第一幕「歌が見えた」 第18話 幻影のない俳優
翌日、エヴレンは約束の時刻ちょうどに、王立劇場の制作補佐を一人連れて旧兵站庫へ現れた。
昨日より花びらは少なかった。
リラがそれを指摘しようとすると、エヴレンは先に口を開く。
「今日の湿度と床面積に合わせただけです」
「まだ何も言ってません」
「言う顔でした」
エヴレンは倉庫の中央へ進み、舞台代わりの床と、並んだ椅子と、セラを順番に見た。
「一曲だけです」
セラが歌詞の紙を折る。
「途中で帰ってもいい」
「演者がそのようなことを言ってはいけません」
「まだ観客でしょう」
エヴレンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「では、最後まで観客でいられる歌をお願いします」
セラが歌い始めた。
歌が終わるまで、エヴレンは腕を組んだまま、一言も発しなかった。
足元にはいつもの花びらが散っていたが、セラが最後の一節を歌い始めてからは、一枚も新しく生まれなかった。
「いかがでした?」
リラが尋ねると、エヴレンはセラではなく、何もない倉庫の壁を見た。
「見届けましょう」
「参加してくれるんですか?」
「見届ける、と言いました」
セラが歌詞の紙を閉じる。
「珍しい」
「何がです?」
「今まで来た人は、全員一度は断った」
「私は承諾も拒絶もしていません。美しいものと新しいものには寛容ですが、未完成なものへ名前を貸すほど親切でもない」
「名前だけじゃなくて、幻影も貸してほしいんですけど」
リラが言うと、エヴレンは目を細めた。
「最初から、人を道具として扱うつもりでしたか?」
「一緒に作る人を探してます。道具なら、こちらの言うとおりにしか動かないでしょう。エヴレンさんは、たぶん十回頼んでも九回は別のものを出しそうだから、道具には向いてません」
「褒められている気がしませんね」
「かなり褒めてます。私が思いつかなかったものを出してくれそうってことだから」
エヴレンは少しだけ顎を上げた。
拒絶するには、悪くない言葉だったらしい。
「ではまず、あなた方が舞台上で、どのように見えるべきか確認しましょう」
エヴレンが指を動かす。
リラとセラの前に、二人の幻影が現れた。
幻のリラは本人より目が少し大きく、笑顔の形がきれいに整っている。髪は風がないのに軽く揺れ、安物の上着まで舞台衣装のように見えた。
「私、こんなにずっと機嫌がよさそうな顔してます?」
「観客が望むあなたです」
「実物より、ずいぶん生活に余裕がありそうですね。家賃も払えて、毎日温かい夕食を食べていそう」
「生活感は舞台に必要ありません」
「私の生活感、全部消されちゃった」
隣では、幻のセラが静かに立っていた。
灰色の髪には淡い光が入り、指先まで無駄なく整えられている。歌っていなくても、誰もが一目で歌姫だと理解できる姿だった。
セラは、自分の幻影の周囲を一度歩いた。
「きれいだけど、私じゃない」
「舞台上の真実です」
「私は、歌う前からこんな顔をしない」
「観客は、あなたが歌姫であることを一目で理解できます」
「歌う前から分からなくていい。歌えば分かるから」
セラとエヴレンの視線が、幻影越しに重なった。
リラは二人の間へ入らず、幻のセラの横顔を見つめる。
整っている。
美しい。
けれど、この顔では、歌い始めても何も崩れないように見えた。
「エヴレンさん自身の幻影は?」
セラが尋ねた。
エヴレンの眉が、ごくわずかに動く。
「必要ですか?」
「他人だけ直してるから」
「整えているのです」
「自分も見たい」
短く言われ、エヴレンは数秒だけ黙った。
やがて優雅に手を上げ、自分の隣へ幻影を作る。
完璧な横顔。
乱れのない白金の髪。
微笑みの角度まで計算された、美しいエヴレン・フィオーレだった。
リラは本人と幻影を交互に見る。
「自分だけ、一番似てないですね」
足元の花びらが止まった。
「どこが?」
「顔は同じです。髪も服も。でも、本人の方がもう少し面倒そうな顔をするし、褒められたときはちょっとだけ嬉しそうだし、指摘されると花びらの数が減る」
「観察が無遠慮ですね」
「幻影のエヴレンさんは、何を言ってもずっと同じ笑顔です。きれいだけど、本人より薄い」
エヴレンは微笑みを崩さなかった。
だが、本人の足元にあった花びらだけが、床へ落ちるより先に一斉に消えた。
「リラ嬢」
声は穏やかだった。
「美しい者にも、踏み込まれてよい距離と、そうでない距離があります」
「ごめんなさい。今のは近すぎました」
リラはすぐに一歩下がった。
言い訳も、続きを聞こうとする言葉も出さない。
エヴレンは、その一歩分だけ空いた床を見た。
「……距離を取ればよいという意味でもありません」
「難しいですね」
「人間は、幻影より複雑なのです」
「だから、一緒に作りたいんです」
エヴレンは返事をしなかった。
ただ、自分の幻影だけを先に消した。
三日後、エヴレンはセラの故郷を再現した。
南方の坂道。
薄い煉瓦造りの家々。
港へ続く石段と、街の中央にそびえる時計塔。
セラから聞き取った内容だけでは足りず、古い地図と建築記録を調べ、すでに失われた建物の形まで正確に作り上げていた。
エヴレンが指を広げる。
旧兵站庫の壁が薄れ、夕暮れの街が現れた。
家々の壁には細かなひびまであり、遠くの港では、幻の水面が風を受けて揺れている。
精密で、美しかった。
舞台の中央にいるセラの輪郭は残されていたが、それでも最初に目を奪われるのは、歌姫ではなく街の方だった。
「どうです」
エヴレンは満足そうに街を見渡した。
セラは答えなかった。
幻影の坂道を見上げ、時計塔へ視線を移し、港へ下りる階段の前まで歩いていく。
手を伸ばしても、煉瓦には触れられない。
「違う」
長い沈黙のあと、低く言った。
エヴレンの笑みが少し固くなる。
「どこが違います?」
「時計塔。もっと高かった」
「現存する設計記録では、高さは二十二メートルです。台座を含めても二十四メートルを超えません」
「子どもの私には、空まであった」
「それは記憶による誇張です」
「歌ってるのは、記録じゃない」
セラは時計塔から目を離さなかった。
「坂道も、もっと狭かった。家が倒れそうなくらい近くて、窓から伸びた布が頭に当たった」
「街路図では、荷車がすれ違える幅があります」
「私が通ったときは、すれ違えなかった」
「それも事実とは異なります」
言葉が重なるたび、幻の街だけが美しいまま沈黙している。
ノアは作業台へ座り、牛乳の瓶を膝へ置いた。
ラウルも口を挟まず、幻の時計塔を見上げている。
「事実を歪めれば、ただの安っぽい感傷になります」
エヴレンが言った。
「本物そっくりに作れば、本物になると思ってる?」
セラが振り向く。
「少なくとも、あなたの曖昧な記憶より、客へ示せる形になります」
「客に地図を見せたいわけじゃない」
「では、何を見せたいのです?」
「分からないから歌ってる」
二人の間の空気が、鋭く細くなる。
リラはすぐには割って入らなかった。
幻の街を歩く。
精密だった。
知らない土地なのに、次の角を曲がれば港へ着けると信じられるほど、すべてが整っている。
けれど、セラの歌を聞いたときに見えた街とは違った。
歌の街には、こんなに多くの建物も、人の暮らしの気配もなかった。
窓辺に灯だけが残り、そこへ帰るはずだった誰かが、永遠に道の途中にいる。
「エヴレンさん」
リラは時計塔の下で立ち止まった。
「時計塔を、今の倍まで伸ばしてください」
「事実ではありません」
「花は全部消して。港も、今は見えなくていい。道は二人で並んだら肩がぶつかるくらい狭くして、家は少しだけ道へ傾けてほしい」
「街として不自然です」
「うん。たぶん、その方がセラの中にある街へ近づく」
エヴレンがリラへ顔を向ける。
「あなたは、私へ嘘を作れと言っているのですか」
「幻影って、最初から嘘でしょう?」
「美しく形を与えられた真実です」
「だったら、記憶も同じだと思います」
リラはセラの立つ坂道を見る。
「実際の高さと違っても、セラにとって時計塔が空まであったことは嘘じゃない。道が本当は広くても、帰れなかった人には、息が詰まるくらい狭く見えたのかもしれない」
「曖昧な感情を、事実より優先しろと?」
「正確な街を捨てろとは言ってません。エヴレンさんが調べて、最初に本当の街を作ってくれたから、どこを変えれば歌の街になるのか分かる」
リラは時計塔を見上げるエヴレンの隣へ立った。
先ほどより、少しだけ距離を空ける。
「最初から雑に作ってほしいんじゃないんです。完璧に作れるエヴレンさんに、どこを残して、どこを歪めれば、記憶の中の本当になるのか、一緒に探してほしい」
エヴレンはすぐには答えなかった。
幻の街を見回し、最後にセラを見る。
「時計塔は、どこまで高かったのです?」
「見上げても、てっぺんが見えないくらい」
「道は?」
「急いで歩くと、壁に肩をぶつけた」
「窓の灯は、いくつありました?」
セラは少し迷った。
「一つ」
エヴレンの指が動く。
時計塔が、夕暮れの空へ伸びていく。
資料にあった形を残しながら、見上げても先端が霞むほど高くなる。
道幅が狭まり、家々は互いへ寄りかかるように傾いた。
港も、人影も、窓辺の花も消えていく。
一つの窓にだけ、灯が残った。
街全体の色も薄くなる。
建物の輪郭は完全には消えない。
けれど、目を向けただけでは細部まで見えず、セラの声が触れた場所だけが、記憶から浮かび上がるように形を持った。
歌姫より先に、街が見えることはもうなかった。
セラが小さく息を吸う。
歌が始まった。
声が街へ入った瞬間、存在しない風が、窓辺の薄いカーテンを揺らした。
ノアの闇が、家と家の間へ深さを加える。
レティアが床すれすれへ薄い水面を広げた。
鏡面には街の全景を映さず、セラの足元と、一つの窓から続く狭い道だけを落とす。
舞台の下にも、帰れない道が沈んでいく。
微細な水滴は街と客席の間へ漂い、リラの粒子光が通った跡を、淡い明るさとして空気へ残した。
光は増えない。
見せるものも増えない。
セラの前にあった道だけが、歌とともに客席の近くまで伸びていく。
リラの豆明かりが窓辺を離れ、坂道を下る。
途中で何度も止まり、戻りかけ、それでも灯のある窓から遠ざかっていく。
足元の水面にも、もう一つの光粒子が揺れながら進む。
レティアが入れた波紋によって、道はつながりかけては途切れた。
空気中の水滴も均一には並ばず、光の気配をセラの声へ近づけ、また遠ざけていく。
ラウルは炎を出さなかった。
革手袋の中で何度か指を動かしたが、最後まで待った。
歌の終わり、セラが静かに言葉を置く。
「灯を持つ人が、もういないなら」
リラがラウルを見る。
声には出さず、指先の豆明かりを一度だけ持ち上げた。
ラウルの炎が、遠い地平から朝日のように昇った。
大きな獅子にも、翼にもならない。
金色の光だけが街の向こうから差し込み、傾いた家々と、高すぎる時計塔をゆっくり染めていく。
レティアの水面にも朝の色が落ち、セラの足元から深い道の向こうまで、揺れながら広がった。
微細な水滴へ残った金色も、客席の上へ像を作ることはない。
ただ、遠くから差した朝の温度だけが、観客の近くまで届いた。
窓辺の灯は消えなかった。
朝が来ても、帰る人はいない。
歌が終わる。
誰もすぐには動かなかった。
エヴレンは、自分が作った街を見つめていた。
資料には存在しない高さの時計塔。
現実にはなかった狭い道。
一つだけ灯の残る窓。
そして、水面の中へ沈んでいく、どこにも存在しない帰り道。
「この街は、記録上どこにも存在しません」
「だから?」
セラが尋ねる。
エヴレンは街ではなく、セラへ目を向けた。
「だから、あなたの故郷ではない」
セラの眉が少し動く。
「ですが、歌を聞いた私にも、帰れない場所に見えました」
エヴレンが指を鳴らす。
街が、遠くから夕闇へ溶けるように消えていく。
レティアの水面も、それに合わせて細く閉じた。
最後まで残った一枚の花びらが、セラの肩へ落ちる。
エヴレンの足元から出したものではなかった。
消えていく街の風と、歌の余韻に引かれるように、意図せず生まれた幻影だった。
「必要」
先に言ったのはセラだった。
全員の視線が、歌姫へ集まる。
セラは肩の花びらを取らず、エヴレンを見た。
「本物そっくりの街はいらない。でも、存在しない街を、そこにあったみたいに作れる人は必要」
「私を選ぶ理由としては、少々不遜ですね」
「断る?」
エヴレンは返事をせず、セラの肩にある花びらを見つめた。
意図して残した幻影ではない。
歌と街の間から、自分の計画を外れて生まれたものだった。
「参加します」
リラの顔が明るくなる。
エヴレンはそれを手で制し、言葉を続けた。
「ただし、条件があります。私の幻影へ、美意識上の指示を出す権利は、演出家と歌姫に限ります」
「ノアとレティアは?」
「技術的な意見は受け付けます」
「俺は?」
ラウルが一歩前へ出た。
エヴレンは赤い上着と厚い革手袋をゆっくり見てから、微笑む。
「炎は背景です」
ラウルの肩の外側、誰もいない空間へ火が噴き上がった。
「今すぐ帰れ!」
「加入直後の仲間の隣で火を上げないで。レティアさん、不許可の印を用意しないでください。ノアも参加取消しの欄を探さなくていいから」
「探してない」
ノアは記録帳へエヴレンの名前を書き込んでいた。
「エヴレン・フィオーレ。幻影」
「待ってください。契約条件をまだ――」
「参加すると言った」
「記録は正確ですね」
エヴレンは少し驚いたあと、満足そうにうなずいた。
ラウルだけは納得していなかった。
「俺の炎が背景なら、お前の街も背景だろう!」
「私は、歌姫が立つ世界を作ります。あなたは最後に火を出す係でしょう?」
「係と言うな!」
ラウルの指先で、小さな火花が弾けた。
エヴレンの周囲には、それへ対抗するように白い花びらが生まれる。
火花と花びらが二人の間を飛び交う前に、レティアが無言で書類板を開いた。
「屋内での威嚇行為として記録します」
「まだ何もしていない!」
「する前に止めるのが安全確認です」
「俺にだけ厳しくないか?」
「火を出す人が、現在あなただけなので」
ラウルが言葉に詰まる。
その横で、エヴレンは勝ち誇るでもなく、髪を優雅に耳へ掛けた。
「美しい者は、安全上も有利なのですね」
「あなたの花びらも、避難誘導を妨げれば制限します」
エヴレンの微笑みが一瞬だけ固まった。
ノアは二人を見比べ、記録帳へ短く書き足す。
「面倒が二人増えた」
「一人しか加入してないよ」
「レティアが二人分働いてる」
「安全確認の話ですか?」
レティアが振り返る。
「面倒の話」
ノアは記録帳を閉じた。
セラは呆れたように息を吐き、笑いそうになった口元を歌詞の紙で隠している。
また一人、面倒な仲間が増えた。
リラはラウルとエヴレンの間へ入りながら、どうしても笑みを消せなかった。




