴレンは微笑み、白い花びらを一枚だけ紙の上へ出した。


 花びらが文字へ触れる前に消える。


「なら、これは私の記憶にだけ残しましょう」


 セラは少し離れた木箱へ座っていた。


 回答用紙には近づかない。


 それでも、リラが「歌、十七人」と言ってから、歌詞の紙の同じ角を何度も撫でている。


 ラウルがセラを見る。


「炎に負けたな」


「勝ち負けじゃない」


「でも、悔しいか?」


「別に」


 声はいつもと同じだった。


 紙の角だけが、少し折れている。


 リラは指摘しかけた。


 セラが先にこちらを見る。


「言わないで」


「まだ何も」


「顔が数えてる」


 リラは口を閉じ、手元の回答用紙へ視線を戻した。


 先ほどまでなら、「今の別には大きい」と言っていたかもしれない。


 代わりに、折れた紙の角を直すための小さな重石を、セラの隣へ滑らせる。


 セラは何も言わなかった。


 しばらくしてから、自分で重石を紙へ置いた。


 アルドが倉庫へ来たのは、集計が半分を超えたころだった。


 机の上に積まれた紙と、壁へ書き写された数字を見る。


「成功だと思うか」


「はい」


 リラはすぐに答えた。


「三十五人が、もう一度見たいと答えています。それに四十三人が、初めて見るものだったと」


「成功したところは分かった」


 アルドは、壁の数字からリラへ目を移した。


「では、失敗したところは」


「あります」


 今度は、答えるまでに少し間が空いた。


 リラは別の集計表へ目を落とす。


「歌より炎を覚えている人が多い。途中で長く感じた人も十一人いるし、歌詞が聞き取れなかった人も九人います」


 ラウルが腕を組む。


「俺の炎が悪かったのか」


「違う。炎が強いのは武器だよ」


「なら、何が悪い」


 リラは数字の列を指でなぞった。


「歌と炎が別々に記憶されたこと。たぶん、もっとセラの言葉と炎が同じ瞬間に――」


「たぶん?」


 アルドに遮られ、指が止まる。


 正解を問われていると思った。


 けれど、分からない。


 今回、ラウルは待った。


 炎も歌が終わってから出した。


 それでも二十四人は炎を最初に書いた。


「分かりません」


 リラは認めた。


「今の形が間違っているのか、炎が強かったから自然に残っただけなのか。十七人が歌を選んだことを少ないと考えるべきなのかも」


 アルドは回答用紙の山へ手を伸ばした。


 分類されていない一枚を取る。


「これはどこへ入れる」


 紙には、細い字で長い文章が書かれていた。


 リラが読む。


 ――途中の沈黙で、亡くなった母と台所に立っていた夜を思い出した。何が見えたのか説明できないので、もう一度見たいかと聞かれても分からない。


「『もう一度見たい』には入れてません」


「では、成功か」


「分かりません」


「失敗か」


「それも、分かりません」


 アルドは紙を机へ戻した。


「数字は便利だ」


「はい」


「同じ答えをまとめられる。昨日と今日で、意味も変わらん」


 リラの指が止まる。


 自分が先ほど感じたことを、見られていたようだった。


「だが、まとめた瞬間に消えるものもある」


 アルドは、母親のことを書いた一枚を指先で押さえた。


「この一人を、どの山へ入れる」


 リラは答えられなかった。


 もう一度見たいと答えた三十五人。


 炎を選んだ二十四人。


 歌を選んだ十七人。


 数字へすれば、比べられる。


 比べれば、次に何を増やし、何を減らすべきか決められる気がする。


 けれど、目の前の一枚だけは、どの数字にも入らない。


「もっと調べます」


 ようやく出た答えは、それだった。


「質問を増やして、選択肢だけじゃなくて、何を思い出したのかも書いてもらう。途中で目を逸らした場所や、呼吸が変わったところも記録して――」


 言葉を重ねるほど、また数字へ近づいている気がした。


 アルドの目が、わずかに細くなる。


「調べることは悪くない」


「では」


「ただし、調べれば相手の中身まで分かると思うな」


 倉庫の奥では、セラが一枚の回答用紙を読んでいた。


 先ほどアルドが置いた、母親のことが書かれた紙だった。


 読み終えても、感想は言わない。


 紙を元の場所へ戻し、その上へ折れた歌詞の紙を重ねる。


 リラは、その動きを見た。


「数字は使います」


 アルドへ向き直る。


「使わないと、五十人の反応を私一人では覚えられないから」


「そうだな」


「でも、数字だけを人の代わりにはしません」


 言い切ったあと、自分が本当に守れるのか分からなくなった。


 アルドも、褒めなかった。


「忘れるな」


 それだけ言い、背を向ける。


 倉庫を出ていく足音が、椅子のなくなった客席へ響いた。


 リラは集計表へ目を戻した。


 三十五。


 二十四。


 十七。


 数字は、紙の上で静かに並んでいる。


 その隣には、どの山にも入れられない一枚が残っていた。

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