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『歌が見えた ―弱い光魔法しか使えない私ですが、歌うと感情を隠せない天才歌姫と世界初の魔法ライブを作ります―』  作者: あらたかたかじろう


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18/22

第一幕「歌が見えた」 第18話 幻影のない俳優

 翌日、エヴレンは約束の時刻ちょうどに、王立劇場の制作補佐を一人連れて旧兵站庫へ現れた。


 昨日より花びらは少なかった。


 リラがそれを指摘しようとすると、エヴレンは先に口を開く。


「今日の湿度と床面積に合わせただけです」


「まだ何も言ってません」


「言う顔でした」


 エヴレンは倉庫の中央へ進み、舞台代わりの床と、並んだ椅子と、セラを順番に見た。


「一曲だけです」


 セラが歌詞の紙を折る。


「途中で帰ってもいい」


「演者がそのようなことを言ってはいけません」


「まだ観客でしょう」


 エヴレンは、ほんの少しだけ目を細めた。


「では、最後まで観客でいられる歌をお願いします」


 セラが歌い始めた。


 歌が終わるまで、エヴレンは腕を組んだまま、一言も発しなかった。


 足元にはいつもの花びらが散っていたが、セラが最後の一節を歌い始めてからは、一枚も新しく生まれなかった。


「いかがでした?」


 リラが尋ねると、エヴレンはセラではなく、何もない倉庫の壁を見た。


「見届けましょう」


「参加してくれるんですか?」


「見届ける、と言いました」


 セラが歌詞の紙を閉じる。


「珍しい」


「何がです?」


「今まで来た人は、全員一度は断った」


「私は承諾も拒絶もしていません。美しいものと新しいものには寛容ですが、未完成なものへ名前を貸すほど親切でもない」


「名前だけじゃなくて、幻影も貸してほしいんですけど」


 リラが言うと、エヴレンは目を細めた。


「最初から、人を道具として扱うつもりでしたか?」


「一緒に作る人を探してます。道具なら、こちらの言うとおりにしか動かないでしょう。エヴレンさんは、たぶん十回頼んでも九回は別のものを出しそうだから、道具には向いてません」


「褒められている気がしませんね」


「かなり褒めてます。私が思いつかなかったものを出してくれそうってことだから」


 エヴレンは少しだけ顎を上げた。


 拒絶するには、悪くない言葉だったらしい。


「ではまず、あなた方が舞台上で、どのように見えるべきか確認しましょう」


 エヴレンが指を動かす。


 リラとセラの前に、二人の幻影が現れた。


 幻のリラは本人より目が少し大きく、笑顔の形がきれいに整っている。髪は風がないのに軽く揺れ、安物の上着まで舞台衣装のように見えた。


「私、こんなにずっと機嫌がよさそうな顔してます?」


「観客が望むあなたです」


「実物より、ずいぶん生活に余裕がありそうですね。家賃も払えて、毎日温かい夕食を食べていそう」


「生活感は舞台に必要ありません」


「私の生活感、全部消されちゃった」


 隣では、幻のセラが静かに立っていた。


 灰色の髪には淡い光が入り、指先まで無駄なく整えられている。歌っていなくても、誰もが一目で歌姫だと理解できる姿だった。


 セラは、自分の幻影の周囲を一度歩いた。


「きれいだけど、私じゃない」


「舞台上の真実です」


「私は、歌う前からこんな顔をしない」


「観客は、あなたが歌姫であることを一目で理解できます」


「歌う前から分からなくていい。歌えば分かるから」


 セラとエヴレンの視線が、幻影越しに重なった。


 リラは二人の間へ入らず、幻のセラの横顔を見つめる。


 整っている。


 美しい。


 けれど、この顔では、歌い始めても何も崩れないように見えた。


「エヴレンさん自身の幻影は?」


 セラが尋ねた。


 エヴレンの眉が、ごくわずかに動く。


「必要ですか?」


「他人だけ直してるから」


「整えているのです」


「自分も見たい」


 短く言われ、エヴレンは数秒だけ黙った。


 やがて優雅に手を上げ、自分の隣へ幻影を作る。


 完璧な横顔。


 乱れのない白金の髪。


 微笑みの角度まで計算された、美しいエヴレン・フィオーレだった。


 リラは本人と幻影を交互に見る。


「自分だけ、一番似てないですね」


 足元の花びらが止まった。


「どこが?」


「顔は同じです。髪も服も。でも、本人の方がもう少し面倒そうな顔をするし、褒められたときはちょっとだけ嬉しそうだし、指摘されると花びらの数が減る」


「観察が無遠慮ですね」


「幻影のエヴレンさんは、何を言ってもずっと同じ笑顔です。きれいだけど、本人より薄い」


 エヴレンは微笑みを崩さなかった。


 だが、本人の足元にあった花びらだけが、床へ落ちるより先に一斉に消えた。


「リラ嬢」


 声は穏やかだった。


「美しい者にも、踏み込まれてよい距離と、そうでない距離があります」


「ごめんなさい。今のは近すぎました」


 リラはすぐに一歩下がった。


 言い訳も、続きを聞こうとする言葉も出さない。


 エヴレンは、その一歩分だけ空いた床を見た。


「……距離を取ればよいという意味でもありません」


「難しいですね」


「人間は、幻影より複雑なのです」


「だから、一緒に作りたいんです」


 エヴレンは返事をしなかった。


 ただ、自分の幻影だけを先に消した。


 三日後、エヴレンはセラの故郷を再現した。


 南方の坂道。


 薄い煉瓦造りの家々。


 港へ続く石段と、街の中央にそびえる時計塔。


 セラから聞き取った内容だけでは足りず、古い地図と建築記録を調べ、すでに失われた建物の形まで正確に作り上げていた。


 エヴレンが指を広げる。


 旧兵站庫の壁が薄れ、夕暮れの街が現れた。


 家々の壁には細かなひびまであり、遠くの港では、幻の水面が風を受けて揺れている。


 精密で、美しかった。


 舞台の中央にいるセラの輪郭は残されていたが、それでも最初に目を奪われるのは、歌姫ではなく街の方だった。


「どうです」


 エヴレンは満足そうに街を見渡した。


 セラは答えなかった。


 幻影の坂道を見上げ、時計塔へ視線を移し、港へ下りる階段の前まで歩いていく。


 手を伸ばしても、煉瓦には触れられない。


「違う」


 長い沈黙のあと、低く言った。


 エヴレンの笑みが少し固くなる。


「どこが違います?」


「時計塔。もっと高かった」


「現存する設計記録では、高さは二十二メートルです。台座を含めても二十四メートルを超えません」


「子どもの私には、空まであった」


「それは記憶による誇張です」


「歌ってるのは、記録じゃない」


 セラは時計塔から目を離さなかった。


「坂道も、もっと狭かった。家が倒れそうなくらい近くて、窓から伸びた布が頭に当たった」


「街路図では、荷車がすれ違える幅があります」


「私が通ったときは、すれ違えなかった」


「それも事実とは異なります」


 言葉が重なるたび、幻の街だけが美しいまま沈黙している。


 ノアは作業台へ座り、牛乳の瓶を膝へ置いた。


 ラウルも口を挟まず、幻の時計塔を見上げている。


「事実を歪めれば、ただの安っぽい感傷になります」


 エヴレンが言った。


「本物そっくりに作れば、本物になると思ってる?」


 セラが振り向く。


「少なくとも、あなたの曖昧な記憶より、客へ示せる形になります」


「客に地図を見せたいわけじゃない」


「では、何を見せたいのです?」


「分からないから歌ってる」


 二人の間の空気が、鋭く細くなる。


 リラはすぐには割って入らなかった。


 幻の街を歩く。


 精密だった。


 知らない土地なのに、次の角を曲がれば港へ着けると信じられるほど、すべてが整っている。


 けれど、セラの歌を聞いたときに見えた街とは違った。


 歌の街には、こんなに多くの建物も、人の暮らしの気配もなかった。


 窓辺に灯だけが残り、そこへ帰るはずだった誰かが、永遠に道の途中にいる。


「エヴレンさん」


 リラは時計塔の下で立ち止まった。


「時計塔を、今の倍まで伸ばしてください」


「事実ではありません」


「花は全部消して。港も、今は見えなくていい。道は二人で並んだら肩がぶつかるくらい狭くして、家は少しだけ道へ傾けてほしい」


「街として不自然です」


「うん。たぶん、その方がセラの中にある街へ近づく」


 エヴレンがリラへ顔を向ける。


「あなたは、私へ嘘を作れと言っているのですか」


「幻影って、最初から嘘でしょう?」


「美しく形を与えられた真実です」


「だったら、記憶も同じだと思います」


 リラはセラの立つ坂道を見る。


「実際の高さと違っても、セラにとって時計塔が空まであったことは嘘じゃない。道が本当は広くても、帰れなかった人には、息が詰まるくらい狭く見えたのかもしれない」


「曖昧な感情を、事実より優先しろと?」


「正確な街を捨てろとは言ってません。エヴレンさんが調べて、最初に本当の街を作ってくれたから、どこを変えれば歌の街になるのか分かる」


 リラは時計塔を見上げるエヴレンの隣へ立った。


 先ほどより、少しだけ距離を空ける。


「最初から雑に作ってほしいんじゃないんです。完璧に作れるエヴレンさんに、どこを残して、どこを歪めれば、記憶の中の本当になるのか、一緒に探してほしい」


 エヴレンはすぐには答えなかった。


 幻の街を見回し、最後にセラを見る。


「時計塔は、どこまで高かったのです?」


「見上げても、てっぺんが見えないくらい」


「道は?」


「急いで歩くと、壁に肩をぶつけた」


「窓の灯は、いくつありました?」


 セラは少し迷った。


「一つ」


 エヴレンの指が動く。


 時計塔が、夕暮れの空へ伸びていく。


 資料にあった形を残しながら、見上げても先端が霞むほど高くなる。


 道幅が狭まり、家々は互いへ寄りかかるように傾いた。


 港も、人影も、窓辺の花も消えていく。


 一つの窓にだけ、灯が残った。


 街全体の色も薄くなる。


 建物の輪郭は完全には消えない。


 けれど、目を向けただけでは細部まで見えず、セラの声が触れた場所だけが、記憶から浮かび上がるように形を持った。


 歌姫より先に、街が見えることはもうなかった。


 セラが小さく息を吸う。


 歌が始まった。


 声が街へ入った瞬間、存在しない風が、窓辺の薄いカーテンを揺らした。


 ノアの闇が、家と家の間へ深さを加える。


 レティアが床すれすれへ薄い水面を広げた。


 鏡面には街の全景を映さず、セラの足元と、一つの窓から続く狭い道だけを落とす。


 舞台の下にも、帰れない道が沈んでいく。


 微細な水滴は街と客席の間へ漂い、リラの粒子光が通った跡を、淡い明るさとして空気へ残した。


 光は増えない。


 見せるものも増えない。


 セラの前にあった道だけが、歌とともに客席の近くまで伸びていく。


 リラの豆明かりが窓辺を離れ、坂道を下る。


 途中で何度も止まり、戻りかけ、それでも灯のある窓から遠ざかっていく。


 足元の水面にも、もう一つの光粒子が揺れながら進む。


 レティアが入れた波紋によって、道はつながりかけては途切れた。


 空気中の水滴も均一には並ばず、光の気配をセラの声へ近づけ、また遠ざけていく。


 ラウルは炎を出さなかった。


 革手袋の中で何度か指を動かしたが、最後まで待った。


 歌の終わり、セラが静かに言葉を置く。


「灯を持つ人が、もういないなら」


 リラがラウルを見る。


 声には出さず、指先の豆明かりを一度だけ持ち上げた。


 ラウルの炎が、遠い地平から朝日のように昇った。


 大きな獅子にも、翼にもならない。


 金色の光だけが街の向こうから差し込み、傾いた家々と、高すぎる時計塔をゆっくり染めていく。


 レティアの水面にも朝の色が落ち、セラの足元から深い道の向こうまで、揺れながら広がった。


 微細な水滴へ残った金色も、客席の上へ像を作ることはない。


 ただ、遠くから差した朝の温度だけが、観客の近くまで届いた。


 窓辺の灯は消えなかった。


 朝が来ても、帰る人はいない。


 歌が終わる。


 誰もすぐには動かなかった。


 エヴレンは、自分が作った街を見つめていた。


 資料には存在しない高さの時計塔。


 現実にはなかった狭い道。


 一つだけ灯の残る窓。


 そして、水面の中へ沈んでいく、どこにも存在しない帰り道。


「この街は、記録上どこにも存在しません」


「だから?」


 セラが尋ねる。


 エヴレンは街ではなく、セラへ目を向けた。


「だから、あなたの故郷ではない」


 セラの眉が少し動く。


「ですが、歌を聞いた私にも、帰れない場所に見えました」


 エヴレンが指を鳴らす。


 街が、遠くから夕闇へ溶けるように消えていく。


 レティアの水面も、それに合わせて細く閉じた。


 最後まで残った一枚の花びらが、セラの肩へ落ちる。


 エヴレンの足元から出したものではなかった。


 消えていく街の風と、歌の余韻に引かれるように、意図せず生まれた幻影だった。


「必要」


 先に言ったのはセラだった。


 全員の視線が、歌姫へ集まる。


 セラは肩の花びらを取らず、エヴレンを見た。


「本物そっくりの街はいらない。でも、存在しない街を、そこにあったみたいに作れる人は必要」


「私を選ぶ理由としては、少々不遜ですね」


「断る?」


 エヴレンは返事をせず、セラの肩にある花びらを見つめた。


 意図して残した幻影ではない。


 歌と街の間から、自分の計画を外れて生まれたものだった。


「参加します」


 リラの顔が明るくなる。


 エヴレンはそれを手で制し、言葉を続けた。


「ただし、条件があります。私の幻影へ、美意識上の指示を出す権利は、演出家と歌姫に限ります」


「ノアとレティアは?」


「技術的な意見は受け付けます」


「俺は?」


 ラウルが一歩前へ出た。


 エヴレンは赤い上着と厚い革手袋をゆっくり見てから、微笑む。


「炎は背景です」


 ラウルの肩の外側、誰もいない空間へ火が噴き上がった。


「今すぐ帰れ!」


「加入直後の仲間の隣で火を上げないで。レティアさん、不許可の印を用意しないでください。ノアも参加取消しの欄を探さなくていいから」


「探してない」


 ノアは記録帳へエヴレンの名前を書き込んでいた。


「エヴレン・フィオーレ。幻影」


「待ってください。契約条件をまだ――」


「参加すると言った」


「記録は正確ですね」


 エヴレンは少し驚いたあと、満足そうにうなずいた。


 ラウルだけは納得していなかった。


「俺の炎が背景なら、お前の街も背景だろう!」


「私は、歌姫が立つ世界を作ります。あなたは最後に火を出す係でしょう?」


「係と言うな!」


 ラウルの指先で、小さな火花が弾けた。


 エヴレンの周囲には、それへ対抗するように白い花びらが生まれる。


 火花と花びらが二人の間を飛び交う前に、レティアが無言で書類板を開いた。


「屋内での威嚇行為として記録します」


「まだ何もしていない!」


「する前に止めるのが安全確認です」


「俺にだけ厳しくないか?」


「火を出す人が、現在あなただけなので」


 ラウルが言葉に詰まる。


 その横で、エヴレンは勝ち誇るでもなく、髪を優雅に耳へ掛けた。


「美しい者は、安全上も有利なのですね」


「あなたの花びらも、避難誘導を妨げれば制限します」


 エヴレンの微笑みが一瞬だけ固まった。


 ノアは二人を見比べ、記録帳へ短く書き足す。


「面倒が二人増えた」


「一人しか加入してないよ」


「レティアが二人分働いてる」


「安全確認の話ですか?」


 レティアが振り返る。


「面倒の話」


 ノアは記録帳を閉じた。


 セラは呆れたように息を吐き、笑いそうになった口元を歌詞の紙で隠している。


 また一人、面倒な仲間が増えた。


 リラはラウルとエヴレンの間へ入りながら、どうしても笑みを消せなかった。

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