第一幕「歌が見えた」 第16話 完璧な水の人
「まだ何もしていない」
「する前に止めるのが安全確認です」
ラウルは不満そうに鼻を鳴らした。
それでも炎と水滴の間に取っていた距離だけは、指一本分も縮めなかった。
リラはその様子を横目で見ながら、光の道へ手を差し入れた。
「客席全体まで広げられますか?」
「必要な水量と排水設備を確保できれば」
「セラの呼吸に合わせて、水滴を動かすのは?」
「呼吸の間隔と変化量が分かれば可能です」
「決めていない揺れを、その場で入れることも?」
レティアが、リラへ顔を向けた。
「なぜ、その必要があるのですか」
「今のままだと、きれいすぎるから」
舞台から伸びる光の道は、最初から最後まで同じ太さだった。
足元の水面も完全に平らで、セラの姿と豆明かりを寸分違わず映している。
ラウルの火の色も、どの場所でも同じ濃さで残っていた。
美しかった。
正確で、見やすくて、どこにも迷いがない。
「完全な鏡面と均一な霧幕だからこそ、光を正確に扱えるのです」
「普通の公演なら、それが一番いいと思います。でも、セラの歌は、最初から最後まで同じ距離にはいない」
「歌手は舞台から動かないのでしょう?」
「体はね。でも、歌ってると、手を伸ばせば届きそうなときと、どれだけ呼んでも返事が来なさそうなときがあるんです」
レティアの眉間へ、細い線が入った。
リラはそれ以上説明せず、セラを見る。
セラも、舞台から客席へまっすぐ伸びた光の道を見ていた。
やがて歌詞の紙を下ろし、小さく息を吸う。
失った家の窓を歌う声が、静かな倉庫へ広がった。
リラの豆明かりが、均等に並んだ水滴の中をゆっくりと進む。
光が通った場所だけが、セラから客席へ続く淡い道になった。足元の水面には、その道が深い場所へ沈むように映っている。
けれど、セラの声が揺れても、水面は揺れなかった。
言葉をためらっても、光の道の太さは変わらない。
帰りたいのか。
もう帰りたくないのか。
声の中では答えが何度も入れ替わっているのに、水だけは、最初に決められた正しさを守り続けていた。
整いすぎた景色が、セラの歌に残るざらつきや迷いを、きれいに拭い取ってしまっている。
「レティア」
リラは歌を邪魔しないよう、声を抑えた。
「水面へ波を入れてください。水滴も、少しだけ流れを崩して」
「必要ありません」
「全部じゃなくていい。セラの声が細くなったところだけ」
「反射が歪みます。水滴の密度にもむらが生まれます」
「その歪みとむらが欲しいんです」
「光の届かない場所ができます」
「届かない瞬間を歌ってるから」
レティアの両手は動かなかった。
視線だけが、歌うセラと、完全に整った水の間を往復する。
リラはそれ以上頼まなかった。
代わりに、豆明かりを予定していた直線から外す。
粒子は客席へ向かわず、水面すれすれを斜めに滑った。
実物の光と、水面に映った光が少しずれる。
均等だった水滴も、一部だけが強く明るさを受け取り、別の場所には薄い隙間が生まれた。
光の道が細くなる。
次の瞬間には一部だけが淡く膨らみ、触れられそうなところまで近づいて、また遠ざかった。
セラの声が、その揺れへ引かれるように低くなる。
レティアの指が動いた。
リラは、光を元の道へ戻されると思った。
けれど、レティアが水面へ落としたのは、反対側から進む一筋の波紋だった。
平らだった鏡面が揺れる。
セラの足元から下へ続いていた道が歪み、つながりかけては途中で切れた。
同時に、空気中の水滴へも緩やかな流れが生まれる。
二つの流れが客席の中央で重なり、集まった水滴が一瞬だけ光を濃く受け取る。次の瞬間には細くほどけ、手を伸ばす前に離れていった。
新しい見世物が生まれたわけではなかった。
セラは変わらず、舞台の中央にいる。
ただ、彼女の足元と、声が通る空気だけが、歌と同じように迷い始めた。
戻らない記憶を追いかけ、触れる直前に見失う。
そんな波と光の流れが、セラの声と同じ速さで倉庫の奥へ進んだ。
歌が終わっても、レティアはすぐに水を消さなかった。
水面の波紋は少しずつ弱くなり、足元の道を一度だけつなげてから消える。
空気中の水滴も、豆明かりが消えたあとまで朝の光をわずかに残していた。
やがて一滴も床へ落とさないまま集まり、倉庫の空気が元へ戻る。
誰もすぐには口を開かなかった。
「醜いですか?」
リラが尋ねた。
レティアは、何もなくなった客席と、自分の足元を交互に見ている。
「不正確です」
「うん」
「水面の波も、水滴の密度も、流れる速度も揃っていません。同じものを、もう一度作れる保証もない」
「うん」
「本番で偶然に頼れば、失敗します」
レティアはそこで言葉を切った。
水を操っていた両手を胸の前へ下ろす。指先だけが、まだ波紋の形を確かめるように小さく動いていた。
「ですが」
声が、先ほどまでより少しだけ小さくなる。
「私が設計した大噴水より、今の波紋と流れの方が、消えるのを惜しいと思いました」
リラの顔が明るくなった。
「では、参加ということで?」
「契約条件、安全基準、報酬、使用水量、排水設備を確認してから判断します」
「ノア、参加一名追加」
床へ座っていたノアが、すでに開いていた記録帳へ羽根ペンを走らせる。
「レティア・レニエ。水」
「記録した」
「まだ判断していません」
「参加しない人は、二つ目の波を重ねない」
ノアは顔を上げずに言った。
「水滴の流れも変えた」
「二つ参加した」
「魔法の種類で人数を増やさないでください」
レティアは反論しながら、外していた白い手袋を片方ずつはめ直した。
右手の指先だけがうまく入らず、布が二度折れる。
それを見られたことに気づくと、レティアは手を背中へ隠すようにして、急いで形を整えた。
「一度の実演だけで、参加者扱いしないでください」
「二度目をやるなら参加」
ノアが答える。
レティアは何か言い返そうとして、やめた。
その口元が、ほんの少しだけ緩む。
最初に見せた整った微笑みより、不器用で、人間らしい笑い方だった。
不許可の書類は、その場では撤回されなかった。
レティアは最後まで「条件を確認してから判断します」と言い張り、その日の午後、契約内容を説明するために全員を自分の執務室へ連れていった。
王城前の大噴水では、数百本の水柱が一滴の狂いもなく並んでいた。
高さも間隔も揃い、風が吹いても、落ちる位置まで変わらない。
ところが、その設計者の執務室の扉を開けると、中はまるで別の魔法にかけられていた。
椅子は丸めた図面に埋まり、机には乾ききった茶葉が散っている。左右の合わない白手袋が、書類の山から片方ずつ顔を出し、床には印章用の朱肉が蓋を開けたまま置かれていた。
レティアは入口で固まった。
「見なかったことにしてください」
今度ばかりは、礼儀正しい微笑みを作る余裕もなかった。
リラは部屋を見回し、感心したように息を吸う。
「すごい。完璧な人の部屋だ」
「違います」
「外で完璧を全部使い切って、部屋に残す分がなくなったんですね」
「違うと言っています」
「でも、大噴水の水柱より、ここの図面の方がずっと自由に広がってますよ。机だけじゃなくて、椅子にも床にも遠慮がない」
「褒めていませんね?」
「半分くらいは褒めてます。残り半分は、少し安心してます」
レティアが眉を寄せる。
その足元で、セラが静かにしゃがんだ。
図面の下から、金属製の契約印を拾い上げる。
「これ、探してた?」
レティアの視線が、契約印へ吸い寄せられた。
「……三日前から」
「水で探せばよかったのに」
「書類が濡れます」
「これだけ散らかってたら、少しくらい濡れても分からないと思う」
「分かります。紙の波打ち方が変わります」
レティアはセラから契約印を受け取り、両手で大切そうに包んだ。
失くした本人よりも、印の方を心配しているような持ち方だった。
その横で、リラが書類の山から片方だけの手袋を引き抜く。
「こっちの相方は?」
「探さないでください」
「同じ状態の手袋が三組あります。今なら組み合わせを変えて、新しい三組にすることもできますよ」
「左右で形が違います」
「じゃあ、どこかに正しい相方が三枚あるんですね」
「あるはずです」
「水で探せば」
「書類が濡れます」
今度はノアまで同じことを言った。
レティアは部屋の中央で、誰から先に訂正するべきか分からなくなったように黙る。
やがて契約印を胸元へ抱えたまま、小さく息を吐いた。
「ええ。私は完璧ではありません」
机の上へ契約書を置く場所を作ろうと、丸まった図面を一枚ずつ重ね始める。
「だからせめて、人に見せるものくらいは、完璧にしたいのです」
「でも、今日の波紋と水滴の流れは、完璧じゃなかった」
リラが言うと、レティアの手が止まった。
重ねかけた図面の端が、一枚だけずれている。
「そうですね」
「また作ってくれますか?」
「同じ波と流れは作れません」
「同じじゃなくていいです。次の歌には、次の歌に合う揺れを作ってほしい」
レティアは少し考えた。
ずれていた図面を直しかけ、途中で手を止める。
そのまま一枚だけ端が出た状態で、契約書を机へ置いた。
「まずは、契約書を読んでください」
「それは参加する人の返事ですね」
「条件を確認してから判断すると、最初から言っています」
「条件が合わなかったら?」
「修正案を出します」
リラが笑った。
レティアは、自分が何を口にしたのか遅れて気づいたように、契約書へ目を落とす。
部屋の隅では、ラウルだけが水の役割に納得していなかった。
「俺の火が水面を金色に染めて、客席の奥まで届いた」
腕を組み、勝ち誇るように顎を上げる。
「つまり、あの水は俺の炎を広げるためにある。火の勝ちだ」
レティアは契約書の最初の頁をめくりながら答えた。
「熱を増やさず、足元へ奥行きを作り、光だけを客席まで残したのは水です」
「元になったのは俺の火だ」
「水がなければ、後方の観客には舞台の上にある小さな炎しか見えません」
「小さくても火は火だ」
「客へ届かなければ、舞台の上の飾りです」
ラウルは机の反対側まで歩き、レティアを見下ろした。
レティアも椅子へ座ったまま、静かに顔を上げる。
二人の間に置かれた契約書だけが、どちらの側へ寄るべきか迷っているようだった。
「火と水が両方あったからできたんだし、二人とも勝ちでよくない?」
リラが横から言う。
「よくない」
二人の声が、ぴたりと重なった。
ラウルとレティアは、同時に互いの顔を見る。
「合わせるな」
「あなたが合わせたのでしょう」
「俺が先に言った」
「発声は、ほぼ同時です」
二人の声が再び重なりかけ、今度はどちらも途中で口を閉じた。
ノアは甘い牛乳を飲みながら、記録帳の端へ羽根ペンを走らせる。
「今のも記録するの?」
リラが尋ねる。
「面倒が増えた」
「いいね。だいぶチームらしくなってきた」
リラは嬉しそうに笑った。
セラは呆れたように息を吐く。
それでも、笑いそうになった口元だけは、手にしていた歌詞の紙でそっと隠した。




