第一幕「歌が見えた」 第15話 不許可の水面
翌朝、リラたちが旧兵站庫へ着くと、入口の前には見知らぬ女性が立っていた。
腰まで届く淡い水色の髪は、前髪から取った細い編み込みが冠のように後頭部を巡っている。深い青の瞳は、挨拶より先に倉庫の欠点を拾っていた。
白と濃紺の制御術師制服は、硬い襟から細身の長靴まで一分の隙もなく整い、腰の半透明の布だけが水膜のように揺れる。白い手袋をはめた両手で書類板を持ち、扉が開くより先に外壁の亀裂、窓の位置、屋根から伸びる排水管を順番に確認していた。
倉庫へ入ってからも、彼女の足は止まらなかった。床の耐火塗膜へ身をかがめ、朝の光で塗りむらを確かめ、砂袋の口を指で押さえ、舞台から避難口までの距離を一定の歩幅で測る。一度確認した場所へ戻ることはなく、最初から見る順番が決まっているようだった。
レティア・レニエ。
二十一歳で水魔法の制御試験を最年少首席通過し、王城前の大噴水を設計した水術師である。
「水を貸しに来たわけではありません」
挨拶より先に、レティアが言った。
「安心してください。まだ頼んでません」
リラが笑うと、レティアは書類から顔を上げた。
「では、これから頼む予定だったのですね」
「はい。どんな頼み方をすれば断られにくいか、今から考えようとしていました」
「私が来る前に考えておくべきでした」
「来るって知らなかったので。今から急いで考えれば、まだ間に合いませんか?」
「間に合わせるための安全確認ではありません」
レティアは入口近くの床へしゃがんだ。
白い手袋で焦げ跡へ触れる直前、もう片方の手で薄い布を挟む。煤が指先へつかないようにしたまま、跡の深さと広がりを確かめた。
「祭典庁から、水魔法を使用する可能性がある実験演目の安全確認を命じられています。私は許可を出すためではなく、危険な計画を止めるために来ました」
「許可が出る可能性は?」
「計画に問題がなければ」
「よかった。最初から零ではない」
「今から零になる可能性は十分にあります」
レティアは立ち上がり、書類へ最初の印をつけた。
羽根ペンが紙を擦る乾いた音が、まだ冷たい倉庫へ響く。
「床の耐火処理は合格。消火砂と耐火板の配置も問題ありません。ただし、排水路が不足しています。水魔法が崩れた場合、この傾斜では入口側へ水が集中します」
壁際で耐火板の留め具を点検していたラウルが、顔を上げた。
「崩さなければいい」
「崩れない魔法はありません」
「俺の火は崩れない」
「昨日、獅子の左耳だけ先に消えました」
ラウルの眉が跳ねた。
「見ていたのか」
「入口の外からでも見えました。あれだけ大きければ」
「左耳がなくても獅子だ」
「安全上は、意図せず術式の一部が消えた事実の方が重要です」
レティアはラウルの反論を待たず、次の欄へ羽根ペンを移した。
ラウルは何か言い返しかけたが、手にしていた留め具をもう一度締め直す。左耳の話が気になったのか、先ほどより長く固定箇所を調べていた。
「楽曲の拍は固定されていますか」
レティアが尋ねる。
「変わります」
セラが答えた。
「毎回ですか」
「歌えば変わる」
「演出に合わせて固定することは」
「しない」
三度続けて短い答えを受け、レティアの羽根ペンが紙の上で止まった。
セラは歌詞の紙を胸の前に持ったまま、目を逸らさない。
少し離れた場所で、ノアが甘い牛乳の瓶を開けた。蓋の外れる小さな音が、二人の間へ落ちる。
「予定された拍へ水を合わせることはできます。歌うたびに変わるものへ、即時に追従しろということですか」
「私たちも、まだできてない」
リラが横から答えた。
「できていないことを、追加する水術師へ求めるのですか」
「一緒にできるようになれたらと思ってます」
「計画ではなく希望ですね」
「今のところ、希望の方が多いです」
レティアの視線が、書類からリラへ移る。
「水を何に使用する予定ですか」
「細かな水滴を空気に浮かべて、私の粒子光を客席の近くまで残したいんです」
「光を反射させるのですか」
「大きな像を映したいわけじゃありません。豆明かりは遠くからだと小さすぎて見えない。でも、細かな水滴が周りにあれば、光が通った場所だけ、空気そのものが少し明るく見えるでしょう?」
リラは指先に豆明かりを一粒灯した。
朝の光が入る倉庫では、数歩離れただけでも見失いそうな大きさだった。
「セラを見たままでも、その間に光があると分かるくらいでいいんです。別の見世物を客席へ出すんじゃなくて、セラと客の間を、歌の中の空気に変えたい」
レティアは豆明かりを見たあと、倉庫の奥へ視線を向けた。
「使用する水滴の直径は」
「見えないくらい小さく」
「数値で答えてください」
「まだ測ってません」
「密度は」
「歌が見えなくならないくらい薄く」
「散布範囲は」
「できれば客席全体へ」
「回収方法は」
「終わったら、レティアさんに集めてもらえたら助かります」
「予算は」
「少なめです。ただ、少ない費用で最大限いいものを作るという意味では、前向きな少なめで――」
「金額を聞いています」
「後ろ向きな少なめです」
レティアは迷いなく、書類へ印を押した。
硬い音が一度、倉庫に響く。
「不許可です」
「判断が速いですね。もう少し悩んでくれると、こちらも途中から説得へ切り替えられるんですけど」
「粒径も密度も散布範囲も決まっていない。排水設備もない。楽曲の進行も固定されていない。不完全な計画へ水を加えれば、起こることは二つです」
レティアは印の乾きを確かめ、書類を閉じようとした。
「事故になるか、形だけ整った醜いものになるか。私は、どちらも嫌いです」
「レティアさんは、醜い水を作ったことはないんですか」
リラが尋ねた瞬間、書類を閉じかけていた手が止まった。
唇に浮かんでいた礼儀正しい微笑みが、ゆっくりと消える。
セラが横からリラの袖を引いた。
「言い方」
「悪く言うつもりはなかったよ。完璧な水しか作らない人が、うまくいかなかった水をどう思ってるのか知りたくて」
「知りたいことを、全部そのまま投げないで」
「うん。今、投げたあとで重さに気づいた」
リラは袖を引かれたまま、レティアへ向き直った。
「すみません。でも、最初から今みたいに制御できたわけではないですよね。整える前の水に、今の私たちが探してるものがあるかもしれないと思ったんです」
レティアはすぐには答えなかった。
焦げ跡へ触れた手袋を布で一度拭う。
煤はもう残っていなかった。それでも同じ指を二度、三度と丁寧になぞった。
「あります」
やがて、低い声で答えた。
「制御試験で、光散布用の霧幕を作ったことがあります。課題は、一定の大きさの水滴を、等しい間隔で静止させることでした」
「失敗したんですか」
「中央の水滴だけが集まりました。光の濃さにむらができ、端には何も届かなかった」
「その水を、見せてもらえますか」
レティアの目がわずかに細くなる。
「失敗を再現しろと?」
「失敗したまま見せてほしいわけじゃありません。完璧に直す前の水が、歌の中でどう見えるか確かめたいんです」
「安全確認には必要ありません」
「光粒子ライブには必要かもしれない」
レティアは、不許可の印を押した書類へ視線を落とした。
表紙に置かれた指は、閉じることも、再び開くこともしなかった。
「一度だけです」
やがて書類を脇へ抱え、白い手袋を外した。
細い指を一度開き、感覚を確かめるようにゆっくりと握る。
「あなた方の計画が不正確であることを、実物で証明します。その後は、私の判断に従ってください」
「不正確でも、歌に合っていたら?」
「その可能性を期待している時点で、検証として不正確です」
「では、期待していない顔で見ます」
「もう手遅れです。目が期待しています」
倉庫の中央で、レティアが両手を上げた。
右手の動きに合わせて、床すれすれへ薄い水面が広がっていく。
水は床を濡らさず、磨き上げた鏡のように平らなまま浮かんでいた。舞台のすべてを映しているわけではない。レティアが角度を調整すると、セラの足元と、そこから客席へ伸びる細い空間だけが水面へ落ちた。
左手からは、目を凝らさなければ見えないほど細かな水滴が放たれる。
水滴は舞台と客席の間へ均等に並び、窓から差し込む朝の光を受けて、ごく淡く白くなった。
「二つ使うんですか?」
「役割が違います」
レティアは両方の水を寸分も揺らさずに答えた。
「水面は、舞台の奥行きを下へ延ばします。水滴は、弱い光が空気を通った跡を残すためのものです」
「鏡に炎をたくさん映したりは?」
「しません。反射像を並べれば、歌手ではなく水面を見る観客が増えます」
リラは思わずレティアの顔を見た。
「そこまで考えてくれてたんですね」
「安全確認です。観客の視線が散れば、移動や避難にも影響します」
「今は、そういう理由にしておきます」
レティアの眉が、わずかに寄った。
「豆明かりを一粒、セラさんの前へ出してください」
「はい。うちの主力を一粒だけ」
「主力が一粒しかないのですか」
「増やせます。でも、増やすとノアに豆畑って言われるので、今日は選りすぐりの一粒です」
壁際で牛乳を飲んでいたノアが、小さくうなずいた。
「豆畑は歌の最後に向かない」
「ほら。厳しい審査員がいるんです」
リラは指先へ豆明かりを灯し、セラの前へ浮かべた。
光そのものは一つしかない。
けれど、足元の水面には、下へ沈んでいくもう一つの光の道が生まれた。空気中の水滴も淡く明るさを受け取り、セラから客席へ向かって粒子が進んだ跡だけを残していく。
見るべきものが増えたわけではなかった。
セラの足元に、下へ続く深い空間が生まれ、その声が通るための道だけが客席側へ延びている。
ノアは牛乳の瓶を口元へ運びかけたまま、光の道を見た。
「増えてない」
「増やしていません」
レティアは水滴の位置を保ったまま答えた。
「一つの光が通った場所を、遠くからも感じられるようにしただけです。水滴を強く光らせれば、今度は歌手よりこちらを見る観客が増えます」
「分かってる」
リラの声が弾んだ。
「それがいいんです。セラを見たまま、歌が自分の近くまで来たように感じてほしい」
「まだ歌は届いていません。光が散乱しているだけです」
「そこは今から試します。セラ、少し歌ってもらってもいい?」
「最初からそのつもりで立ってる」
「そういう無駄のないところ、助かります」
舞台脇では、ラウルが小さな炎を出していた。
熱が水滴へ届かない距離を保ちながら、金色の明かりだけを水の中へ入れる。
水面に映った炎は、セラの足元を下から淡く染めた。
炎の獅子も鳥も増えない。ただ、微細な水滴へ残った火の色が、客席側の空気へゆっくり広がっていく。
舞台にあった温度の気配だけが、倉庫の奥へ近づいた。
「俺の火も運べるのか」
「熱は運びません」
レティアが即座に答えた。
「危険ですから」
「光だけでは火とは呼べない」
「客席の上で、本物の炎を燃やしたいのですか」
「できるなら」
「不許可です」
レティアが書類板へ手を伸ばす。
ラウルはその動きを見て口を閉じ、手のひらの炎を少しだけ小さくした。
「今のは仮定の話だ」
「仮定でも不許可です」




