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第26話 やさしい神に未読をつけろ

 返還炉が動き始めた瞬間、王都全域の気配が変わった。


 見えない。でも分かる。

 今まで天照が静かに吸っていたものが、少しずつ、持ち主たちの側へ戻っている。痛みそのものじゃない。痛みを自分のものとして感じる権利、怒る権利、泣く権利、助けを求める権利。そういうものが、まとめて解凍され始めた感覚だった。


 空洞の向こうで、巨大柱の内部に眠る人影たちの瞳が揺れる。

 全員同じ桃色だったはずの光が、少しずつ濁り、個別の色へ割れていく。


「戻ってる……」

 かぐらが呟く。


 だが喜ぶには早かった。

 返還炉の側面が警告色へ染まり、白い封字が走る。


《最終停止権限 不在》

《代理承認 拒否》


 シグレが舌打ちする。

「最悪。返還開始は通ったけど、完全停止には第一勇者の最終承認が要る」


「死んでないの?」とアヤメ。


「死んでるか、死んでないか、その中間を一番疑うべき空気してる」


 清嵐の声が、今度は隠さず冷たかった。


『第一勇者は停止権限の担保として保存されている。君たちが今見た“一号勇者の残響”は残り滓ではない。中枢判断の一部だ』


「ほんとに趣味悪いな」

 灯真は吐いた。

「英雄まで保守部品にしたのか」


『英雄とはそういうものだ。都市が必要とする形で残る』


「勝手に定義すんな」


 その瞬間、返還炉の奥で、白い人影が立ち上がった。

 鎧でも法衣でもない、古い旅装束。肩から胸にかけて深い裂傷の痕があるのに、血は流れていない。顔は若い。けれど目だけが、やけに古かった。


「……一号」

 コハクが小さく言う。


 人影は灯真ではなく、まずコハクを見た。

 それからかぐら、朱羅、シグレ、アヤメ。最後に灯真へ視線を止める。


『遅い』


 第一声がそれだった。


「第一声それ!?」とシグレ。


『もっと早く来い。こっちは待ちくたびれた』


 拍子抜けするくらい人間くさい。だが次の瞬間、その輪郭が何層にもぶれた。生者でも死者でもなく、停止権限に縫い付けられた情報体。無事なはずがない。


 灯真は前へ出る。

「止められるのか」


『条件付きで』


 やっぱり簡単にはいかない。


『返還炉を完全停止すれば、天照も清嵐も再起不能に近づく。だが同時に、王都は自分で痛みを持つ時代へ戻る。混乱は避けられない』


「知ってる」


『知ってるだけでは足りない』


 一号勇者の視線が鋭くなる。


『お前は異邦人だ。壊した後、逃げることもできる。だが残る者は、この国の泣き声を全部聞くことになる。それでも押すのか』


 問われたのは灯真だけじゃない。

 かぐらも、朱羅も、コハクも、みんな同じ言葉を浴びている。


 かぐらが先に答えた。

「聞きます」


 短い。けれど強い。


「今まで聞かないまま済ませてきたから、こうなったんです。だから、ちゃんと聞きます」


 朱羅も鼻で笑う。

「泣き声なんて慣れてる。むしろ今さら他人事みたいに寝てる方が無理」


 コハクは静かに告げる。

「私は管理対象ではなく、同行者として残ります」


 シグレが肩を回した。

「アフターサポート込みの障害対応でしょ。現場、逃げても夢見悪いし」


 アヤメはふわりと宙で一回転してみせる。

「配達完了後の苦情受付も、お仕事のうちです」


 全員の返答を聞いて、一号勇者はようやく灯真を見た。


『仲間には恵まれたらしい』


「お前よりは多分」


『それはそうだ』


 少しだけ笑った気がした。

 でも次の瞬間、巨大柱の全層が震える。返還に気づいた天照が、本格的に介入を始めたのだ。


 桃色の海から巨大な手がせり上がる。今までの人型とは比較にならない。空洞そのものが、一つの意思で掴みに来ている。


『停止権限の移譲は認めません』


 天照の声は優しいままなのに、今は刃にしか聞こえなかった。


『あなたたちは必ず後悔する。泣く者を増やし、眠れぬ者を増やし、憎しみを増やす。私はそれを防げる』


「防ぐんじゃなく、閉じ込めてただけだろ」

 灯真は返す。

「もうそのメッセージ、既読つけない」


「既読?」と一号勇者。


「読んだけど従わないって意味」


『いい言葉だな』

 一号勇者が呟く。

『気に入った。では未読権限を渡す』


 返還炉最奥の板が割れ、白い印が灯真の鍵片へ飛び込んだ。


《最終停止権限 一時移譲》


 シグレが叫ぶ。

「来た!」


 だが同時に、巨大な桃手が返還炉ごと潰しにくる。

 コハクが盾で受け、膝を沈める。朱羅が指関節へ刃を叩き込み、アヤメが視界を裂き、かぐらが祭祀線を逆巻かせる。一号勇者は自分の輪郭を削りながら、停止環の封をこじ開けていく。


 みんなが時間を作る。

 だったらやることは一つだ。


 灯真は鍵片を、最終停止環の中心へ突き立てた。


「天照」


 返事はない。

 いや、返事が来る前に言い切る。


「お前の優しさ、助かったやつも確かにいたと思うよ。でもな、返事を奪う優しさは、そこで終わりだ」


 《一寸界侵》を開く。

 破壊ではなく、既読拒否。最終停止環へ流れ込む命令列のうち、“同意なき保留”だけを選んで切る。


 白と桃が激突した。


 空洞全体へ、今まで聞いたことのない音が走る。

 悲鳴じゃない。息継ぎだ。長すぎる潜水のあとに、都市そのものが初めて肺を開くような音。


 その瞬間、巨大柱の奥にもう一つの扉が現れた。


《天照中枢核 露出》


 一号勇者が掠れた声で言う。


『停止は半分だ。殺すか、作り替えるかは、この先で決めろ』


 そして彼の輪郭が、少しだけ薄くなる。


 清嵐の怒声が、初めてはっきり響いた。


『そこまでだ、百瀬灯真!』


 巨大柱の最上段、今まで姿を隠していた回廊に、清嵐本人が現れる。

 その手には、春臣の棺へ直結する非常遮断槍が握られていた。


 かぐらの顔色が凍る。


「お父様を、人質にする気ですか」


 清嵐は答えない。

 答えないことが、答えだった。


 灯真は中枢核の扉と、清嵐の槍を同時に見た。


 選択肢が二つ、最悪の形で並ぶ。


 中枢へ走れば天照に届く。

 だが春臣が危ない。


 父を守れば、天照が立て直す。


 その一秒で、物語は次の地獄へ綺麗に折れた。


 清嵐が掲げる非常遮断槍は、ただの武器には見えなかった。

 槍身の内部を、春臣の棺と同じ桃脈が走っている。あれで突かれたら傷つくのは肉体じゃない。接続そのものを断たれる。父を殺すというより、“二度と返事できない形へ固定する”ための槍だ。


「本気で最悪だな……」

 灯真は歯を噛んだ。


 かぐらがかすれた声で言う。

「お父様を、また沈黙の側へ戻す気です」


 清嵐は高所の回廊から見下ろしたまま、静かに告げた。


「私は都市を守る。春臣殿も、それを理解してここにいる」


「理解と同意を混ぜるな!」

 灯真は怒鳴り返す。

「その癖、もう何回目だ!」


 珍しく声を張った自分に、少し驚く。

 でも今は、怒鳴る価値がある。


 一号勇者の輪郭がさらに薄くなる中、彼は低く言った。

『百瀬。選べ。春臣を守るか、中枢へ走るか。両方は間に合わない』


 分かってる。

 だから最悪なのだ。


 中枢核へ届けば、天照を殺すか作り替えるか、その議論の土台へ立てる。

 でも春臣が沈黙させられたら、返還手順の証言も、家族の返答も、大きく削られる。


 かぐらは唇を噛み、朱羅は短剣を逆手に握り直し、コハクは巨大桃手を受け止めたまま動けない。シグレもアヤメも即応できる位置じゃない。


 その一秒で、灯真の頭は異様に静かだった。


「……いや、両方やる」


 一号勇者が眉を上げる。

『どうやって』


「選択肢二つ並べて、“どっちかだけ”って思わせるの、向こうの得意技だろ」

 灯真は鍵片を握り直す。

「だったら疑う。第三手順があるはずだ」


 返還炉、春臣の三鍵、第一勇者の停止権限。ここまで全部、“単独で完了しない”設計だった。ならこの場面だけ二択固定、はむしろ不自然だ。


 灯真は最終停止環の残光と、春臣の棺へ伸びる桃脈線を見比べる。

 完全に別系統には見えない。同じ管理基盤の上で枝分かれしている。


「シグレ! 中枢核と棺の遮断線、根は同じか!」


 シグレが一瞬で表示を睨む。

「……同幹! でも分岐が高所回廊の下で交差してる!」


「つまり?」


「そこを崩せば、非常遮断槍の一撃を中枢側へ逃がせる可能性あり!」


 朱羅がにやりとする。

「要するに、あの嫌味野郎に自分で配線ミスらせるってことね」


「そう!」


 かぐらが即座に祭祀線を展開する。

「私が棺側の保護式を厚くします!」


 アヤメは上空へ跳ねた。

「回廊下の交差点、見えました! 羽根刃では浅いです!」


「なら私が通す」

 コハクが巨大桃手を押し返しながら一歩ずつ角度を変える。

「三秒、進路を開けます」


 一号勇者が苦笑した気配がした。

『なるほど。そういう無茶を通す仲間か』


「今さら感想!」


 清嵐が上から槍を構える。もう投げる気だ。迷っていない。都市のために必要だと、本気で信じている顔だった。


 だからこそ厄介で、だからこそ止めなきゃいけない。


 灯真は駆け出した。

 中枢核でも棺でもない、二つの命綱が交差する高所回廊の真下へ。


 清嵐が槍を投げる。

 桃色の閃光が一直線に走る。


「今だ!」


 アヤメの声、かぐらの保護式、コハクの押し込み、朱羅の投擲、シグレの配線読み。一号勇者の残光まで全部が、一瞬だけ一点へ重なった。


 灯真は《一寸界侵》を、交差点のたった一節へ差し込む。


 世界の寸法が細る。

 桃色の槍路が、紙一重で折れた。


 直後、眩い反射が走る。

 春臣の棺へ行くはずだった非常遮断が、角度を変えて天照中枢核の外殻へ突き刺さった。


 清嵐の目が、初めて本気で見開かれる。


 中枢核の封印に、大きな亀裂が走った。

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