第27話 酒呑コード
中枢核の封印へ走った亀裂は、音ではなく匂いを放った。
焦げた鉄と、雨の前の土と、ひどく古い血の匂い。天照の白い管理層には似つかわしくない、生きた痛みの臭気だった。高所回廊の上で清嵐が息を呑み、その隙にコハクが巨大桃手を盾で押し返す。シグレは叫びながら制御表示を掴み直し、アヤメが上空から砕けた外殻の裂け目を照らした。
「中枢外殻、剥離!」
桃色の殻が剥がれ落ち、その向こうから現れたのは、心臓みたいに脈打つ黒赤の核だった。
それは天照の中心であるはずなのに、あまりにも“鬼”だった。
白い管理殻の下に押し込められた、最初からそこにあったはずの醜い核。世界が見ないふりをするために、何重にも塗装してきた本音そのもの。
そして、その核の前に立っていた。
酒呑コード。
男とも女ともつかない輪郭。長い髪は黒かったはずなのに、先端だけが燃え残りみたいに赤い。肌は灰白で、肩口から胸にかけて無数の縫合跡が走っている。鬼の王みたいな威圧感はあるのに、もっと先に来るのは“誰にも片づけられなかった案件”みたいな不吉さだった。
そいつは灯真を見るなり、小さく笑った。
「やっと来たか。最後の保守要員」
ぞくりと背筋が冷える。
声だけで分かる。この相手は強いとか怖いとか、そういう次元じゃない。世界が最初に見捨てて、だからこそ今までずっと全部の底に沈み続けていた痛みだ。
「酒呑……コード」
灯真が名をなぞると、そいつは肩をすくめた。
「勝手につけられた識別名だ。最初の鬼。最初の廃棄。最初の“なかったこと”」
朱羅が前へ出る。
「そいつが、鬼の原点?」
「原点というより起点だね」とシグレ。
「多分、最初の圧縮失敗例。天照が“痛みの隔離”に舵を切る前、まだ外へ捨てるしかなかった時代の残骸」
酒呑コードは否定しない。
「残骸、か。まあ近い」
そのまま彼は、黒赤の核へ手を添えた。
「最初は一人ぶんだった。飢えた子、看取られなかった病人、踏み潰された兵士、泣けなかった母親。いらないとされた痛みを、ただ後ろへ回し続けたら、最初の器が要った。それが俺だ」
灯真は息を詰める。
つまり鬼とは怪物じゃない。やっぱり器だ。それも、誰も持ちたがらなかったものを最初に押し込まれた、最悪の容器。
酒呑コードの視線が、かぐらへ流れる。
「巫女姫。お前たちが祈るたび、ここは少しずつ重くなった」
かぐらは俯かなかった。
もう逃げないと決めた顔で、その視線を受け止める。
「はい」
「怖くないのか」
「怖いです」
かぐらは答える。
「でも、怖いから見ないままにはしたくありません」
その返答を聞いた酒呑コードは、一瞬だけ目を細めた。
嘲りでも怒りでもない。測っている目だった。
次の瞬間、世界が反転する。
灯真の意識が、引きずり込まれた。
《一寸界侵》ではない。向こう側から強引に開かれた侵入だ。
視界が変わる。
石畳。泥。腹の鳴る音。冬の夜。冷たい戸板の向こうで笑い声がして、こちらには何も来ない。名前を呼ばれない。死んでも困らない顔として蹴飛ばされ、井戸の水だけで三日生き、最後に“うるさい”と殴られて終わる。たった数秒の主観なのに、灯真はその人生を最後まで知ってしまった。
次。
次。
また次。
兵舎で折れた足を隠した若い兵士。泣けないまま子を埋めた女。皆を安心させるために笑ってから、一人で喉を切った男。
全部、“最初の一人”の中に追加されていく。
耐えきれない痛みから順番に、酒呑コードへ押し込められていく。
灯真は膝をついた。
「っ、ぁ……」
吐き気では足りない。
これは人間ひとりで持てる総量じゃない。捨て場が必要だったという理屈だけは、分かってしまうくらいに重い。
酒呑コードが見下ろす。
「それでも刺せるか、桃太郎」
朱羅が低く言う。
「それでも刺せるなら、お前はただの桃だ」
試されていた。
単に情で止まるか。理解したふりで甘いことを言うか。あるいは、また“怪物だから”と切って捨てるか。
灯真は歯を食いしばり、ゆっくり立ち上がる。
「刺すよ」
全員が息を止めた。
「でも、お前を消して終わりにはしない」
酒呑コードの眉がわずかに動く。
「天照が白い殻の下に隠してきた最初の痛み。それをまた黙って処理したら、結局同じだ」
灯真は黒赤の核を睨む。
「だから刺すのは、お前そのものじゃない。お前を“廃棄先”として固定してる接続だ」
シグレの目が見開かれる。
「いけるの?」
「やるしかない」
酒呑コードが笑った。
今度の笑みは、少しだけ本物に見えた。
「ようやく保守屋らしい返事だ」
その直後、清嵐が高所から怒声を落とす。
「百瀬灯真! そいつに触れるな! 酒呑コードを解放すれば、鬼は世界へ逆流する!」
「もうしてるだろ」
灯真は見上げもしない。
「お前らがずっと後ろへ積んできた時点で」
コハクが盾を構え直す。
「モモ。侵入支援を行います」
左腕を失ったまま、それでも立っている。
その姿だけで、灯真はもう戻る場所を確認できた。
かぐらは春臣から受け取った承継片を掲げた。
「返還炉と春臣系を接続します。酒呑コードを単独器として固定させません!」
アヤメは上空から裂け目の深度を読む。
「中枢深部へ潜るなら今です! 外殻再閉鎖まで三十秒!」
朱羅が短剣を返し持つ。
「行け、桃。ここで躊躇うなら、あんたをここまで連れてきた意味がない」
灯真は頷いた。
黒赤の核へ、一歩踏み込む。
世界の最初の傷口へ潜る感覚だった。
だが、踏み込んだ瞬間に終わりではなかった。
酒呑コードの背後で、黒赤の核から無数の声が立ち上がる。泣き声、怒声、助けを呼ぶ声、もう何も感じたくないと願う声。全部ばらばらなのに、ひとつに押し固められてきたせいで、互いの輪郭を削り合っている。
「これが……鬼の心臓」
灯真は息を呑んだ。
「いや、心臓にされたゴミ捨て場か」
酒呑コードは肩をすくめる。
「言い方は雑だが、近い。隔離は便利だ。押し込められた側が喋らないなら、上の世界はいつまでも清潔でいられる」
「だから黙らせない」
灯真は鍵片を構える。
刺す先は核そのものではない。黒赤の表層に何本も打ち込まれた白い杭――天照が“最初の痛み”を固定し続けるための拘束式だ。ここを外せば酒呑コードは暴走するかもしれない。だが外さなければ、永遠に捨て場のままだ。
難しい。怖い。正解なんてどこにもない。
それでも、正解が見つかるまで先送りしてきた結果が今なんだと、もう知っている。
「モモ、外から補助線送る!」とシグレ。
「拘束杭、三本じゃない、五本! 二本は偽装!」
アヤメも上空から重ねる。
「外殻再閉鎖、残り十八秒!」
コハクの盾へ衝撃が走る。清嵐が残した祭祀罠だ。彼女は火花を散らしながらも、短く告げた。
「戻る場所は維持します」
戻る場所。
その一言だけで、灯真の手はぶれなかった。
《一寸界侵》を、酒呑コードの拘束杭へ差し込む。するとまた五秒、誰かの人生が流れ込む。今度は、泣くことさえ許されず“皆のためだから”と笑わされた女の五秒だった。
灯真は歯を食いしばる。
「皆のため、って言葉……ほんと便利だな」
一本目を切る。
黒赤の核が脈打つ。
二本目を外す。
酒呑コードの輪郭が少しだけ人に近づく。
三本目で、ようやく偽装じゃない中心杭へ届いた。
その瞬間、酒呑コードが静かに言った。
「桃太郎。もし俺がほどけたあと、世界がまた誰かを捨てようとしたら」
「また潜る」
灯真は即答した。
「今度は一人で抱え込ませない形で」
酒呑コードは、初めてほんの少し救われた顔をした。
四本目、五本目。
拘束が外れ切る直前、黒赤の核の奥で、白い管理線が一本だけ逃げようとした。
「天照の保全線!」
シグレが叫ぶ。
「逃がすか」
灯真はその一本へ、最後の針をまっすぐ突き立てた。
黒赤の核が、深く呼吸するみたいに膨らんだ。




