第一幕「歌が見えた」 第17話 存在しない街への招待
光、闇、火、水。
四つの魔法がそろうと、旧兵站庫の景色は一気に華やかになった。
ノアの闇が倉庫の壁を遠ざけ、セラの姿だけを静かに浮かび上がらせる。
リラの豆明かりは歌に沿って光粒子を纏いながら一粒ずつ動き、レティアの微細な水滴が、その弱い光の通った跡を、舞台から客席側の空気へ淡く残していく。
セラの足元には、薄い水面が広がっていた。
鏡面に映るのは、歌姫の姿と、そこから離れていく光粒子だけだ。舞台の下にも暗い道が続き、セラが深い場所の上に立って歌っているように見える。
最後まで待ったラウルの炎が、歌の終わりにだけ水面を金色へ染めた。
炎そのものは増えない。
けれど、金色の光がセラの足元から舞台の奥へ走り、閉じていた世界が、歌とともに開いていく。
見る者は、きっと驚くだろう。
けれど、試演を終えたセラは、しばらく何も言わなかった。
ラウルが手のひらを閉じると、最後の火花が消える。
レティアも指を下ろし、空気中の水滴を一滴ずつ集め始めた。床すれすれに浮かんでいた水面が細く縮み、セラの足元へ沈んでいた道も消えていく。
それでもセラは、歌詞の紙を下ろさないまま、舞台の中央に立っていた。
「きれい」
ようやく、セラが言った。
リラは進行表へ書き込もうとしていた手を止める。
「いいことじゃない? 最初は暗闇の中を豆が一粒歩いてただけなのに、今は火も水もある。倉庫だって、だいぶ舞台らしくなったと思うけど」
「きれいなだけ」
セラの声は大きくなかった。
それでも、舞台脇で革手袋を外そうとしていたラウルと、水量を記録していたレティアの手が同時に止まった。
「だけ、とは何だ」
ラウルが振り返る。
「美しく整っていることを、軽く見ているのですか」
レティアも記録板を胸の前へ抱えた。
セラは二人を見てから、先ほどまで光が漂っていた客席側へ目を向ける。
「二人の魔法はすごい。ノアの闇も、リラの光も」
「うれしいけど、私の方だけ最後についでで足された感じがするんだけど」
「順番に意味はない」
「そう言われると、余計に最初に呼ばれたかったなあ」
「でも、今の演出は、私の歌じゃなくても成立する」
リラの笑みが少し薄くなった。
セラは歌詞の紙を開き、一行を指で押さえる。
「私が歌っているのは、帰れなくなった街。消えない灯があっても、そこへ戻る人がいない歌」
倉庫の奥で、レティアが集め損ねた水滴が一つ、床へ落ちた。
小さな音が、セラの言葉のあとに響く。
「でも、今見えていたのは、きれいな光と、きれいな炎だった。水面が揺れても、闇が深くなっても、違う歌に同じ演出を入れられる」
「なら、街を出せばいい」
作業台から、ノアが顔を上げた。
甘い牛乳の瓶を両手で抱え、口元には白い跡が残っている。
「街?」
「幻影」
ノアはそれだけ言うと、また瓶へ口をつけた。
ラウルが鼻を鳴らす。
「街の絵を置けば、歌になるのか」
「火を置いただけでも、ならなかった」
「ノア、今の言い方だとラウルだけが失敗したみたいに聞こえるよ。セラが言ってるのは、私たち全員の演出が、まだ歌の外側にあるってことだから」
リラは二人の間へ入りかけ、途中で足を止めた。
代わりにセラの隣へ立ち、歌詞の紙を横からのぞき込む。
「歌の街を出してみよう」
「私の故郷を?」
「たぶん、それとは少し違う」
「何が違うの」
「セラの歌に出てくる窓って、本当にあった窓と同じ?」
セラは答えなかった。
視線だけが、歌詞に書かれた「窓」の文字へ落ちる。
「大きさも、形も、そこから見えた景色も、今でも全部覚えてる?」
「……覚えてない」
「でも、歌ってるときには見えてるんでしょう」
「見えてる」
「だったら、実際にあった街じゃなくて、セラが歌ってるときに見えてる街を作りたい」
リラは歌詞の紙へ触れず、その少し上で指を動かした。
小さな豆明かりが生まれ、文字の上をゆっくり通り過ぎる。
「本物をそっくり写すんじゃなくて、帰れない人の中に残ってる街。見た人が、自分の帰れなかった場所を重ねられるくらい、少しだけ隙間がある街」
「そんな都合のいい幻影術師がいるの?」
「アルドさんに聞いてみる。紹介はしてくれないと思うけど、住所くらいは投げてくれるはず」
「また断られに行くの?」
「仲間を増やすって、今のところ、断られてからが本番みたいだからね」
幻影術師エヴレン・フィオーレは、王立劇場で将来を期待されている若手俳優だった。
若手とはいっても、劇場の入口で名前を告げれば会える相手ではない。
リラは祭典庁の実験枠を示す証明書、依頼内容、予定拘束時間、提示できる報酬を書き、一度目の申請を劇場の制作部へ提出した。
三日後、返ってきた紙には、短く不採用とだけ記されていた。
「理由が一文字もない」
劇場裏の待合室で、リラは戻された依頼書を光へ透かした。
「忙しいからでしょう」
隣に座るセラは、紙を見るまでもなく答えた。
「忙しい人ほど、断る理由も効率よく書いてほしいなあ。『日程』とか『予算』とか、一言あれば次の攻め方を変えられるのに」
「攻めないで」
「もう二回目を出したあとです」
セラが顔を上げた。
「いつ」
「昨日。最初の依頼書は、幻影術師を探しているとしか書かなかったから。二回目は、完成した幻影ではなく、歌うたびに形の変わる街を作ってほしいと書きました」
「私に見せてない」
「そこは反省しています」
「出したあとに?」
「かなり深く」
アルドは紹介状を書かなかった。
祭典庁の実験枠が実在することを証明する印だけを押し、
「出演者を口説くのは演出家の仕事だ」
と言った。
二度目の依頼書に返事が来たのは、その翌日だった。
面会時間は、昼公演と夕方の稽古の間の八分間。場所は王立劇場の制作廊下。延長も、稽古場への立ち入りも認めないと、制作主任の字で念を押されていた。
「八分で足りるの」
「断られるだけなら、たぶん三分です」
「前向きなのか分からない」
「残り五分で、断ったことを惜しくさせます」
制作主任が呼びに来たのは、昼公演の幕が下りて間もなくだった。
廊下には衣装を抱えた劇団員や、舞台装置を運ぶ職人が行き交っている。その流れが、奥から歩いてくる一人のために、少しずつ左右へ分かれた。
波打つ長い白金の髪。紫の瞳の下にある、小さな泣きぼくろ。
黒と薄紫の非対称な外套は、高い位置の細いベルトで腰を絞り、片側の裾だけが舞台幕のように長い。細い舞台靴が床へ下りるたび、足元に白い花びらの幻影が散った。
花びらは床へ触れる直前に消える。
通りかかった劇団員たちは、エヴレン本人より、その花びらを踏まないために足元を見ていた。
「時間は八分です」
制作主任が告げた。
「五分で終わる可能性もあります」
エヴレンは整った微笑みを崩さずに言った。
「残った三分は返してもらえますか?」
「次の面会へ繰り越す制度はありません」
「厳しい」
リラはエヴレンの足元を指した。
「それも公演の一部ですか?」
「礼儀です」
「歩くだけなのに?」
「美しい者が、何の演出もなく人前を歩く。それは観客へ舞台裏を見せるのと同じでしょう」
エヴレンは白金の髪を耳へ掛け、リラへ視線を向けた。
「見られる可能性がある限り、演者は美しくあるべきです」
「好きです、その考え方。仕事へ行く途中の私にも、少し分けてほしいくらい」
「理解者は歓迎します」
「でも、花びらは少し多いですね」
リラがそう言うと、制作主任が懐中時計から顔を上げた。
エヴレンの微笑みは変わらない。
「説明を聞きましょう」
「後ろの人たち、エヴレンさんの顔より足元を見ています。顔を見せるための花が、顔から視線を奪ったら、もったいないでしょう?」
「私の顔は、花びら程度には負けません」
「それなら、半分に減らしても勝てます。全部出さなくても勝てる人の方が、余裕があって格好いいです」
エヴレンは答えず、長手袋の指を一度鳴らした。
廊下を漂っていた花びらが、きっちり半分になる。
劇団員たちの視線が、足元から少しずつ上がった。
「減らしてくれるんだ」
「あなたの意見を採用したのではありません」
エヴレンは、正面から歩いてくる衣装係とすれ違った。
「この廊下の人流には、こちらの方が適切だと確認しただけです」
「はい。そういうことにしておきます」
「残り五分です」
制作主任が告げた。
エヴレンはリラの持つ依頼書へ目を落とした。
「歌うたびに形の変わる街、とありましたね」
「はい。きれいな街を作ってほしいわけではありません」
「幻影術師へ、きれいなものは必要ないと?」
「きれいなだけのものなら、セラの歌じゃなくても成立するからです」
セラがリラを見た。
先ほど倉庫で自分が言った言葉だった。
エヴレンの目が、初めてリラからセラへ移る。
「あなたが歌手ですか」
「セラ・アルメリア」
「どのような街を歌うのです?」
「帰れない街」
「実在する場所は」
「そのまま出されたくない」
「では、資料は?」
「ある。でも、正しく作られたら困る」
セラの答えは短かった。
エヴレンは数秒、何も言わなかった。
廊下の奥で、舞台装置を引く車輪が軋んだ。白い花びらが一枚だけ二人の間へ入り、床へ着く前に消える。
「正しく作れば間違いになる幻影ですか」
エヴレンの微笑みが、わずかに深くなった。
「少しだけ興味があります」
「旧兵站庫で、一曲だけ聞いてください」
リラはすぐに続けた。
「聞いたあとで、必要ないと思ったら帰って構いません。参加を決めてほしいとは、まだ言いません」
「まだ?」
「歌を聞いたら、こちらから改めてお願いします」
「断られる可能性は考えないのですか」
「かなり考えています。だから、断る前に一曲だけ聞いてほしいんです」
制作主任が懐中時計の蓋を閉じた。
「時間です」
エヴレンはすぐには返事をしなかった。
白金の髪を肩の後ろへ払い、制作主任を見る。
「明日の夕方、移動を含めて一刻。空いていますか」
「衣装合わせのあとであれば。ただし、制作補佐を同行させます」
「それで結構です」
エヴレンはリラへ向き直った。
「一度だけ見に行きます。仕事を受けるとは言っていません」
「ありがとうございます」
「礼は、私が最後まで聞いたあとにしてください」




